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『nude』の場合、ギュッと抑制した演出とシナリオなので一見、主人公がAV女優になると決意するターニングポイントをちゃんと描かず、流しているように感じる人もいそう。しかし僕は、よく作ってるなあ、と感心した。彼氏の借金が膨らんで……みたいに、分かりやすい回路を設けないところに作り手の根性を感じた。
地方では目立つ、しかし都会では磨かれる場が無いと埋没してしまうレベルの美人。「暇がきらい」(見終わってすぐに買った原作にもある言葉)だから、空いた時間はアルバイトの掛け持ちで埋める。こういう女の子、たくさんいる。すごくいい子、でも、つい目先のところでがんばってくたびれてしまう子。焦ってしまう子。流れ星に願った夢へ向かって、J-POPの歌詞みたいに前を向くほど、親友や彼氏に言えない仕事をすることになる。そのプロセス、見ていてホロホロしてしまう。
ターニングポイントが描かれていない、のではない。彼女にとってそれが多過ぎるのだ。飛び越えるハードルがいくつもあって、泣きながら走っているうちに止まれなくなる。グラビアの裸やVシネマの濡れ場まではOKだけどAVだけは絶対にNG、なんて、いつのまにか言ってられなくなる。そこらへんの経緯、心情を原作はとても饒舌に書き込んでいるのだが、逆に状況が伝わりにくいところがある。念を押す描写をバッサリと刈り込んだ脚色は、勇気のいる作業だっただろう。原作者のファンに満足してもらえ、女性観客が安心して観賞できる繊細なタッチ、ナイーブな精度の裏に、おしろい彫りのように〈資本主義残酷物語〉が仕込まれている。大島渚の諸作と比較検討してみたくなるほどだ。
マネージャーの、親身に親身に彼女を守りながら追い込んでいく、優しいからっぽ感。ひとつひとつの言葉それ自体に嘘がないのが怖ろしい。常に通している黒いスーツ姿が、キャリアを積むほど白い衣装が際立つ主人公と対になるあたり、とても「映画」だった。それにつけても光石研。
(c)2010「nude」製作委員会
また、『nude』は主人公と親友との関係がストーリーのタテ筋になっている。地元に残り平凡な生活を選んだ親友との対比、お互い離れていってしまう友情のせつない顛末によって主人公の境遇の変化が補填され、ドラマになっていく作り。
あまり後半の展開を具体的に書かないようにするが、主人公の東京での仕事を理解できない親友の出番、もう1シーンぐらい増やせられなかったかな……という思いは残る。親友の気持ちにフォローがないと少し胸がつかえてしまう。彼女も一本気で、すごくいい子なものだから。
主人公の理解者にしてあげてほしい、とまでは望まない。けれど、親友の出る場面には食べ物がよく出てくる面白さ。ああいう抜群のアイデアは、もっと活かしてくれてよかった。例えば、〈都会で涙の数だけ美しくなる主人公/辛いことがあると地元の野菜をバリバリ齧る親友〉のような土くさい、イマヘイ的なぐらいの対照がどこかで決まると、女の子はそれぞれの場所でオンナになるしかないんだ、というテーゼをさらに鮮明にできたと思う。
こんな注文が出るのも、小沼雄一がすでに本作と一脈通じる『AKIBA』(06)を作っているからだ。こっちは、地元の秋葉原で夢を追う主人公のもとに不幸な経験をしてきた同級生がやってくる話。その魅力の割にあまり語られない『AKIBA』だが、同じ場所で生きられない女の子2人の関係劇である点では、前もって用意されていた『nude』の姉妹編の趣きがある。いつか(10年後かもっと後か)は企画されるだろう〈小沼雄一レトロスペクティヴ〉のための参考に書いておく。
(c)2010「nude」製作委員会
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今回の2本の場合、好感を持って紹介したいと考える人も、どこか奥歯にモノが挟まった表現になるのではないかと想像する。言葉の選択に少し悩んだうえ、「AV女優という仕事につきながら、中身はピュアな女の子たちの青春ストーリー」という体裁にするしかないような。そう書く人に悪気は全く無いだろうと思いつつ、でも、やっぱりおかしな、引っ掛かる表現だ。「『第9地区』のエイリアンはグロくてキモいけど、実はいい奴だったから許す(笑)」ライクな書き方と同根の意識の幼さがある。ここで、僕が去年に本サイトで書いた〈ながら批評〉についての文章を思い出してくれる方がいると有難い。
