映画芸術

脚本家荒井晴彦が編集発行人を務める季刊の映画雑誌。1月、4月、7月、10月に発行。2016年に創刊70周年を迎えました!書店、映画館、Amazon、Fujisanほかにて発売中。

東京芸大大学院一期生インタビュー2<br>芸大でなにが起こっていたのか?

日本初の国立映画大学院として東京芸術大学に新設された映像研究科の一期生が今春、2年間の修士課程を終えて卒業を迎えた。黒沢清北野武といった現役のスター監督が教授に就任したことで話題を呼んだ大学院ではいったいどのような授業が行われていたのか。製作領域(担当:堀越謙三 教授)、監督領域(担当:黒沢清 教授、北野武 特別教授)、脚本領域(担当:田中陽造 助教授)で学んだ3人の修了生(杉原永純/製作領域、池田千尋/監督領域、大石三知子/脚本領域)に芸大での2年間を振り返ってもらった。

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(左から)池田千尋、杉原永純、大石三知子

映画のプロデュースは学校で学べるか?

――初めに杉原さんが芸大の大学院を受験しようと思ったきっかけから教えてください。

杉原 僕は福井県出身なのでたくさん映画を見られる状況ではなかったし、ビデオでもそんなに熱心には見ていなかったんです。大学は東京芸大美術学部芸術学科に進んで、少しずつ見るようにはなったけど、自主制作をしていたわけでもありませんでした。きっかけになったのは、在学中に上野の芸大で実験授業としてやっていた映画の公開講座を受講したことですね。その後、ちょうど大学を卒業するときに映像研究科ができることになったので受験しました。

――大学時代は何を専攻されていたんですか。

杉原 美学や美術史の研究です。在学半ばから興味が映画に移って、最終的には映画の研究をしたんですけど、上野の芸大には教えてくれる人がいなかった。そこの大学院で研究を深めることができなかったというのも、映像研究科を受験した理由の一つです。

――製作領域を選ばれた理由は?

杉原 現実的な問題があって、実作がないと他の領域は受験できなかったんです。製作領域だけは企画書の提出が課題だった。でも、製作領域でどういったことをやるのかは興味がありました。

――その時点で、自分が思い描く将来像はあったんですか。

杉原 全く考えていませんでした。堀越謙三(製作領域・教授)さんの名前は知ってましたけど、お会いしたこともなかったですし。ただ、作ることを製作の立場から考えたいという思いはありました。最近、コンテンツプロデューサーを育てる大学は多いんですけど、現場から離れて抽象的な議論をやってもしょうがないと思ったんですよね。

――授業はどのような内容だったんでしょう。

杉原 嬉しかったのは週1回、3本立てで映画をフィルム上映することでした。それでかなりの映画を見ることができた。授業があるのは4~7月、10~12月の間だけですが、そのうち週2回は黒沢(清)さんの講義がありました。講義では映画を見てから、黒沢さんの話を聞くんです。あとは監督、脚本、製作などの各領域に分かれて、それぞれの担当教授とゼミをやります。これらの授業がない期間はほぼすべて映画の製作をしていました。まず入学直後のGWにDVでの撮影があって、その次が夏、1月ぐらいからは16ミリフィルムでの撮影というように、授業と撮影の繰り返しで休みのない状態でしたが、その経験ですごく鍛えられましたね。

――製作領域の授業では何を教わるんですか。

杉原 堀越さんの考えだと思いますけど、実際に企画を立ててそれをどう動かしていくのか、やりながら学んでいけという態度でしたね。だから、『新訳:今昔物語』は学生が出資を募り、現場の制作もして、劇場公開までプロデュースしています。

――実践で覚えていくということですね。

杉原 もちろん授業もあって、そのときはいろんなプロデューサーの方に話をしていただいたりしました。

――卒業まで2年間で大変だったことはなんですか。

杉原 現場の制作レベルで言えば仕組みですね。映画製作は複雑にパート分けがされていて、決まりごとがあるんです。それを自分で納得して人に説明するのが難しかった。指導の立場で入ってもらったプロの方は、今の日本映画のプロフェッショナルはこうやるんだと教えてくれるんですが、半分は納得できても半分は納得できない。だから、自分の中で落し所を見つけるのが難しかったですね。言う通りにやってもよかったんですけど、自分が製作責任者ですから最終的な責任は僕にある。芸大の製作現場ではそういうことがあって、彼らのやり方と自分たちが目指しているところが食い違うことは多かったですね。

