映画芸術

脚本家荒井晴彦が編集発行人を務める季刊の映画雑誌。1月、4月、7月、10月に発行。2016年に創刊70周年を迎えました!書店、映画館、Amazon、Fujisanほかにて発売中。

試写室だより『ベオグラード1999』<br>映芸ダイアリーズ・クロスレビュー

加瀬修一(プランナー/ライター)  初めて『ベオグラード1999』を観た時、これはナショナリズムへの拒絶反応や権力志向への嫌悪、右翼思想に対する批評的なドキュメンタリーというよりも、私小説というか映像詩というか、金子遊という1人の青年の10年間の魂の放浪と総括だと思った。自分史をかつて存在した国家と亡くなった元交際相手を対比して描こうとしながら、上手く噛み合わずギクシャクした感じ、決して器用ではない監督の人柄をよく表していると思う。上映後打ち上げの席で、感想を伝えつつ気になっていたことを聞いた。「ご遺族に許可は取っているんですか?」と。それに対して監督は「まだなんですよ」と答え、僕は「公開を考えているなら、出来るだけ早くきちんとお話をした方がいいですよ。一番大事なことなので」といった。その後宣伝協力として何度もお誘いを頂いたが、僕は性根を据えてやるといえなかった。それは本作が右翼を扱っている作品だからではない。監督がこの作品を通して何を感じ、考え、何を伝えたいのか。ご遺族への対応も含め、その為に具体的に何をしなければならないと思うのか。そこが最後まで聞けなかったからだ。僕は宣伝協力を降りることを選んだ。それから時間も経ち、『ベオグラード1999』は劇場公開されることになった。自主配給・宣伝で公開にこぎつけることがどれだけ大変だったか想像に難くない。そのことは素直に嬉しく思う。今回レビューを書くにあたって久しぶりに観たのだけれど、以前とは編集が随分と変わっていた。このバージョンに落ち着くまでの経緯は色々と聞いている。しかしそれは考え方なので良いとか悪いとかいう問題ではない。選択があるのみだ。彼女の死が大きなきっかけとなって始まった10年の記憶の旅と映画作り。語るべきは大きなことではなく小さなこと。その答えに辿りついたなら、「東京地方裁判所民事第9部にて、「上映禁止」仮処分の取り下げを勝ちとりました」はないんじゃないだろうか。何故争わなければならなかったのか。もちろん手を尽くしてもそうなってしまうこともあるだろう。ただ未だ悲しみの底に沈んでいるご遺族に、監督の意思と制作の意図を説明しきれなかったのだろうか。もっと時間を掛けるという選択肢もあったのではないだろうか。裁判になってしまったことが残念でならない。「東京地方裁判所の検閲により、一部の音声がカットされています」という大仰な文言も、個の問題を公の問題に拡大解釈しているような違和感があった。「彼女は世に出たい人だった。だから彼女は喜んでくれているはずだ。ご遺族もいつかわかってくれると思う」監督はそういった。確かにそうかも知れない。でもね、こうも思う。いまわかってもらうことが大事なんじゃないかって。わかってもらおうとすることが大事なんじゃないかって。音声(彼女の名前と亡くなった理由)が削除され、ピーっと音が入る度になんともいえない気持ちになった。監督に覚悟がないなんて間違ってもいえない。思ってもいない。ただ、僕とは考え方が違う。ご遺族に一日も早く監督の真意が伝わることを切に願う。 メイン2.jpg 近藤典行(映画作家  二度、『ベオグラード1999』を見させてもらった。違うバージョンだった。二度目に見た際に、「未整理のままの最初のバージョンの方が面白かった」という主旨の感想を本人を目の前にして云ったのだけれども、それは、諸事情があって自粛せざるをえなかった部分など関係なく、あの、「個人映画」を凶暴なまでに支持し自らも標榜する、批評家であり、実作者でもある「金子遊」の映画が、顔の見えない「他者」によって「個人」性を薄めてしまったと感じたからだった。  