映画芸術

脚本家荒井晴彦が編集発行人を務める季刊の映画雑誌。1月、4月、7月、10月に発行。2016年に創刊70周年を迎えました!書店、映画館、Amazon、Fujisanほかにて発売中。

『狂気の海』<br>高橋洋(監督)インタビュー

 『女優霊』(96)や『リング』(98)の脚本家として、『呪怨』シリーズ(00~03)の監修としてJホラーブームを牽引する一方で、『蛇の道』(98)や『発狂する唇』(00)などの野心作を手がけ、2004年にはホラー番長シリーズの一篇『ソドムの市』を監督した高橋洋。その最新作『狂気の海』が6月28日から渋谷ユーロスペースで公開される。メジャーとインディーズの枠を越え、ジャンルの垣根を横断しながら精力的な活動を展開する作家が見据える「映画」とは何なのか。その答えを探るべく、高橋洋さんへのロングインタビューを敢行しました。

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この作業を通り抜けた時に

普段の授業では伝えられないことが伝えられる

――この『狂気の海』は映画美学校の企画として製作されたそうですね。

フィクション高等科のカリキュラムで講師とのコラボレーションというのを毎年やっていて、高等科を担当した講師がゼミ生と組んで映画を撮るんです。撮影も録音も技術講師の方が入って、その下に助手としてゼミ生が付いて経験を積ませるというシステムでやっています。

――学生が参加するということも、この作品を企画する時に何か影響を与えたんでしょうか。

企画原案はこっちから出したんですけどね。まだ漠然としたプロット・レベルのものをゼミ生に提示して「君たちはここからどんなシナリオを発想する?」と投げることから始めました。コラボレーションは全工程をそういうやり方で進めるので、要するに二度手間なんですけど(笑)、とにかく一回投げる。それで上がってきたものが面白かったら取り入れるということをくり返しました。それから、この企画を発想したきっかけの一つは、2006年の夏に観た樋口真嗣さんの『日本沈没』なんです。あの映画で日本が沈没しないのを見て、どういうことなの?!と思ったわけです。民族が国土を失うって話なのに、なんでそこで起こるべきことが起こらないんだと。そういう鬱憤はありました。

――前作の『ソドムの市』も映画美学校の企画「ホラー番長」の一篇として撮られたわけですけど、その時と比べて何か変化はありましたか。

やっぱり今回は撮影日数が5日間しかないですから、その条件にシナリオも落とし込んでいかなきゃいけない。『ソドムの市』の時はもっと撮影体制も自主映画に近かったので、カッチリ芝居を決めて撮るというやり方は今回が初めてだったんです。最初はそれがすごく不安だったけど、やってみたら新鮮な体験でした。

――たしかに今回は、語りの明確な狙いがあったうえで、そのために俳優を動かしてる印象がありました。『ソドムの市』の時は、俳優を自由に動かしてみて、面白いところをピックアップして使っている印象でしたけど。

でも芝居に関しては『ソドムの市』のほうが、僕が好きな昔の特撮ドラマのような、型の芝居をしてもらってたんですよ。今回は逆に、メインとなる3人の役者さんは自分で動ける人たちだから、シナリオの段階で動きまでは考えてなかったし、セリフをどんなトーンで言うかも考えていなかった。今回、ホン読みというものを初めてやったんだけど、その時に役者さんたちに読んでもらって、どういう調子がいいのか探りながら作っていく感じでした。その後にリハーサルも初めてやったんだけど(笑)、もっと慣れていればリハーサルでいろんな芝居の発見ができたのかなと思います。でも、役者さんに動いてもらってだいぶ形が見えてきたので、その後はカメラ位置とかを考えるほうに頭がいってしまって(笑)、あれはよくなかったなぁと。でも基本的には、芝居もキャメラも初めから決めないという姿勢でやっていました。

――『ソドムの市』では戦略的に素人の方を役者として起用している印象がありましたが、今回プロフェッショナルな役者さんを使ったのは監督の中でどういう変化があったからなんですか。

