映画芸術

脚本家荒井晴彦が編集発行人を務める季刊の映画雑誌。1月、4月、7月、10月に発行。2016年に創刊70周年を迎えました!書店、映画館、Amazon、Fujisanほかにて発売中。

闘うドキュメンタリー時評Vol.4 <br>『アメリカ ―戦争する国の人びと―』『Marines Go Home 2008』『One Shot One Kill―兵士になるということ―』 <br>金子遊(批評家)

ドキュメンタリーは嘘をつく  広く使用されている「ドキュメンタリー」という概念には、覆されるべき神話が2つほどあるのだと思われる。1つは、ドキュメンタリー作品がありのままの事実を提示する、という一般に流布している誤解である。もう1つは、ドキュメンタリー作品が社会・政治的な題材を扱うときは、一定の中立性や客観性を保持すべきだという、実作者から受け手までに広がる共有的な幻想である。 main2.jpg 『Marines Go Home 2008』 写真:浅見裕子  森達也は『ドキュメンタリーは嘘をつく』という著書において、「すべての映像はドキュメンタリーである」というジャン=リュック・ゴダールの言葉を引用する。このフレーズは挑発的に聞こえるかもしれないが、映画史を振り返ってみれば、当たり前のことをいっているのに過ぎない。フランスのリュミエール兄弟が初期に撮影した『工場の出口』や『ラ・シオタ駅への列車の到着』は記録映像であったし、彼らが世界を旅しながら撮ったシネマトグラフは、現代でいえば紀行ものやホームムービーだった。そこへジョルジュ・メリエスらのような才能が現れて、再現シーンを作るために固定カメラの前で人々に何かを演じさせるようになり、映画は次第にフィクションの方へと分化していった。映画は最初からドキュメンタリーであったのだ。  「すべての映像はドキュメンタリーである」ということの真意は、カメラの前で演じられる行動を記録するという点で、フィクションといえども、実は演技を記録したドキュメンタリーにすぎない、ということではないか。そう考えると、森達也フレデリック・ワイズマンの言葉を引きながら、ドキュメンタリーの嘘を「演技」や「演出」という観点から考察していることが気になってくる。すなわち、ドキュメンタリーに登場する人物といえども、撮影者との関係のなかで自分自身や或る社会的な役柄を演じる。だから、ドキュメンタリーを撮影する側にとっては、すべての人間が演技者であり、彼らはカメラがない場所でも常に演じ続けている存在である。ただ、彼らは役者とは違って、色々な役柄を演じわける幅がないだけなのである。  そして、カメラが入ることによって登場人物は影響され、彼や彼女が普段することのない発言や行動をするようになる(演技性)。また、撮影者も自分の意図する作品の構成に合わせて、人物が動くことを望むようになるだろう(演出性)。こうして、ドキュメンタリーでは記録するカメラの前で、顕在的にであれ潜在的にであれ、演技と演出が成されているのである。 ワタダ支援行動のみなさん.jpg アメリカ』 演出と虚構  だから、どのようなドキュメンタリー作品も、本質的には「演技」や「演出」を包含している。  藤本幸久、久保田幸雄、影山あさ子らが制作したドキュメンタリー『Marines Go Home 2008 辺野古・梅香里・矢臼別』は、一見、演技や演出とは何ら関係のない、事実だけを淡々と伝える作品のように見える。彼らは、北海道の矢臼別にある陸上自衛隊の演習場で立ち退きを拒否し、40年間、演習場の真ん中で居住を続ける農民を取材する。そこへ、アメリカ軍の実弾射撃場になった韓国の梅香里(メヒャンニ)で反対運動を展開し、射撃場の閉鎖と損害賠償を勝ちとった市民運動家のチョン・マンギュが訪ねてくる。続いて取材される韓国の梅香里は、豊かな海の残る干潟なのだが、自然に形成された島をアメリカ軍の航空機やヘリコプターがいまだ爆撃訓練で破壊しており、人工的な兵器によって島が削られて消失していく衝撃的な映像が記録される。  『Marines Go Home 2008』では、国際社会において相対的にその存在感が薄れているとはいえ、東アジアの軍事プレゼンスのなかで、アメリカ軍がいかに帝国的なネットワークを保持しており、周辺住民が生活を守るためにその脅威と戦っているかが提示される。住民の立場から考えれば、それは緊急性を要する課題であり、制作者たちのカメラはこの事態を世間に報せるべく、その闘争に加担する立場をとる。『Marines Go Home 2008』を観る者のなかには、制作者が前面に押し出す、社会正義を掲げたメッセージに違和を感じる者もいるだろう。