映画芸術

脚本家荒井晴彦が編集発行人を務める季刊の映画雑誌。1月、4月、7月、10月に発行。2016年に創刊70周年を迎えました!書店、映画館、Amazon、Fujisanほかにて発売中。

金子遊のこの人に聞きたいvol.7 <br>DVD「伊藤高志映画作品集」 <br>伊藤高志(映画作家)インタビュー

 2009年12月18日に、DVD『伊藤高志映画作品集』が発売される。これで現在までの伊藤高志の映画のほとんどがDVD化されることになった。特に1998年のビデオ化『イルミネーション・ゴースト』に収録されなかった作品が入っていることが大きな魅力である。孤高の映画作家伊藤高志といえば、誰もが傑作『SPACY』を真っ先に頭に思い浮かべるのだろう。だが今回は90年以降の作品や最近作『めまい』、『静かな一日・完全版』、DVD特典に収録される映像インスタレーション『恋する虜 The dead dance』の記録映像について話を聞いた。 (聞き手・構成/金子遊、写真/ダゲレオ出版) ito1.JPG 『ビーナス』『12月のかくれんぼ』 ――伊藤高志さんといえば、コマ撮りやバルブ撮影による「構造映画」と呼ばれる作品群が有名ですが、その他にも、家族や身辺の人々などプライベートな映像を撮った作品があります。『写真記』(86)、『写真記87』(87)です。『ビーナス』(90)では、伊藤さんの映画に印象的な「顔のない母と子の光景」が出てきます。この作品では、構造映画と日記映画的なものが融合しているようにも見えますね。  『ビーナス』はものすごく悩んでいた時期の作品です。何を作っていいのか、分りませんでした。イメージフォーラム・フェスティバルにほとんど毎年出品してきましたが、『ビーナス』を作ったときは苦痛で死にそうでした。その理由の一つには、構造映画を追求してきて壁にぶつかっていたということがあります。もうやることがないという所まで来ていた。次の展開をどうしたらいいのか模索していた、というより本当に悩んでいたんです。  イメージフォーラム・フェスティバルに出品するという要請があったので、少し目先を変えようと思いました。それまでは構造映画で風景ばかり撮っていたのですが、そこに『写真記』や『写真記87』で展開した日記的なものを本腰を入れてやろうと考えたんです。そこで僕の嫁と息子を映画の素材にしました。私生活でいえば、家族がいて一家団欒が温かくあるという状況のなかに生活していた訳ですが、それをそのまま映画でやっても仕方がない。一家団欒がありながら、そこに「日常の空虚感」のような冷たい感じを出せないかと考えたんですね。  それと同時に、僕自身のなかに、妻や息子を自分とは違う他人として見ている視線がありました。家族ですら相手を物としてしか見ていない自分がいて、とても残酷で冷ややかな感覚をどこかに持っていたんです。そういう風にして、いくつかのモチーフが複雑に絡み合いながら、それまでやってきた構造映画の方法論を日記的なものへと投入しようとしたんです。 venus1.jpg 『ビーナス』 ――個人的な映画の系譜では、日記映画は伝統的なジャンルですが、『ビーナス』を見ると、伊藤さんにそれを換骨奪胎というか、脱構築したいという意志があったのではないかと思えます。  そうですね、確かにそういう面もありました。『写真記』をシリーズで2本作ったときも、当時は8ミリカメラで身のまわりを撮るスタイルの映画が多かったから、日記映画のパターンではない方法論でやってみようと思いました。それが成功しているかどうかは自分では定かではないのですが。 ――プロフィールによれば、『ビーナス』から『12月のかくれんぼ』(93)にいたるまでの3年間、映画が撮れなかったとあります。この時期、実験映画の旗手として疾走してきた伊藤さんが、映画が撮れなくなったのは、方法論の行き詰まりの問題なのでしょうか。それとも、何か別の要因があったのでしょうか。 shashin87-2.jpg 『写真記87』  やはりその時期、仕事が滅茶苦茶に忙しかったということがあります。