映画芸術

脚本家荒井晴彦が編集発行人を務める季刊の映画雑誌。1月、4月、7月、10月に発行。2016年に創刊70周年を迎えました!書店、映画館、Amazon、Fujisanほかにて発売中。

映芸シネマテークVol.2『PASSION』トークショー <br>濱口竜介(監督)、稲川方人(詩人・本誌編集部)、荒井晴彦(脚本家・本誌編集長)

 3月3日に行われた映芸シネマテークVol.2の上映作品は東京藝術大学大学院映像研究科の修了制作として作られ、その後、東京フィルメックスやサンセバスチャン映画祭などのコンペ部門に出品されて話題を集めた『PASSION』でした。この日のトークショーには監督の濱口竜介さんのほか、映画芸術の編集部からも詩人の稲川方人と脚本家の荒井晴彦が参加し、若手の注目作に対して忌憚のない意見が飛び交いました。

(司会・構成:平澤竹識 写真:久保田滋)

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――まず、荒井さんから映画の感想を話していただきたいんですが。

荒井 良いんじゃないですか。

――……じゃあ詳しい話は後で伺うことにして(笑)、稲川さんはいかがでしたか。

稲川 僕は『PASSION』を見るのが2度目なんですが、スクリーンで改めて見て、まず構造が良い映画だなと思いました。冒頭のレストランでの集まりがハネた後、男性3人が夜の街をじゃれ合いながら走っていく姿を捉える横移動のショットがありますが、その実在感が印象に残りました。1回目にモニターで見た時よりも夜の光が生々しく感じられて「夜の映画」だなという心象を持ったんです。あとは、後半のディスカッションシーンの内容と意味のようなものを、この映画の主題と話法にどう添わせて見るべきかということをしきりに考えていました。大まかな印象はそんなところなんですが、荒井さんが言うこの映画の良さについてこれから話せればいいなと思います。

荒井 いやいや、誉める言葉のボキャブラリーって持ってないんだよ。

稲川 ある年齢に達したわけですから、そろそろ誉めるということで脚光を浴びる生き方を選んでいただきたい(笑)。

荒井 なんでそんなに良いと思ったのか、今日、2度目で気が付いたんだけど、おれ、5人は書いてなかったんだよ。3人と4人なら書いたことあるんだけどね。この映画は5角関係を描いているのが良かったのかな。ま、それと巷には、信ずるものとしての〈愛〉を病気や死を介在にして語っている映画が溢れてるけど、これは〈愛〉に対する疑いを当り前のこととして描いてる。よく映画のシナリオでは「人間を描かなければいけない」と言われるけど、いまの若い人は平気で「人間を描くってどういうことですか?」と聞いてくる。人間を描くというのは人間関係を描くことなんだというお手本のようなシナリオだと思ったわけです。

稲川 その5人の関係性をどのように構造化していたのか監督にお伺いしたいんです。5人ではあるけれども、映画のなかでは絶え間なく〈1対1〉と〈1対1対1〉の関係、2人と3人の関係がこの映画の構造と話法を支えていると思います。一番の典型は、男女3人が三角形になってフリスビーを投げ合っているところで、これは見ようによっては、ものすごく露骨な話法を示しているわけですね。1人が喋ってはもう1人にフリスビーを投げる、それを3人で繰り返しているわけですから。その一方に女を追いかけて行った男がいて、ここでも〈1対1対1〉と〈1対1〉の関係性が5人を構成しています。そのような構造については、かなり意図的だったんですか。

濱口 5人の話をやろうということは最初から思っていました。6人いると三角関係が2つできて、それぞれは交わらないんですが、5人いると三角関係が2つできて、それぞれが交わるわけです。

稲川 その5人がある時間を共有したんだろうと示唆しつつ、しかし本当に彼らが共有していたのは何だったのかを、この映画は語り始めるわけですよね。ある人生観というか、ある認識を共有しない実存的な存在をとりあえず他者と呼ぶとすれば、他者を発見する過程を描くことが、この映画を通してやりたかったことなのかなと思ったんですが。

濱口 先ほど「夜の映画」と言っていただきましたけど、普通に生きていると非常に親しい友人だと思っていた人が「こんなに他人だったのか」ということがあると思うんです。そういうことはだいたい夜に起きる。そういう〈長い夜〉というのが皆さん絶対にあると思うんですけど、そんな夜を映画として作りました。だから、非常に曖昧に友人としてやってきた人たちが言葉にしてなかったことを言葉にしたらこんなに他人だったと、そういう映画なんだと思います。

荒井 それを一晩の話にしたいという欲望には駆られなかった?