常に、過去の作品、文献に執拗にあたり、その分析力と行動力で真摯に映画に向き合う姿を同じ場で文章を綴る端くれとして、出会った時から背筋を正しながら仰ぎ見てきた。あれほど明晰で毅然とした批評家「金子遊」には見られない揺らぎと竦みが、映像作家「金子遊」を襲っている。そのことがドキュメンタリーを作ることの過酷さを『ベオグラード1999』に万遍なく漂わせており、その色濃い感触はこの映画の興味深さであるとともに、弱さでもある。その弱さを肯定できるのか否定してしまうのかは、一人の人間に対して抱く「個人」的な想いとまったく同じだといっていい。劇場公開バージョンは未見なので、上に記したただの第一印象を、もう一度劇場に足を運んで確かめてみよう。好きだから嫌なところもやけに目につく、先輩であり友でもある人にまたふらっと会いに行くように。 サブ.jpg 萩野亮(映画批評)  文字通り「右も左もわからない」ところから始めるなら、『ベオグラード1999』は、「私」と「彼女」と「彼」との、三角関係をめぐるフィルムだ。「私」とはいうまでもなく映画作家自身であり、「彼女」とは新右翼団体で活動していた「私」のかつての恋人、そして「彼」とはその団体「一水会」の代表・木村三浩である。ただし、その三角形の二辺は破線であることを余儀なくされている。「彼女」がもう、そこにはいないからだ。フレームに映し出されるのは、「私」と「彼」との、そのいかなる図形をも成さない「線」の関係である。けれども、このフィルムが依然として三角形のフィルムであるのは、「私」から「彼女」へと伸びる線が、むしろよりしなやかでさえある想像的な実線を成しており、そして「彼」に対しても、その線の存在を忘却することを「私」が決して許さないからだ。  フレームに現れることのない「私」の声によるナレーションは、現在から過去へ向かって響いている。1999。かつて撮影されたビデオを遮二無二編集し、自分の声を響かせる。批評家でもある彼の、それはとても冷静な声だ。一水会の活動を追い、右翼というレッテル抜きの木村自身に関心を寄せてベオグラードにまで同行した、10年を隔てた過去の感情を思い起こしては、文字に書き起こし、マイクに吹き込んでゆく。そうしたきわめて理性的な映画制作のプロセスを、その声は想起させる。  映し出される映像の断片は、もともと映画にするために撮られた素材ではないらしく、明らかにショットは足りない。その不足を補う役目もナレーションは担っているわけだが、やはり映像で跡付けられていないだけに、説得力に欠ける点も否めない。これは苦しい闘いだ。けれども、終盤、「私」が「彼」に詰め寄るクライマックスは、おそらく「映画」を意識して撮影されている。「私」の闘いが、「映画」において展開されることが、このときすでに確信されているのだ。むしろだからこそ、あのとき作家は木村に迫ってゆけたのではなかったか。いくつもの破線を実線に返すための闘い。  感情を知に置き換えるほかない時間の圧力のなかで、『ベオグラード1999』は、必死に抵抗を試みている。それは鎮魂としての抵抗であり、抵抗としての鎮魂なのだ。最後に現れる「彼女」の顔のクロースアップは、知には決して返しきれぬ「私」の感情が、おどろくほど透明に映し出されている。三角関係は、なお継続されているのだ。 ギャラリー (3).jpg 深田晃司(映画監督)  私のような出不精のボンクラ日本人には、ここに映し出される「ヒト」や「デキゴト」や「ケシキ」の物珍しさだけで、あっという間に楽しい時間が過ぎていく。  かつてリュミエールが世界中にお抱えカメラマンを派遣して以来の、映画/映像が原初的に持つ、世界の窓としての素朴な魅力をこの映画はたたえているのだ。そういった知らない世界と映画館の暗闇で向き合う体験は、やはりYouTubeでは味わえない快感で、それはただ単に未知を既知にする旅なだけではない。  