映画芸術

脚本家荒井晴彦が編集発行人を務める季刊の映画雑誌。1月、4月、7月、10月に発行。2016年に創刊70周年を迎えました!書店、映画館、Amazon、Fujisanほかにて発売中。

闘うドキュメンタリー時評Vol.5<br>座・高円寺ドキュメンタリー・フェスティバル(前編)<br>金子遊(批評家)

東京の本格的なドキュメンタリー映画  去る2010年3月16日から22日の7日間、東京の「座・高円寺」にて、「第1回 座・高円寺ドキュメンタリー・フェスティバル」が開催された。国内のドキュメンタリー映画、テレビ・ドキュメンタリー計29本が上映され、一般公募で寄せられたコンペティション部門の入選作5本が上映された。  私はその一部を目撃したに過ぎない。また、あれから随分と日数が経ってしまった。そこで、ここでは単なる映画祭のレポートではなく、周到に組まれたプログラムのなかから任意に作品を選びだして、ドキュメンタリー作品を論じてみようと思う。  特集上映された羽仁進、土本典昭大島渚小川紳介、萩元晴彦、今村昌平らによる、50年代から60年代にかけてのドキュメンタリー作品を現代的な視点で検証し、それらの作品の軌跡を「記録」における「事実性」と「虚構性」のせめぎ合いとして描出してみたいのである。 CIMG1663.JPG 羽仁進の「人間的映像論」  言うまでもなく、リュミエール兄弟の手による最古の映画群は記録映画だったわけだが、はたしてそれ以降の記録映画は常に「事実」を提示してきたと言い切れるであろうか。たとえば、映画史の定義では、ロバート・フラハティこそが記録映画の祖となっている。だが、『極北のナヌーク』(22)や『モアナ』(26)といった映画の美しさは、エスキモーやサモア島の人々の「事実」を表しているとは言いづらいところがある。事実的な映像の向こう側にフラハティの天才的な直観によって把握された、詩的な真実が映しだされている、という方が妥当であろう。そのような意味でも、最近の欧米の知見ではフラハティの映画は単なる記録映画ではなく、ドキュフィクション(docufiction)とされるのが通例である。  ドキュメンタリーの歴史は、記録映像を獲得するために、事実性と虚構性の間で揺れ続けてきた歴史だと言いかえることができる。羽仁進は「人間的映像論」という書物のなかで、フラハティの詩的精神を持つ記録映画が、必ずしも「事実」を提示することには成功しなかった、という反省からドキュメンタリーという概念が生まれてきたと論じている。そのような反省から、ジョン・グリアソン、ポール・ローサらが唱えたドキュメンタリー(資料的)とは、現実を科学的に分析し、映像による事実を積み重ねて「創造的な劇化」を経ることで、現実を描出できるという考え方であった。  しかし、羽仁進はこれにも批判を加える。ドキュメンタリーの作り手がテーマを設定し、対象を選択し、テーマにそった事実を撮影していく。そして、テーマにそって編集し、コメンタリーを入れて、創造的劇化のもとに完成する。そのように、作り手が任意のテーマを設定するときに根拠をおく科学性や客観性というものは、実はあり得ないものであり、本当は「事実によって証明された意見」にすぎないというのだ。つまり、ドキュメンタリーは裸のままの事実を提示するのではなく、テーマによって選択され、裁断された「事実の影」を映し出しているのにすぎない、というのである。 教室の子供たち.jpg 『教室の子供たち』 羽仁進のドキュメンタリー  それでは、そのような批評のもとに、羽仁進は実際にどのような記録映画を撮ったのか。それが最もよくわかるのが、『教室の子供たち』(54)、『絵を描く子供たち』(56)、『双生児学級』(56)からなる教室三部作であろう。まずは、佐藤忠男の解説から引用してみる。 《はじめて見た人はたいてい、これは盗み撮りで撮影したものに違いないと思った。教師に対する生徒たちの反応が非常に自由で活き活きしていたからである。