映画芸術

脚本家荒井晴彦が編集発行人を務める季刊の映画雑誌。1月、4月、7月、10月に発行。2016年に創刊70周年を迎えました!書店、映画館、Amazon、Fujisanほかにて発売中。

映画館だより『あぜ道のダンディ』 <br>JUST TWO OF US(『・ふ・た・り・ぼ・っ・ち・』のテーマ) <br>若木康輔(ライター)

 多くの方は無私の熱意でやっていると知っている。尊重もしている。しかし、いち物書きとしては、新しい才能を大きな声で喧伝することにどうも戸惑いがある。急いで作家に仕立てられて若いうちに潰れた者を(別分野を含めて)何人か間近に見てきたせいで、慎重になってしまう。

 よほど突出した条件の持主でない限り、現代国産映画の基本は一毛作だ。土を耕すところから始め直す地道な繰り返しが、その生産者ならではの味や風合いをようやく生む。ひらたく言えばこれが作家性で、まだ若い監督に性急に求めるほうがどうかしている。

 ふだんからそう思っているため、今回の『あぜ道のダンディ』をほぼ予備知識ゼロのままテアトル新宿で見たのは、予断なく捉える意味で良かった。〈両手ぶらり観賞〉は結局いちばん贅沢かもしれない。

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 最近気付いたのだが、現在の長文映画評は、ファースト・シーンの映像や動きの丹念な記述から書きだすのがひとつの型になっている。その映画と見る者の間で結ばれる精神的契約の予告であり、いい映画ほどこの型が採用されやすいようだ。僕も試しにやってみよう。

 業務用ジャンバーを着た中年の男が、自転車を漕いでいる。「宮田淳一騎手、ゲートに入ります……」などと独り言を呟くのは、自分への鼓舞の、多分いつのまにかの癖。世渡りの上手そうな若者が配送業のペアになると、話しかけられるだけでイライラする。それにしても胃がシクシク痛んで不安になる。居酒屋に呼びつけた同年輩の男は、昔からの仲らしい。彼は、長年介護をした父を見送った自分へのご褒美だというお洒落なハットを、店の中でも離さない。それがやはりカンに障る。ガランとした一戸建に帰れば、息子も娘もすぐ自分の部屋に引っ込む。仏壇には先だった妻の写真。男-宮田は今、人生の頭打ち状態にある。

 シナリオ教室のテキストになるなと感心するぐらい、構成的・機能的でムダの無い滑り出しだ。全ての描写が、ストーリーを転がす布石として手順良く綺麗に置かれている。だが残念ながら同じぐらい、映画ならではという面白味には欠けている。映像が筋の語り係に徹しているぶん、目が見て美味しい色気や艶がおよそ無い。冒頭から期待に身を乗り出させてくれる映画ではない。

 それでも、セオリー通りのもてなしを気軽に受けるのは、悪くないものだ。

 宮田は、胃痛はきっとガンだと思い込み、後に残す、気持ちが通わなくなった息子と娘のために人生の仕舞い支度に取り組む。ハットを被った唯一の友達・真田を付き合わせての様々なアクションが、映画をユーモラスに運ぶエピソード集になる。よその家の女の子にならオトナとして堂々と説教できるおかしさ(「跳べ、メス豚! 跳べ!」には噴き出した)。真田にだけは愚痴をぶつけワガママに甘えられる、中学生の頃から変わらぬ関係。何より、心身ともにギクシャクしているため、口を開けば怒鳴り口調になって疎まれる宮田の分かりにくい繊細さ、傷つきやすさ(でも、娘の机をこっそり調べるのはいかがなものでしょうか……)。

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 この余命もののパロディ的展開もまた、そんなに悲しい展開に転ばないことはあらかじめ予想がつくようになっている。勘違いもまたセオリー。安心して笑わせておいて本当にガンだったという、各国の新進気鋭がよくやるルール違反すれすれの強引さを控えている点には、とても好感。

 なので、仏頂面の兄妹が、母さんが早くに死んでから1人で自分達を育てた父さんに対して実はどんな思いを秘めていたか。ひょんなことから知れるのが、余計に鮮やかな意外性になる。