結局いろんな条件が重なり合ってくるなかで見えてくる形ですよね。5日間で撮りきらなきゃいけないってことは、ロケ場所の数も限定して、あまり仕掛けのないものにならざるをえない。かつ、今までと違うことをやりたいという思いもあったから、これまでやったことのないセリフ芝居中心のものを1回自分に課してみようという。

――今回も仕掛けは多かったと思いますが。

まぁ、5日間というのは役者さんに出て貰うメインの撮影のことで、特撮はまた別の話だからね。今回、特撮のキャメラはゼミ生の伊藤(淳)君が回してるんですよ。撮影の技術講師で本編のキャメラを回した山田(達也)さんが、5日間のキャメラ助手経験を見ながら「おまえ回してみろ」って伊藤君にキャメラを託したんですね。今まではコラボレーションを担当する講師が普段仕事をしているキャメラマンさんを外部から呼ぶケースが多かったので、なかなかそういうことは難しかった。でも山田さんはずっと初等科から彼らを指導してきて、撮影の授業のカリキュラムとも連動して考えることができるから、撮影期間中にあるところでキャメラを渡せるんですよ。それができたのは今回の大きな収穫でしたね。

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(C)2007 映画美学校

――高橋さんは教育者的な情熱も持っている方だなぁという印象があるんですが、今回の撮影現場も教育の場となっている一面があったんですね。

そりゃ授業だから(笑)。でも、コラボレーションというのは傍から見ると、きっと授業を口実にして講師が好き勝手に映画撮ってるように見えるよね(笑)。

――そうですね。安い労働力を酷使して(笑)。

美学校も10年やってるから、試行錯誤した時期もあったんですね。講師のスタッフに付くより、ゼミ生自身に撮らせる回数を増やした方がいいんじゃないかとか。でも、定着したのはこの形だった。この作業を通り抜けた時に、普段の授業では伝えられないことが伝えられるんですね。普段のゼミで彼らがシナリオや映像作品を出してきた時、それに対してこっちはいいとか悪いとか言うんですけど、結局のところ他人事ですよね。でも自分の映画に関わることで、お互い本性が出るじゃないですか。どっちも首を絞めたいと思ってるような(笑)、そういう関係に入ってくるわけですよ。その時の人と人の向き合い方って激しいものですから、そこまでいかないと伝わらないことがある。現場では明日までに答えを出せという状況になりますからね。もの作りってそれが当たり前なんだけど、なかなか普段の授業でそのレベルまでは持っていけないですから。

――ゼミ生たちとの共同作業で印象に残っていることはありませんか。

今回は音が特に大変だったんですよ。現場は同時録音ですけど、それ以外の非現実な音がいっぱいあって、一度そういう音を録音部の人たちに全部付けてもらったんです。そうすると、例えばレーザー光線にどんな音を付けるのかということを自分たちで考えなきゃいけなくなる。やっぱり最初は「ピー」という一般的なレーザーの音を付けてくるので、「ほんとにこの音でいいの?」と聞く。それから最初は言わずにおいた「これ、人間の悲鳴みたいな音にしたいんだよね」と返すわけです(笑)。向こうも初めは何のことかわからないから、キョトンとします。だから「『スター・ウォーズ』の帝国軍の戦闘機の飛行音を思い出してみてくれ」と言うわけですよ。「あれは獣の声に聞こえるでしょう」と。そうすると、みんな「え?!」って驚くんですね。「じゃあ、家に帰ってもう一回『スター・ウォーズ』観てきて」と。それで観直してきたら、「たしかに獣が叫んでました」と。そこで初めて「じゃあ、絶叫を録音しようじゃないの」という話になっていく。やっぱり女性の声をメインに立てて、男性の声をベースに貼るのが一番いいみたいで、そういうことをゼミ生たちが発見してくる。そういうプロセスを踏むことで、自分たちは音で演出できるっていうことに気付くわけです。それに気付いたら彼らも欲が出てガンガンいろんな音を入れ込んできますから、結果的にはそういう風にやらせてよかったなぁと思いましたね。