大学を卒業後、東京の映画配給会社に10年間勤めましたが、『ビーナス』を撮ったのが入社7、8年目頃。年齢的にも36、7歳で中間管理職というか、上司と部下の間に挟まれて苦労していました。そういう時期に、映画の方でも『ビーナス』のような新しい試みをして、それが上手くいかなかった。そうしたことが重なって映画が撮れなくなったのでしょう。 ――『12月のかくれんぼ』を非常におもしろく見ました。息子さんの竜太君が5歳のときの作品ですね。ホームムービーの形態を借用しながら、そこには「自分の息子に感じる違和感」が表明されています。これはビデオ作品ですが、中央にマスキングやワイプで映像を重ねています。息子さんが木の周りで遊んでいて、ふいに消えたり、また現れたりする。不思議な感覚に襲われるのは、お風呂でのショットですね。息子さんの姿が消えたのに、声は聞こえてくる。何か3年間のブランクを脱したような契機があったのでしょうか。  家族に対する違和感というのは、自分自身が強くそう思ったというよりも、そのように仮定して映画を作ったらおもしろいのではないか、と考えたということです。そのような映画を作りたいと考えたのです。通常の場合で、「息子を映画に撮る」というときの常識を覆したいという気持ちがありました。特殊効果はすべて編集段階でやっています。息子がいる時間と息子がいない時間を交差させて、つまりは息子の存在と不在を描いているのです。 12gatsu.jpg 『12月のかくれんぼ』 『THE MOON』『ZONE』『モノクローム・ヘッド』 ――94年の『THE MOON』から、伊藤高志さんの作品がまた充実してきます。ドアのなかに月が浮かんでいるという、フレーム内フレームの従来のスタイルを踏襲しながらも、それまでの作品とは違った要素も見られます。撮影手法や構造を前面に出すことよりも、夢で見るようなシュールな光景を現出することの方に重きが置かれているかのようです。  壁に森の風景が映っているのは、スライド写真の映像を投影しているんです。その壁にあるドアをガチャッと開けると、暗闇のなかに月が浮かんでいる。あれもスライドの映像です。スライドの投影機を2台使って、壁に投影しました。セット撮影といいますか、大学の教室を使って作った映画です。いま仰ったように、何かテクニックだけが突出して見えるのはでなく、夢幻的な世界が立ち現れてくるような、この世のものではない不思議な空間を現出させるような、そういうことを強く感じながら作った作品です。  幼少の頃に見た夢そのものを映像にした訳ではないのですが、不思議な夢はよく見ていました。夜空に巨大な岩のような陸地が浮いていて、その上に草むらがあり、自分が立って下界を見ている、というような夢をよく見ました。それを映画にするのは難しいのですが、そのような不思議な感覚を映像として表現できないかと思ったんです。英語にLunaticという単語がありますが、月が象徴するものには「狂気」という問題もあります。道具立てに月を使ったのは、映像世界を狂気化していく一つの演出だったのでしょうね。 themoon.jpg 『THE MOON』 ――95年の『ZONE』は内外の評価も高い傑作ですね。この作品あたりから、映画に登場する人物の内面を探求する作風になってきます。顔のない男が手足をロープで縛られて、自分の内面としての部屋に奇妙な光景が展開されます。また、息子さんではないかと思いますが、白い無表情のお面をした人物が奇妙に迫ってきます。悪夢や暴力的なイメージが炸裂した作品ですね。  『ZONE』というのは一つの空間であり、内面というよりも自分の頭脳の内部ですね。頭の内部が部屋だから、そのなかにいる人物には頭がない。頭のない男が部屋のなかで縛られているんですが、男というのは自分自身のことです。実際、自分自身を模った人形をそこへ置いて縛って撮影しました。縛られているということが、何かの象徴になっているのだと思います。そのように人物が身動きができないという状況を見せながら、映像のなかでは動いているのです。しかし次のカットでは再び束縛されている。そこには矛盾が発生しているのですが、あえて意図して矛盾するように作っています。 