1月30日に発売された映画芸術430号では2009年のベストテンとワーストテンが発表され、本サイトの執筆陣も「映芸ダイアリーズ」として下記のリストとともに選評を寄稿しました。
ベスト
1.ポチの告白(高橋 玄)
2.オカルト(白石晃士)
3.マテリアル&メモリーズ(原 將人)
4.ライブテープ(松江哲明)
5.南京・引き裂かれた記憶(松岡 環 武田倫和 林伯耀)
7.SR サイタマノラッパー(入江 悠)
9.へばの(木村文洋)
10.ダンプねえちゃんとホルモン大王(藤原 章)
ワースト
3.空気人形(是枝裕和)
4.レイン・フォール 雨の牙(マックス・マニックス)
5.フィッシュストーリー(中村義洋)
6.ハルフウェイ(北川悦吏子)
7.精神(想田和弘)
9.Deep in the Valley 谷中暮色(舩橋 淳)
10.ウルトラミラクルラブストーリー(横浜聡子)
このリストは7時間におよぶ議論の末に決定したものですが、ベストに入った作品をワーストに挙げたメンバーもいれば、ワーストに入った作品をベストに推したメンバーもいるという状態でした。映画賞シーズンの終わりに、映芸ダイアリーズのメンバー個々がどのようなベストテン&ワーストテンを挙げていたのか、ここに発表しておきたいと思います。
加瀬修一(ライター)
ベスト
1.ライブテープ(松江哲明)
3.オカルト(白石晃士)
4.へばの(木村文洋)
5.SR サイタマノラッパー(入江 悠)
6.今、僕は(竹馬靖具)
7.ダンプねえちゃんとホルモン大王(藤原 章)
8.美代子阿佐ヶ谷気分(坪田義史)
10.ディア・ドクター(西川美和)
ワースト
・Deep in the Valley 谷中暮色(舩橋 淳)
1本の映画で世界は変えられないけれど、1本の映画を作る事、観せる事、観た事で、人ひとりの人生が変わる事はある。映画はそんな力を持っている。
『ライブテープ』は、その清々しさ、心地良い解放感、前野健太の歌に打たれ、何度も観に行った。きっとこれからも何度も観ると思う。厳密には2010年の対象作品かも知れないが、『あんにょん由美香』への繋がりを考えると、どうしても今年のベストに入れたかった。「変わらないという事と、止まっているという事は違う」というPANTAの言葉に反応しないような人間になりたくない。政治性よりも人間性を見つめる視点にグッときた『ドキュメンタリー 頭脳警察』。第二部のラストはその象徴。
現実と虚構、冗談と本気、笑いと恐怖。『オカルト』は、いつの間にか当たり障りのない表現に慣らされている「作り手」と「観客」に対する「テロ」だと思う。映画はもっと禍々しくていいと喧嘩を売っている。
大きなスクリーンに耐え得る力強い画と役者の演技。「恋の予感」以降歪で暴力的に加速する『へばの』。北村早樹子の「蜜のあわれ」に被る怒りのような子供の泣き声が、いまも耳に残る。
冴えない事よりも、諦めることに何にも感じなくなることが一番怖い。『SR サイタマノラッパー』の真っ直ぐさには、こちらも素直になれた。
『今、僕は』は、主人公の心が変化する瞬間にこそ、人間が本来持っている可能性があるのではないかと問いかける。決して安易な希望や共感を得ようとしていない。過度な役者の自意識を嫌う編集に滲み出る独特の詩情。ウンコ・チンコが不思議と下品に感じない『ダンプねえちゃんとホルモン大王』みたいな映画を「作家の映画」というのではないだろうか。
ノスタルジーではなく、昨日から今日そして明日への物語として、安部愼一の原作漫画を再構築した『美代子阿佐ヶ谷気分』。肉体を感じさせない映画が多い中で、身体感覚を取り戻そうとする監督の姿勢に共感した。
追い込まれれば追い込まれるほど美しくなるヒロインが際立つ『行旅死亡人』。井土監督は「作品」と「商品」の中間を埋める「娯楽」、しかもメジャーがやらない暗く重いエンターテイメントに挑み続け、後の『犀の角』『土竜の祭り』『泥の惑星』と確実のその手法を深化させている。登場人物がみんなどこか欠けている『ディア・ドクター』。本人ではなく、他人がどうあって欲しいのか、どう認識したかで「その人」が形成される。「自分らしさ」は他人が決めるのだ。以上10本。「今を生きる」ということを強く感じた映画を選んだ。
『谷中暮色』は、燃え上がる五重塔には興奮したけれど、どうしてもドキュメントとフィクションがかみ合っているとは思えなかった。ドラマパートの作り込みが足りなかったせいか、いまの人間が見えて来ないのが残念だった。
他には、映画を作る・観せる覚悟を確立するということを第一に掲げる「トリウッドスタジオプロジェクト」の第4弾『14才のハラワタ』と、映画の持ついかがわしさを存分に感じさせてくれた「傑力珍怪映画祭」は、映画をどう人に届けるのかを突き詰めて考えていたと思う。旧作では、ラピュタ阿佐ヶ谷の特集「60年代まぼろしの官能女優たち」「THE 恐怖女子高校」と、「俳優 佐藤慶」で上映された『女医の愛欲日記』がダントツで印象に残っている。いずれも今後の活動に期待しています!
