映画芸術

脚本家荒井晴彦が編集発行人を務める季刊の映画雑誌。1月、4月、7月、10月に発行。2016年に創刊70周年を迎えました!書店、映画館、Amazon、Fujisanほかにて発売中。

映芸ダイアリーズ 2011日本映画ベストテン&ワーストテン <br>萩野亮、近藤典行

萩野 亮(映画批評)

ベスト

1 なみのおと(濱口竜介、酒井耕)

2 相馬看花―第一部 奪われた土地の記憶―(松林要樹)

3 トーキョードリフター(松江哲明

4 無常素描(大宮浩一)

5 わたしたちの夏(福間健二

6 その街のこども 劇場版(井上剛)

7 愛しきソナ(ヤン・ヨンヒ

8 ギ・あいうえおス―ずばぬけたかえうた―(柴田剛)

9 ピュ~ぴる(松永大司

10 悪魔がきた(坂井田俊)

ワースト

1 311(綿井健陽森達也、松林要樹、安岡卓治)

2 エンディングノート砂田麻美

3 ショージとタカオ(井手洋子)

4 ダンシング・チャップリン周防正行

 今度の震災については何も書かないだろう、書けないだろう、という事後の直感はいつしかはずれた。作り手たちが「被災地」に赴き完成させた映画を見ること、その映画に向けてことばを置くことは、巨きすぎる災いに向き合うためのただひとつのレッスンになった。だれもその全体像をとらえることはできず、だから映像は、映画は、具体的な断片となることから始めなければならない。映画作家や写真家の記録した映像、テレビやジャーナリストが伝えた映像、津波を目の当たりにしたひとびとが思わずケータイで撮った映像、そうした無数の映像断片にもちろん優劣などない。ここで順位をつけることに一時とまどいはしたものの、ここにあげた映画はすべて作品として作られているのであり、それを受けとめる批評こそがむしろ機能していなければならないと思い返した。被災の光景を「見せる」のではなく、どのように「見て」いるのかについてを、ぼくはここでのおもな判断のよすがとした。『なみのおと』、『相馬看花』、『311』についてはメールマガジン「neoneo」181号にすでに書いたので、紙幅の関係もあって繰り返しは避けるが、被災の光景を画面に収めず、人びとの「おしゃべり」をひたすら記録する『なみのおと』は、素朴な素材主義をはるかに越えた次元で記録行為を行なっている。その意味では、ネオンを失った東京こそを記録の対象とした『トーキョードリフター』にも共振する問題意識が垣間見える。だがむろんこうした方法論が可能になるためには、テレビやジャーナリストの伝えた直後の映像や、6月に早くも劇場公開を実現させた『無常素描』のような作品を要したということは、書き添えておきたい。

 『その街のこども 劇場版』は、いわば「Kobe mon amour」(コウベ・モナムール)なのだと思った。24時間の(情事なき)情事。「きみは広島を知らない」というテーゼをめぐってたがいの記憶へと深く沈潜してゆくデュラス=レネのフィルムに対し、『その街のこども』はむしろ「きみは神戸を知っている」/「わたしも知っている」という地点から出発し、それでもなお異なる経験の襞をたがいに確かめ合う。その繊細な描き分けに好感をもった。彼らにはエマニュエル・リヴァの「ヌヴェール」は必要なく、神戸はどこまでも神戸であり、ただ「こども」のときに見た風景がときおり烈しく甦るばかりだ。レネ的な「ディスコミュニケーション」ではなく、あくまでシンプルな「コミュニケーション」を夜の道行きにおいてみせた『その街のこども』は、その限りで現代的であり、かつ実際には現代に欠落しているものを画面に認めている。あたり前の、日常の会話のゆたかさを記録するその限りでは、『なみのおと』にも通じてゆくに違いない。ところでこのフィルムが、そしてイーストウッドの『ヒア アフター』が2011年の初頭に公開されていたことを、どうとらえかえしてよいのか、いまだにわからない。