zone8.jpg 『ZONE』  そして、自分自身は身動きができないという追い詰められた状況を、周囲の出来事によって表象しようとしました。過去の映画作品で使ったスチル写真が、一つの箱のなかでワーッとわきあがってくるショットがあります。あそこには、コマ撮りのスピーディな映像による気持ちよさがありますが、同時に、四角い箱やチューブ状の物のなかでしか動けないという不自由さもあります。表現すらも束縛されているわけです。壁から下がっているペンタックスの写真機も、実際に『SPACY』や『BOX』を撮影したときに使ったカメラですが、それを男がグシャッグシャッと壊していく。単純にいうと過去への決別というか、自分の記憶のなかの嫌なことを捨て去ってしまえ、という気持ちがあり、あのようなシーンを撮ったのでしょう。  息子は撮影当時5歳か6歳でしたが、彼が2、3歳のときに遊んでいた電車のおもちゃを床に置いて、白い包帯状のものですべてを包み込み、一旦ディテールを全部消しました。細部を消したい、全部白にしたい、存在を消したいと考えたのです。息子の顔も白いお面をつけて、人格を消し、私自身もお面をつけて登場しますが、仮面にしたのはやはり人格を消したかったからです。 zone4.jpg 『ZONE』 ――必ずしも社会的な事象と関わるわけではないでしょうが、この年にはオウム真理教による地下鉄サリン事件があり、世紀末のなかで不穏な空気が流れていましたよね。何かそういう空気感が、伊藤高志映画のなかにも流れ込んでいるように感じました。  そういった影響は、すごいありますね。『ビーナス』を撮影した時期には、宮崎勤の幼女連続殺人事件が自宅の近場で起きたんです。それを被害者の観点から怖いと思うと同時に、加害者・宮崎勤と自分とがどこか底で繋がっているような感覚もありました。もしかしたら、宮崎勤ではなくて自分がそういうことをやっていたかもしれない、と。そんなスレスレの危うさを感じました。オウム事件のときは、自分にひき付けたわけではないけれども、不穏な何かを感じていました。私が作品を作るときは、むしろそんな時代のネガティブな空気の方が影響しているんですよね。 ――そのような空気感が、より直接的な暴力的イメージで語られたのが、97年の『モノクローム・ヘッド』だと思います。黙々とバッドを振りまわす少女がいて、暗い部屋のなかで佇む少年の周囲に光が飛び回り、若者の狂気のようなものが表現されます。一方で、奇妙な表情で笑っているお面の人物が登場し、木のまわりを飛んだり、穴を掘ったりする。また、鏡の前でボレックスをまわす人物もいて、彼の分身のような人物が登場し、彼は鏡とレンズの中間地帯のような世界へ迷い込んでしまう。『モノクローム・ヘッド』は簡単な解釈を許さない作品だと思いますが、ご本人の口から解題をお聞きしたいと思います。  この『モノクローム・ヘッド』を撮影したときはノリノリでしたね。それほど深刻ぶった映画でもなく、スラップスティック的な要素もあります。最初のアイデアとして、一つの強いイメージがありました。それは、顔が見えないロングコートを着た大柄の男が、強い日差しの当っている河原(京都の加茂川)に佇んでいるイメージです。河原に一本の木があり、その木陰に男が佇んでいて、顔が見えず、うな垂れていて、手だけがロングコートから出ている。それがブルブル震えていて、その前で小さな子どもたちが騒いでいる。そんなイメージがあり、それを映画にしたいとずっと思っていたんです。  映画の設定を話せば、鏡の前でカメラを持っている男は主人公であり、彼は物語を構想しているんです。この男が映画を撮ろうとしていて、「何かを撮影しなくては」と追い立てられている。何かに追われる切迫した気持ちはあるのに、何を撮っていいかわからず、どんどんカメラをまわしている。撮影したものは増えていくが、男はどんどん混乱していく。そうして気がふれていき、自殺するのか他人に暴力を振るうのか分らないが、狂気の淵まで追いやられる。そんな流れをまず考えました。そのような物語をシナリオにして作っても仕方がないので、男が極限にいく直前に見える風景を映画にしようと考えました。