――そうは言っても、最終的には高橋洋監督作品ということになるわけですから、できるだけ自分の思い通りにスタッフをコントロールしたいと思ったりはしないんですか。

ゼミ生たちの可能性を生かすと言っても、レーザー光線に「ピー」という音を付けてきたらオッケーにはしないわけですからね。「もっと何かないか?」と言いながら、こちらにはある程度のイメージがあるわけです。でも、それを具体的にどうするかとなると、作業するのはゼミ生たちですから。そうすることで、思いがけないアイデアが出てくるようになります。神像が倒れる時の音にしても、「ここに何か必要だよね」という話はしてたんだけど、じゃあ何の音がいいのかっていう時に僕からパッとは出なかった。でも最終的にドンピシャの音を見つけてきたんですね。何の音かって聞いたら、歯ぎしりの音だって言うんですよ。録音部の人が顎にマイクを付けて、自分の歯ぎしり録ってるんだよね。おーすごいなって思いましたよ。音の貼り付けが全部終わった段階で録音講師の臼井(勝)さんに見て貰うんだけど、すごく誉めてくれましたからね。あれは嬉しかった。

――たしかに『狂気の海』は音の情報量が多いですよね。FBIの心霊捜査官を演じている長宗我部(陽子)さんが現れる時にハエの音が鳴っていますが、あれはやはり『エクソシスト』だからなんですか。

西洋から来た悪魔のイメージだから。わからない人はたくさんいるみたいですけど(笑)。

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(C)2007 映画美学校

自分が魅入られたものを粗悪でもいいからコピーすること

そこに自由がきっと生まれる

――とにかく雑多な要素を詰め込んでいく映画の作り方は、8ミリ時代の作品や『ソドムの市』から一貫しています。世間で『リング』の脚本家として認識されていたころには知られていなかった高橋さんの本性がここへ来て露わになってきた感じがあるんですが。

自分としては『リング』の時からあまり変わってないと思ってるんだけどね。

――ただ、ギャグに関しては『リング』の頃とは全然違いますよね。『狂気の海』も、もう少しシリアス風にしておけば観ている側の気持ちもおさまるんだけど、ギャグが入ってくるせいでどうも落ち着かない。どのジャンルの映画を観ているのかわからなくなってきて混乱するんですね。そうかと言って、コメディーというわけでもないですし。

要するに手塚治虫ですよね。3歳の時から読んでるから。彼の漫画は基本シリアスですけど、ありとあらゆるところでギャグを入れるでしょう。今の若い人はああいうのを“照れ”と捉えるみたいなんだけど、そうじゃなくて必然。本来ああいうものなんですよ。いわゆる「ここで笑いが欲しい」とか、そういうものですらない。だから、ギャグだと思っていないのかもしれないですね。

――手塚治虫の名前が出ましたが、『狂気の海』は「サイボーグ009 太平洋の亡霊」というTVアニメに触発されて作ったものだと公言されていますよね。高橋さんの中でアニメとか実写の区別というのはあまりないんでしょうか。というのも、今回のような作品は実写でやるのは難しいと考えるのが普通じゃないかと思ったからなんですが。

夕張の映画祭(ゆうばり国際ファンタスティック映画祭)で『狂気の海』を上映した時も、30半ばぐらいの映画人に「こういうのって普通アニメですよね」と言われたんですよ。その時に今はそういう感覚なんだなぁと思ったんだけど、僕の中にそういう感覚は全然ないんです。やっぱり実写映画の場合だと、リアルでなければいけないという意識が強いんでしょうね。特に同時録音が普及してからのことですけど、我々が生きている時間の自然な立ち居振る舞いと、フィクションの世界にいる人物の立ち居振る舞いが一致していなくちゃいけないみたいな。でも昔は、アニメであれ実写であれ極端なことをしてましたからね。それはリミテッドアニメーションだったということもあるんですけど、リミテッドアニメーションというのはフルアニメーションよりもセル画の数が少くて、極端に言うと紙芝居を動かしたみたいな感じになる。驚くという表現も、のけぞる絵と前にのめる絵の2枚を交互にパカパカくり返すみたいな。それって時代劇とか昔の映画にある型の芝居に近いんじゃないのかなと。そういう発想が頭にあるので、今のリアルな時間の流れを記録した映画って、僕は観ていて退屈してしまう。もっと飛ばせるじゃないかって思うんですね。