ベオグラードに生きる人々の言葉や表情、その街並み、雑踏の賑わいに映像を通して触れることそれ自体が、多様性の中でせめぎ会う他者の価値観に触れることであり、大袈裟なことではなく民主主義の根幹に関わる体験なのである。  一方で、この映画の一筋縄ではいかないのは、カメラを携えて世界に飛ぶのが、雇われカメラマンではなく、監督の死んでしまった昔の恋人である点だ。  自ら命を絶った死者への追憶、不可知の闇へ断崖から手を伸ばし、何かを掴もうかとするような追憶を縦糸に、その彼女が働いていた一水会の書記長・木村三浩の人物像に映画は迫っていく。やがて、映画のモチーフは、木村と行動を共にしながら民族派右翼の掲げる理想に引き寄せられていく監督の姿そのものへと移っていくが、それはまた、どんな人間でも被写体として日常から切り取られた瞬間、作家の意図に関わらず映像のメカニズムにより特権的にカリカチュアされ、ときにカリスマ性を帯びてきてしまう恐ろしさをも同時に伝えてくる。  当然、監督自身もその恐ろしさは理解していて、「カリスマ」から懸命に距離を取り、その思想にある限界を明らかにしようとする。この、新左翼たる監督の政治思想的葛藤と、映像のメカニズムに抗おうとする映像作家としての葛藤、その二重写しこそがこの映画を優れてスリリングなものとしているのではないだろうか。  惜しむらくは、いろいろな事情があったのだと察せられるが、映画制作の発端であったはずの「自殺してしまった恋人」に対し、仕上がった映画は何だかヨソヨソしいように思えることだ。しかし、そのヨソヨソしさこそまさに断絶した自己と他者の距離感であり、それを越えようとする意思こそが、コミュニケーションとしての政治の起源なのかも知れない。 サブ (2).jpg 若木康輔(ライター)  『ベオグラード1999』には公開に至るまでに各映画祭への出品版、いわゆるヴァージョン違いが複数存在していた。僕はそれを合計3度見ていて、その印象を基に「ドキュメンタリー映画の最前線メールマガジン neoneo 151号」に評を寄せた。思ったことはほぼそこで書いている。しかし、ようやくの初公開版はまたも編集に手が加わっていた。およそ10年前に取材した素材を周囲の状況がずいぶん変わった今になってまとめてみる、骨の折れる作品作りを決着させるため、金子遊は、一水会で働いていた元恋人への視点にそれまでの版より大きく寄せている。その選択によって、構成にほぼ変化は無くてもずいぶん全体が整理された。  ポイントが絞られたのは、広く見られるためにはきっと良かったのだろう。ただ僕が「neoneo」で書いた、悩みながら作った過程をそのまま差し出すような末定形の魅力はやや変質したかもしれない。新右翼の客観説明などが丁寧になったぶん、もともとリベラルな立場から批判的態度で木村三浩にカメラを向けたのにいつしか近親の情を抱き始めた、金子自身の当時の高揚と戸惑いの部分は薄くなっている。あいにく僕は映画祭出品版の、ポイントが絞り切れていないところにこそナマな正直さを感じていた。ドキュメンタリー=ビデオの時代に入り、リアルの価値が、カメラで捉えたものの直接的な迫真性からそれを構築する作り手の内実へと移行しつつある現在を、その不細工さによってヴィヴィッドに反映している1本だと思っていた。  とはいっても公開版が以前より劣るわけではないし、逆に公開版がうまいことお化粧しおおせているわけでもない。また別の末定形さが生まれている。要するに、今はこの世にいない人へのクエスチョンやイフを軸にしたところで、答えなんか無いのだ。無いものを探している限り、この映画はどう編集しようが良くも悪くも、いずれにしたって未完の宿命を持っている。  何がしかの参考のために以前の版との差異を中心に書いたが、金子には本作をステップにしてさらに内省の対象を先に進めてほしい、という気持ちは完成版を見てさらに強くなった。