映画芸術

脚本家荒井晴彦が編集発行人を務める季刊の映画雑誌。1月、4月、7月、10月に発行。2016年に創刊70周年を迎えました!書店、映画館、Amazon、Fujisanほかにて発売中。

■試写室だより『半身反義』<br>映画を介して求め合うふたり<br>CHINGO!(映画感想家)

 老いた映画人とは妙に魅力的な被写体で、かつて独特のプロフェッショナルとして時代の先端にいた彼らは、いまや老ライオンのような風格で遠くを見やっている――みたいな印象がある。そのようなひとびとと出会った場合、僕としては複雑な心境になる。世が世ならこちとら一介のチンピラとこのひとたちが交流するようなことはなかったんではないか、この知り合ってしまう状況自体が映画の凋落を表しているのではないか、などと。とはいえ、優秀な人間たちが上げ潮の映画界・映像業界のなかで鍛えられていったような話を聞くのはすごく面白くてありがたいのだが。 hanshin-main.jpg  ヴィム・ヴェンダースというひとがニコラス・レイという映画監督を撮った『ニックス・ムービー/水上の稲妻』(80年)という映画があるが、あれなどは非常に死臭漂うものであった。それはニコラス・レイが癌で余命いくばくもないであろうことが見えてしまっている以上に、いかにも新進の気配をまとったヴェンダースがリスペクトはもちろんながらも、同時にこれを撮っていいのかという懊悩を持ちつつ作っていること(結局ガッツリ撮ってるわけだが)、そこに込められてしまった父殺し的な構図こそがちょいヤバな雰囲気をかもしていた。  と『ニックス・ムービー…』を思い出させつつも、かような世代交代的ニュアンスはなく、独自の感銘も怖さもあった『半身反義』は、『骨肉思考』という作品でイメージフォーラムフェスティバル98大賞を受賞した自主映画作家竹藤佳世が、『東京オリンピック』(監督部)や『日本万国博』などの演出家山岸達児を取材した作品である。 hanshin-sub4.jpg  山岸氏は2003年に脳梗塞で倒れ、そこから回復したものの半身不随である。そのハンデがなければ彼に比して随分若い竹藤佳世が山岸達児にここまで拮抗し、コミットし、題材として汲みつくすことはできなかったのではないか。意地悪く言えば、病によってより強くあらわれた山岸達児の老いと衰えに、映像作家竹藤佳世の貪欲さがつけいったのだろう。しかしそこでの切実さ、関係の深さはけして醜くはない。竹藤佳世にとって恰好の題材であり学習の契機、山岸達児にとっての自意識自尊心を保つための鏡であり回顧の聞き手、という関係のふたり。映画という道具立てを介して求め合うふたり。もはやそれは、ごく軽い意味で、愛、と言ってもいいだろう。作り手と被写体が異性であるということも抜きがたい事実だ。それは単純な、性器とその活用に収斂するような意味での男と女のことではなく。…あるいは、女の母性的なエゴたる子宮が、男根を胎児的な突起にまで衰亡させた男の全身をつつみこむような映画、なのか、これは。その囲い込まれた安息のなかで、昭和の記憶やら映像文化史やらが反芻される。 hanshin-sub2.jpg    『半身反義』のおおまかな説明やディティールを語ろう。前半部分、山岸氏の経歴や業績が関係者友人知人本人の口から語られるインタビューシーンの数々、まあふつうである。よくわかる。近年のビデオドキュメンタリーに共通した、ただただパーソナルな身のまわり感の強すぎるところ、撮れば撮れてしまうので撮っただけの、咀嚼というか再構成の弱さもあるような気がするが、情報や、表現しようという感情は伝わる。で、問題は後半である。いや、前半にもところどころ挟み込まれていたが、後半にドーンとまとめて入っている再現ドラマ的部分。若き日の山岸達児とおぼしき青年がキャメラ片手に東京を彷徨い、妻となる女性と出会い、様々な仕事を手掛け、教鞭を執り、というふうに見せていく。これにノレるかノレないかが今作『半身反義』をどう受けとめるか、よかった、か、ヤダ、かの分水嶺だと思うのだが…。  僕はちょっとよかったと思う。やっぱり劇映画がやりたかったのか、あるいはどうしてもフィクションでしか伝えられないことがあるということなのか、このナラタージュによるある種のサイレント映画のようなありようは演出力の不足をカバーするための策か、それともこのネタにはこの非リアルの語り口を必要としたということなのか、などといろいろ考えてしまう。観ていてヒヤヒヤするような芝居や佇まいもあったが、なんだか広がりがあって、ドラマパートがあったのはよかった。60年代末とかの世の中を彼がどう見たのかなどもかなり抜けているようにも思うが、ところどころに強い画面、飛翔するものがあった。そんな映画だ。 hanshin-sub3.jpg  …しかし、最後にいま一度だけレファランスすると、ニコラス・レイの晩年の暗さや病の原因は空疎なスペクタクルに傾斜を強めたハリウッドの要請に従って自らの資質に合わぬ史劇大作をヨーロッパで撮らされて消耗したせいと言われもしており、また山岸達児も従来の映画などを超える新たな何かと期待されたマルチスクリーン、マルチプロジェクションなどの仕事を多く手掛けていたひとであるらしいが、それらに熱中するあまりに家庭を顧みず結果孤独な老後を迎えていて、それらを捉えるのが個人映画作家であるということはすなわち、大きな映像の死にゆく姿を小さな映像が看取っている、ということにもなるのではないだろうか。 Text by CHINGO!(映画狂) 『半身反義』(2007年/35mm/90分) プロデューサー/監督/脚本/編集:竹藤佳世  撮影:辻智彦 照明:大久保礼司 美術:萩原タクジ  衣装:竹内陽子 メイク:別所瞳 音楽:遠藤晶美  製作・配給:パウダールーム 7月5日(土)より池袋シネマ・ロサにてレイト公開 公式サイト:http://www.hanshinhangi.com/