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(C)2007 映画美学校

――今の話とも関連してくると思うんですが、高橋さんは以前から、感情移入できるとか共感できるというレベルで人物を造形することには否定的です。『狂気の海』でも、そういう人物造形が物語のスケール感と相まって、いい意味で戯画的な世界を作り出しているように感じたんですが。

例えば、心霊実話テイストの話を語る時に、まずはいわゆる「日常」から入って、そのうちに不可思議な怪異が起こるという発想がどうもセオリーのようにあるみたいですね。でも、そこで「日常」と呼んでいるものが、本当の日常なのかなって思うんですよ。日常って何かと聞いたら、たぶん「何も起こっていない状態」という答えが返ってくると思うんだけど、僕らがリアルに経験している日常は「何も起こっていない状態」ではない。だから結局、そこで言われている「日常」はリアルじゃなくて、ただの段取りに過ぎないんじゃないのかなと。それじゃ面白い日常って描けないですよ。日常が何も起きなくてつまらないから非日常を描くという意識じゃなくて、ひょっとして日常ってこうじゃないの?というぐらいの気持ちで今回の映画も撮ってるんですけどね。それは『リング』のような心霊実話テイストをやる時もそうですよ。

――話が戻ってしまいますけど、高橋さんは「太平洋の亡霊」の何にそれほど触発されたんでしょうか。

「太平洋の亡霊」の中で、大戦末期に使用された桜花という人間爆弾が蘇って襲ってくるという設定があるんですけど、当時はまだ戦争に負けて悔しいという気持ちをみんなが持ってたんですね。子供たちも戦艦大和のプラモデルを普通に作ってる時代だったから、当時9歳だった僕も桜花のことを知っていた。だから、ああいう形で桜花の活躍を見ると溜飲が下がるわけですよ(笑)。でも同時に、それがメチャクチャやばい感情であるというのもわかる。つまり、起きてはいけないことが起きているのに、自分はこんなに盛り上がっているという、引き裂かれるような状態になるわけです。それで最後に憲法9条がバーンと出て、それが戦争の犠牲のうえに成り立っている理想だと言うでしょう。しかも、それを狂人に言わせてるんだよね。こういう歪みを持ち込むことで、「戦争の悲惨さを語り継がねばならない」なんて言い方では伝わらないものが伝わってしまうわけですよ。「戦争をなくすために戦った」という世界最終戦争論みたいな特攻隊員の言い分と憲法9条がつながってしまうというアクロバティックな論理の展開が狂人の頭の中でならできるんですね。だから、「太平洋の亡霊」から受けた衝撃というのは、矛盾をはらんだ構造でしか伝えられないものがあるという、それを感覚的につかんだことの衝撃ですよね。そういうことが今は理屈で言えるけど、当時は感覚としてわかる感じがあったと言うか。

――『狂気の海』のベースには高橋さんが幼少期に見たアニメーションや特撮映画があるんですね。

僕は特にそういうのが強いみたいだね。黒沢(清)さんなんかと話してると、「なんで君はそんなに原体験みたいなものが強いの」って言われるから。でも黒沢さんの映画だって、子供時代に観た怪奇映画がベースになってると思う。やっぱり、いざという時に出てくるのはそれなんですよ。

――『ソドムの市』『狂気の海』と拝見して、映画のより根源的な部分、核心的な部分に高橋さんなりのやり方でアプローチしているように感じたんですが、今までのお話を聞いていると、それよりも高橋さんの映画的な原体験へ遡っていく意味合いのほうが強いようにも感じます。

最近思いついた言い方で言うと、オマージュとか引用とか、そういう次元では全然なくて、自分が魅入られたものを粗悪でもいいからコピーするということなんです。初期衝動ってそういうもので、ブルース・リーの映画を観たら、みんながブルース・リーの物真似をするし、ペキンパーの映画を観たら、みんながスローモーションの動きを真似するというのがあるでしょう。それと同じように、ある表現媒体で成立したものを別の表現媒体、例えば今回のような低予算の自主映画に移し変えることで得られる自由があるんじゃないかと思うんです。それは表現というものの根源に関わると思いますよ。