AV女優だって職業だが、一般の仕事と比べたら相当に特殊度が高い。知らない人がいろいろ誤解するのは仕方ないし、またその誤解(性的ファンタジー)を売ってナンボの仕事でもある。それと、そこで働く子がホントはいい子かダメな子かは紙一重で別問題。
唐突だが、古い本の話を。これこそ〈THE 青春小説〉と僕が考える1冊に、レマルクの「西部戦線異状なし」がある。映画化されたほうが高名だが、これは反戦のテーマ云々を語るよりもまず、サリンジャーやシリトーに先駆けた若者の率直な語り倒し(一人称)を浴びるように読むほうがいい。小説の中盤、第一次大戦の西部戦線から休暇でドイツの故郷に帰った主人公は、懐かしい両親や学校の先生、町の人たちと再会して、予期せぬ孤独を覚える。誰もが最前線の話を聞きたがるが、敵兵を前にすればためらうことなく「人間獣」になり、さっきまで隣で駄弁っていた戦友が肉塊になる様に何度も遭った経験を、理解してもらえる気が全くしないのだ。
「そこで僕は父には、少しばかり笑い話をして聞かせる程度に止めておいた。ところが父の方では、僕も肉弾戦をやったことがあるかどうかときいた。僕は、ありません、と答えて、立ちあがって、外に出た」(秦豊吉訳・新潮文庫)
今回の2本を見て僕が、題材としては似ても似つかない「西部戦線異状なし」を思い出したのは、いずれも少年/少女期の終わり、イノセントの終焉がキモになっているから。
親や先生、周囲の大人たち、それに友達が体験していない世界に身を置くことは、もう自分の心根を漏らさずとも通じてくれる人、将来を示してくれる助言者が生まれ育った町にいなくなることだ。真の悲劇はそこにある。兵士だから、AV女優だから痛ましいのではない。ふるさとを自分の手で失うことが哀しいのだ。
(c)2010「nude」製作委員会
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しかし、家族も平日の仕事も捨ててしまってこそ浮かばれる青春もあるのではないか。そう問い掛けるのが『名前のない女たち』だ。
こちらはフィクションの誇張、飛躍を強調しているぶん、AV業界のリアリティという点を『nude』と比べられると損。画面上に描かれるだけを見たら、本番の撮影がどんなに大変か感じられにくいからだ。なので、現場ではカワイイ別人格で笑っていた主人公がトイレに駆け込んだ途端に真っ青な顔で吐き、先輩女優が黙って口内消毒薬を買ってきてくれる、ああいう間接的な一景でいろいろ察しはつけてほしいと思う。察しがつく人には、胸が痛くなる場面だ。
その先輩女優が、主人公がやっと見つけた親友になる。人を殴る時はいちばん憎い相手を思い出せ、と教えてくれる元レディース。彼女から力を得て、主人公は〈弱いホントの自分/仮面の愛される自分〉の二項対立の世界、それ自体からの逃走を目指す。
ある劇的緊張の結果、血まみれになった撮影現場で主人公はある相手=弱い自分の写し鏡のような存在を殴り、全ての人の前から消える。
主人公が再び姿を見せるのは終盤、コンクリートで固められ水のほとんど流れない都会の川(渋谷川)だ。そして、一緒に逃走することをあきらめた親友が立つ橋の下を裸足で走りだす。その瞬間、涸れた生/性の暗喩として冒頭から何度もインサートされてきたコンクリートの川が、主人公を逸脱させる滑水路へと変わる。あっという間に次のカット。彼女が駆けるのは防波堤。先に広がるのは、海だ。
映画でしか見られない、さらに言えば低予算日本映画ならではの、カットの積み立てによるイメージの跳躍。素顔だろうが仮面だろうがどっちでもいい世界へ飛び込んで、トラウマや劣等感、母親、人生、全てにしっぺ返しをくらわす主人公――いや、もうこの時点ではヒロイン――が新生の海を前にして初めて見せる安心した笑顔。空がそろそろ明るい、夜明けが近い。そうだ、これは佐藤寿保の映画だ。ピンクの時代、ラストにシド・ヴィシャスの「マイ・ウェイ」を流す大技を繰り出した人のまとめ方だ!