その一瞬にしか見えない風景といいますか。もちろん、そこには自画像のような要素も強くあります。 monochrome6.jpgモノクローム・ヘッド』 『静かな一日』  ――次は『静かな一日・完全版』(99、02)についてです。『モノクローム・ヘッド』に引き続き登場する、安部まりかさんがいいですね。国籍不明な顔で、かつ感情が簡単に伝わらない底知れなさを持っています。『静かな一日』の99年版(15分)は未完成のまま、イメージフォーラム・フェスティバルで上映されたたということですね。芥川龍之介の小説「歯車」に影響を受けたということですが…。  芥川龍之介の小説は好きで、結構読んでいました。「歯車」を読んだときに、死の情景がとても映像的だと思いました。それで、ずっと映画にしたいと思っていました。それが根幹にあります。  99年にイメージフォーラム・フェスティバルに出品したときは、編集が間に合わなかっただけではなく、撮影ももっと色々なものを撮ろうと考えていたんです。締め切りに間に合わず、音もつけられずにサイレント版で、アラ編集のような仕上がりでした。上映の前日になんとか形にしました。 ――『静かな一日』の完全版は3年後の02年に完成したのですね。映画の設定は「死の幻影におびえる女の最後の一日」となっています。彼女の最後の一日と、彼女が撮っている映画という二つの世界があり、どちらがどちらなのか判然としない形で、迷宮的な世界へ入っていきます。伊藤さんの師匠である松本俊夫さんの劇映画『薔薇の葬列』や『ドグラマグラ』でも、このような迷宮性は追求されているですが、伊藤さんはそれとは違った虚実が溶け合いながら何か不安定なものを感じさせます。また、映像の悪夢的なイメージや人物の暗黒面の探求といったテーマが、明確に死のイメージと結び付けられているのも、この作品からでしょうか。 silentday1.jpg 『静かな一日』  現実と虚構の境目、その境界の危うさというのは、自分のなかにテーマとして強くあります。現実と虚構だけはなく、あらゆるものの境界ということを考えています。それは初期の『SPACY』のような写真を使ったアニメーションを撮った頃からありました。二次元と三次元の境界といいますか、次元の境界を行き来するということを考えていたのです。少し物語的になってきた最近作においては、物語を導入することによってそのような境界の不確かさを描けないか、と考えるようになってきました。  その核にあるのは、死のイメージですね。なんでそうなのか自分でもよく分らないのですが、私生活の方で死に目にあったということが影響しているとも思います。10代の終わり頃に胃が突然破裂して、救急病院へ行ったら医者に「あと3時間遅かったら死んでたよ」と言われたことがありました。そのときは、人間の死というのはこういうことか、という瞬間を経験しました。それと、私の父親が長崎の被爆者なんですね。被爆手帳を持っていて、癌で亡くなった人です。だから私は被爆二世ですね。そういうことも関係しているのだと思います。  また私自身、2年前に癌でかなり深刻な死の宣告を医者から受けました。今は元気なのですが、そうやって人生のなかで死に直面することが何度かありました。学生のときにはバイクで車に正面衝突して、救急車で運ばれて一ヶ月入院したこともありましたね。  ――『静かな一日』では、直接的には描かれてはいませんが、主役の女の子が最後に自殺をするという設定なんですよね。  映画では曖昧にしていますが、女の子が鉄橋から飛び降りるシーンを最後に入れています。よく見ないと分らないのですが。カメラを投げ落としたのか、カメラごと鉄橋から落ちたのかは、はっきりさせていませんが、死の暗示は残したいと思ったんです。その後のシーンに、生きている彼女の姿を入れました。鏡に貼った自分の写真を、カメラで撮影している姿のショットを入れて、さらに曖昧にしたんです。時間がどのように繋がっているのか分らないように。それが自殺をした後のショットなのか、それ以前の過去ショットがそこに来ているのか、そこは意図的に曖昧にしました。 