ドキュメンタリーを見慣れた者であれば、アメリカ軍の不正を提示する目的ばかりが前景化し、登場する人物の人間性が掘り下げられないことに不満を覚える者もいるかもしれない。しかし、これも一つのドキュメンタリーの「演出」の方法なのである。 梅香里にて.jpg 『Marines Go Home 2008』 梅香里に残る砲弾の残骸 《ドキュメンタリーとは、映像でとらえられた事実の断片を集積し、その事実がもともともっていた意味を再構成することによって別の意味が派生し、その結果、生み出される一つの〈虚構=フィクション〉である》(『ドキュメンタリー映画の地平』佐藤真)  佐藤真の言葉を『Marines Go Home 2008』にあてはめて考えれば、矢臼別や梅香里の反対運動をする人たちの現況を取材し、彼らにインタビューをすることは「事実の断片」の集積にあたる。しかし、その事実は制作者たちにとって、人々の生活空間の近くに戦争に加担する軍事施設があり、それは追い出されるべきであるという強いメッセージを醸成するための構成子にすぎない。「映像が作り手のメッセージに従属している」という、ありがちでナイーヴな批判はここでは当らない。そもそも、そのメッセージを運動体として発するために、映像は主観的に撮影されているのであり、そこには編集と構成によって生み出される「虚構性」が浸透しているからだ。  登場する人々の「演技」という面については、どうであろう。『Marines Go Home 2008』は、沖縄の普天間基地の移設先として海上基地の建設予定地になった辺野古での、「命を守る会」の阻止行動を記録している。地元のおじい、おばあたちによる座り込み、そして防衛施設局によるボーリング地質調査の海上での阻止行動が主に描かれる。インタビューでは、内地から支援に駆けつけた若者がおじい、おばあに教わった森の大切さを語り、或いは映像に映ることを避けていた中年女性がカメラの前に出てきて現状を訴える。無論、彼らの心情や行動に嘘偽りはないのだが、ここに共通の目的意識を持つ登場人物とカメラの共犯関係を見ることができるだろう。 辺野古やぐら2.jpg 『Marines Go Home 2008』 辺野古でのボーリング調査阻止運動 客観性という神話  そのように考えてくると、ドキュメンタリーは事実という素材を元にしながらも、作り手の世界観が強く出る表現形式であるということがわかる。極端にいえば、撮影対象をどのようにフレーミングし撮影するかという判断において、映像はすでに演出され、虚構化されているのだともいえる。ところで、私たちのもう1つの関心事である、ドキュメンタリーは公平中立なものであるという神話はどこから来ているのだろうか。それを森達也はジャーナリズムとドキュメンタリーの混同に見いだす。 《報道(ジャーナリズム)というジャンルが、客観性や中立性を自覚的に標榜することは正しい。これに文句をつけるつもりはない。しかし、標榜すると同時に、主観を完全に排除して中立な位置に視点を置くことがそもそも不可能であることも、しっかりと自覚すべきなのだと僕は思う。中立な位置に立つためには、両端から等分の距離を測定することが前提になる。でもならば、その両端の位置は誰が決めるのか? 言い換えれば誰かが決めなくてはならない。配属されたばかりの若い新聞記者が、まずは先輩記者やデスクに指導される両論併記なども同様だ。》(『ドキュメンタリーは嘘をつく』) 梅香里。50年以上続く米軍の実弾射撃.JPG 『Marines Go Home 2008』 梅香里の実弾射撃で削られる島  社会・政治問題に関して、事実に基づく取材をして映像にまとめ上げるという点では、ジャーナリズムもドキュメンタリーもさして変わるところはない。両者は似た相貌を持っている。一般に新聞、テレビ、ラジオ、雑誌などの報道媒体には、可能な限り事実だと思われるものを伝える責務があると信じられている。だが、森達也にいわせれば、その中立性や客観性は幻想にすぎないのだ。特にテレビという媒体が中立性を標榜しながら、報道番組やノンフィクション番組を放映し、多くの人々のドキュメンタリー観を形成していることは否定できない事実であろう。  何度もいうようだが、ジャーナリズムと違い、ドキュメンタリーというジャンルでは、作り手の主観や世界観やメッセージが優先される。『Marines Go Home 2008』では、辺野古のボーリング阻止運動における、海上と海中での施設局・海上保安庁の船舶と「命を守る会」の船やカヌーの衝突が描かれる。この映画の魅力は、00年代の市民運動や反基地闘争がどのように行なわれているのか、その闘争形態と運動を中立ではなく、カメラで共闘するという立場を明白にして記録していることである。  