濱口 考えはしたんですけど、それだと人物の変化、感情の変化の起伏が激しすぎるんじゃないかと思いまして。

荒井 映画の夜は長くてもいいんだよ。

稲川 人と人が交錯する中で「こんなに他人だったのか」ということが明らかになる、それはいわば映画の語りのスタンダードではあるわけですよね。〈他人〉と出会う際の最も典型的な素材としては、暴力とセックスと会話があるわけですが、この映画では会話がメインになっています。ここで荒井さんに伺いたいんですが、この映画におけるセックスの潜在性というのはどのように感じました?

荒井 この映画にはセックスシーンがないじゃないですか。これは『クローサー』(04)を見た時から思っていることなんだけど、「(描かれて)ないことはないんじゃないか」と。だから、映画の中でタカコが「トモヤとは何も(肉体関係は)ない」と言うけれども、トモヤは「それは嘘だ。僕たちは1回関係している」と言うじゃないか。でも、それすらも嘘か本当か分からんぜという、その辺が面白いんだよね。今、稲川が「彼らが何を共有してたのか」と言ったけど、これは「共有するものはない」という話なんじゃないの。

例えばね、これが〈同窓会もの〉だと規定すれば、『再会のとき』(83)という映画があるけど、あれはかつて学生運動をやってた仲間たちが1人の死をきっかけに集まってくる。でも『PASSION』は猫の死から始まるんだよね、そこがもうショボいじゃないですか(笑)。なんでファースト・シーンが猫を埋めるところなんだというのは聞いてみたいけどね。

濱口 正直に言うと、映画のなかで人物たちがどういう過去を持ってるのか、それをいちいち説明するのは面倒臭いと感じるほうでして、例えば10年前にこういうことがあって今はこうなっていますという描き方より、現在の3日間を描いたらこの人たちの過去にまで想像力が伸びていくような描き方が理想だったんです。つまり、過去から続いてきたことがあって、未来がある。その途中を抜粋したのがこの映画なんだという見せ方をしたかった。それで、飼っていた猫が死んだという始まりは、長く続いてきたことが終わる象徴としていいんじゃないかと思ったんです。人が死ぬところから始めると、あまりにも僕の好きな映画に似てしまうという問題もありました。ジョン・カサヴェテスの『ハズバンズ』(70)という映画なんですけど。

荒井 人が死ぬということ以外で、なにか集まるきっかけがないかということは、シナリオを書く立場としては当然考えることだけど、猫の死じゃない何かを考えていただきたかったね。

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濱口竜介

稲川 たしかに複数の人間が他人に対して自分の声をぶつける、複数の言葉が飛び交ってくるというのはカサヴェテスですよね。監督自身もカサヴェテスが好きだと公言してらっしゃるから、この作品は比較されるでしょうけれども、決定的に違うのは、カサヴェテスはそれをやるときにまずカメラとか映画自体が物質なんだ、モノなんだということをやりますよね。カメラが見えようが、マイクが見えようが、構図が壊れようが構わない。そうやって映画は物質なんだということをやってから、人間の身体に入っていく。そこが決定的に違います。

荒井 うまいよね、この人は。

稲川 ただ、お話を聞いていると、そこまで「きちんと」考えて撮ってはいないですよね、これはもちろん良い意味ですが。黒沢(清)さんのように、「きちんと」確信を持って作られてしまうと、逆に引いてしまうんです、そんなに強い確信はどこにあるんだろうと。濱口さんは醒めた状態で映画を撮ろうという意識でいるんですか、それとも壊れながら映画を撮ろうという意識ですか。

濱口 そうですね、どちらかと言えばカサヴェテスのように撮りたいとは思います。できる限り自分を無知の状態に置くようにはしたいと強く思ってるんですが、なかなかに難しいです。

荒井 これはできたらフィルムで撮ってほしかったな。フィルムならもっと緊張するからね。あの煙突が見える長いシーンは最初から人物が見えてなくてもいいわけですか。彼らが手前に来るまで、お客さんは煙突見てればいいってことなんだ。

濱口 そうですね。それまであまりに濃ゆいシーンが続いているので、あそこが箸休めというか、そういうつもりで撮ってます。

稲川 あの長廻しは箸休めじゃないと思いますけどね(笑)。あの煙突の実在性も相当なものじゃないですか。

荒井 あそこでケンイチロウとカホが外へ行くのがね、なんでなんだろうと思うんだよ。「寒いけど、歩こう」と部屋から連れ出すじゃない。

濱口 「寒いけど、歩こう」は日本語としておかしいかもしれないですが、セリフとしてはありなんではないかな、と。

荒井 なんか最初から放棄してない? 部屋の中に入らなきゃ、ケンイチロウは勝負できないじゃない。

濱口 考えなかったわけじゃないんですけど、映画の構造として、あそこで外を歩かせたかったんです。それまでずっと中のシーンが続いてましたし。

荒井 でもさ、男は部屋に入んないとどうにもなんないわけだからね。女がガードして「外へ出て歩こうよ」という流れならまだ分かるけど、男が最初から「歩こう」と言うのはなんかなぁ。