 本誌ベストテンでだれもふれていない『愛しきソナ』は、忘れるにはあまりに惜しい屈指のドキュメンタリーだ。北朝鮮にはなれて暮らす姪のソナ(かわいい)の10年余にわたる成長が、在日二世の作家が廻すビデオカメラの映像に記録されている。ホームビデオのように親密な距離で撮られたソナのすがたに、彼女が暮らす国の現況が透かし見えてくる構成が秀抜である。中学生くらいだったか、ずいぶんと大きくなったソナが、石段に座って作家と対話するシーンがある。そこでふいに「カメラを止めて」という彼女のことばのあと、黒画面がつづく。国のことにふれる内容に彼女自身が「自主規制」を加えたこのショットは静かな衝撃を湛えている。心身の成長とともに、彼女の内側にも巣食う国家の存在を、むしろ記録しないことで記録しえた恐るべき瞬間だと思われた。ヤン監督は新作『かぞくのくに』がベルリンでまたも受賞した。日本での公開を楽しみに待ちたい。

 『エンディングノート』と『ショージとタカオ』はあえてワーストにあげたが、作品としてはとても魅力のあるドキュメンタリーだ。とりわけ後者の、14年にわたって記録を続けたその胆力には脱帽せざるを得ない。ただ、長年にわたる記録だけに、ショージさん、タカオさんとの距離の取り方が非常にあいまいになっていると感じた。29年ぶりに社会復帰したふたりの日常の「ゆるさ」が作品の大きな魅力になっていることはたしかだが、長年の付き合いによる作家との関係性が、記録を表面的なものにとどまらせていると思われた。ふたりは当時「仮釈放」の身でしかなく、その意味でも、明確な作家の立場(=距離)の表明が必要だったと感じる。

 『エンディングノート』にも「お父さん」の魅力がはじけているが、極端にいえばそれ以上のものではなかった。砂田監督は、かつて河瀬直美監督の『追憶のダンス』(2002)の制作にもかかわっているが、写真批評家・西井一夫の病床をその最期までとらえたその作品もまたもうひとつの『エンディングノート』なのであり、ここでは死にゆく者は、ノートではなくカメラを若い映画作家に託した。悪魔のような咳に苛まれる西井の、痰や水を「吐きだす行為」を執拗に撮りつづけ、「寝かせてあげて」という奥さんのことばをよそに話しかけつづける河瀬のカメラは、ひとの最期に向き合うだけの覚悟を感じさせた。『エンディングノート』にはそうした覚悟は存在せず、また必要とされてもいない。もう一点言い添えるなら、父親に擬して監督自身が付しているナレーションを、最後まで自身が引き取らなかったことに疑問を拭えない。これは誰の映画なのだろうか。とはいいつつ、かなり泣いた。

 『ダンシング・チャップリン』は、ドキュメンタリーとしての面白みは皆無だった。前半部分で、映像化をしぶる演出家に対し、「ただ舞台をカメラで撮ったようなものにだけはしたくないんです」と監督が説得しているシーンがあるが、実際そうなっている。

 最後に、このなかでははるかに公開規模の小さい『悪魔が来た』について。この映画は語の本来の意味において「ヤバい」。犯罪そのものにもっとも似てしまった犯罪映画だ。坂井田監督の最新作のタイトルは、『僕は人を殺しました』。いま一番期待する自主映画作家のひとりだ。

近藤典行(映画作家

ベスト

アントキノイノチ瀬々敬久

○歓待(深田晃司

○東京公園(青山真治

ワースト

○DOCUMENTRY of AKB48 to be continued  10年後、少女たちは今の自分に何を思うのだろう?(寒竹ゆり)

 この文章を書くにあたって、去年のベストワーストの己の記事を読み返して唖然とした。書くのが嫌になった。2011年、この年は日本国において決して忘れられない一年となったわけなのに、去年の自分と今の自分まるで思考回路が変わっていない。またアイドルのことだけ書こうとしていた。 『NINIFUNI』のももいろクローバーや『市民ポリス69』の早見あかりについて。ただ、変わったことも少しはある。前述した去年の記事に初めてライブを観させてもらったことを書き記した私立恵比寿中学エビ中)というグループに、その記事を書いた3ヵ月後国語教師として赴任することになったのだ。人生は何が起こるか分からないものである。現在は、主にステージ演出と映像まわりを担当させてもらっており、女の子をどうやって、ステージ上で画面上で最も輝かせることができるのか実践している最中であり、そのことしか考えていない。あ、やはり変わっていない。だから、映画と呼ぶべきかどうかということも大前提としてはあるが、シネコンでかかり多くの観客を入れていることで現在の状況で考えたら映画と呼ぶ他ない(そうでないところで判断するのであれば現在映画と呼べるものはどのくらいになってしまうか)、『DOCUMENTRY of AKB48 to be continued 10年後、少女たちは今の自分に何を思うのだろう?』は、無数にあるといっていいほどのCD、DVDについてくる特典映像や動画サイトに落っこちているAKB関連の映像群以上のものは何も画面に捉えていない(これに比べたらじゃんけん選抜の武道館の裏側を一人一台のカメラで捉え、後にDVDとして販売された『51人のリアル』の方がよっぽど見応えがあった)、このわざわざスクリーンでかける必要が全くない「映画」に心底残念にならざるをえなかったし、監督本人が聞き手となったという一人ひとりのインタビュー部分も今まで見てきた、メディアに映し出され続けている彼女たちの周知の事実以外、何も発見がなかったことにはホトホトげんなりさせられた。単純に大きな画面に切り取られることで輝きすら失ってしまうアイドルなんて見たくない。

