カインの印
旧約聖書の『創世記』によると、神はこの世で最初の殺人者となったカインを追放する前に、彼の身体に印を刻みつけたという。このカインの印(The Mark of Cain)をつけて歩く者は、永久に犯罪者と社会的な落伍者のレッテルを背負って生きなくてはならなくなった。
女性ドキュメンタリー作家のアリックス・ランバート(Alix Lambert)の、その名も『カインの印』(The Mark of Cain)という記録映画は、ロシアの刑務所におけるボディアートの現在とその歴史をあつかっている。
ロシアのサマラにある拘置所では、胸から腹にかけて聖母マリアのタトゥーをしている男から「その人間のことがタトゥーからよくわかるんだ、タトゥーの出来のよさでね。たとえば、俺が中央刑務所の独房に入っていたことなんかがさ」という発言を引きだしている。また、他の刑務所の老年の受刑者は「昔は誰が1927年や1928年の受刑者か、ひと目でわかったものさ。当局は誰にでもやたらとイーグルのタトゥーを入れてたんだ。その後はすぐにレーニンとスターリンになったけどな」と証言する。
受刑者たちは、タトゥーを通してコミュニケーションを取っていた。体に刻まれたタトゥーを見れば、犯した罪や服役期間、性的な嗜好など、さまざまなことがわかるのだ。いわば身体に刻みこまれた履歴書のようなものである。
ボディアートは単純な装飾以上のものであり、その模様はその囚人のバックグラウンドと、刑務所や収容所という複雑な社会システムにおけるランクをはっきりと示すのである。たとえば、蜘蛛や蜘蛛の巣の図柄は薬物中毒を意味し、軍の印と肩飾りのタトゥーは犯罪の成果、髑髏は殺人犯を意味する。背中の3つの教会のドームは刑務所に3回入ったという意味で、指のサンクト・ペテルブルグの十字架はその刑務所に入ったことを示し、額の有刺鉄線は、仮釈放される可能性のない終身刑を表す、といった具合である。
(c)2007 Focus Features LLC, All Rights Reserved.
映画『イースタン・プロミス』の撮影に先がけて、主演のヴィゴ・モーテンセンはアリックス・ランバートの『カインの印』を発見した。短いバージョンがABCテレビで放映されていたのである。モーテンセンは監督のデヴィッド・クローネンバーグにそれを見せた。クローネンバーグはそれに霊感を受けて、脚本にタトゥーに関する物語を加味していった。
そして、映画のなかで、ヴィゴ・モーテンセンは体中に43箇所ものタトゥーを入れることになった。その柄のなかで印象的なのは、花に囲まれた骸骨、足首の鎖、指輪のような7種類のフィンガー・タトゥーであろうか。実際には、絵柄はロシアのアイコンの豊かな伝統から選ばれることが多い。ロシア教会、聖者、マドンナ、キリストの肖像など。モーテンセンの背中には、見事な3本の尖塔をもった教会のタトゥーが入っている。
『イースタン・プロミス』に見られるように、刑務所内のボディアートが複雑な象徴のシステムにまで昇華されたのには、おそらくロシアン・マフィアの功績があるのだろう。また、タトゥーは身体のどの場所に描かれるかで意味が変わるという。マフィアの入会儀礼では、タトゥーは肩や胸に入れられ、薔薇の絵柄が使われることが多い。
反対にタトゥーを偽ったり、不相応なものを入れたりすれば、裏社会では死をもって罰される。ランクを失ったり、新しい組織に加入したりする場合には、皮膚の表面にマグネシウムの粉を塗ることで取り除かれる。腐食性の火傷を負わせて、タトゥーが入っている皮膚を溶かすのである。このマグネシウムの粉は、監獄内でも一種の必需品となっている。
多くのタトゥーは刑務所内で彫られる。それらは彼らのパスポートだとも言われるが、だからこそ自発的に刻みこんだタトゥーは、自らの運命を決定づけてしまう。このような社会では、人間の精神性や内面性を考えるまでもなく、その人間のあるがままの姿は可視的な皮膚の表面すべてに記されているといっていい。
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皮膚のドラマ
脚本家のスティーヴ・ナイトは、詳細なリサーチをもとに、ロンドンにおけるロシアン・マフィアと旧共産圏から売られてくる女たちの人身売買のネットワーク(イースタン・プロミス)の社会問題をリアリティのある物語にしている。