 断絶した父子と見えたのに、案外そうでもなかったみたい。そう分かる辺りから、さっきまでクスクス笑いが主だったテアトル新宿の場内の、あちこちから鼻を啜る音が響いた。主人公の行動に沿ってしっかり筋道を積んでいけば、ドラマの逆転は、こんなささやかなもので充分なのだ。学ばされるところがあり、よかったなあ、と僕も気持ちが良かった。

 しかし、やがて兄妹は東京の大学に進学する。宮田は地方の町でひとりぼっちになるのか? いや、いつも一緒だった中学生の時のように、真田がいる。

 すでに発表されている幾つかの作品評を読んでみたところ、ネットのブログには、あったかい話をたのしく見られたと満足している好評が多かった。僕も、鬼面人を驚かす式の尖った野心作があっていいけど、多少手垢の付いた内容でもまっすぐなのが好ましいほうだから、けっこう納得。

 プロの批評家(肩書は色々)になると、好意的な場合でもやや苦しげな、留保付きが目立ってくる。本作の監督を若手の逸材と早くから認知してきた人ほど首を傾げるのだろうことは、これはこれで(よく知らない僕が言うのもナンだが)理解できる。なかにはかなり辛辣な評もあったが、映画マスコミは概してハイプに傾くと僕らに警告してくれる声は、本作に限らずもっとあっていい。

 たのしい映画だけれど、そこに膨らみが無いと感じられるのは確かなのだ。あまりにもセオリーが適切過ぎて、心あたたまる終幕を迎える他に選択肢の無いことが、あらかじめ分かってしまう。画面はストーリーとの一体化に終始し、飛躍は無いので美学的な堪能もできない。いわゆるベタを嫌う批評家やシネフィルにとっては、作家としての後退と映るだろう。

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 では、そういう僕の結論はどっち側か。どうも、どっちにも向わないようだ。

 見終って少ししてから、『あぜ道のダンディ』の奥には、「なかなか良くできた不器用おやじのがんばりコメディ」で済ませられない要素があるという気がし始めた。全体のタッチをハート・ウォーミングととるかベタととるか、出来が良いのか悪いのかといった査定とは離れたところで、得体の知れない図太いものが転がっていると感じる。

 考えてみると、この映画は、ないない尽くしである。

 大体、主人公・宮田のプロフィールや周囲の環境に、リアリティのあるバックボーンは見えてこない。彼は毎日トラックで何を運んでいるのだろう。風俗描写もアイマイなので、直近の現在が舞台なのか数年前なのかも、あまり問題にされていないようだ。

 地味な話なのに、先に書いた余命もの的要素や、例えば亡妻のゴーストが見守る、父子の心と体がしばらく入れ替わるなどのようなキャッチーな仕掛けが潔いほどに無い。宮田はよく「男とは」と独自のダンディ論を語ってみせるのだが、いつも観念じみていて、そのひとことがテーマをピチッと表わす、というわけではない。

 みんなに愛される名バイプレーヤー・光石研の久々の主演作、という話題が本作の対外的魅力なのだが、それで光石研を、ピンでキラキラ輝かせるわけでもない。(しかし単独で映る時より、真田役の田口トモロヲや子ども役の森岡龍・吉永淳らとぎこちなく一緒にいる場面のほうが魅力的なのは、この俳優さんらしくて素敵だ。)

 映画が実は、おじさんの応援歌にも、ホームドラマにも向かっていない。反芻すると、ただもう、宮田はいつも真田と一緒だなあ、という佇まいの風情だけが残る。そしてその、時間をかけて1枚の絵画を眺めた後のようなシンプルな余韻が、とても愉快。

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 ひょっとしたら、この映画の道具立ては全てカモフラージュで、本当に、なんにも描いていないのかもしれない。

 宮田は中学生の時に一緒に不良にカツアゲされて殴られ、唯一くやし涙を見せた真田と、また2人きりになった時に泣く。いろいろがんばりガマンしてきた人生は、子どもの時の原風景に戻っていく。確かに描かれているのは、実はこれだけではないか。

 ここからは解釈というより、映画を起点に勝手に転がり出した僕の想念になる。結局は同じ地平に留まり続けている、帽子に妙にこだわる2人のおじさん。2人の生産性のない遊びとおしゃべり。象徴のはずなのに視覚的な実体の薄い、あぜ道。……そう、僕はいつのまにか、この映画がまとう抽象性に「ゴドーを待ちながら」を重ね合わせていた。宮田と真田は、〈ゴドーを待っている自覚のないヴラジミールとエストラゴン〉なのだ!