池田 プロの良さもあるけど、自由さがないんですよね。その辺でプロの方と学生の間に差異が出てきてしまうんです。

――それはちゃんと仲が悪くなるんですか(笑)。

池田 仲が悪くなるわけじゃないですけど、お互いストレスを抱えちゃうんですよね。微妙な状況で現場が進んでいく。

杉原 日本映画のインディペンデントでやってる人たちは、本当に厳しい状況の中で映画を作っているので、やり方に関して迷うと効率が悪くなる。だから、どんどん判断していくことが身に付いていて、撮影日数を1日でも減らして負担を減らすとか、完全にそういう思考なんですね。ストレートにそう考えているので、その部分を問われるのは納得できないんだと思います。僕らの場合は学校に機材があって、学生だから人件費もいらないし、それなりの製作費も支給されている。厳しい状況で製作されている方からすると、そんなに恵まれているのに、どうしてそんなに無駄な動きが多いの?ということになってしまうんだと思います。

――プロデューサーと監督のやりとりはうまくいってたんですか。

杉原 大学院といえども映画ばかり作っていたので、ある程度、お互いのことがわかってくる。池田さんと組んだときは、脚本の段階で個人的な疑問は全部ぶつけて、あとは意識を共有できるよう頑張りました。

池田 杉原さんとは役者さんを決めるときから完成まで一緒にやって、不安なときは常に相談していたので、とても助けられましたね。

杉原 監督とぶつかり合っていたのは、むしろ脚本領域の人たちだと思います。1年目の夏に撮影する2作目は監督のオリジナルではなく、脚本領域の人に脚本を書いてもらって撮ることになってるんです。だけど監督は自主映画を撮ってきた人たちなので、脚本を書いてもらうことに慣れていない。そこに食い違いは出たみたいですね。

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杉原 永純(製作領域)

田中陽造による脚本指導

――では、脚本領域の大石さんに話をうかがいましょう。映像研究科を志願した理由から教えてください。

大石 私は10年くらいコンサートホールの広報・宣伝をやってたんですけど、何かを書きたいと思ってシナリオ教室(青山のシナリオセンター)に週に1回通っていました。その後、家の事情で仕事を辞めたんですが、自分のことをもう一度考えようと思っていたときに、ちょうど映像研究科ができることを知って受験したんです。芸大では他の領域の人と一緒にやることがあるのはわかっていましたが、2年間そういう環境に身を置くのもいいんじゃないかと。

――授業の内容はどのようなものだったんですか。

大石 脚本領域は、全体の授業とゼミで進めていくんですけど、撮影にどう関わっていくかは作品によって違います。私は自分が脚本を書いた短篇2作品に製作補や衣裳、役者のフォローなどで参加しました。ゼミは田中(陽造)先生と週に1回顔を合わせる形で教えていただきました。

――年間のカリキュラムはどういうものでしたか。

大石 入学後の4~6月に原作物の書き方を学ぶ目的で、川上弘美さんの「センセイの鞄」を脚本化しました。次に、監督に撮ってもらう短篇ものを6~7月に書き、9月末くらいまでにゼミの長篇を1本、それは原作でもオリジナルでも構いませんでした。それが書き上がると、授業で講評をしていきます。その後は、田辺聖子の「おせいさんの落語」と「貸しホーム屋」という小説をコンペのような形で全員が書きました。『ホーム スイート ホーム』(酒井耕監督)は、このときに選ばれた脚本が映画化されたものです。そして2年目は前期に1本、後期に修了作品を1本、どちらも長篇の脚本を書きます。入試の面接で、何も教えることはない、自分でやることについてアドバイスすることしかできないんだ、と田中先生がおっしゃっていたんですけど、入ってからもその通りで、今挙げてきた作品以外でも書いていけば読んでもらうことができました。

――脚本は個人作業なので、学校へ行く必要がなくなってしまうのではないかと思うのですが。

大石 撮影に参加しなければいけないときもありましたし、授業が週に3、4回ある時期もあったので、腰を落ち着けて書くのは大変でした。ようやく2年後期の修了作品は引きこもって書くことができたんですけど、それまでは時間を見つけるのに苦労しましたね。

――出席義務はあるんですか。

大石 学校なので単位を取らないといけないし、私自身、授業をなるべく受けたいという気持ちもあったので、学校には行っていました。

――田中陽造さんの指導はいかがでしたか。

大石 講評を受けるたびに、脚本の内容を見て、最低限読んでおいた方がいい小説を薦めてくださったり、ものすごく的を得た指導をしてくださいました。

――脚本領域の6人は仲良くなったりするんですか。

大石 週に1度は顔を合わせますし、メールで情報交換したりしながら、親しくしていましたね。

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大石 三知子(脚本領域)