ただし、反アメリカ軍基地の闘争において難しいのは、敵がアメリカ軍という国境を超えてネットワーク状に広がる組織体であるということである。『One Shot One Kill―兵士になるということ―』で描かれるように、アメリカ軍の殴りこみ部隊である海兵隊では、全米から若者がかき集められ、サウスカロライナ州にあるブートキャンプ(新兵訓練所)などで訓練される。それから、沖縄のアメリカ軍基地へ送られ、ときには北海道の演習場で軍事演習を行い、イラクアフガニスタンの戦場へと送り込まれる。  そのようななかで、闘争主体となる市民運動のあり方も、越境的且つネットワーク的にならざるを得ない。現代の市民運動や反対闘争では、メディアやインターネットを通じて参加意思を持った人々がさまざまな地域から集まり、組織という単一性に還元されずに、多種多様性を保持ながら共同的な闘争をくり広げる。『Marines Go Home 2008』では、辺野古の反基地闘争のために沖縄本島の地元民だけではなく、本州から若者や老夫婦が住み込みに来て、文字通り体を張って闘う姿がとらえられている。彼らがインタビューを通じて表明する闘争に参加した理由も、さまざまである。 011.jpg 『One Shot One Kill』 (C)影山あさ子 政治的中立を超えて  直接的に政治的題材を扱うドキュメンタリー映画において、制作者がある特定の政治的主張に肩入れをしたり、その政治的立場を作品のなかで表明したりすることは周到に避けられる傾向にある。それには、過去のニュース映画やドキュメンタリー映画が、戦争の翼賛や左翼のイデオロギーのために政治利用されてきた歴史への反省があるのであろう。それはあたかも、ドキュメンタリーから政治的偏向を払拭することが、表現として、芸術として、より高級であるとするような風潮である。  しかし、ここ数年の国際映画祭の受賞作品の傾向を見てもわかるように、世界的には政治的立場をはっきりと明白にする映画や、単に社会的な問題を紹介するだけなく、それに抵抗するメッセージを打ち出す映画が脚光を浴びるようになってきている。これは一種の映画の成熟といえるだろう。受け手が映画のメッセージに簡単に操作されない成熟度に達したため、強いメッセージ性を持ったドキュメンタリー映画を作ることの不安が払拭されてきているのだ。  藤本幸久が監督した『アメリカ ―戦争する国の人びと―』は、映画性・芸術性を犠牲にしてでも、アメリカ本国で起きている戦争に関わる事象を丸ごと伝達する、という強固な意志に貫かれている。軍隊の勧誘のターゲットとなる高校生たちに、軍隊の実状や経験を語る元教師や元海軍兵士の語りは、映画として見るには冗長である。イラクの帰還兵が戦場体験やPTSDを語るくだり、ベトナムからの帰還兵がインタビューに答えて帰国してからの半生を延々と話しつづけるくだりも、あまりに長い。  ドキュメンタリーというよりも、アメリカを200日間取材した旅の映像報告かレポートといった体裁である。それにもかかわらず、『アメリカ ―戦争する国の人びと―』がドキュメンタリー映画として優れているのは、作り手の「演出」と登場人物の「演技」が完璧に合致している透徹さを持っているからだろう。そして、客観性や中立性といった神話に惑わされることなく、作り手の主観とメッセージ性が隅々まで行き渡っている点である。  ジョン・グリアスン/ポール・ローサ的にドキュメンタリーを資料性という価値でとらえれば、『アメリカ ―戦争する国の人びと―』はまさに資料に徹した作品である。また、佐藤真の言葉に寄り添って考えれば、この作品は映像でとらえた事実の集積であり、再構成によって別の意味を派生させる「虚構」でもあるのだが、それに成功しているという点で、その虚構化を通じて、まざまざと「現実」を突きつけてくるものとなっているのではないか。 practicing how to handle rifles in barraks.jpg 『One Shot One Kill』 (C)影山あさ子 「帝国」の戦争システム  その現実というのは、アメリカで好戦的な政権から民主的な政権へと権力が移行しようと、そもそも戦争システムというものは国家装置の外部に存在するものだから、状況は好転しないということである。それはひたすら駆動し続けるのであって、その構成要素や個人が誰であろうと差し支えないのだ。  『アメリカ ―戦争する国の人びと―』のエピソード「高校」や「抵抗」で示されるのは、アメリカ軍が周到に民族的マイノリティ層と貧困層を取り込んでいる姿である。