映画芸術

脚本家荒井晴彦が編集発行人を務める季刊の映画雑誌。1月、4月、7月、10月に発行。2016年に創刊70周年を迎えました!書店、映画館、Amazon、Fujisanほかにて発売中。

試写室だより『トウキョウソナタ』 <br>今そこにある希望 <br>近藤典行(映画作家)

 部屋の中を横滑りしていく一枚の新聞紙を目で追うことから、『トウキョウソナタ』は始まる。後に、窓が開きっ放しになっていたため、嵐が巻き起こす強い雨と風が吹き込んできたことが判るのだが、しかしどう見てもこの新聞紙の動きは、風の力によって吹き飛ばされているというよりは、何か見えない力によって手繰り寄せられているような、そんな不自然さを漂わせている。この部屋を一階に持つ家に住んでいるのは、父・佐々木竜平(香川照之)、母・恵(小泉今日子)、大学生の長男・貴(小柳友)、小学生の次男・健二(井之脇海)の四人家族だ。都内にあり、充分な広さの、電車が頻繁に真横を通り過ぎる以外はなんの不満もないはずの、この家の内部にも見えない力が蔓延っている。父・竜平はそれを「親の権威」と呼ぶだろう。そして、社会の最小単位である家族ですらそうである以上、学校にも会社にも世間にも、それよりはるかに禍々しい見えない力が吹き荒れている。 『トウキョウソナタ』メイン.JPG (C)2008 Fortissimo Films/「TOKYO SONATA」製作委員会  見えないものはキャメラには映らない。よって、映画の画面は、見えるものでしか構成できない。だからこそ映画の歴史とは、見えないものをいかに見えるようにするか、そのことと日々格闘しつづけてきた歴史、とも言い換えることができる。それには何よりもまず技術が必要で、それを実践できるものこそが、本来「プロ」と呼ばれるに相応しい。真のプロである『トウキョウソナタ』の監督にとって、そんなことは全く取るに足らない問題であるようだ。不穏な気配を見せるには、カーテンを揺らせばいい。さもなくば、冒頭でやったように新聞紙をはらりと滑らせればいい。権力を見せるには、子供を叩くか教室の後ろに立たせておけばいい。革命を見せるには、その権力に抗って反撃し、地位を失墜させればいい。子供たちに無邪気に紙吹雪でも撒かせれば、それが成功したと誰の目にも見て判るだろう。国境が見えないなら、黄色い線を引いてしまえ。ついに、これはいくらなんでもやりすぎとも思えるが、役所広司演じる強盗には、人質にとったはずの恵の中に、神まで見せてしまった。  ただ、映画の中で竜平にはこのことが理解できない。リストラされる際と面接を受けに行った際、二度訊かれる「あなたに何ができますか?」という問いのことだ。「なんだってできます。」竜平のこの答えは答えになっていない。そんなもの、どうやって見せることができよう。ようやく面接で竜平が発する次の答えは、「人間関係を円滑に運ぶことができる」というものだが、残念ながら「人間関係」も「円滑に運ぶ能力」も目には見えない。だからそれに対する、「わたしたちは何を見てあなたを判断すればよいのですか?」という更なる問いは、どこまでも正しく響く。返す言葉のなくなった竜平にカラオケを歌わせるのは、歌唱力が見たい(聴きたい)わけでは当然なく、ペンをマイク代わりにして歌う、その情けない姿を曝け出せるかどうかを見たいのである。結局、仕事を選り好みできる立場にないことを覚った竜平は、その後ショッピングモールの清掃員の職を得るが、ようやくここである能力を手にする。見栄もプライドも捨て、床を、便器を、磨くことができる、汚れたものをきれいにすることができる、これは目に見える立派な能力に他ならない。 『トウキョウソナタ』サブ2.jpg (C)2008 Fortissimo Films/「TOKYO SONATA」製作委員会  そして、見えない能力、才能といえば、次男・健二が唐突に始めるピアノもその一つだ。井川遥演じるピアノ教室の先生は、まともにピアノを弾いたことすらない健二に対して、唐突に「君には才能がある」と断言する。劇中でも、全くと言っていいほど健二がピアノを弾くシーンがないために、その才能がどれほどのものなのか、どれくらいのスピードで進歩しているのか、一切知る由もない。最後のシーン、音楽大学の付属中学校を受験する健二の実技試験を、多くの人が見守る中で一曲まるまる演奏するところを、わたしたちにワンカットで隈なく見せる、『トウキョウソナタ』の監督は健二の才能の有無を見せる代わりに、より目に見えるようにする、キャメラに映るようにすることの到底不可能な「希望」を現出させてみせる。理屈ではなく、そのことが目の前で起こっているという真実、それ自体を否応なく記録してしまうキャメラの絶対的な力、つまり映画の力を真っ正直に駆使して。それは、ギリギリのところで映画そのものに存在を賭けられるこの監督の、未だ映画に希望を見出していることの表れだと思う。希望ははるか先、見えるか見えないかそんな曖昧な未来にあるのではなく、わたしたちが立っているこの場所に、誰かが待っていてくれるあの家に、きっとある。アメリカ軍に入隊した長男もじき帰ってくるだろう。 『トウキョウソナタ』サブ 1 .jpg (C)2008 Fortissimo Films/「TOKYO SONATA」製作委員会  と、ここで終われば拙文にしてはまとまりがいい気もしなくもないのだが、だが・・・。一つ引っ掛かることがある。かつて『アカルイミライ』(03)で、守(浅野忠信)に両親をいっぺんに惨殺され、暗い夜道のトンネルを一人裸足で歩いていた少女。『トウキョウソナタ』で両親がいっぺんに無理心中して、一人取り残された中学生の娘。プレスシートのインタビューで監督自身が発言している「家族と一緒にいること、それ自体が希望」という言葉を受け、それならば家族を失ったこの二人の女の子のその後、その「希望」こそを次に見てみたいと願うのは、私だけが抱く過ぎた贅沢だろうか。 トウキョウソナタ 監督・脚本:黒沢 清 脚本:Max Mannix、田中幸子 撮影:芦澤明子 照明:市川徳充 音楽:橋本和昌 出演:香川照之小泉今日子、小柳 友、井之脇 海、役所広司 ほか 9月27日(土)恵比寿ガーデンシネマシネカノン有楽町ほかにて公開 公式サイト:http://tokyosonata.com/index.html 映画芸術最新号では黒沢清監督のインタビューほか、万田邦敏(映画監督)、井川耕一郎(映画作家)、野村正昭(映画評論家)の三氏による映画評を掲載しています。購入ご希望の方はバックナンバーページからどうぞ。