黒沢清北野武から学んだこと

――監督領域の池田さんはどのようなきっかけで受験を決めたんですか。

池田 私は静岡の田舎出身なので、映画館が身近になくて、手軽にたくさん映画を見られる環境ではなかったんですが、中学生の頃にWOWOWが家に付いて、それで大量にいろんな映画をとにかく観た時期があったんですね。そういう中で、『トリコロール 青の愛』(94)を観て、映画ってすごい!っていう衝撃を受けたんです。それで高校に入ってから仲間と映画を撮るようになって、大学入学後もサークルで映画を撮りつつ、映画美学校に通っていました。大学を卒業して1年はアルバイトをしていたんですが、このままでは何も状況が変らないと思って、プロの現場に飛び込みました。それから1年間はいろんな現場に付いたんですけど、このまま助監督をやっていたら、自分は一生映画が撮れないんじゃないかと思ったんですね。それで助監督はもうやめようと決心したときに、ちょうど芸大の大学院に映像研究科ができるという話を聞いて、とにかく映画を撮りたいという一心で受験することにしました。

――芸大の大学院には美学校に通っていた方が多いんですか。

池田 比較的多いですね。

――美学校枠があるのではないかという噂もありますが(笑)。

池田 (笑)美学校枠というものは決してないんだけど、蓋を開けてみたら美学校生が多かったということらしいですね。

――芸大からの進学者はどれくらいいるんですか。

杉原 ほぼいないですね。大学院に進むような芸大生は自分がアーティストになろうという人たちなので、映画に必要とされる共同作業が苦手な方が多いんだと思います。

――監督領域の授業はどのようなものだったんですか。

池田 全員が必修の講義と監督領域のゼミがありました。でも、ゼミの担当教授である黒沢さんは「映画について君たちに教えられることはない」と最初に宣言してらっしゃいましたね(笑)。監督領域には何かを教わりたいというより、映画を撮りたいと思って入ってきた人がほとんどでしたし。ゼミの時間は、黒沢さんと近くのファミレスへ行って、みんなで話をするという感じでした。私たちも黒沢さんに訊きたいことがたくさんあるし、黒沢さんの方でも生徒の近況を聞いてくれる。ただそれだけなんですけど、そういう中で学ぶことはとても多かったですね。

――どんなことが一番勉強になりましたか。

池田 2年間ずっと作品を撮り続けていたわけですが、書いたシナリオについて逐一、黒沢さんからアドバイスをもらえたり、演出についての悩みに答えてもらえたりする。そういう実践的なアドバイスが、自分にとって一番大きかったです。

――黒沢さんの言葉で印象に残っているものはありますか。

池田 修了作品の前に芸大の企画で『四谷怪談』という長篇を監督したんですが、「四谷怪談」は元々黒沢さんが映画化したいと思っていた企画でもあるので、黒沢さんの中に既に(「四谷怪談」の)ここがいいのだ、これをどうするかが肝だ、という出来上がったイメージやプランがあった。だから、「四谷怪談」の映画化は黒沢さんのイメージへの挑戦でもあったわけで、映画を作る過程で黒沢さんとやりとりをする中でいろんなことを学びましたね。ただ、黒沢さんはすごくカリスマ性のある方なので、その言葉に引きずられてしまうことがよくあるんです。みんな知らず知らずのうちに影響を受けてしまう。だから私は黒沢さんの言葉の中でそのまま受け入れていいものと、そうじゃないものを整理して考えるようにして、あまり影響を受けすぎないように心がけていました。強情なのかもしれませんが…(笑)。

杉原 黒沢さんは作品の編集が終わった段階でも、ここはこうした方がいいとはっきりおっしゃるんですね。でも、池田さんはそれを徹底的に無視してましたから(笑)。

池田 徹底的じゃないですよ(笑)!『四谷怪談』は黒沢さんの監修ということにもなってますし、黒沢さんの意見は全くその通りだと思うことばかりでした。でも、この作品のことは撮っている自分が一番よくわかっているはずなんだ、という思いもありましたので、黒沢さんの意見といえども受け入れられないところが出てきちゃうんですね。おそらく生徒全員が黒沢さんとはそういうせめぎ合いをしながら接していたと思います。

