映画芸術

脚本家荒井晴彦が編集発行人を務める季刊の映画雑誌。1月、4月、7月、10月に発行。2016年に創刊70周年を迎えました!書店、映画館、Amazon、Fujisanほかにて発売中。

闘うドキュメンタリー映画時評 Vol.3 <br>『鏡の中のマヤ・デレン』『聖なる騎士たち:ハイチの生きた神々』 <br>金子遊(批評家)

 これまで、このコーナーで映画時評の形式を借りながら、ビデオカメラが小型化・高性能化し、家庭用のパーソナル・コンピュータで手軽に映像編集ができるようになり、その恩恵を受けているビデオ・ドキュメンタリー映画を中心に考えてきた。ドキュメンタリー映画が個人や最少人数で制作できるようになって、それまで慣例的に使われてきた劇映画、記録映画、実験映画といったジャンル分けの概念が揺らいでいる。  フィリピンのキドラット・タヒミックや日本の原将人といった先鋭的な作家の映画群が示すように、パーソナルな生活や記憶というものが、群島や列島などの地理的記憶と渾然一体となった形で提出され、虚構や引用を随所に織りこみながら「個人映画」とでも呼ぶしかない、或る強度を持ったドキュメンタリー映画が産出されている。いや、それは既にドキュメンタリー映画という枠組みにすら収まりきらない、既成の映画言語を書き換える、何か真に映画らしい営みになっているのではないか。  振り返れば、奇跡的な映画の営みを見せたマヤ・デレンが活躍した1940年代から50年代は、ドキュメンタリー映画においても、荒々しい実験精神が跋扈する時代であった。テクノロジーの変遷によって現出しつつあるドキュメンタリー映画の新時代を考える上で、いま一度、マヤ・デレンの映画を再考することは決して無駄なことではないだろう。 maya_smoking.jpg もう一つの映画  さて、『鏡の中のマヤ・デレン』がようやく劇場公開される。これはマルティナ・クドゥラーチェク監督による「マヤ・デレン:人生と作品」と副題をつけたくなるような王道のドキュメンタリー映画である。マヤ・デレンとその映画に関わった当事者たちのインタビューが丹念に記録されており、非常に資料的価値の高い映画となっている。  マヤ・デレンは6本の美しい短編映画と未完成作品、それに1万8000フィートに及ぶハイチのヴードゥー教に関するフィルム・フッテージを残したアメリカ実験映画のミューズである。詩人、ダンサー、映画作家振付家、人類学者など、さまざまな顔を持つマヤ・デレンは、半世紀以上も前に映像文化における新しい事態について或る提言をしていた。『鏡の中のマヤ・デレン』において引用される彼女の語りでは、次のようになっている。 《映画カメラや映画というメディアが、電信手段や飛行機などの工業的なものの発達と同じ時期、同じ環境のなかで発展してきたということを思い出してください。そして、あるとき人間の精神に何かが起きたんです。(ハリウッド的な)映画システムがフィルムに閉じ込めてきたものを破壊しなければ、と思うようになった。これが私を魅了しました。あなたが映画作家になるのは、文学や絵画など他の表現手段ではできない、映画にしか提示できない何かがあると思うからでしょう?》  そして、商業的な価値を生みだす産業としての映画ではなく、もう一つの「芸術形式としての映画」を希求したマヤ・デレンにとって、プロフェッショナルとアマチュアの差はあまり意味のないことでもあった。大資本を背景にした映画産業による作品のほとんどが、それまでの文学や演劇から影響を受けた形式を逃れられていないと彼女は考えていた。そこで、映画にしかできないものは何か、映像にしかできないものは何かと考えたとき、マヤ・デレンはひとりの「アマチュア」を目指すことになる。  マヤ・デレンは「アマチュアとプロフェッショナル」(『Essential Deren』2005)という短文のなかで、こんな風にいう。アマチュアという言葉はラテン語のamatorから来ており、原義は「愛する者」という意味である。だから、アマチュアは経済的な必要や理由で何かをするのではなく、愛によって何かをする者のことである。そうであるならば、大きな予算をもって映画を制作するプロフェッショナルな映画人や俳優を羨む必要は全くなく、むしろ彼らが羨ましがる強みを最大限に使えばいい。それは芸術的にも、身体的にも「自由」であるということなのだ、と。 