(C)「名前のない女たち」製作委員会
……つい前のめりな書き方になってしまった。シネフィルでもないくせにね。
題材そっちのけで作り手が好き勝手に暴走しているわけではない。『名前のない女たち』には、主人公やその親友への愛がある。彼女達は(『nude』の主人公のように)単体で売れることができなければハードコアな企画の仕事しか来なくなり、そこで持たなければすぐに切られるAVでも下のランクで生きている。だからといってキミたちまでが一番下の人間なのではない、という思いがクライマックスからの飛躍になっている。壊して走って別の生を見つけろ、というエールなのだ。
だが、実は本作を見て僕が最も心を動かされたのは、今書いてきたような点よりも、ドラマがしっかり描かれた上で滲み出る(描き切らないと滲み出ない)、画面からはみ出た感興だった。
あァ、人ってこうだ、こんな風に突然もう会うことが無くなったり、プツンと目の前からいなくなるものだ……。僕もずいぶんたくさんの人から離れてきたし、また切られてきた。生きてくってそういうものだろ、と分かっているつもりだけど、では、見終わった後に襲って来た、胸の奥を抉られるような寂しさはなんだ。
『名前のない女たち』は僕にとって、小津安二郎の作品世界を端的に表す言葉「会者定離」を痛い実感とともに思い起こさせる、厳しい映画なのだ。出会いと別れなんて古今東西どんな映画にも描かれているものだが、本作ではそれが画面上の描写を超えたところで、人生観照の域に近づいている。現代日本映画ではなかなか得難い、嗅ぎ取るより他にないその行間の風格を、作家性と呼ぶのだろう。ここまで書くとあまりに大げさな誉めようで、かえって本作のスタッフには迷惑かもしれないが、個人の評価軸に照らせばホントなのである。
(C)「名前のない女たち」製作委員会
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最後に。『nude』の渡辺奈緒子。『名前のない女たち』の安井紀絵と佐久間麻由。どんなに作り手が技量を凝らしても、実力俳優が脇を固めても、若い主演の3人の入魂がなければ2本の映画がここまで輝くことはなかった。みなさん、彼女達にどうぞ拍手を。パチパチパチ。
『名前のない女たち』
監督:佐藤寿保
原作:中村淳彦 脚本:西田直子
撮影:鈴木一博 録音:植田中 美術:羽賀香織 編集:山中浩充 音楽:川端潤
出演:安井紀絵 佐久間麻由 渡辺真起子 新井浩文 鳥肌実 木口亜矢 草野イニ
配給:ゼアリズエンタープライズ・マコトヤ
9月4日よりテアトル新宿、新宿K's CINEMAにて全国順次ロードショー
公式サイト http://namaenonaionnatachi.com/
『nude』
監督:小沼雄一
原作:みひろ 脚本:石川美香穂 小沼雄一
撮影:早坂伸 照明:フクナガヒロアキ 録音:小宮元
編集:前蔦健治 音楽:宇波拓
出演:渡辺奈緒子 佐津川愛美 みひろ 永山たかし 山本浩司 光石研
製作プロダクション:スモーク
配給:アルシネテラン・ハピネット
(c)2010「nude」製作委員会
9月18日よりシネマート新宿、10月シネマート心斎橋ほか全国ロードショー
公式サイト http://www.alcine-terran.com/nude/index.html