(…)じつは小学校二年生のクラスの子どもたちは、最初の一日か二日、教室に持ち込まれたカメラを珍しがっただけで、それにあきてしまうと、あとはカメラなど無視して自由にふるまうようになったのだった。》(「増補版 日本映画史」佐藤忠男著)  解説としてはこれで良いのだが、私たちには、もう少し踏み込んで考えていくべき点も見えてくる。羽仁進の『教室の子供たち』には、それまでのドキュメンタリーと一線を画す斬新なところが2つほどあった。それは子供たちがカメラの存在に慣れるまで待ち、演技指導を行わずに自然な所作を撮影したこと。もう1つは、短いシノプシスを用意したものの、シナリオに沿って構成するのではなく、映像素材からシナリオを組み替えていった方法である。ひっくり返していえば、それまでのドキュメンタリーでは、事前に用意したシナリオのもとに、撮影対象へ演技指導をして撮影していく手法が主流であったということであるのか。  しかし「人間的映像論」では、佐藤忠男のような映画史的な位置づけも、耳ざわりのいいまやかしにすぎない、と羽仁進は言っているようである。実作者の羽仁進によれば、実は、子供たちのカメラへの慣れは重要ではなかったのである。子供たちは「カメラの前だから引っ込み思案になったのではない。いつでも引っ込み思案だった」というのだ。  『絵を描く子供たち』では、町野君をはじめ、何人かの特にシャイな性格の子供たちに焦点を当てている。東京・南千住の小学2年生である彼らは、自分の家でも、50人の生徒がいる学校でも充分に大人に見られることはなかった。そこへ、カメラというよりも、その後ろにいる羽仁進ら撮影隊の大人が、彼にスポットを当てた。「他人から興味を持たれているという事実が、彼ら自身の人生に、あらたな色彩をつけ加えた」のだ。撮影隊に注目されることで、おとなしかった町野君が段々と積極的な男の子になり、最後にはクラスのボスと喧嘩するまでに至る変化のプロセスを、カメラは記録している。そして、そうした子供たちの内面の変化が、最も直接的に顕れるのが子供たちの絵だったのである。  羽仁進は、町野君の変化を「演技」と呼ぶ。演技といっても、それはカメラの前や撮影現場の雰囲気で生成される、ドキュメンタリー作品にありがちな「他人のために演じられる演技」のことではない。それは「生きることのなかの演技」の問題である。確かに、撮影隊とカメラがなかったら、町野君は人に見られていることを意識することもなく、引っ込みがちな男の子のままだったかもしれない。しかし、町野君は実際にボスとなぐり合い、粗暴なふるまいをし、そのような幾度かの「演技」の模索によって、周囲に認められるようになっていった。そして、絵という表現活動に熱中する積極的な男の子に生成変化した。カメラとの関係のなかで生まれた「仮の姿」が、彼の人生の一部となったのである。  これを「ウソのほんとうさ」と羽仁進は言う。カメラが介在することによって対象の人物が自ずと演技をしてしまう、といったレベルのものでは到底なく、これはもっと深い人の生の問題であろう。たとえば、ある人が人生のなかで「私は映画批評家になりたい」と考えたとする。その人は見よう見まねで批評家のように振る舞う演技をし、批評家のような発言と文章の実践をくり返す。気づいてみると、ある日、その人は本当に批評家になっていることだろう。しかし、その実、批評家というものが仮の姿であり、ひとりの人間の生にとっては演技に他ならないことに気づく。そのような生における「事実」と「虚構」の揺れをフィルムに定着しているところに、羽仁進のドキュメンタリーの凄みがあるのだ。 絵を描く子供たち.jpg 『絵を描く子供たち』 大島渚の反中立性  1959年に松竹から『愛と希望の街』で衝撃的な監督デビューをはたした大島渚は、松竹ヌーベルバーグとして世間に迎えられるが、翌々年の61年には『日本の夜と霧』が会社の判断で上映中止にされてしまい、抗議の退社をしている。