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(C)2007 映画美学校

――その自由と言うのは、どんな意味合いでの自由なんですか。

例えば、石ノ森章太郎さんが「サイボーグ009」という漫画を考えたわけですけど、誰が見てもこのネーミングは安易じゃないですか(笑)。007シリーズが成立している当時の実写の世界で「サイボーグ009」という映画を作ったら、たぶんみんなパロディーか何かとして扱うんですよね。真面目かパロディーかという窮屈な枠組みがそこでは働いてしまう。でも、それを漫画に移し変えると、実写の世界の窮屈なフレームがウソみたいに消えて、誰も「サイボーグ009」が安易な作品だとは思わない。まったく独自のものとして立ち上がって、その世界にのめりこんで楽しむことができる。さらに、その漫画を東映動画がアニメーション化する時に、かなり原作を変えたんですね。その後、原作を大事にする方向に転換して、だんだん絵柄も原作に近づいていったんですけど、一番面白かったのはやっぱり最初の頃じゃないのかなと。つまり、オリジンの漫画を、オリジンの側から見れば何だこれは!って思うぐらいな形でコピーしていた頃のほうが、自由だったということなんですけど。

――そういう自由があってこそ、「太平洋の亡霊」のような傑作が生まれたんだと。

そうです。あれは原作にはないエピソードだからね。もしも原作を大事にしましょうという姿勢でやっていたら、原作の作った箱庭の中で精度を競ってるみたいなことにしかならない。でも、それは不自由でしょう。

――そういう視点で言えば、今回の「狂気の海」も、実写の007シリーズが漫画の「サイボーグ009」にコピーされ、それがアニメーションの「サイボーグ009」にコピーされたからこそ生まれた作品ということになりますよね。

だから、自主映画はそういう安直なことができる場所だからこそいいんだってことを言いたいんですよ。でも、その安直さって言うのは、みんなでクンフーごっこをやっているのが素晴らしいということじゃない。しょうもないものが山のようにある中で、安直さの中からしか生まれえない傑作があるはずだということなんです。表現の歴史は、新しい媒体が登場した際に起こるコピーの系譜だと思います。

――今回の映画では「太平洋の亡霊」以外にも、シェイクスピアの戯曲を下敷きにした表現があったり、核ミサイルが「リンダ・ブレア1号」と命名されていたり、多くの文学や映画などへの言及があると思います。シェイクスピア戯曲の援用に関しては、それに気付かなくても意図が大きく誤解されることはないと思いますが、「リンダ・ブレア1号」という名前については、観客が『エクソシスト』を知らなければ単純に反応できないですよね。その辺りの引用や言及に関して、高橋さんはどう考えてるんでしょうか。

リンダ・ブレア1号」については、ホンをゼミ生に渡した時に、わけがわからないという意見が出たらやめようかなと思ってたんです。でも、何人かから「あそこのシーンは感動的ですよね」と言われて。ちょっと今回一緒にやった9期生って変な人が多かったのかもしれないけど(笑)。ただ、それは先行する映画から何かを引用することで自分の映画が支えられるという意識ではなくて、なんて言うか「エロイムエッサイム」と唱えれば悪魔が出てくるというような感覚なんです。で、なぜかあのミサイルの名前は「リンダ・ブレア1号」なんだと最初から決まってたんですよ(笑)。でもなんで『エクソシスト』で悪魔憑きの少女を演じた女優の名前を核ミサイルに付けたのかは自分でもよくわからない。

――でも、アメリカはバカにされたって思うでしょうね(笑)。

リンダ・ブレアという女優さんは子役として大成功したけれども、その後は女囚ものとかに出演してあまり恵まれない役者人生を送ったわけですよ。だからって彼女の人生が虐げられたものだったとは思わないけど、アメリカ中があの少女に対して後ろめたい気持ちを持ってるんじゃないか?みたいな、変な妄想はあるかもしれない。子役ってそういう妄想を抱かせるところがあるでしょう。ある時期だけみんなに持ち上げられて捨てられてしまう存在という。

――ドリュー・バリモアとかブルック・シールズもそうですよね。

うん。そういう人が復讐してきたら恐いみたいな。

――なるほど(笑)。その話、今、作りませんでした?

