映画芸術

脚本家荒井晴彦が編集発行人を務める季刊の映画雑誌。1月、4月、7月、10月に発行。2016年に創刊70周年を迎えました!書店、映画館、Amazon、Fujisanほかにて発売中。

試写室だより『きみの友だち』<br>センチメンタルの在り処<br>深田晃司(映画監督)

 住宅街のありふれた公園に、白い紐が揺れている。それは大縄飛びの紐で、両端には小学生の女の子ふたり。一人は片足不随で松葉杖、もう一方は病弱そうに見える。つまり、彼女らは半ば強制的に「飛ぶ人」ではなく「回す人」にクラス会議で割り振られ、放課後に練習をしているのだ。成り行きでコンビを組むことになった二人の息はなかなか合わず縄はデタラメに波打つが、次第にそのゆらぎは正しく揃い、きれいな楕円を描きだす。

 映画『きみの友だち』で胸を打つのは、そんな些細な瞬間である。子役たちの、理路整然とおよそ子供らしくもない「正確」なリズムで発せられる台詞(だいたい、大人だってそんな論理的に的確に喋れるものではないのに)よりも、スクリーンにゆらぎを刻む縄飛びの運動こそが女の子たちの諍いと融和の歴史を雄弁に物語る。

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(C)「きみの友だち」製作委員会

 幼いときに交通事故で片足不随となった主人公恵美(石橋杏奈)と、親友由香(北浦愛)の交流を縦軸に、彼女らの家族や同級生たちの様々な友情が横軸に綴られていく群像劇は、その純朴なタイトルを良くも悪くも最後まで裏切ることのない堅実なジャンル映画であった。群像劇の体裁を取っているものの、この青春ドラマの魅力はその構造よりも細部に備わっていると言える。

 たとえば、冒頭のフリースクールの場面、恐らく実際にそこに通っているのであろう子供たちのくるくる移ろう表情が印象的である。カメラは、子供たちの無防備なその仕草を楽しげに切り取っていく。それはごく短い描写ではあるが、例えば意味深長な感傷を誘う小道具として紹介される「雲の写真」や大人たちの勿体ぶったやり取りと比べ、生々しい映画的な感触をスクリーンに残している。結局その後、この子供たちよりも「いい表情」がメインとなる子役たちから覗くことがなかったのは残念でならない。

 どこかお人形のようによそよそしいヒロインたちと比べ、素朴ながら忘れ難い存在感を示すのが男子たちである。

 心身の成長期のなかで親友との間にいつのまにか生じてしまった能力的な格差、その事実に気がつかない振りをしながら友情の継続を願う健気な「三好君」を演じる木村耕二の表情は、中学生の不安定に揺れる自尊心と劣等感をリアルに伝えてきた。その果ての爆発するような「自爆パンチ」は痛々しくもどこか爽快である。

 また優秀な後輩に対する複雑な心境をのぞかせる「佐藤先輩」(柄本時生)の、太い眉の下にある眼差しは、寡黙な表情の中にも確かな屈折を滲ませ強い印象を残している。

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(C)「きみの友だち」製作委員会

 いつもどこか不機嫌そうなヒロイン恵美は、ふいに雲や友人をカメラに収めようとする。そういえば、『やわらかい生活』(05)の寺島しのぶも写真を集めていたし、大切な「不在者」の声を時空を越えてふっと耳にしてしまうのもまた恵美と共通している(思い出すと、『君といつまでも』(95)の田口トモロヲ銃口をかざすようにカメラを街に向けシャッターを切っていた)。『やわらかい生活』と『きみの友だち』にある幾つもの符合、しかしその両者には決定的な差異がある。その差異を、死に向かって刻々と変化する肉体の物質性を奇跡的に体現してしまう女優寺島しのぶの不在に求めるのはアンフェアだろうか。『きみの友だち』に感じるこの漠然とした違和感は、例えばその音楽の使い方において裏付けられる。

 音楽が映像の同意反復としてしか機能しないとき、往々にして映画は厚みを失いのっぺりと単調なものとなる。映画『ヴァイブレータ』(03)においてあれほど魅惑的にスクリーンを充たしていた音楽は、この作品においては多様な解釈の素地となる「余白」を奪いとっていくだけであったように思える。音楽はときに感傷を「捏造」する。『きみの友だち』において、エピソードのクライマックスのたびに繰り返し顔を出す主題歌が過剰なセンチメンタルを強要してくるのは、なんだかもったいないような気分にさせられた。せっかく多彩なキャラクターを描き分けながら、音楽に象徴される情感の単調さが、残念ながらこの映画全体のカラーを決定してしまっているのである。

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(C)「きみの友だち」製作委員会

 一方で、印象的な場面がある。大学受験当日の朝、東京へと立とうする恵美(舞台は山梨である)が、心配そうに見送る両親を背中に玄関を出ると、家の前には誰もいない。ここでは恵美の子供時代におけるあるエピソードが伏線として効いているのであるが、今はもう会えなくなってしまった親友の視線の記憶と重なるかのように不在の軒先越しに恵美を捉えたショットは、はっとするような美しさである。この場面を前にして僕は初めて身を乗り出した。見たいと思っていたのはこういう場面であり、少なくともその瞬間、僕は居心地の悪さから抜け出すことができたのだ。

 そして、ラストシーンである。物語を締めくくるために準備された最後の「決めゼリフ」をどう聞かせるか、ここで廣木監督の取った選択を許容できるかできないかで、この映画の評価は大きく変わってくるのではないだろうか。残念ながら、僕はそこに前述の音楽に似た演出の過剰さ、過剰さというよりは描く対象に対する距離感の欠如を感じてしまった。しかし一方で、これが廣木監督のやりたかったことなのかも知れない、そう思うとこのストレートな青春物語に対する演出家の態度は全編に渡ってブレていなかったことに思い至るのである。

 原作に「とにかく感動した」と語る監督は、原作の持ち味をスクリーンに移植するために最大限の仕事をした。そして、その思い入れの真っ当さこそがこの映画に対し感じ続けた違和感の正体だったのだろう。つまり、そこに原作を解釈し再構築するだけの批評的な視線が感じられないのだ。結果として、原作に対する甘さがラストカットに見られる対象への距離感の欠如につながっているのではないだろうか。

 原作『きみの友だち』を好きな人は、安心してこの映画に入っていけるだろう。しかし僕は、もう少し原作に対し冷ややかに臨む『きみの友だち』が見たかった気がしてならないのである。

『きみの友だち』

監督:廣木隆一

原作:重松清

脚本:斉藤ひろし 撮影:芦澤明子 照明:豊見山明長

美術:山下修侍 録音:深田晃 編集:大永昌弘

出演:石橋杏奈北浦愛吉高由里子福士誠治森田直幸

配給: ビターズ・エンド

7月26日より、新宿武蔵野館渋谷シネ・アミューズほか全国順次ロードショー

公式サイト:http://www.cinemacafe.net/official/kimi-tomo/