彼だって別におぎゃあと生まれた時からリベラルなのではない。父親の強い影響下で金子遊という映画作家・批評家の核は形成された。その父親の存在を冒頭から明かしつつそれ以上は触れない点に、かえって金子に、未だ整理されていない自意識があるのを感じる。  一方、1999年前後の若年層のナショナリズムへの傾倒は、個人的な皮膚感覚でミもフタもなく言うと、実の父親と関係の希薄な人たちの父性捜しブームという印象が強かった。ジャック・ラカンいうところの「母と幼児の癒着を断ち切る父性(=社会的掟)の威嚇的介入」。成長過程でこの時期をうまく通過できた人とできなかった人のあいだにはけっこうな、ひょっとしたらイデオロギーの対立項以上の心理的溝がある。本来は、そここそ本作の考察の軸にすべきだったかもしれない、とも僕は思うのだ。 スチル2JPEG.jpg 平澤竹識(「映画芸術」編集部)  本作の白眉は、民族派右翼一水会木村三浩書記長(当時)がNATOによる空爆直後の旧ユーゴスラビアを訪れ、極右勢力の大物政治家たちと会談を重ねていくシークエンスにあると思う。「渡航費はカンパで賄われている」というナレーションの後、飛行機の中で木村は、自分のジャケットが代表鈴木邦男からのおさがりであることを打ち明けるのだが、その口ぶりには「野心旺盛な活動家」のイメージとは異なる、木村の素顔が垣間見える。そんな一政治団体の書記長にすぎない人物が、経済大国日本への関心を頼りに、海外の大物政治家とコネクションを築いていく過程に興味は尽きない。機上でのやり取りが効いているせいだろう、会談中の木村は堂々たる振る舞いを演出しながら、精一杯の背伸びをしているように見える。さらに、その様子を見つめる不安定なカメラが個の視線を強調することで、画面には臨場感と窃視感、それらのもたらす緊張感がみなぎってくる。適切な構成、被写体の魅力、個人映画の撮影スタイルが渾然一体となって「映画」が立ち上がるこのシークエンスに、ドキュメンタリーや個人映画にこだわって取材、執筆活動を続けてきた金子遊の一つの成果を見ることができるだろう。  だが、この作品の中で特に重要な位置を占めている、亡くなった元恋人のあつかい方には疑問を感じた。金子は本作において、「死の原因が自分にもあったのではないか」という問いかけから、十年前の記憶/映像をひもとく構成を採っている。そして、彼女が一水会の職員として働き始めたことが木村を撮影するきっかけになったと語られた後、木村を通して国家や政治の問題に迂回する展開は、それら大きな物語に圧殺される個の問題、政治権力の傍らで命を絶った者たちの追憶へと収斂していく。つまり、彼女のエピソードは起承転結の起と結を担うべく周到に配置されているとともに、体制と対をなす個の象徴としてあつかわれているのだが、そのような構造であるからこそ、ふたりの関係性の不透明さが余計に際立つのである。画面に映し出される元恋人はいつも、カメラの向こうの不特定多数に向けて公の顔を見せており、カメラを持つ金子に対して個の顔をさらけだすことがない。彼女の個が見えなければ当然、彼女に思いを馳せる金子の個を見出すことも難しくなる。本作が個人映画の体裁をまとい、体制と個を対置する構造を持つ以上、被写体と撮影者が結んだ個の関係が映像に記録されていないことは瑕疵となる。ラストで金子が語る言葉が切実な響きをもって聞こえてこないのは、そこに原因があるのだと思う。 チラシ(表).jpg ベオグラード1999』 監督・編集:金子遊 出演:木村三浩 鈴木邦男 一水会活動家 一水会学生部 V・シェシェリ  V・コシュトニツァ D・ミレンコヴィッチ  見沢知廉 雨宮処凛 松田政男 西部邁 配給・宣伝:幻視社 (2009/カラー/ビデオ/4:3/80分) 2010年11月27日(土)より渋谷UPLINK Xにて公開 公式サイト http://www.belgrade1999.com/ 映画『ベオグラード1999』予告編