映画芸術

脚本家荒井晴彦が編集発行人を務める季刊の映画雑誌。1月、4月、7月、10月に発行。2016年に創刊70周年を迎えました!書店、映画館、Amazon、Fujisanほかにて発売中。

試写室だより『幸福 Shiawase』 <br>映画の余白を埋めるもの <br>深田晃司(映画監督)

 小林政広監督の『幸福』は、誰かを愛することはそれ以外の誰かを不可避的に不幸にする世界の無常を、ややセンチメンタルではあるものの、しかしこれ以上ないぐらいの簡潔さで提示して見せた映画である。  北海道の片田舎の町にスポーツバッグひとつで降り立った男(石橋凌)と、やはりどこからか流れてきて場末のスナックに職を求めた女(桜井明美)とのラブストーリーは、「幸福は拾うもの」という惹句そのままに、女が行き倒れた男を「拾う」ところから動き始める。2人にはやがて明かされる過去があるが、彼らは映画的なる「遭遇という神話」(E・ロメール)のもたらす決定的な変化を受け入れることによって、自らの過去に訣別(それは裏切りでもある)を突きつける。ときおり垣間見える妙に生々しい彼らの「笑顔」の味わい深さは、人間が先天的に有する原罪のような犠牲の上に成り立っているからこそだ。  ラブロマンスの定石で言えば、男と女は出会い頭にはいがみ合っていなくては具合のよくないものだが、石橋凌と桜井明美は、拒否も目立った肯定もないまま、それが必然であるかのように一夜を共にし、食欲と性欲を共有することで、お互いの距離を縮めていく。桜井明美がなぜ男に好意を感じ求めたのか、その説明は徹底して省かれているが、古今東西、恋愛に理由を求めるのは野暮というものだろう。そもそもこの映画はおとぎ話なのだ。主人公の社会的匿名性も薄ら青い白夜の街並みも、ファンタジーを成立させるための道具立てなのである。 幸福メイン 107s.jpg  閑散とした(本当に、背景から人間が徹底して排除されている)田舎町で、石橋凌の見つめるガソリンスタンドや、薄汚れたカウンターがスクリーンを大胆に断ち切るラーメン屋は、ふいにエドワード・ホッパーの描き出した近代アメリカの景色を髣髴とさせ、胸を打つ。絵画さながら強固なフレームを明示する画面構成に配置された添景のような人物たちは、強い寓話性に彩られ、ドキュメント的な肉体のリアルさはその様式において剥奪される。  『幸福』のアンリアルで人工的な様式性は、ときに見る者を戸惑わせながら、物語に多くの余白を作り出し解釈の多様性を保証する。思えば、シネフィル的自意識に彩られた小林監督の処女作『CLOSING TIME』(96)の遊戯性は、『幸福』の徹底してストイックでミニマルな演出と表裏一体なのかも知れない。しかし、敢えて不自由な手法を選択しているがゆえに、『CLOSING TIME』にはないより大きな自由さをこの作品は受け手に許容しているのである。 幸福サブ 2_.jpg  ここで、この場を借りて『幸福』を材に取り映画における「余白」について考えてみたい。  例えばアンゲロプロスカウリスマキ(もちろん彼らの映画は一緒くたに分類できるものではないが)のように寡黙さと禁欲がある種の多様性をもたらす演出スタイルを僕は大いに称揚する者である。そして、『幸福』においても目を凝らして対峙すべき魅惑的な時間が流れていたことを認めつつ、しかしそこに演出家が余白に対し施すべき戦略の欠如を感じずにはいられなかったことを、白状する。野暮を承知で言えば、いわくありげな人物が無表情に佇んでいればそこに情感が生まれてくるわけではない、と思うのだ。余白とは、時間の余白であり、空間の余白であり、意味の余白であるが、その余白に何かしらの映画的情動をもたらすには、余白の「外部」にそれ以上の緻密な彩色を施さなくてはならないのではないか。  その成功例は、マルグリット・デュラスの『インディアソング』(74)を持ち出すまでもなく、我々は小林政広監督自身の作品に求めることができる。『バッシング』(05)のヒロインの表情がもたらす情感の豊かさはどうだろう。それは女優の演技力のみを根拠とするのではなく、やはり「イラク日本人人質事件」とその余波という大きな状況が的確にアクションの背後に設定されていたからこそ、観る者の想像力を複雑に刺激しえたのだと思う。  もちろん、そのような社会的大状況が起点にある『バッシング』と、“ラブファンタジー”『幸福』を安易に比較すべきではないかも知れない。演出スタイルも異なる2作は映画として監督の目指したところも違うだろう。しかし、この2本をやや乱暴に並列して眺めることによって、『幸福』に覚えた漠然とした違和感を少しでも明確にし、映画における余白の創出の難しさを検証できるのではないかと思うのだ。 幸福サブ 3_100s.jpg  『バッシング』のクライマックスで、主人公はその葛藤と願望を長い告白によって吐露する。それはややもするとテーマの安直な明示として機能してしまう危険性をはらんでいたが、結果としてその言葉が映画を収束するための回答としてではなく、人物造形をぐにゃりと変容させる新たな一刀となりえていたからこそ、この映画の多面体のような魅力は損なわれることがなかったのだ。  翻って『幸福』のラスト近く、手紙の朗読や電話の声を借りて主人公たちの過去を仄めかしていく「声」はどうだったか。「いやよ」と連呼される言葉やブランコに2人して倒れこむ誇張された身体性の中で演じられる別れの場面に被さる音楽は? それは、寡黙さゆえにギリギリのところで保たれていた余白の複雑さを塗り潰し、一撃で殺してしまったのだ。その瞬間、映画を覆っていた意匠、白夜のブルー、寂れた北海道の景色、ムーディな音楽、それら全てが感傷の捏造に奉仕する書き割りでしかないことを露呈してしまったのではないか。  嫌らしい書き方になってしまったが、つまりは映画を多量の余白で埋めていくことは、荒馬のような観客の想像力に手綱を引くという無謀な作業に挑むことであり(それは大なり小なり優れた映画は100年前から繰り返してきたことなのだが)、一手間違えればオセロの白がパタパタと黒に裏返るように映画全体が台無しになってしまう危険をはらんでいるのである。 幸福サブ-1_018a.jpg  映画『幸福』はその敬服すべき志の高さにおいて凡百の日本映画よりも遥かに刺激的な内容である。北海道の寂れた田舎町に白夜の景色を重ね合わせ、神話的な恋愛劇を仮構するという試みは手放しでの成功には成り得なかったかも知れないが、それが失敗だとすれば極めて意義のある失敗だったのだと僕は思う。  最後に、『幸福』において最も印象的であった「余白」は、村上淳演じるスナックのオーナーの眼差しを覆う深い影であったことを追記しておく。 『幸福 Shiawase』 監督・脚本:小林 政広 出演:石橋 凌、桜井明美、村上 淳、橘 実里、柄本 明、香川照之 音楽:デビッド・マシューズ 主題歌:上田正樹 2006年/106分/35mm/ビスタ1,85/カラー/モノラル C)「幸福」製作委員会 2006年 東京フィルメックス コンペティション 正式出品作 9月20日(土)より シネマート六本木にてロードショー 公式サイト http://www.shiawase-movie.jp/ 『幸福 Shiawase』小林監督インタビュー http://eigageijutsu.com/article/106774283.html