映画芸術

脚本家荒井晴彦が編集発行人を務める季刊の映画雑誌。1月、4月、7月、10月に発行。2016年に創刊70周年を迎えました!書店、映画館、Amazon、Fujisanほかにて発売中。

試写室だより『ふゆの獣』 <br>荒涼とした風景の中で、牙のない獣たちは <br>近藤典行(映画作家)

 この映画は、全編を通し、四人の登場人物によってのみ描かれている。きっかり四人だ。それ以外の人間が画面に映ることはほぼない。ユカコ(加藤めぐみ)、その同僚で彼氏でもあるシゲヒサ(佐藤博行)、同じく同僚でシゲヒサの浮気相手でもあるサエコ(前川桃子)、同じく同僚でサエコに好意を寄せているノボル(高木公介)、の四人。浮気されていることにうすうす気づいているユカコと、サエコに自分が好きなのはシゲヒサであることを告げられたノボルは一夜を過ごすことになる……。その後、シゲヒサとサエコの浮気現場でたまたま四人は鉢合わせになる。と、こうやって92分の映画を四人の紹介とともに乱暴に要約してしまったわけだが、もちろん一本の映画にとってストーリーを語ったところで、なんら本質に触れることにならないのはご存知の通り、この映画はその出来事と出来事の間の、細やかなそれぞれの関係や心理や内面を丹念にキャメラに収めることに一番の関心をおいているように思える。問題はその部分だ。 ふゆの獣メイン.jpg  前述した四人の登場人物が、シゲヒサのアパートの部屋で、四人が働いていると思われるビルの屋上で、ユカコとノボルが語り合う駅へ続く地下道で、サエコとノボルが語り合う公園で、たったこれだけの場所で映画は語られる。プロットとキーとなるセリフだけで脚本はなく、即興による演技、長回しの撮影、しかも2台のキャメラでそれを捉えるという方法は、あきらかに限られた予算の中で、その登場人物たちの心理描写を丹念に描こうとした場合の、必要不可欠な方法だったのだろう。ここで採用された撮影方法が別段目新しいものでないということは誰の目にも明らかなわけだが、この『ふゆの獣』でも取り立てて驚くことは何も起こっておらず、若手の映画作家には過剰なもの暴力的なものを期待しているこちらとしては少し残念だったのは事実だし、それどころか実に収まりのいい作品としてまとめられてしまった印象が拭いきれなかった。 ふゆの獣サブ1.JPG  しかし、興味深い点もある。それはこの即興や長回しが、逆説的に、役に成りきっているはずの俳優から登場人物の内面をごっそり奪い取っているかに見られる点だ。人間の内面など実にうすっぺらいものだということがより露わになっていく様はスリリングでさえある。海外用のタイトルとして付せられた『LOVE ADDICTION』=恋愛中毒者が示しているように、この映画は恋愛にのみ焦点が当てられた映画であるが、浮気する者も嫉妬する者も告白する者も、本当にそのことが切実な問題なのかよく分からない。それは人間の複雑な感情や知能のもとで選択し行動しているというよりは、ただ近くにいるものに寄り添うことが本能としてあるような、文字通りの「獣」に近い。生真面目なゆえ、思いつめると狂気にまで至ってしまうユカコの顔、狡賢く平気で嘘を吐けるシゲヒサの顔、朴訥としたおくてを絵に描いたようなノボルの顔、おっとりしているように見えて実は計算高いサエコの顔。こうやって容易く類型化できてしまえるキャラクターは、僕らのすぐ横を歩いているような親近感のある俳優によって演じられることで成立している。作者が意図していたかどうかにかかわらず、内面なき「獣」は、「獣」であることを感じさせないこの無為な顔があってこそ、実に巧妙な罠となってこの映画で機能している。 ふゆの獣サブ2.jpg  だから、内面を奪われた「獣」がいくら激しくぶつかりあおうと心理ドラマなど生まれるはずもない。プレスシートに書かれた国内外の喝采を送るコメントはその罠に完全にはまってしまっている。「獣」が唸ったり、咆えたり、泣いたりするのは感情とは一切無縁だし、生理的な反応に他ならない。まさか「獣」が感情抜きで涙を流すことを知らないわけではあるまい。踏み切りの音や水のしたたる音、グツグツと料理を煮込んでいる最中の音やカラスや鳥たちの鳴き声、画面に映ってもない執拗に強調される音響効果に間違っても登場人物たちの心情の盛り上がりなど感じてはいけない。そのような演出がこの映画を、よくある登場人物の心理を捏造する映画に貶めてしまっているのだから。作者はあくまで、人間など空っぽだということが刻々と剥き出しになっていく恐ろしさにこそ、『ふゆの獣』という作品の真価を賭けるべきではなかったか。 ふゆの獣サブ3.jpg  この映画には、四人以外の人は画面に映らないと記したが、実は終盤、ワンカットだけ人間を捉えたカットがある。アパートの外に出た四人の「獣」はあてもなく徘徊するのだが、ノボルは小高い丘のような場所から下にある公園を見下ろす。4秒にも満たないそのカットには母親らしき女性たちと子供たちが遊んでいるのが映し出される。おそらくエキストラではなく、たまたま撮影中に捉えてしまったカットを使用したと思われるが、紛れもない人間が映っているこのカットは、人里離れた場所から人に限りなく近い一匹の「獣」が、村の人々を見ている、さながら昔話にでも出てきそうなショットだ。しかし、最後まで「獣」であることしか許されていない四人の獣が、分かり合うことなどありえない。寒々とした森の中で、田園地帯で、ぽつりぽつりとそこに在る「獣」たちの姿を見てさらにその思いを強くする。おそらくプロットに予め書き込まれていたはずのキーとなるセリフの一つであろう、ユカコが語る「ふと顔を思い出そうとしたら長く付き合っているはずなのに思い出せなかった」という趣旨のセリフに呼応するように、最後の最後にユカコはシゲヒサの顔を見つめ、「覚えた」と呟く。そのセリフで映画は締めくくられているのだが、この言葉は、分かり合えたことを示した「共感」や「共有」に結びつくことのない、ただただ本能的な「認識」でしかない。冷たい風がそこに吹く。 ふゆの獣サブ4.jpg  30℃を超えた2011年、夏、東京で、周りを伺うようにして冷房のスイッチを押す2011年、夏、東京の映画館で、人災を起こし続けるその愚かな人間の心とやらを考える上でも『ふゆの獣』を観ることは十分貴重な体験になるかもしれない、と、人間であるはずの僕はふと思った。 『ふゆの獣』 監督・編集・構成&プロット・撮影・音響効果:内田伸輝 制作・撮影・スチール・ピアノ演奏:斎藤文 録音:日高隆 出演:加藤めぐみ 佐藤博行 高木公介 前川桃子 日本 / 2010 / 92分 / 配給:マコトヤ (C)映像工房 NOBU 公式サイト http://www.loveaddiction.jp/ 2011年7月2日よりテアトル新宿にてレイトショー 『ふゆの獣』予告編