IMG_1086.JPG 『静かな一日』 『めまい』 ――鉄橋の上のイメージは、次の『めまい』(01)という映画でも継承されています。作品解説では、前作『静かな一日』との繋がりがあるとのことですね。投身自殺をたまたま目撃した二人の女の子がいて、自殺した女の子の心の闇がその女の子たちにも伝播してしまう。『静かな一日』と『めまい』は前後編の作品のようにも見えます。  ええ。自分のなかでは前後編になっていますね。『めまい』の方を『静かな一日』の完成版よりも先に作りましたから。『静かな一日』の撮影が終了し、その後に続編として『めまい』を作ったんです。そして、それが完成してから『静かな一日』の足りないところを撮っていきました。 IMG_1070.JPG 『めまい』 ――『めまい』で撮られる鉄橋の上の光景は、並々ならぬ思い入れがあるではないかと勘ぐりたくなります。二つのトンネルから列車が出てくる、非常に不安定な構図の場所ですね。また、自殺を目撃する女の子が噛むチューインガムが効果的です。あるいは、ガード下の影をカッターナイフでなぞるショットなど、全体としてもやはり不穏な空気が漲っています。  最初のモチーフは、自殺した女の子を目撃してしまった二人の女の子に、自殺した子の何かが伝わってしまうということでした。伝わるというか、潜在的に持っていたものに火がついてしまうんですね。元々狂気を持っているのですが、それが現前化して翻弄されていくのです。女の子が二人出てきますが、実は、僕の設定としては一人の人物なんです。観ている人に分らなくてもいいのですが、完全に一人の人物として描こうと思ったのです。人間にある二つの側面は明白に分割できるものではないのですが、映画の設定としてはそのような試みになっています。  そのような理由から、最後のシーンを二人が手を握り合うというものにしたかったのです。手を握り合う行為には、何かすごく官能的なところがあります。それと同時に、僕のなかでは二人が一人の人物であるという設定ですから、手を握り合う行為は、自分の両手を握りしめて、何かに耐えている姿勢にもなるわけです。心の病を抱えた二人が助け合う情景にも見えるし、一人の人間がギリギリのところで踏ん張っている、自分が住む世界から転がり落ちないよう水平の上でがんばっている、そんな多重化されたイメージを意図しました。  それは誰にも伝わらないと思っています。それを第三者に伝わるように、わかりやすく演出することもできるでしょうが、僕の場合、わかることのつまらなさを常に考えてしまうんです。 IMG_1078.JPG 『めまい』 『恋する虜』 ――最後に『恋する虜/The Dead Dance』(作・演出:伊藤高志/京都芸術劇場春秋座)について聞きたいと思います。伊藤さんはコラボレーションをずっと続けてきて、岩下徹、山田せつ子、伊藤キムといった第一線で活躍するダンサーたちと作品を作ってきました。2009年1月17日と18日に春秋座で行われた、最新作のエキシビションの記録映像がDVDに特典映像に入ります。サウンド京都造形芸術大学の稲垣貴士さん、コンセプトに同じく八角聡仁さんの名前があります。まずは、どのように始まったプロジェクトなのかをお聞きしたいと思います。  これは突発的に出てきた作品ではなく、3年間かけてジャン・ジュネのテクストを元にダンス作品を作ろうという企画を山田せつ子さんが考えたんです。京都造形芸術大学の関係者を中心に、そのようなプロジェクトが立ち上がった。僕もそこへ参加して、ジュネの本もたくさん読みました。少しずつみんなで話し合いながら、1年目にワークイン・プログレスをやり、2年目にその成果としてのダンス公演を催しました。そのときは4枚の鏡を使い、そこへダンサーの映像を映して、実際のダンサーと鏡のなかの映像が関わっていくという試みでした。3年目に大きな劇場でダンス公演をしました。僕も映像担当で参加しました。それで一旦、ジュネ企画は終了したんす。  するとその後に、3年間僕が担当してきた映像を独立させて「映像だけでジャン・ジュネの『恋する虜』を表現しませんか」と八角聡仁さんが言い出した。