映画芸術

脚本家荒井晴彦が編集発行人を務める季刊の映画雑誌。1月、4月、7月、10月に発行。2016年に創刊70周年を迎えました!書店、映画館、Amazon、Fujisanほかにて発売中。

試写室だより『灰土警部の事件簿 人喰山』<br>映画の闇、映画館の闇 <br>深田晃司(映画監督)

 どろりと黒い空の下、あたかも巨大な幽霊であるかのような古びたマンションのベランダから布団が一枚、ひらりひらりと、落ちていく。それは、何か重力とは全く別の法則に従うような気味の悪い落下で、左右に揺れる布団は闇に映え白以上に「ドス白い」。その不穏なイメージは、いまだに私の脳裏に焼き付いている。  これは、井川耕一郎監督が映画美学校2期生と一緒に製作した短編映画『寝耳に水』(’00)の一場面である。この禍々しくも鮮烈な「布団落下」のシーンをアニメーションにて作り上げたのが、にいやなおゆき監督である。上述の場面は、だいぶ以前に映画館で一度見た切りなので、多少の記憶の捏造があるかも知れない。しかし、闇に蠢く奇怪な運動の印象は、にいや監督のオリジナル作品『納涼アニメ 電球烏賊祭』(’93)、そして新作である『灰土警部の事件簿 人喰山』にも一致するものであった。  「奇怪な運動」と書いたが、『人喰山』はすべて静止画である。にいや監督自身の手による墨絵のモンタージュと語りで構成されたこの作品は、「紙芝居」であることを標榜しているが、なかなかどうしてモンタージュは多彩で、音響も素晴らしく効果的である。「紙芝居」の看板はにいや監督の照れ隠しであろうか。いや、もしかしたらそれは通俗を断固徹底するために必要な大見得なのかも知れない。 hitokui1.jpg  物語は、残虐な連続殺人鬼を連れ現場検のため「人喰山」を訪れる灰土警部一行と、殺人鬼に姉を殺された少女の恩讐が絡み合い進んでいく。ここより先の解説は公式サイトからの引用に譲りたい。  「血も涙もない灰土警部が、麓の村で出会った薄幸の美少女ハルコとのふれあいによって赤子のような心を取り戻すまでの、涙々の物語」  その物語について、これ以上語るのは野暮というものだろう。枠組としては古典的な「行きて帰りし物語」であるが、その逸脱の果てにあるやるせない結末は不意にスウィフトの「ガリヴァー旅行記」のラストシーンを思い出させた。  『人喰山』におけるモノクロームのキャラクター造形は、タイトル・ロールの灰土警部の名前に端的に示されるように、人間の内なる狂気にいとも簡単に接続していく。ことアニメやマンガの世界では特権的でアンリアルな聖性を付加される「美少女」でさえ、この世界では早々に狂気に飲まれ歪んでいく。容赦なしである。  世界観の根底に流れる土着性、異形の怪物たちの造形は一見諸星大二郎を連想させるが、ことその線自体の歪みに滲む狂気はむしろ貸本時代の異端のマンガ家たち、例えば「怪談人間時計」の徳南晴一郎に近い気がする。しかし、映画が後半に差しかかるにつれ、それはまさににいやなおゆきの世界でしかなくなってくる。貸本劇画の世界を現代に継承しながら、にいや監督は冷静な作家としてのバランス感覚を失うことはない。だからこそ神話的な物語で磐石なる土台を構築しつつ、「紙芝居」の看板を隠れ蓑にあらん限りの通俗・低俗をそこにぶち込むような荒業ができるのだ。突然挿入される三味線の響きに合わせて歌われる歌詞など、本当にどこかの地方に口伝でありそうでありながら、実に出鱈目で楽しい。クライマックスの●●●●の中で×××につき回される場面など、匂いまで届きそうな俗悪っぷりである。ジョン・ウォーターズの『ポリエステル』(’81)よろしく、匂いの出るオドラマカードを配ってみてはどうだろうか。 hitokui4.jpg  一方で印象的なのが、その的確な「視線誘導」である。上述したように、この作品は「紙芝居」と銘打たれながらよく動く。基本はすべて静止画なのだが、パンやズームといった手法が違和感なく使用されている。優れたマンガがそうであるように、この作品でも一枚一枚の絵に物事の展開が慎重に織り込まれ、見る者はにいや監督の導きにより、自然とそれを追うことができるのだ。ここにはやはりにいや監督のマンガ家としての資質(氏のホームページでその作品を読むことができる)が存分に発揮されているのではないか。  徳南晴一郎高橋留美子のような流麗なコマ運びを獲得したら? そんな無謀な問い掛けに応えるのがつまりは『人喰山』であるのかも知れない。  話はどんどん逸れるが、最近の宮崎駿の作品にわずかに感じる不満がある。それは、アニメの快楽に対し無邪気に開放され過ぎているのではないか、ということである。『千尋』も『ハウル』も『ポニョ』もそれぞれに傑作だとは思うのだが、しかし「絵がアニメートする」運動の快楽に脊髄反射的に(強迫観念的に、かも知れない)飛びついてしまっている印象を拭い切れないのだ。それゆえに、そのアクションはどこか無修正ポルノにおけるエロスの欠如のように、緊張感を欠いてしまっているようにも思えるのである。  『人喰山』は、全編静止画という極端に禁欲的な手法によって、逆説的に運動の快楽を獲得したとも言えないだろうか。その静止した肉体、曲線の前後にある時間的・空間的余白の中に私は何度も躍動するアクションを想像した。その意味で、個人的にはもっともっと絵が静止する瞬間を見たかった気がする。これは贅沢な望みなのかも知れないが。 hitokui3.jpg  墨絵とともに映画を支えるにいや監督自身による語りの愛嬌も忘れ難い。挿入歌を歌うのもまたアニメーション作家倉重哲二である。アニメーション作家という職業の人たちは皆こんなにも芸達者なものなのであろうか。不思議である。  最後に、この映画における「闇」の魅力を指摘してこのとっちらかった小論を締めくくりたい。『人喰山』を埋め尽くすのは墨汁によるモノクロームの映像であるが、そのためか場面と場面の合間、絵と絵の合間に訪れる黒味が、まるでそれ自体描かれた底知れぬ闇であるかのような錯覚を引き起こす。それは、スクリーンの闇が私たちを包む闇と溶け合い、そのすべてが作品に取り込まれ一体となるかのような不思議な感覚であるが、これはそもそも映画館で映画を見るという体験そのものが本来持っていた闇の魅力なのではないだろうか。  『人喰山』がプログラムされる「傑・力・珍・怪 映画祭」は、映画館でその豊かな三次元の闇を体験できる貴重な機会となるに違いない。 『灰土警部補の事件簿人喰山』(DV作品/28分) 作・画・弁士:にいやなおゆき  音響演出:光地拓郎 三味線:角田剛士 歌:倉重哲二(哲人) デジタルアドバイザー:近藤聖治 特殊キャラ設定:ハルコネン 機材協力:新里勝也 8月8日よりアップリンクX「傑・力・珍・怪 映画祭」にて上映 公式サイト http://ketsuriki.com/index.html 同時上映の『大拳銃』大畑創(監督)&宮川ひろみ(主演)インタビューはこちら