映画芸術

脚本家荒井晴彦が編集発行人を務める季刊の映画雑誌。1月、4月、7月、10月に発行。2016年に創刊70周年を迎えました!書店、映画館、Amazon、Fujisanほかにて発売中。

試写室だより『ライブテープ』 <br>恥ずかしさとともに表現することで生きていかなくちゃね <br>近藤典行(映画作家)

 「レビューを綴るつもりが ラブレターになって ラブレターを作るつもりが ファイルに保存したまま」なんて影響されまくって替え歌なんかでごまかして困った。個人的な感慨、共感がでかすぎて批評になりうることなんて書ける気がしない。正直言ってここだけの話、『ライブテープ』はものすごくいい、という以上に大好きな映画だ。ここだけの話、というのも真っ赤な嘘ただの照れ隠しで、大好きということをいろんな人に吹聴してまわりたいくらい、それどころか実際に試写を観た直後、映画に関係している友人知人、映画が好きな友人知人、映画にまったく興味のない隣人他人、会う人会う人片っ端からこの『ライブテープ』にいかに興奮させられたかを熱く、暑苦しく語ってしまったことを素直に告白しておく。そうやって人を恥ずかしい振る舞いに走らせる何かがこの映画には充満している。いや、この何かだけで出来ている映画だといってしまってもいい。そもそも、前野健太という歌い手を、松江哲明という映画監督を(この映画で初めて使用されたクレジットらしい)、行動に突き動かしたものの正体でもある。 c_main.jpg  2009年の元旦、吉祥寺の武蔵野八幡宮で神様に手を合わせて願い事をする長澤つぐみの姿を捉えて『ライブテープ』は始まる。鮮やかすぎるピンクの着物を纏い、髪にも大きなピンクの花を付けた長澤つぐみの閉じられた瞳、強く願っているように俯く横顔を見て、そこは何から何まで作りこまれた劇映画的空間であると見紛う。しかし、その一連の流れから直後境内を歩く長澤つぐみを追うようにキャメラがフォローして動き出すと、多くの参拝客の不躾な視線が逆にキャメラをまじまじと捉えているのに直面し、やはりぶっつけ本番、一発撮りのドキュメンタリーだと当たり前に思い直すはめになる。ところがまたしかし、神社の出入口に近づくと、画面外から人の賑わう喧騒を掻き分けるように一人の男の歌声と、ギターを爪弾くメロディーが耳に届いてきて、その音の主が神社の外の塀に寄りかかってしゃがみ込んでいる男であることを画面で確認したところで、ぶっつけ本番どころか周到に計算され、演出されたものであることに再度考えを変えさせられる。この意図と偶然、本気とも冗談ともとれる仕掛けはまさにスリリングな作用を映画に波及させており、前野健太という時代遅れにも見えなくもないフォーク歌手をただキャメラが追っているわけではない、どこにどういう人たちを配置し、どこでどういうことをさせ(この細かいアクションがいちいち面白い)、ある場所で立ち止まらせ、キャメラの前に監督自ら立ちインタビュアーとなって言わせたいことを訊き出し、最後の井の頭公園でのステージで見事映画へと、カタルシスへと昇天させる。画面に映っているもの同様、6本のマイクにて多重録音されたという音響設計はそれ以上に緻密に構成されている。歌声はミックスされ、ときにはエフェクトが掛けられ、バランス、ボリュームなど徹頭徹尾、人工的に手の施されたこの映画の音は、いわゆるライブドキュメンタリーというイメージが持つそれを遥かに超えた次元で成立させられている。たしかに、宣伝文句として売りにもなっている74分ワンカットの画面は一発撮りの一回性に宿る強度を湛えているが(その点が最後のステージでの演奏の、奇跡に立ち会えたような高揚を招き入れることになる)、この映画の素晴らしさは幾重にも積み重ねられた偶然を呼び込む以上の気配りで作り上げられていることがわかる。 