そこで3年分の映像の他に、新たなにダンサーを振り付けして映像を撮りました。それらを編集し直した作品が『恋する虜/The Dead Dance』なんです。 P1110431.JPG ――舞台設計が非常に複雑ですね。11台のプロジェクターで映像を投影するインスタレーション作品ということですね。  これは大学の花道がある歌舞伎の劇場を使いました。観客が舞台上にあがり、見て歩くという趣向です。ステージ上に鏡が4枚あります。鏡の表面には白いパウダーをまぶしてあり、プロジェクターから映像を投影すると鏡の表面にダンサーの映像が出てくるのですが、なおかつ、鏡だから正面に映像が反射します。4枚の鏡に等身大のダンサーが出たり入ったり、オーバーラップして現れたり消えたりする。そして、4枚のうち2枚の鏡から反射した映像が、正面の壁でより大きな映像となって重なっている。そこではダンサーとダンサーが抱き合うようなイメージになっています。  また、天井から床へ投影された映像では、寝転がってワンピースを着た男性がダンスをしています。また舞台の端では、等身大の紙焼きにされたダンサーの写真が二枚下げられており、そこへ同じダンサーの動く映像が投影されている。等身大の写真とダンサーの動く映像が絡み合うようになっています。その奥の部屋には大きなシーツが吊り下げられていて、巨大な顔などの映像が投影されています。客席には白いシーツをかぶせて、その場所でダンスをした映像をそこへ投影しています。それら全体が20分間の作品になっています。劇場のあちこちで徐々にダンサーが増えてきて、お互いに交感しあい、そこに火が点き、やがて全体に火がまわっていき、燃え上がる。そういう20分の映像を、観客がいつどこへ入ってもいいように見せたんですね。 ――ジュネの『恋する虜』では、シャティーラの虐殺などの描写が印象的でしたが、伊藤さんの映像もそれを介して、個人的な死の世界から、ある種の大量死のようなイメージへと向かっているのでしょうか。  そういうところは、ありますね。はっきり自分の個人的なことを問題にした作品が続いたので、やはり、そこから抜けだすということを考えなくてはならない。その一つの表れではないでしょうか。だから、これからも少しずつ変っていくのだと思います。 ――以前、松本俊夫さんにインタビューしたとき、実験映像の一つの可能性は伊藤さんが推進してきたダンサーやパフォーマーとのコラボレーションの方にあるのかもしれない、と仰っていました。  すごい、プレッシャーですね(笑)。でも、音響にも凝ってすごく予算がかかったんですが、インスタレーションはこれからもやっていきたいと考えています。『恋する虜』が今のところ最新作ですが、来年のイメージフォーラム・フェスティバルにむけて、何かダンサーを使った映像作品ができないか、と今考えているところです。 <DVD情報> 1131[1].jpg 伊藤高志映画作品集』 ダゲレオ出版 2009年12月18日発売 DAD09041/4,935 円(込)/本編150分+特典映像/ カラー、B+W/片面一層2枚組 公式HP http://www.imageforum.co.jp/ito/index.html 収録作品 『SPACY』『BOX』『THUNDER』『スクリュー』『DRILL』『GHOST』 『GRIM』『写真記』『WALL』『写真記87』『悪魔の回路図』 『ミイラの夢』『ビーナス』『12月のかくれんぼ』『THE MOON』 『ZONE』『ギ・装置M』『モノクローム・ヘッド』『めまい』 『静かな一日・完全版』 特別収録 「DOUBLE/分身」(舞台記録映像・ダイジェスト版) 2001年12月7日~9日 京都芸術劇場 studio21 にて公演 ダンス:山田せつ子 映像・構成:伊藤高志 サウンドデザイン:稲垣貴士 制作:京都造形芸術大学 舞台芸術研究センター 「恋する虜―The Dead Dance 」(インスタレーション記録映像) 2009年1月17日~18日 京都芸術劇場春秋座 映像:伊藤高志 サウンドデザイン:稲垣貴士 制作:京都造形芸術大学 舞台芸術研究センター