いやいや(笑)。今、初めて言葉になったけど、根っこにあるのはきっとそうだよ。

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(C)2007 映画美学校

力があればいびつでいい

――高橋さんは世間では脚本家として認知されていますけど、学生時代には8ミリ映画を撮られていて、今また『ソドムの市』や『狂気の海』などの監督作を世に送り出しています。元々、映画界に入る前から脚本家になろうと思っていたんですか、それともいずれは監督になりたいと思っていたんでしょうか。

そもそも8ミリを撮っていた時に自分が脚本家になれるとは夢にも思っていなかったわけですよ。だから、脚本家になるための勉強もしたことがない。一方で、自分の撮った映画を見たら、自分に商品が作れるはずはないということがわかりますよね。だから、現場に入って映画監督の道を目指すという考えは頭からなかった。でも、何らかの形で映画の世界でメシを食えるようにして、時間ができたら自主映画を撮るっていう、二本立てみたいなプランがなんとなく頭にあったんです。それでたまたま書いたプロットがテレビ局に売れたんで、俺ってシナリオ書けるんだと思って、じゃあ食いぶちはシナリオで稼ごうと。その後、シナリオの仕事をやりながら、自主映画を撮れるような態勢を模索していたら10年間できなかった。それはシナリオの仕事で大変だったということなんですけど。そういう流れの中でたまたま映画美学校から声がかかって、行ってみたら「お、若いスタッフがいるぞ」みたいな(笑)。だから本当に成り行きなんですよ。

――脚本家として一線の仕事をするようになっても、監督するのは商業映画ではなく、あくまでも自主映画という意識だったんですか。

シナリオではちゃんと商品になる映画を構築するんですけど、それは上手い人が撮ればいいんだし、そういうつもりで書いている。自分が撮る時はもっとむき出しで本質だけ、みたいになるから、つまりそれは商品にはならないということでしょう。例えば、『発狂する唇』という作品はシナリオとしても自分がやりたい本質志向に近いんだけど、あれを低予算の商業映画の現場で成立させるには、撮影条件が相当タイトになってきますから、普通、無茶というか、あれは佐々木(浩久)さんぐらいの現場経験、現場をコントロールする能力がなかったらムリなんですよ。そういう意味で、商業的な枠組みの中で監督としてきちんと振舞うというのはムリだと思ってましたね。

――では今、監督としても活動されているのは、脚本家として「こんな風に演出されるはずじゃなかったのに」というような鬱憤が溜まったからというわけではないんですね。

そうですね。この前まで、秋に公開される『おろち』という映画のシナリオを書いてたんですけど、それは『狂気の海』で試したようなテンションの芝居があって初めて手応えをつかんできたものなんです。楳図かずおさんの原作ってそうじゃないですか。生身の人間には言えないようなセリフを喋ったりするでしょう。あれを堂々とメジャーの映画でやろうと。『狂気の海』は尺も含めてそれがやれる形を自分で作り出したんだけど、メジャーの長篇だとまた別の形を見つけなきゃならない。その辺はシナリオ段階からけっこう冷静に計算していて、鶴田(法男)さんならこのアプローチができるはずだと。最初は鶴田さんも「なんですか、これは?」って困惑したみたいなんだけど(笑)、リアルな世界観以外のレンジも持ってる人だから、「別のレンジでお願いします」と言えばわかってくれる。でも鶴田さんも現場で役者さんから、どうすればいいかわからないと聞かれるわけです。役者さんはホンから人物の気持ちを作って芝居をするわけだから当然ですよね。でも、そういう考え方では整理のつかない流れがいくつもあって混乱してしまう。だから、本当に悩みぬいて鶴田さんに相談してきたみたいですね。その時に鶴田さんは、僕が鶴田さんに言った言葉をもう一度言ってくれたらしいんだけど、「この作品は力があればいびつでいいんです」と。それで吹っ切れたというか、キャラクターの整合性を取らなきゃいけないという思いから役者さんも解放されて、現場がうまく回り始めたらしいですね。完成した映画も観たんだけど、やっぱりその手応えはあって、楳図先生も大変気に入ってくれたみたいでホッとしましたけどね。