c_sub4.jpg  こっからはなぜそこまで僕がだだもれに共感したかに触れておきたい。それは単純に言ってしまうと、前野健太という未知だったミュージシャンの放つ歌そのものとそれを愛して、それだけで十分一本の映画になると信じて実行に移した松江監督の決意、両者のストレートな想いに対してである。親父が死んだときのことを、「ケータイばっかいじってた」と、「ポコチンばっかいじってた」と歌う僕と同い年の前野くんとそれを口ずさみながら父の祖母の友の死を耐え、またそこから新しい映画を撮ろうとした松江さん、だからこの映画は僕たちみんなの映画となるべきなんだと思う。ちなみに僕は親父が死んだとき、地面に敷いたダンボールの上でごろごろと回ったり、飛び跳ねたり、じたばたしたりしていた。高校生だった僕は、ブレイクダンスにしか興味がなく、ラジカセから流れてくる何百回と再生したためにヨレヨレになったカセットテープの中のジェームス・ブラウンが「セックスマシーン」と連呼するのに文句なしで煽られていた。あれだって今思えば、自分なりの表現だったのだ。松江監督と前野くんの間でやりとりされる「今は何パーセントですか?」「80パーセントぐらいですかね」「次は120パーセントでお願いします」という素っ頓狂であり自覚的でもある会話、このやりとりは僕らに共通事項として意識されている感覚だ。この感覚は『ライブテープ』にも、前野くんの歌にも、常に流れる通奏低音であり、それはわかりきったように80パーセントでも120パーセントでも些かも変わりようがない。映画での前野くんの歌声は一定のトーンに保たれ、画面で見る上でも前野くんのパフォーマンスにも別段変化は感じられない。もちろん、手を抜いているわけでも限界を悟っているわけでもない。今ここにいる僕らはそうやって音楽に映画に生活に向かい合うほかない。一時の突発的な勢いだけですっかり押し通せるほど若くはないし、ただ一つのきっかけでよいしょと腰を持ち上げるくらいには若い。そうやって恥ずかしさとともに表現することで生きていかなくちゃね、この姿勢が『ライブテープ』の美しさである。そうか、長澤つぐみはこの映画の冒頭、新しい一年の無事を、全人類の幸福を、お祈りしてたわけではなく、キャメラの前に立つ男や、キャメラの後に立つ男や、この映画や、この映画を観て自分も映りこんでいると同化するであろう愛すべき人たちのためにすべてはうまくいきますようにと祈るように神様にお願いしていたに違いない。 c_sub3.jpg  12月の終わりに『ライブテープ』が公開されることは本当に喜ばしいことと思う。絶対にバウスシアターで観たら、帰りには用もないのにぶらぶらと冬の吉祥寺の街を歩いてしまうに決まっている。初めて耳にする「東京の空」なんか鼻歌しながら。いい映画が必ず持っているウズウズする感じ、そうやって人を動かす力をこの映画も確実に持っている。元旦に何か始める、その清々しさは寒空の澄んだ光線に照らされたこの映画にくっきり刻印されている。とはいっても、あと2週間ほどでやってくる元旦に何かを始められる人間はそうはいないだろうし、そのことはやっぱり稀有で、だからこそ『ライブテープ』が画面に映しえた僥倖は貴重なのだし、感動的なのだ。誰も二度とできやしない。 『ライブテープ』 監督:松江哲明 唄 演奏:前野健太  撮影:近藤龍人  録音:山本タカアキ 参拝出演:長澤つぐみ 演奏:~DAVID BOWIEたち~ 吉田悠樹二胡) 大久保日向(ベース) POP鈴木(ドラムス) あだち麗三郎(サックス)  制作:Tip Top  配給・宣伝:SPOTTED PRODUCTIONS  宣伝協力:菫青石映画株式会社 2009/日本/ mini-DV/74分 吉祥寺バウスシアターにて12月26日(土)よりレイトショー公開 公式サイト http://spopro.net/livetape/