その頃から、大島渚の才能に目をつけていた、日本テレビの牛山純一の誘いを受けて制作したテレビ・ドキュメンタリーが『忘れられた皇軍』(63)である。この作品によって大島渚は、羽仁進が批判した記録映像における擬似的な客観性を、もっと強い言葉で、もっと強烈な作品によって打ち砕こうとしている。   当時、テレビのドキュメンタリー番組はその方法を模索していた段階であったのであろうが、劇映画という外部から入ってきた大島渚は、すでにその方法論が確立していると見た。「私にとって記録とは何か」(「大島渚著作集 第二巻」)という文章において、大島渚はNHKがラジオ番組の構成の伝統から形作り、ジャーナリズムからテレビへと持ち込んだ客観性・中立性というものを「制約」として捉えている。彼によれば、放送法という法律にある「意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」という条文は、番組全体を貫くテーマ(意見)を設定するときの制約となり、問題に対する作り手の焦点をボカしてしまうものでしかなかった。 《更に、中立的・客観的ということが、真に存在しうるかという疑いを、頭から押さえつけてしまうことによって、逆に、非中立的・非客観的ですらあります》  そのように、大島渚はテレビ・ドキュメンタリー制作におけるイデオロギーに対して、痛烈な批判を浴びせた。そのような批評から彼が導きだしたのは「一人の人間の強烈な人間的関心を通じて、記録するという方法」であった。擬似的な客観性や中立性の代わりに、1人の作家が主体性を持って、社会の問題を自己の視点から記録するという方法論を、文字通り、大島渚は『忘れられた皇軍』において実践してみせた。是々非々は別として、これは大島渚という強烈な個性を持った作家には適した方法論であった。意図的に客観性・中立性を放棄したことは、この作品の強度を強くする効果があったからだ。 CIMG1677.JPG 会場の様子 『忘れられた皇軍  『忘れられた皇軍』の社会的背景には、日本が太平洋戦争で敗北するまでの36年間、植民地化されていた韓国から多くの人たちを半ば強制的に日本へ連れてきて、戦争中に天皇の兵士として戦場へ送り込んだという歴史がある。その戦場で負傷した人たちは、戦後に韓国が独立をはたしたため、自動的に韓国国籍に戻ることになり、軍人に対する年金が貰えなかった。それで傷痍軍人の白衣を身にまとい、街頭や時には電車のなかで乞食をすることによって生活していたのだ。  そんな傷痍軍人たちが17人ほど集まって「元日本軍在日韓国人傷痍軍人会」という団体を作り、首相官邸、外務省、韓国在日代表部において陳情をする姿を一日記録したのが『忘れられた皇軍』である。しかし、日本政府からは日本国籍ではないという理由から「韓国政府に陳情せよ」と言われ、韓国の代表部では「日本の戦争で受けた傷の補償だから、日本政府にいうしかない」と拒否される。このドキュメンタリー作品が発するメッセージは、客観性・中立性に拘泥しない分、明確で先鋭になっている。ナレーションにもあるように「私たちは、この人に何もしていない。日本人たちよ、私たちよ、これでよいのだろうか」という問いかけである。  そのメッセージを強めるために、両目を失い、サングラスをかけた徐洛源という男を中心に、一本足の男、松葉杖の男、片腕の傷痍軍人たちの痛々しい姿を、テレビの受像機を通じてお茶の間へ流したのである。記録映像の衝撃の強さが、人々の目をそのメッセージに向けさせる力になる。大島渚はそのように考えたのに違いない。だからこそ、彼は主役に据えた、いつもサングラスをかけている失明した徐洛源の「つぶれた両眼を撮りたい」と考えた。それは最初からの狙いだったのだ。 《彼は撮られていることを意識しすぎた余りに感情がたかぶり、その高ぶった感情が自分の境涯を私に説明しようと急いでしまって、遂にカメラの存在を忘れ、黒眼鏡を外してしまったのです》  そして結果的に、フィルムには当初の狙いを越えるものが記録された。