――監督領域の教授には北野武さんもいらっしゃいますよね。

池田 北野さんは3~4ヶ月ぐらいの間だけ、週2回程度の講義をされていました。最初は何をやろうか迷っている感じでしたが、シネ漫画を学生と一緒に作ったり、「地獄巡り」という話を幾つかのパートに分けて、生徒全員で一本の短篇映画を撮ったりしました。北野さんには私たちが2回目に撮った作品の講評をしていただいたんですが、きっと北野さん以外に誰もこんな講評はしないだろうというようなことを話されていて、それがとても新鮮でしたね。あと、映画を撮るうえで、こういう経験をしておくことも必要だとおっしゃって、普段はとても行けないようなフランス料理のお店に連れて行っていただいたり。北野さんとは直接話をする機会は少なかったですが、そういう食事会のときなんかにいろんな質問をさせてもらったりして楽しかったですね。

――芸大の2年間はひたすら映画を撮っていたという感じなんですか。

池田 そうですね。前の作品の編集作業をやっているときに、次の作品の脚本を書かなければいけないような状況でしたから。

――映画を撮りたいと思って入った人にとっては十分なカリキュラムですね。

池田 そうなんですが、良いところと悪いところの両方があるかもしれません。例えば、映画美学校では入学後に半年かけて脚本をじっくり練り上げてから実際に映画を撮りますが、芸大では脚本を書く時間が殆どないんです。その反面、どんどん映画を作れるので、前回の反省をすぐ次の作品にいかせるという良さもありました。

――芸大の2年間を振り返って、入学してよかったという思いですか。

池田 入ってよかったとは思いますね。こんなに映画を撮らせてもらえる環境は他にありませんから。

――撮影に必要な機材は全て学校に揃ってるんですか。

池田 基本的には揃ってますね。車両もありますし。

杉原 設備の点で一番大きかったのは、新港にあった客船ターミナルを改築してスタジオを2つ作ったことですね。それによってスタジオ撮影も可能になったんです。

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池田 千尋(監督領域)

芸大での2年間を振り返って

――今後、こうすれば学校がもっとよくなるのではないかということはありませんか。脚本領域に関してはどうでしょう。

大石 脚本を志す人にとって、芸大は特殊な環境だと思います。芸大のなかではいろいろな付き合いがあるので、こもって書きたいという人にはあまり向かないかもしれませんね。ただ、映画のいろいろなことを知ったうえで脚本を書きたいと考えている人にとっては充実した場所ではないかと思います。

――担当の講師は基本的に1人なんですか。

大石 今の状況は詳しくわかりませんが、私たち一期生は田中先生だけでした。

――やはり講師は1人だけの方がいいんでしょうか。

大石 一期生は本当に走りながら考えるという感じで(笑)、入学したときに田中先生でしたから、他の方に教えてもらうということは考えもしませんでした。私としては田中先生に2年間、一貫して見ていただけたのは良かったと思います。

――シナリオ教室とは違いましたか。

大石 大学院とはいえ、常に誰かが映画を撮影しているという状況のなかで脚本を書いていますから、他の学生や講師との関わりの持ち方しだいで、いくらでも映画を作っている人たちに自分の脚本を読んでもらうことができる。脚本を書く人はどうしても人から離れがちだと思いますから、そういう環境は刺激になると思います。こうした環境の中での一番の収穫は、ひたすら鍛えられ、忍耐強くなったということですね(笑)。

――製作領域に関してはどうですか。

杉原 大学院を紹介する冊子のようなものがあるんですが、そこに堀越さんが書いていたのは、製作は各自が別個に学習することもできるけれど、仲間を作ったり、映画製作の現場に身を置いたりすることは案外難しいということなんですね。だから、そういう環境を求めている人にとっては本当にいい場所だと思います。ただ、何か専門的に学習したいことがあるなら、他の場所で学んだ方が効率はいいかもしれません。

――学校をより良くするためにはどうしたらいいと思いますか。

杉原 一期生は監督領域に6人の学生がいて、2年間で短篇中篇合わせて4本の映画を撮っているんですね。それは相当な混乱で、同時期に3組が撮影に出ているということもある。ですから、例えば大学院を3年制にしたら、多少のゆとりができて、よりおもしろくなるのかもしれません。ただ、学校のシステムを整えていくことが、映画を学ぶ環境としていいことなのかどうかはわからない。混乱のなかで映画を作ることによって、鍛えられる部分もありますからね。それから、芸大の大学院映画専攻が他の大学院と比べて特殊なのは助手がいないということです。例えば脚本領域では、学生が田中陽造さんと直接やりとりをしていたわけですが、普通の大学組織では教授の下に助手がいて、学生は助手を通して教授とやりとりをする。教授と学生が直接やりとりをする環境は、教授の負担が大きくなりますが、学生にとっては恵まれた環境と言えるんじゃないでしょうか。