main-l.jpg 『午後の網目』(‘43) カメラを振り付ける  マヤ・デレンが当時のパートナーであったアレクサンダー・ハミッドと共に制作した『午後の網目』(‘43)や『陸地にて』(‘44)を見ると、文学や演劇が築いてきた物語形式を超えるために、夢のリアリティを駆使して、シュルレアリスム寄りの映画作品を創っていたことがわかる。  たとえば『午後の網目』のシーンでは、テーブルの上に置いた鍵を取りあげると、掌が真っ黒になっており、いつの間にか掌の上の鍵がナイフに変わっている。『陸地にて』の冒頭のシーンでは、海から砂浜へ打ち上げられたマヤが、巨大な流木を這うように上っていくと、人々が会話に興じる長テーブルの上へと出てしまう。いわゆる「夢のつなぎ」である。画面内の人物の連続する動きをとらえながら、背景を変えたショットで繋いでいくと、人間が夢を見ているときのような効果が得られるのだ。この段階では、マヤ・デレンの映画はシュルレアリスム映画の文脈のなかにあった、と一先ずいえる。  瞠目すべきは、次に作られた4分のサイレント映画『カメラのための振付けの研究』('45)である。この映画では「夢のつなぎ」は、何か別のものに変貌している。マヤ・デレンが書いた文章(「Choreography for the Camera」前掲書)を参照しながら、簡単な分析をしてみよう。 『カメラための振付けの研究』の最初のシークエンスでは、林のなかをカメラが右から左へゆっくりとパンしながら一回転する間に、同じダンサーが別の立ち位置で4回出現する。滑らかな一つのショットに見えるように、4つのショットを繋いでいるからである。また「夢のつなぎ」のように、ダンサーがひとつの連続的な動作をしているように見せるので、あたかもダンサーが別の位置へ瞬間移動しながらダンスをしているか、同じ動きをする4人のダンサーがいるかのような不思議な錯覚を与える。 study for.jpg 『カメラのための振付けの研究』(‘45)  マヤ・デレンは、このようにダンサーを空間や重力から解き放つ手法を「フィルム・ダンス」と呼び、ダンサーだけでなくカメラをも振り付けるのだという。つまり「夢のつなぎ」は「フィルム・ダンス」へと醸成され、撮影対象との関係のなかでカメラの動きも振り付けられ、いわばダンサーと共にカメラが踊っているのだ。『鏡の中のマヤ・デレン』では、この映画を振り付けたときの絵コンテが撮影されているが、これによって、ひとつ一つのショットが緻密に計算された上で撮影されていたことがわかる。同じドキュメンタリー映画のなかで、ジョナス・メカスは次のように語る。 《マヤが彼女の映画のなかでやったことは凝縮された状態や強烈さ、それに完璧さを創りあげることで、映画を詩のようにすることでした。散文は物語的で水平的であり、対照的に詩は垂直的なものなのだとマヤは言いました。映画の詩では、ひとつ一つのディテールを積み重ねていき、数分後にこれ以上行けないという強度まで持っていくのです。その地点では、すべてが配置され、使い果たされ、完璧になるのです》  マヤ・デレンの「フィルム・ダンス」では、ダンサーとカメラの新しい関係の構築が模索される。対象とカメラの関係は、主にレンズ、アングル、フレーミング、カメラワークなどで決められるが、自身がダンサーであり振付家であったマヤは、ダンサーへの振り付けで彼を演劇的な身体所作から解放しつつ、映画カメラ自体を振り付けることによって、それまでの映画文法から映画を解放しようと試みた。対象となる身体へカメラを向けるときの構造を、ハリウッド映画のように自明の文法によって完成形へ導くのではなく、それを破壊し、根本的なところから覆そうとしたのである。 ハイチのヴードゥー  このように「フィルム・ダンス」の観点からマヤ・デレンの映画を見直すとき、ようやく彼女がハイチのヴードゥー教のドキュメントを撮影した行為がなんであったのか、その片鱗が見えてくる。 ロシア系ユダヤ人の精神科医の家に生まれ、子供時代にアメリカへ亡命し、大学では政治学とジャーナリズムを専攻していたマヤ・デレンがダンスと人類学に目覚めたのは、黒人舞踊家で人類学者のキャサリン・ダンハムの影響であった。そこから、彼女は3年の月日をかけて『聖なる騎士たち:ハイチの生きた神々(Devine Horsemen:The Living Gods of Haiti)』という大部の人類学的な書物を著すことになった。だが、最初は何よりもダンサーとして、映画のドキュメンタリストとして、つまりは芸術家としてカリブ海の小島へ渡ったのである。  