彼の眼のない眼から涙がこぼれるところが、はっきりと映されたのである。  こうして大島渚は、ドキュメンタリーのカメラが持つ「加害性」をはっきりと意識するに至る。撮影の対象となる人間にも、撮られたい部分と撮られたくない部分がある。そしてそれが、作り手が撮りたいという意図と必ずしも合致しないという点では、対象の人物にとってカメラは加害者なのである。大島渚の方法は、対象の人物にカメラの存在を強く意識させながらも、その人物を追い込んでいくことで、心の奥底に隠しているものを強引に引っぱり出すというものだ。彼はそれを「演出」ではなく「対決」と呼んでいる。  《撮影の過程でも、編集の過程でも、私は何度も、この人たちとの対決によって自分の今まで持っていた考えが破壊されることを感じました。ここで初めて私は、映像記録においては、記録する対象との対決によって、記録者自身が破壊され変革されなければならない。そして、そのことの記録が全体としての記録の中にふくまれていなければならないという教えを得ました》  このようなとき、ドキュメンタリーにとって「記録」とは何を意味するのだろうか。羽仁進はカメラという存在の介在というよりは、撮影者の介在によって子供が演技をし、その人生そのものが変化してしまう、その部分まで「記録」しようと欲した。大島渚はカメラの加害性を意識しながら、韓国籍傷痍軍人を撮影し、彼らと対峙することで、撮影者が変革され、その自分自身の変革さえも「記録」におさめなくてはならないと考えた。ここで一つだけ確かに言えることは、彼らが客観性・中立性という聖なる台座を放棄することで、自身のドキュメンタリーの方法を模索していったということである。  大島渚が主張するように、もし客観性・中立性というものが捏造された視点や立場に過ぎないのであれば、「私」という主体から眺められた現実に対して「私」が抱いた考えを強化するために、映像による事実を集積することが「記録」であることに間違いはない。しかし、ここには、或る1つのテーマやメッセージに、事実を記録したはずの映像が従属してしまう、という批判がついてまわるだろう。NHK的な架空の客観性を前提とする方法も、大島渚の主体的な反客観の方法も、どちらも二項対立するものである以上、ある立場の両極端なのである。  とはいえ、その後の世の中で、記録映画よりはテレビ・ドキュメンタリーこそが社会的な影響力の大きさを保持し、一般的な受け手にとっての「ドキュメンタリー」というイメージと概念を形成してきたことを考えれば、ジャーナリズム寄りの考え方を持つテレビ・ドキュメンタリーは無視できない大きな存在である。現代的な視点からみれば、むしろ大島渚の方法論は、一般化したテレビ・ドキュメンタリーの方法に対する対抗的な手段だったと考えることができよう。撮影機材のデジタル化と軽量化が進み、個人や少人数の手によってドキュメンタリー作品が制作できるようになっている現在、撮影者が対象者と主体的に衝突する大島渚の方法論は、きわめて有効な方法となっていくのかもしれないのだ。 (つづく) ※続編では土本典昭小川紳介、萩元晴彦、今村昌平らの映画を取り上げる予定です。 『教室の子供たち』 制作:岩波映画製作所 監督:羽仁進 撮影:小林静夫  1954年/29分/モノクロ 『絵を描く子供たち』 制作:岩波映画製作所 監督:羽仁進 撮影:小林静夫  1956年/38分/モノクロ 『ノンフィクション劇場 忘れられた皇軍 ディレクター:大島渚 プロデューサー:牛山純一 ナレーター:小松方正 撮影:柴田定則 編集:溜尾康平 音響:森本喬雄 1963年/25分/モノクロ/テレビ・ドキュメンタリー 「座・高円寺ドキュメンタリー・フェスティバル」サイト http://www.venus.dti.ne.jp/~djdj/TheKouenji/index.html 上映作品一覧 ※クリックすると拡大されます 4page-n.jpg