 観劇音痴が現代演劇の最重要作、不条理劇の古典を持ち出したりして、大丈夫かよと思うが、自分なりに必然がある。

 いくら戯曲を目で追っても何がなにやら……のままだった「ゴドー」が4月に新国立劇場で上演されたので、行ってみた。俳優(橋爪功石倉三郎)が、意味が展開となって通じ合うことのない世界を演じているのを見ると、ただ単に状況のなかに人がいる、という裸形の風景のみが浮き上がってくる。そこさえ感じていれば難解という気が不思議にしない。これで火がつき、駒場別役実平田オリザ構成・演出版、銀座でイヨネスコの2本立て公演と続けて見て、自分でも青天の霹靂のようなマイ不条理ブームだった。その勢いのままマルクス兄弟をDVDで見たら、今までとは違うところで笑った。

 不条理劇を見て頭のなかをゼロ地点にリセットしたい。こんな欲求がなぜ今年の春に強かったのかは、説明不要でしょう。新国立劇場のパンフレットを読んで、終戦直前、つまり「ゴドー」を書く数年前のサミュエル・ベケットが空襲で瓦礫の山と化したサン=ローの野戦病院で働いていたことを知り、僕はアッとなったのだ。「当時のベケットにとって、不条理は難解な思想などではなく、きわめてリアルで具体的な世界の見え方だった。」(岡室美奈子早稲田大学教授)

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 おそらく『あぜ道のダンディ』の監督もまた、自分の歌、自分に見える世界/Imageしか歌っていない。宮田や真田はきっとこの人の内面に既に住み着いていた人だ。今後も誰が出てくる映画だろうと、人物や設定の劇作的リアリティ云々より、彼らに託して自分の想念や思考を絵にすることを優先するだろう。

 但し、それはうまくいかない場合の反動も大きい。何を作っても俺ワールドになる幅の限度はいずれ壁にもなるだろうが、避けたら映画に携わる意味が分からなくなる。そんな愚直な不器用さを抱え、しかもそれだけ頭のなかでたくさんの想念が爆ぜている人だと思われる。

 若い才能を急いで持ち上げるのに腰の重い愚図な人間が、ようやく周回遅れで確信する。

 『あぜ道のダンディ』の監督-石井裕也は、本物だった。

 スター監督として遇するのはまだまだ早い。しかし、『川の底からこんにちは』が代表作とされる程度で仕上がるようなタマではない。

 ここまで書いたところで、石井が本誌の433号まで連載していたエッセイ「愛という名の黙契」を通して読み、確信をさらに深めた。自分には映画の知識より哲学と良識のほうが大切、と言い切っている。僕があれこれ忖度するまでもなかった。

 そういうわけで、単品としての完成度(そこだけなら石井以上に達者な若い人はかなりの数いる)よりむしろ、垣間見えるスケールに魅かれて石井裕也監督『あぜ道のダンディ』を推す。

 理解されるのに時間がかかる映画は、あるのだ。似たテイストのおじさん人情コメディがこれから作られ、しかしどれも似ていない、となったところでようやく正体の見えてくる映画ではないか。

 海とサーフィンの青春映画が他に何本か揃って初めて、海とサーフィンの青春映画ではなかったことがハッキリした北野武の『あの夏、いちばん静かな海。』と同じ事態が本作には待っている。ここは一つ、思い切ってそう札を張っておこう。

映画『あぜ道のダンディ』予告篇

『あぜ道のダンディ』

脚本・監督:石井裕也

撮影:橋本清明 照明:鈴木大地 音楽:今村佐悶 野村知秋 編集:相良直一郎

出演:光石研 田口トモロヲ 森岡龍 吉永淳 西田尚美 染谷将太 岩松了 藤原竜也

(2011/カラー)

テアトル新宿ユナイテッド・シネマ前橋、シネマテークたかさき、テアトル梅田、シネ・リーブル神戸、ユナイテッド・シネマ浦和で上映中、ほか全国順次ロードショー

公式サイト http://www.bitters.co.jp/azemichi/index.html