グッゲンハイム財団の公的芸術支援を受けてマヤ・デレンは、1947年9月に8ヶ月間滞在するためにハイチへ上陸した。『鏡の中のマヤ・デレン』によれば、親交のあった人類学者のマーガレット・ミードやグレゴリー・ベイトソンがバリ島で撮影してきた、祭儀でトランス状態になる人々のフィルムを見て、マヤは刺激を受けた。そして、この基金を受けるためミード、ベイトソン、神話学者のジョーゼフ・キャンベルらの支援を得て、これが実現したのである。映画では、36年からハイチでダンスと人類学の研究をしていたキャサリン・ダンハムが「最初はマヤに自分の業績を横どりされたようで腹が立ったが、彼女が真剣な人間で、ハイチの人々に受け入れられていたので許した」と証言している。  それからの8年間、マヤ・デレンは計22ヶ月をハイチで過ごしている。憑依現象やゾンビ伝説で有名なハイチのヴードゥー教のダンスを研究し、それについてのドキュメンタリー映画を制作する予定だったのである。しかし、映画が完成されることはなかった。一体、ハイチでマヤ・デレンの身に何が起きたのか? maya_dreaming.jpg  マヤ・デレンに執筆を勧めたジョーゼフ・キャンベルは、『聖なる騎士たち』に寄せた序文で次のようにいう。「人類学者が到着するとき、神々は去ってしまう」というハイチの諺があるが、マヤ・デレンは学者ではなく芸術家であり、人間の心のなかで起きる現象を認識する特別な能力を持っていた。ハイチを訪れる前に完成していた『午後の網目』や『カメラのための振付けの研究』などの映画は、夢や幻のなかで起きる視覚的なできごとを彼女が理解できることを示していた。最初、ハイチのダンスを主題に映画を撮るためにハイチへ入ったのだが、ヴードゥー教の儀礼における歓喜の顕現が彼女を魅了し、心をつかみ、彼女が知っていたどんな芸術よりも遠くへ運んでしまった。マヤはその神秘の泉における、言葉の仲介を必要としないメッセージを十全に受けとったのである、と。  わかるような、わからないような説明である。ヴードゥー教の儀礼における直接的な法悦が、マヤ・デレンが目指していたダンスと映画の関わりの先にあるものだったが、その凄まじい経験は映画にまとめられるものではないと判断し、彼女はその神話と祭儀の記述の方を選んだというのか。『聖なる騎士』の文章を読んでいても、秘教的なところのあるヴードゥーの人々がよそ者の白人女性に、よくぞこれだけの秘密を明かしたものだと感心させられる。  そのことに関して『鏡の中のマヤ・デレン』では、彼女のハイチ滞在中に通訳をつとめたハイチ人女性のマーサ・ガブリエルが登場し、カメラを寺院の跡地に案内して次のように語る。「マヤは寺院で奉公をしました。彼女はあらゆるロア(神々)の通過儀礼に参加し、守護してくれる精霊を手に入れたのです。彼女の頭はすっかり洗われて、カンゾ(ヴードゥーの聖職位階の一つ)になりました。それから彼女はパワフルになり、ハイチのどこへ行っても動けるようになったのです。どこへいって写真を撮っても、映画を撮っても許されるようになりました」。  マーサの証言は貴重であると同時に、本当であるとすれば極めて興味深いものである。 神の馬と憑依現象  先住民がスペインの入植者に絶滅させられた後、ハイチはフランス領になり、多くの黒人奴隷がアフリカから連れてこられた。この奴隷たちが反乱を起こして、革命を起こし、1804年に世界で初めての黒人国家を作った。ヴードゥー教はカリブ海の島々、ハイチ、ニューオーリンズなどに見られる西アフリカ起源の民間信仰で、植民地時代にカソリック教会から弾圧されながらも、山間に逃げこんだ逃亡奴隷たちの間などで発展したという。そのため一部キリスト教とも習合しているが、その儀式は太鼓を使った歌やダンス、さまざまな動物の生贄、そして神が憑依するトランスから成っている。  マヤ・デレンヴードゥー教に入信してまで撮影した、ヴードゥー教の儀礼のドキュメント映像は如何なるものなのか。『ハイチのフィルム・フッテージ(Haitian Film Footage)』は、生前には映画として完成されなかったが、幸いなことに、マヤ・デレンの3番目の夫であったテイジ・イトーらの手によって編集された『聖なる騎士:ハイチの生きた神々』(‘81/52分)を私たちは見ることができる。これはマヤが残したフィルムのハイライト部分を繋ぎ、そこへ彼女が録音した音楽と著書からの引用をナレーションでかぶせたものである。 