しかし、この物語を独自のボディ・ホラーの手法を使い、「皮膚のドラマ」とでも呼ぶほかない映画に仕上げたのは監督のデヴィッド・クローネンバーグである。
映画の冒頭の床屋のシーン。ロシアのマフィアが仲間の喉を、カミソリで真横に切り裂いていく。それを次のカットの、画面を横切る道路区画線のイメージが引き継ぎ、雨で濡れた女の裸足がフレームインする。さらに、ドラッグストアの床を股からの出血で濡らすロシアの少女のシーンが続き、次に死産された血まみれで、生まれたばかりの濡れた皮膚の塊のような赤ん坊のカットを、じっくりと見せる。
うわべだけを見れば、『イースタン・プロミス』は死産した少女の日記を読み、その身元を突き止めようとした看護婦のアンナ(ナオミ・ワッツ)が、ロンドンのロシアン・マフィアの社会に踏みこんでいってしまう物語である。だが、ここまでくれば、これが人間の皮膚にまつわる個人の歴史とその受難を描こうとしている映画だとわかってくる。
そう考えてみると、最初の見せ場は、冷凍しておいた首をかき切った男の死体を、運転手のニコライことモーテンセンが処理するところになるだろう。死体の身元が判明しないようにするために、モーテンセンが何をするかといえば、彼はその死体の身元証明書となる指紋を、指先ごと一本一本切りとっていく。これは非常に象徴的なシーンである。
さらに『イースタン・プロミス』でもっとも驚くべきイメージは、映画が半分くらいすぎたあたりで、ヴィゴ・モーテンセンが服を脱ぐときである。運転手にすぎなかったモーテンセンが、ロシアン・マフィアのボスたちの前で入会儀礼をする。モーテンセンの体は傷だらけではないが、その代わりに驚くべき数のタトゥーで覆われている。
モーテンセンはロンドンのレストランの奥の部屋で、ボスたちに自分が犯罪者の人生を送ってきたことを、ボディアートによって証明し忠誠を誓う。このシーンはロシア語で対話が続くが、ボスたちはモーテンセンと話すというよりは、彼の皮膚の表面に記された個人の歴史と対話をしているようにも見える。
そして、彼が手渡される裏社会へのパスポートは、肩と膝へタトゥーとして刻みこまれるマフィアのシンボルであるのだ。
最も見ごたえのあるシーンは、裸でサウナに入っているモーテンセンがマフィアの裏切りにあい、チェチェンから来た2人の殺し屋に襲われるところである。少年がナイフを持って踊る伝統舞踊にもあるように、チェチェン人はナイフのエキスパートである。
全裸で、白く柔らかい皮膚や彼の個人史であるタトゥーをさらすモーテンセンと、革コートに身をつつんだ黒ずくめの男たちの対比が効いている。チェチェン人たちの短い鉤爪のような特殊ナイフが、徐々にモーテンセンの腹や背中の皮膚を切り刻んでいく。陰茎や尻の穴などナイーブな身体部位がナイフにさらされる身体感覚を、私たち観客も否応なしに共有させられる。
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本当の恐怖
このシーンでモーテンセンが突きつけられるのは、ナイフと柔らかい肌の間に生じる、単なる動物的で身体的な恐怖だけではない。ナイフで切られれば、皮膚の間からどす黒い血が染みだし、やがては奥にある肉や内臓、そして生命自体が引きずりだされる。
しかし、それが本当の恐怖ではないことを、演出をするクローネンバーグは熟知しているかのようだ。
血や内臓は私たちのものであるが、ふだんは意識することのない、いわば私たちのなかの他者のような存在である。通常、人が「私」だと強く意識しているものは、目に見えて触れることのできる顔や手や足の表面をつつんでいる、薄皮一枚の皮膚のほうである。つまり、皮膚とナイフの間にこそ緊張感は存在し、皮膚がナイフで切られるまでが本当の恐怖なのである。
そういえば『イースタン・プロミス』は過剰な暴力をあつかう映画であるのに、一度も銃で撃たれるシーンがなかった。これだから、クローネンバーグは怖ろしい。
Text by 金子遊(映画批評家)
脚本:スティーヴ・ナイト
音楽:ハワード・ショア
出演:ヴィゴ・モーテンセン、ナオミ・ワッツ、ヴァンサン・カッセル、イエジー・スコリモフスキー
2007年/イギリス=カナダ=アメリカ/配給:日活/100分
原題:Eastern Promises
6月14日(土)からシャンテ シネ、シネ・リーブル池袋ほかにて公開