2009年は、劇場や試写を観に行く時間とお金を捻出するのが本当に厳しい年だった。生活に追われるとはこういう事かと、いまさらのように感じている。ただ、僕みたいに「観たいけど観れない」もしくは「観れたら観たい」という人って世の中に結構いるんじゃないかと思う。だとしたら公開時は難しくても、再上映、イベント、DVD、CS放送など、「観れる」機会が来た時に観てもらえるよう、せめてタイトルぐらいは憶えておいて欲しい。そういう人達にも届く言葉、方法、行動をもっと示していく必要があるんじゃないだろうか。1本の映画を観た事で、人ひとりの人生が変わる事はある。誰かにとっての、そんな1本に出会うきっかけを作れたらと願う。たとえ蟷螂の斧だとしても、力いっぱい振り回したい。
金子遊(批評家)
ベスト
1.マテリアル&メモリーズ(原 將人)
2.南京・引き裂かれた記憶(松岡 環 武田倫和 林伯耀)
3.沈黙を破る(土井敏邦)
4.オカルト(白石晃士)
5.花と兵隊(松林要樹)
6.キセキgozo cine(吉増剛造)
7.台湾人生(酒井充子)
8.新宿伝説2 マレンコフがいた(かわなかのぶひろ)
10.もっちょむ・ぱあぷるへいず(あがた森魚)
ワースト
1.ハルフウェイ(北川悦吏子)
2.レイン・フォール 雨の牙(マックス・マニックス)
4.携帯彼氏(船曳真珠)
7.ララピポ(宮野雅之)
9.ディア・ドクター(西川美和)
10.ウルトラミラクルラブストーリー(横浜聡子)
トホホ5
・ROOKIES―卒業―(平川雄一郎)
・GOEMON(紀里谷和明)
・しんぼる(松本人志)
ここ数年、静かな革命が進行している。デジタル時代の技術革新により、撮影、編集、仕上げまでが個人の手によって行えるようになり、最小人数/個人で制作された映画が劇場やオフシアターで上映される機会が増えている。フィルム撮影からデジタルビデオ撮影に移行して恩恵を受けているのが、ビデオ・ドキュメンタリー映画であろう。『花と兵隊』は、個人が2年半かけて撮影したものだが、軽量で、ほとんど無制限に回すことのできるデジタルカメラの利点を活かし切っている。『沈黙を破る』は、ビデオ・ジャーナリストが十数年撮りためたビデオ映像を再編集した映画版であり、今後は蓄積したフッテージを映画へと再生成する手法も増えてくるだろう。
『南京・引き裂かれた記憶』は市民活動家、『沈黙を破る』はジャーナリスト、『台湾人生』は元新聞記者と、異業種から映画制作への参入も増えている。10年代へむけて、ビデオカメラを創造的な道具として使用する詩人・吉増剛造の『キセキgozo cine』や、ビデオ日記を「月刊映画」として発表し続ける音楽家・あがた森魚の『もっちょむ・ぱあぷるへいず』など、個人撮影によるデジタルシネマの可能性が注目される。
つまり、デジタルシネマは個人映画へと開けているのだ。8ミリ映写機による三面マルチ画面、ボーカルとピアノ他による生ライヴ演奏。原將人の新作『マテリアル&メモリーズ』は、再演不可能な一回性の芸術としての映画の究極形態を示している。「私の肉体が滅びたら、私の映画も死ぬ」という作家の言葉は、嘘やはったりではない。今のところデジタルシネマでは、ここまでの緊張感の高まりを持つことはできないが、いつかは原將人を継承するようなデジタル時代の天才が登場するに違いない。
重要なのは、デジタルシネマが個人の手による映画として、個人を抑圧するあらゆる形態の権力(国家、民族主義、封建制、人種的蔑視、管理・監視社会、グローバル企業による搾取構造など)への対抗手段となりうることである。私たちが新しい形態を持つ権力の不正を監視し、告発する手段として、デジタルカメラ、メディア・アクティヴィズム、youtubeを含めたデジタル動画を活用していくことが求められている。
虐殺を行った加害者の元日本兵たちと、虐殺を目撃し強姦された中国人たちの証言をおさめた『南京 引き裂かれた記憶』には、南京大虐殺の事実から目をそむけるすべての人に対して効力を発揮する。『花と兵隊』『台湾人生』『昭和八十四年』『私の青空・終戦63』など日本の侵略戦争に関するドキュメンタリー作品が多かったが、次々と証言者が亡くなるなかで、ビデオカメラ一台で強大な権力に対抗できるこの映画運動を継続すべきだ。また、作り手だけでなく、批評の書き手、観客、上映団体がゆるやかな連帯のネットワークを築きながら、デジタル時代の闘争を推し進めていくことが望まれる。
期待して見に行ったが期待外れであった映画をワーストテンに、救いようがないメジャー映画をトホホ5に括った。「映画芸術」誌では、ほとんどのメジャー映画が見るに値しないものとして扱われる傾向にある。アレらは本当に「映画」ではないのか? 「映画秘宝」誌の「日本映画縛り首」であれば、邦画のメジャー映画を笑い者にしていれば事足りる。しかし、私たちにはアレを映画産業が生み出した特異な現象として批評する必要がないか。たとえば『GOEMON』のような駄作であっても、VFXであるとか、役者であるとか、何か拾い物がないか探すのがトレジャーハンターではないのか。
現在の日本映画はジャンルよりも、制作規模で分けて考える方が早い。数億円規模以上の「メジャー映画」、それ以下の「一般映画」「インディペンデント系映画」それに「個人映画」である。その中でも批評の言葉が不足しているのは、ほとんどの言及が宣伝効果に回収されてしまう「メジャー映画」と、書き手が少なく情報も少ない「ピンク映画」「ドキュメンタリー」「個人・実験映画」である。批評の手薄なところへ人材をまわし、活気づけるための機運を作ることも、映画雑誌や批評の役割ではないだろうか。