彼らアメリカ社会のマイノリティとして成長した若者を、勧誘者は進学、金銭、アメリカ社会への愛国的同化という甘言を弄して軍隊へ入隊させる。『One Shot One Kill―兵士になること―』で恐ろしいのは、多種多様な出自を持つ個人を、たった12週間の新兵訓練によって、非個性的な兵士集団に変えてしまう様である。男性入隊者が次々と髪の毛をそり落とされる映像に、非人間化の過程を如実に見てとることができる。 Carlos Arredondo a father who lost his son in Iraq.jpg アメリカ』  『アメリカ ―戦争する国の人びと―』で描かれるのは、自律的で能動的な戦争システムの進行を食い止めようと抵抗する人々の姿である。しかし、政治、経済、雇用、教育、銃社会国民感情などアメリカ社会のあらゆる面にびっしりと根を張り、浸透している戦争遂行のマシーンは途方もなく巨大であり、誰にもその全体性を把握することなどできないだろう。それらの抵抗をドキュメンタリーとして記録する行為によって、かろうじて戦争システムの輪郭が可視化されるくらいである。  エピソード「戦死」では、戦死した兵士の母親たちによるピンク・ポリスの反戦運動ポートランドの新兵募集所前での祖母たちの座り込み運動が取材される。「先住民」では、テキサスのメキシコ人先住地域にあるケリー基地の周辺で、深刻な汚染と癌患者が多発するという報告がなされる。そこは空軍の軍用物資の備蓄施設だったので、化学物質が廃棄され、核兵器の加工と廃棄も行っていた地域だった。このような戦死者と遺族、兵器の廃棄や土壌汚染を押しつけられた地域、さらには「見えない人びと」で示される退役軍人の多くがホームレスになっている社会現象も含めて、それらがアメリカ社会における戦争システムの一部を成しているのだということが段々と見えてくる。  『アメリカ ―戦争する国の人びと―』を見ていると、戦争を推進する静かなシステムとは、単に政治権力、軍産複合体、兵士という雇用、基地の周辺経済が一体となった総体というだけではないと気がつく。アメリカに住み、アメリカ軍に関わるあらゆる個人の精神構造から、世界において警察力を行使する戦争を行おうとする集団的欲望まで、そして戦争によって消費される兵器、人体、廃棄物も含めて、それらが複雑に絡みあったまま、社会総体としてシステムを成しているのではないだろうか。 十字架.JPG アメリカ』  戦争システムは北アメリカの大地から人々をくみ上げ、世界中から越境してくる移民をも取りこみ、平準化された愛国的な兵士から成るアメリカ軍を構成する。彼らを、日本を含む東アジアや世界中のアメリカ軍基地に備蓄し、兵器と共にグローバルな紛争地域における戦場へ送りこむ。そして、負傷兵や戦死者は本国に送還して恩給や補償を与え、それらを支払うために新たなる戦場を創出する。大地からくみ上げるのは人的資源ばかりではなく、物質を化学物質や火薬に精製し、鉱物を兵器へと加工し、それらを消尽することで、新たなる生産力を創出し、人々に物資的豊かさを供給する。  要するに、アメリカ軍とはアメリカ社会そのものの写し絵であろう。このようなモンスターがどうして生み出され、いまも延命されているのか。それに対して、どのような抵抗が可能であり、私たちに一体何ができるのか。広く東アジア地域まで巻きこむ、その帝国的な生産と消費のサイクルを食い止め、マシーンを解体する方策はどこにあるか。『アメリカ ―戦争する国の人びと―』によって提示される「現実」を前にして、私たちは途方に暮れるばかりなのである。 アメリカ ―戦争する国の人びと―』 監督:藤本幸久 プロデューサー、インタビュー:影山あさ子 2009年/日本/ビデオ/8時間14分/カラー 宣伝・配給:森の映画社 公式サイト  http://america-banzai.blogspot.com/ 3/20(土)より、ポレポレ東中野他、全国順次ロードショー 『Marines Go Home 2008 辺野古・梅香里・矢臼別』 監督:藤本幸久 2008年/日本/ビデオ/1時間45分/カラー 宣伝・配給:森の映画社 公式サイト  http://www.hayaokidori.squares.net/marines_go_home/ 3/13(土)より、ポレポレ東中野にてレイトショー 『ONE SHOT ONE KILL―兵士になるということ―』 監督:藤本幸久 2009年/日本/ビデオ/1時間48分/カラー 宣伝・配給:森の映画社 公式サイト: http://america-banzai.blogspot.com/ 4/10(土)より、渋谷UPLINKでロードショー