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元日の午後の吉祥寺を、前野健太がギターを鳴らし、歌いながら歩いてゆく『ライブテープ』(09)、新宿からフランクフルトにいたる前野健太のライブを編集し、2枚組セルDVDとして発表された『DV』(11)を経て、『トーキョードリフター』ではネオンの消えた東京で、前野健太がやはりギターを鳴らし、歌う。ひとりのドキュメンタリー作家が、ひとりの歌い手を記録しつづけることは珍しい。けれども、松江哲明と前野健太との関係は、「撮る/撮られる」という単純な関係ではなく、この三作を通じてなお変化しつづけている。その移りゆきは、ひとりの映画作家が、歌い手の強烈な個性をかみしめつつ、共感を隠せないもうひとりの自分として発見してゆくプロセスのようにも見える。
松江作品では、対象者との関係性を築いてゆくその過程をドラマツルギ―にするのではなく、むしろ対象者との「協働関係(コラボレーション)」においてともにドラマを組み立ててゆく、ということがある。対峙するのではなく、横に居並ぶこと。『童貞。をプロデュース』(07)で対象者の「童貞」にカメラを託してしまうことは、こうしたコラボの端的なあらわれであり(「託しカメラ」)、『あんにょん由美香』(09)のラストシーンでは、まさにすべての登場人物とのコラボとして「映画」という営為をつむいだ。サブジェクトではなく、プロジェクトなのだ。
『ライブテープ』においても、つねにフレームの中心を占める前野健太は、旧来のドキュメンタリーの意味での「対象者」ではなく、むしろ「対象者」の役割を果たすスタッフのひとり、という位置づけのほうがより正しい。撮影=近藤龍人、録音=山本タカアキ、演奏と歌=前野健太。これは松江監督の師匠筋にあたる大監督が、「撮影とセックス=カンパニー松尾」とクレジットすることの発展系だといえるかもしれない。『ライブテープ』の前野健太は、被写体であると同時に行為者でもある。ただしこの作品は、フレームの内側にいる前野健太を、こちら側にいる松江監督がときに挑発しながら演奏を記録してゆくその限りでは、いまだ「撮る/撮られる」の圏域にあるといえる。終盤では監督がじかに「対峙」してインタビューめいた対話がなされ、サングラスをつけてはまた外す謎めいた歌い手の横顔が、少しだけ明らかにされる。
番外編ともいうべき次作『DV』では、前野健太の「本業」としてのライブに松江監督のカメラはつき従い、親密な距離で記録がつづけられる。ここでは2枚のディスクにまたがって、ライブの光景がてらいなくつながれているのだが、DISC1では、高円寺「円盤」における磯部涼によるインタビューがときおり挿入される。興味深いのは、「『きっと今まで自分が作ってきたドキュメンタリーなら僕が前野さんに直接聞かなきゃいけなかったんだろうけど、このDVDではそれはしたくないな』と思った」と作家が述懐していることだ(『DV』付属の全曲解説より)。この言葉の真意はわからないけれども、『ライブテープ』から『トーキョードリフター』への変遷からふり返ってみたとき、この述懐には作家と歌い手の関係性のたしかな変化が刻まれているように感じられる。松江哲明にとって、前野健太はすでに向き合うべき「対象者」ではなく、横に居並ぶ「協働者」のひとりであるということが、ここでたしかに自覚されている(『ライブテープ』から『DV』にいたるなかで感動的なのは、このふたりをつないでいるのが「父の死」という出来事であることだと思う)。
そして『トーキョードリフター』では、松江監督と前野健太との関係性はもはや完全にカッコ入れされている。カメラのこちら側から監督が声をかけることはなく、国道を走るバイクを高みから発見する冒頭から一貫して、カメラはほとんど劇映画のような匿名性を帯びている。これに対し、画面のなかでギターをかき鳴らす歌い手も、カメラの存在をまるで気に留めない。その歌い手が「前野健太」であることはどう見ても明らかなのだが、前二作のように曲名が画面に現れることもなく(映画が曲を紹介することなく)、歌いつづける彼もまた匿名化しようとしているように見える。ふたりは完全な協働関係に入っている。そしてこの匿名的な記録行為から浮かび上がってくるのは、ネオンを欠いた東京を漂流する歌い手=映画作家の、「社会派」としての横顔であるのかもしれない。