濱口 そこがたぶんケンイチロウの敗因なんじゃないですかね(笑)。

稲川 ケンイチロウをどう見るかですよね。あの人物像なら、カホとの距離を取ったまま外へ連れ出すのも許容できたかなとは思います。

荒井 彼がカホ一筋ならいいんだけど、一方ではタカコと関係を持ったりしてるわけでしょう。それにしちゃあ、男として〈手〉がないよな。カホとキスした後のはしゃぎようを見てると、どういうキャラなのか見えなくなる。好きでもないタカコと関係を持ったりできる人なら、ああいう無邪気なはしゃぎ方じゃないんじゃないかな。

稲川 あそこは最初から、はしゃがせる予定だったんですか。

濱口 そうですね、脚本には「側転する」とまで書いてたぐらいですから。一応、ケンイチロウのはしゃぎぶりを見て、カホにもう一度、心変わりが起きるという流れなんです。

稲川 あの長回しの最後のトラックは仕込みですか。

濱口 偶然です。

稲川 偶然?! ふたりの10分以上ある長い芝居が終わって、さぁ女が別れていくというときにトラックが来るっていうのはすごいなと思いました。

荒井 すごい芝居してるよね、あのトラック。

稲川 ちなみにあのシーンは1テイクしか撮ってないんですか。

濱口 あれは一応、本当に夜が明ける時間帯に撮ってまして、2テイク撮ってるんですね。映画で使用しているテイク2は単にふたりが日なたに出てきたようにしか見えないので、ちょっと失敗したなぁと思ってるんですけど、単純に光の変化だけを見ればテイク1のほうがきれいだったんです。でも、テイク2はトラックが出てきたので、これでいこうと。

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稲川方人

――先ほど、稲川さんが「暴力とセックスと会話が〈他人〉と出会う際の最も典型的な素材」だと話されてましたけど、この映画では、カホが自分の生徒に暴力について語る場面がありますよね。

荒井 あの尺はもったいなくない? 普通、あれだけの長さを使うなら、映画のテーマに絡めた話にするでしょう。

稲川 最初に見たときは転調のためのシーンかなというぐらいにしか受け止められなかったんですが、今日見直して、あそこで語られている暴力の問題が、先ほど話したような〈他人〉と出会う、〈他人〉を発見するひとつの要素であるということの伏線になってるなと思いました。

荒井 でも、タケシ、トモヤ、タカコのディスカッションシーンでは、タケシが「ぶたなきゃ分かんないんだ」と言ってタカコをぶって、タカコがタケシをぶち返して、ぶつということはぶたれるほうじゃなくて、ぶつほうが変わるんだという流れで作ってるわけだから、あのシーンにカホがいないと繋がらないんじゃない。だから、その後に「アタマとココロとカラダがバラバラだ」という台詞を言わせるためのシーンにしてはちょっと長い。タケシとタカコのぶち合いと、その後のシャワーシーンがあって、そこで暴力ってなんだという問題に繋げるなら、もうちょっとカホの語りと絡めたほうがいいんじゃないかな。私と他者というか、自分の暴力を消さなくちゃ暴力自体がなくならないという、あの議論自体は面白いんだけど、ちょっとバランスが悪い気はするね。あのシーンも〈喋る映画〉として見ればオッケーなんだけど。

稲川 あそこでは、戸川という中学生の死因は何であるかということを語りたいという説話的な理由はあったと思うんです。それで最終的には、クラスメイトのほとんどが戸川君に暴力を振るっていたことが明らかになる。語られている暴力論の抽象性に比べれば、はるかに具体的な理由は、戸川君の死を教師であるカホと生徒たちがどう見るのかっていう話ではあるんですよね。暴力について語っている抽象論理よりは、実際いじめによって死んでしまった戸川君の不在感のほうがリアルに出てるなという感じがしました。

荒井 おれは「憲法9条を守ろう」という話かと思ったけどね。やられてもやるな、殺されても殺すなと。

濱口 学校のシーンが長すぎるというのはご指摘のとおりなんですが、もともとは転調のためというか、あそこから話が変わっていくので、ギアを入れるような意味合いであのシーンを作ったんです。で、あそこで長々と語っていることも、僕としては映画全体の構造をそれなりにトレースしてるつもりでやってまして。