 さて、またアイドルのことばかり書き連ねる展開になってきてしまったのでさすがにそろそろ映画のことをこの辺で書いておかないとまずい。

 かつて僕は長澤まさみについて、原稿用紙にして20枚の論考として書き連ねたことがあるのだけど(荒井晴彦氏には、「まったくわけが分からない。ファン以外の人には通用しないんじゃないの」と一蹴されてしまったのですが)、そこで言いたかったのはただ一つ、長澤まさみを映画の最強ヒロインとして一刻も早く僕たちは救い出さなくてはならない、ということだった。きっと、華々しくスクリーンに登場した時の彼女はもう一度、映画女優として生き返るはずだ、と。だから正直、2011年は期待していた。『岳』と『モテキ』によって彼女はまた最強に返り咲く。結果はご存知の通り、まるでそうはならなかった。『モテキ』はたしかに最近の長澤まさみの出演作としては彼女を魅力的に捉えている方ではあるが、今までのベストかといえばそうではないし、あの程度なら「Ghana」のCMの方がよっぽど魅力的である。異論など言わせない。

 『モテキ』はPerfumeとのミュージカルシーンにしか心躍らせられなかった。

 主人公が働き始める設定のナタリーさんとは何度かお仕事で挨拶を交わし、2週間ほど前にはエビ中職員の一人としてインタビューも受けた。真木よう子演じる役はナタリー編集部のライターであるはずなのに、後輩の森山未來演じる主人公に向かって「ももクロもAKBもハロプロも全部一緒なんだよ」みたいな趣旨のことを吐き捨てるように言うのだけど、アイドルを多く取り扱ってらっしゃるナタリーさんのライターがそんなこと言うだろうか。とゆーか、一緒じゃねーし。

 2011年は長澤まさみの年にならず、榮倉奈々の年になった。これも異論は認めない。これは紛れもない事実である。ヒロインとして大事に扱ってもらうことによって想定の範疇でしか魅力を引き出してもらえない長澤まさみと違って、榮倉奈々の女優としての扱われ方は、異質だ。麻生久美子仲里依紗真木よう子、と並ぶ『モテキ』の長澤まさみと、井川遥小西真奈美と並ぶ『東京公園』における榮倉奈々のヒロインらしからぬ、そのことで生まれる予想外の魅力はどうしたものか。『アントキノイノチ』の、ヒロインとしてはどうかしてるとしか思えぬ、作業着を身に纏い帽子を目深に被った形で小走りでやってくる様をロングで捉えた登場シーンなどさりげないを通り越してぞんざいに扱われすぎだと余計な心配をしたくもなる。しかし、映画が進むにつれ地味な役柄にも関わらずどんどん輝きだしてくる様にすっかりこちらの想定は打ち砕かれ拍手喝采を送りたくなった。榮倉奈々の予期せぬ女優としての本質を気付かされ、発見した2011年、そう記憶された。前述した通り、アイドルを演出することを常に思考する真っ只中にある自分としては、これは大きな発見であるとともに貴重なヒントであった。アイドルもビジュアルだけの要素ではまるで輝けない。

 そして最後に、女優がきれいに撮れている/撮れていないの個人的かつ絶対的映画への判断基準とは別の地平でえらく驚かされた『歓待』は終始、漂い続けるニヒルな笑いが悔しくてしょうがなかったのは素直に告白しておきましょう。