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『ライブテープ』において、松江監督は歌い手を挑発しながら画面のなかで協働し、カメラと6本のマイクによって吉祥寺の元日の午後を切り拓いてゆく。けれども、家族や恋人という親しいものたちが寄り添って過ごす一年の最初の休日は、すこしもゆるがない。撮影のために道路を貸し切ることなどついになく、歌い手もクルーも信号をきちんと守り、また駅の構内ではギターと歌をきちんとやめ、子どもにはきちんとサングラスをプレゼントし、映画は〈町の論理〉にみずからをゆだねながら、やがて夕暮れとともに町に溶けてゆく。
これに対し、『トーキョードリフター』では、東京という〈町の論理〉が、灯りを失うことで失調をきたしている。もちろん、ネオンを欠くことで、人びとの生活が大きく変わるわけではないし、原発事故から2カ月余りを経たこの時期は、むしろ首都が灯りを取り戻しつつあるときでもあった。それでもなお、いまからすれば異様なほどに暗い新宿や渋谷の光景は、都市が都市の論理ではなく、東京電力といういち企業の偽装の論理によって本来のすがたを奪われていたことを如実に告げている(都市本来の資本主義に基づく論理が肯定すべきものであるかどうかはここでは関係がない)。
新宿の路地で歌い始める前野健太、その背後を、勤めを終えた背広すがたの大人たちが足早に通り過ぎてゆく。『ライブテープ』のような元日の午後のおだやかさはそこには皆無で、仕事を終えた金曜の夜が画面に広がっている。ギターを抱えた歌い手は、闇のなかであたかも孤立を深めてゆく。やがて渋谷にたどり着き、放射線をいくらか含んだ雨脚が強くなってくるとともに、前野健太の歌に変化が見え始める。H&M前での『ファックミー』から、頑強そうな鉄格子を下ろした109前での『コーヒーブルース』を経て、スクランブル交差点へと至るワンショットは、このフィルムの白眉というべき時間を形成している(公開劇場であるユーロスペースから駅へ向かう帰り道にシンクロする)のだが、ここで歌い手は烈しい怒りを表現しているように見えるのだ。
前作『DV』において面白いのは、福岡のFMラジオに出演した前野健太が、パーソナリティであるコガ☆アキから「前野さんの歌って風刺ですよね、社会派というか」とコメントされ、「初めていわれました。うれしいですね」と狼狽しつつ答えているシーン(DISC1)なのだが、前野健太が「社会派」であるとすれば、たとえば「ずっとウソだったんだぜ」と歌うことによってでは決してなく、「酔ったら、したいだけ」と歌うことで、生活の当たり前の気もちをていねいにすくい取り、ときに悶絶しつつ歌いつづけるそのことによってであると思う。そしてそれは、松江哲明が仮に「社会派」と呼ばれることの条件でもあるのではないか。
渋谷で「ファックミー」と絶叫する前野健太には、そうした「社会派」=生活者としての怒りが垣間見える。『ライブテープ』のように、吉祥寺の町になじんでゆくのではなく、あくまで都市の異物=漂流者としてごつごつした存在感をあらわにしながら、歌うことでさらに孤立を深め、失調をきたした都市とともに自分も壊れそうになる。それでも飯(うどん)を食い、ガソリンを入れ、漂流をつづける。生活を歌いつづける。ファック・ミー。
いつの間にかサングラスを外している前野健太は、いつものように取り返しのつかないことをしたような表情をしながら、歌っている。その取り返しのつかなさが何に起因するかは、わからない。わかったのは、『トーキョードリフター』は、「社会派」=生活者の前野健太と松江哲明による、「風刺」の利いた映画だということである。
『トーキョードリフター』予告編
『トーキョードリフター』
監督:松江哲明 出演・音楽:前野健太
撮影:近藤龍人 録音:山本タカアキ 制作:岩淵弘樹
車両:大西裕 現場記録:九龍ジョー
製作:Tip Top 配給:東風
(c)2011 Tip Top
12月10日より渋谷・ユーロスペース他にて全国順次公開
公式サイト http://tokyo-drifter.com/