――監督領域についてはどうでしょう。

池田 監督は自分の撮りたい映画があって、どんな状況でもめげずに撮っていければ、学校のシステムがどうあるかは基本的には関係ないと思うので、学校に対する要望のようなものはありません。強いて言えば、脚本を書いたり、準備をしたりする時間がもう少しほしかったかなということぐらいですね。システムを整えると逆に制限が出てくることもあるので、必ずしもそういう方向性がいいとは言えないと思います。

杉原 監督はもっと脚本家の人と付き合う時間があればよかったですよね。その点はもったいなかったと思います。

大石 そうですね。私の場合はわりと監督とコミュニケーションが取れた方だと思うので、意見が食い違って大変だったこともありますが、結果的には自分の書いたものが映像化されることで学んだことも多かった。ある部分は監督に任せて、ある部分は脚本家として意見を通していくという、その辺のバランスのこともすごく勉強になりました。

杉原 やっぱり脚本は文学ではなく、映像化されることを前提としているので、それを書く人は現場のことを知った方がいいと思いますね。現場のことを知って、その制限を自覚したうえで、それを逸脱するようなものを書いてもらった方が、プロデューサーとしてはスリリングですし。きっとそういう感覚はシナリオ教室に通っているだけでは身に付かないと思います。逆に監督からすると、自分で書いた脚本を映像化する作業をいくら繰り返しても世界観は広がらないので、脚本家の書いた脚本を演出するという作業をしていくことは、作家性を鍛えるうえでも、ある時期やってみていいことだと思います。ですから、監督領域と脚本領域の人がもっと喧々諤々やり合う時間が持てていたらよかったんじゃないかなと。そういうことが十分にできていれば、監督と脚本家として一生続く関係を築ける可能性もあったんじゃないですかね。

修了生たちの今後

――今後の活動についてうかがいたいんですが、池田さんは次回作の予定はあるんでしょうか。

池田 予定はないんですけど、とにかく映画は撮りたいと思っています。問題はそのチャンスをどう掴むかだと思うんですけど、今は脚本を書きながら企画を蓄えていくということぐらいしか具体的なことは考えていないです…。

――今後、芸大の卒業生というレッテルが付いてまわるかもしれませんが。

池田 その時々で自分にとってベストな映画を撮っていたら、誰になにを言われようが関係ないかなと思います。

――杉原さんは今後どのように活動していくつもりですか。

杉原 僕は芸大の博士課程に進学したんですが、今は映画の上映について研究したいと思っています。というのも、修士課程では映画を作りっ放しにする状況が続いてしまって、自分としては納得のいかないところがあったからなんですが。

――研究をしながら、上映活動などをしようという思いはあるんですか。

杉原 研究のための研究をしたいと思っているわけではないので、やっぱり研究を行動する方向に結びつけたいですね。

――研究を終えた後に映画製作の現場に戻る可能性もあるんですか。

杉原 全く未定です。製作領域には4人の院生がいたんですけど、企業に勤めた人もいれば、小さな映像系の製作会社を作った人もいて、みんな進路がバラバラになりましたね。

――大石さんはどうですか。

大石 今はこれまでに書いたものをプロデューサーに見てもらったり、頼まれたプロットを書いたりしています。だから、まだ本当に駆け出しの状態なんですが、これからも映画に関わっていきたいと思っています。

――そういうプロデューサーなどとのつながりは芸大を通じて築いたものですか。

大石 そうですね。

――脚本領域の他の人たちはどうされているんですか。

大石 みんな同じような状況だと思います。

東京芸術大学大学院映像研究科修了生

製作領域 杉原永純

監督領域 池田千尋

脚本領域 大石三知子

聞き手:武田俊彦、平澤竹識(「映画芸術」編集部)

《芸大映画週間》

東京芸術大学大学院映像研究科第一期生修了展

5月19日(土)~24日(木)ユーロスペースにてレイトショー

http://www.fnm.geidai.ac.jp/eiga_shuryoten/index.htm

東京芸術大学大学院映像研究科 黒沢清北野武ゼミ作品

『新訳:今昔物語』

製作:東京芸術大学大学院映像研究科

製作協力:モブシネマパートナーズ

5月25日(金)~6月1日(金)ユーロスペースにてレイトショー

http://www.new-konjaku.jp/  

*上映作品、スケジュールなど詳細は公式ウェブサイトをご覧ください。