divine.jpg 『聖なる騎士たち:ハイチの生きた神々』  この映像人類学的なドキュメンタリーは、途方もない刺激に満ちている。ヴードゥー教の儀式は開けっぴろげで歌とダンスによる祝祭的なものだが、マヤ・デレンのドキュメントには、鶏やヤギの生贄を神へ捧げ、激しく踊る黒人がカメラの目の前で憑依状態へ入り、手足を痙攣させ、泡を吹いた後で、神や精霊として振るまう、あまりにダイレクトな姿が記録されている。マヤ・デレンヴードゥーの聖職位階を持っていたのならば、彼女にこのような映像が撮れたの理由は感得できる。彼女はカメラをまわすだけではなく、実際の儀式にも参加していたのである。  Divine Horsemenは「聖なる騎士」と訳されるが、ヴードゥーの儀式において神懸りになる人間の頭は「神の馬」にすぎない。アフリカ的なドラムのリズムに合わせて踊るうちに、ダンサーの頭が真っ白になり、そこへロア(神・精霊)が降りてくる。マヤ・デレンは自分の経験から、それを「白い闇」と呼んだ。多くの宗教において祭りでは神や精霊が召還されるが、人間に直接降りてくる姿を見るとやはり畏怖心をおぼえる。最初に呼びだされるトリックスター、死とセックスの神、海の化身、鉄と戦いの化身など、多くの神格が『聖なる騎士』の映画と書物のなかで紹介されている。  同じくハイチへ調査旅行を重ねた人類学者のゾラ・ニール・ハーストンの著書『ヴードゥーの神々』には、まちがって邪悪な精霊が乗り移ったり、憑依した神に願いごとを頼んでも拒否されたり、頭の精霊が儀式の後も数日間離れなかった例などが報告されており、なかなかユーモラスでもある。降臨した神は、その場にいる偉い人間を罵ったり、女性に卑猥なことをしたりする、強いキャラクターを持った人間の延長のような存在でもあるのだ。なかには取り憑かれたふりをして、日頃の鬱憤を晴らしているだけの偽者もいる。ラム酒と胡椒による飲み物にすっかり顔を浸せといえば、偽者は尻込するので見分けられるという。ハーストンは儀式における演劇的な祝祭性を冷静な目で観察しており、マヤ・デレンヴードゥーのなかへ没入していった姿勢とは少し異なっている。 divine-horsemen.jpg  もう一つ、マヤ・デレンの『聖なる騎士たち』の映像で特筆すべきことは、カメラの立ち位置であろう。マヤは人々が集まり、歌い、踊るような場所では、身体を動かさずにはいられないダンサーであった。彼女が構えるカメラは常に人々の輪の中央にあり、踊っている人々のすぐ横でカメラも常に揺れ続けている。私たちはマヤ・デレンの映画が「夢のつなぎ」から、カメラ自体を振り付ける「フィルム・ダンス」へと変遷する様を『カメラのための振付けの研究』を例に考えたが、ここではさらにその手法が拡張されている。ヴードゥーの儀式のなかでドラムに合わせて即興的に踊る黒人たちのとなりで、マヤのカメラも即興的に振り付けられて、ダンスをしているのである。  これこそが、カメラとその対象となる人間身体の間で創りだした、マヤ・デレンによる最も独自なドキュメンタリー撮影の方法であろう。彼女の他にもヴードゥーの儀式の撮影を試みた映像作家やクルーには枚挙にいとまがない。しかし、彼らがカメラをまわすとき、神々は立ち去るのである。そこがマヤ・デレンとその他の撮影者との最大のちがいであろう。マヤのカメラワークは、カメラへの即興的な振り付けであると同時に、彼女が儀式において描いた身体運動の軌跡の記録でもあるのだ。  いうなれば、マヤ・デレンは彼女の提唱した映画詩とドキュメンタリーの撮影手段の合致を、ヴードゥーの儀式の人の輪のなかで試みていたのではないか。テイジ・イトーらが試みた『聖なる騎士たち』の映像人類学的な映画の編集は、決して的外れなものではなかった。しかし、その科学的で人類学的な方法や通常のドキュメンタリーの編集方法では、彼女の内的な体験は表現できないとマヤ・デレンは考えたのであろう。だからこそ、彼女は映画として完成することを断念したのであり、それを書物に著すしかなかったのではないか。 『鏡の中のマヤ・デレン 監督:マルティナ・クドラーチェク 出演:マヤ・デレンスタン・ブラッケージジョナス・メカス、キャサリン・ダンハム、アレクサンダー・ハミッド、テイジ・イトー、ジュディス・マリーナ他 音楽:ジョン・ゾーン 2001年/デジタル/104分/カラー 配給:ダゲレオ出版 公式サイト:http://www.imageforum.co.jp/deren/index.html シアター・イメージフォーラムにて公開中