――それはあくまでも自然らしさとか日常らしさとかじゃないところで成立している世界だということですよね。

さっき言った「日常」とか、整合性とか、人間が頭で考えて安心しようとしていることからジャンプして、この世界はこうなんだ、というのを一から作っていくっていうことですよね。それは人間が常識的に考えるのとはかけ離れた、矛盾に満ちた世界なんだけど、映画ってそういうものだし、我々の実人生もそうだと。でも、『おろち』のコンセプトは鶴田さんだからぶつけられたものなんですよ。自分一人だったら、別のコンセプトを考えるはずです。その意味で二人いるって健全ですよね。お互いに相手をアリバイにして無茶がやれて。昔の撮影所の力ってそれがもっと複数で交錯していたと思います。今は『狂気の海』『おろち』とやったことで、自分の本質だけを撮りたいという志向性が、やっと商業映画と折り合いがついてきたかなとも感じていて、今度は商業映画を撮るつもりでいます。

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(C)2007 映画美学校

――最後に、ユーロスペースでの公開はいろんな自主映画との同時上映という形で行われるそうですが、併映作品はどのような形で選ばれたものなんでしょうか。

今回の配給は映画美学校だから、番組は基本的に美学校が決めるんですね。でも、なかなかカップリング作品が決まらなかったので、僕のほうから「前からやってみたかった企画があるんですけど」って自分がセレクトしたプログラム案を出したわけです。今まで美学校のカリキュラムで作った作品はほぼ全てユーロスペースで公開されてるんだけど、今回セレクションで上映される作品のほとんどはカリキュラム以外のところで彼らが勝手に作ったものなんですよ。ただ、そういうものは美学校作品ではないから、なかなか上映される機会がない。作家本人たちも上映活動が苦手な人たちが多くて観る機会が本当に少ないんですね。何年にもわたって「もっと上映しないの?」って突っついてたんだけど、なかなか軌道に乗らなくて、今回まとめて上映しようと。だから何か基準があって選んだというわけではなくて、過去に僕が観て印象に残っている作品を集めたという感じです。美学校配給だからといって美学校生が作った作品だけを集めたわけではなくて、『阿呆論』とか『ナショナルアンセム』とか、学外の作品も入れて番組を組んでるんですけど。

――そういう面でも、高橋さんは下の人たちの面倒見がいいですね。その情熱はどこからきてるんでしょうか。

面倒を見ているつもりはさらさらなく、自分にとって面白いかどうかなんですよ。これは美学校と関わった当初からの変わらないスタンスです。「教育」なんてスタンスに立ってる講師は誰もいないんじゃないですか。「何かのため」なんて発想で映画は作れないですよね。ただ、こうやって持ち上げることの功罪はあると思います。彼らからしてみたら、労せずして、いつの間にかユーロでの公開が決まってしまったわけだから。そこで生まれる勘違いもあるかもしれない。そういう勘違いや甘さについては、僕はいたって冷酷です。

(取材:平澤竹識、千浦僚/構成:平澤竹識)

『狂気の海』(2007年/34分/DV)

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監督・脚本:高橋洋

撮影:山田達也 特技撮影:伊藤淳 照明:高井大樹 録音:臼井勝 

音楽:長嶌寛幸 監督補:安里麻里 メイク:三浦杏子 衣装:石毛麻梨子 

銃器効果:遊佐和寿 編集・合成:春日和加子 色彩補整:吉村博幸

出演:中原翔子 田口トモロヲ 長宗我部陽子 浦井崇 宮田亜紀 

松村浩行 上馬場健弘 藤原章 本田唯一 

配給・製作:映画美学校

渋谷ユーロスペースにて6/28(土)~7/11(金) 連日21:00より

期間中、高橋洋セレクション“12+1(ダズン・プラス・ワン)”の大作戦!の併映あり

※イベント予定

6/28(土)初日舞台挨拶

7/1(火)黒沢清×高橋洋トーク

7/5(土)辻真先×切通理作×高橋洋トーク

7/8(火)塩田明彦×高橋洋トーク

公式サイト:http://www.kyoukinoumi.com