荒井 でも、転調と言うなら、カホのお母さんが出てくるシーンですよ。あのお母さんの登場から、5人の関係性が動きだすわけだから。

稲川 あのお母さんは良いよね、「あなたには誠がない」と。

荒井 新撰組かい、と思ったよ。キミ、若いのにセリフが古くない?(笑)

濱口 あれはうちの母親が、誠がどうこうと昔言っていたので、それを使ったんです(笑)。

稲川 「竜介、誠を持て」と言われるんだ(笑)。その〈誠〉がシンボライズされているのは、トモヤとタケシとタカコの3人がやる本音ゲームですよね。本音ゲームって考えてみれば、「私は嘘つきである」という哲学と同じでしょう。〈本音〉で〈ゲーム〉ですから。つまり、どこを覆せば人間の本質に至るのか、彼らの語りのどこが〈本音〉つまり〈誠〉なのかというのはいくらでも覆せるわけですよね、ゲームであるという点で。そのゲームの規則を誰が破るのかという危機感を持って我々はあのシーンを見てるわけですけど。

荒井 最初に見たときは、そうか、ゲームという枠で持っていくのかと思ったんだけど、今日見たら、その枠なしでいけないのかなと思った。やっぱり尺がもったいない。トモヤがタカコとの関係を打ち明けるところから、いきなりポーンと行ったほうがテンション上がるのになと思った。いちいち「それ、ルール違反だ」とか言うセリフが入るのが邪魔くさいんだよ。だから今日は、カホが教室で語るところと、本音ゲームのゲームという枠が気になったな。

濱口 本音ゲームについては本当に苦しまぎれで、最初に作ったハコ書きには、トモヤがタカコを落とそうとするんだけど、タカコはタケシとデキてしまうということだけを書いてました。その構造上の要請があったんですが、脚本を書いていてもそういうことはなかなか起きてこないんですよね。それでこいつらどんなことを考えてるんだろうというところから、本音ゲームを持ってきたんです。世代的なリアリティとして、そんなに本音で話をすることがないので、ああいうきっかけでもないと、たぶん本音が出てこないだろうと。

荒井 おれはだから、本音というもの自体がないんじゃないかと思って見てたんだけどね。それも相対化されちゃってる。普通のやり取り自体がゲームなわけだから、わざわざゲームの枠を持ってこなくてもいいんだよ。で結局、タケシという一番インテリっぽくないのがイイ思いするんだなぁみたいな(笑)。このハナシに経験は入ってないの?

濱口 どうなんですかねぇ……。荒井さんは経験で書かれるんですか?

荒井 経験は創作の母です(笑)、それだけじゃないにしてもね。

濱口 僕もそう思います(笑)。

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荒井晴彦

――荒井さんは誰に一番感情移入して見てたんですか。

荒井 おれはタカコだなぁ。あの子が一番、話が合いそうだった。ていうか、あの子の言ってるようなことが前提と言うかスタートでしょう。だから、カホが一番嫌だった。あんな女、早く棄てろよと思ってたら、トモヤが最後に戻ってくるから本当に驚いた。「えー?!」って、あそこで目が覚めたよ(笑)。

稲川 じゃあ、どっちの女のほうが強いと思いました?

荒井 カホは絶対、傷付かないね。で、一番傷付くのはタカコでしょう。もう涙が出てくる(笑)。

稲川 そこは面白いですね。僕ははっきり言って、タカコは嫌いです。

荒井 そこが詩人と脚本家の違いですね。

稲川 荒井さんは経験は創作の母だと言いましたけど、そういうのは一切いらないですから。ああいう自己中心的なキャラクターに感情移入するような男根主義的なメロドラマは俺は持ってない(笑)、と思っちゃう。でも、ほんとうは彼女のほうが弱いんだというのは分かります。

――話を戻しちゃいますけど、先ほどカホが暴力について語るシーンについて、濱口さんとしては物語全体をトレースしたつもりだと話されてましたよね。僕は、カホが「最後まで暴力を受け入れるしかない」と話すことが、不実なトモヤをずっと愛し続けるしかないというところに繋がっているのかなと思ったんです。つまり、愛の裏切りは暴力と同じことなんじゃないかという。

濱口 カホの人間性としては一貫した上でのラストということですよね。愛と暴力が同じ種類のものだという考え方には反対ですが。彼女が、あの二人が実際もう1度やり直せるかどうかは、これからも続いていく苦難としてあるわけです。

――それから、最後のシーンでトモヤがカホのところに戻ってくるのは、ある意味、作り手の〈祈り〉みたいなものなんじゃないですか。

濱口 そうですねぇ……、現実生活として、あそこで戻ってくるのがいいか悪いか判断つかないです。ただ、僕は物事が続かない人間なので、物事を続けていくという選択をする人を応援したいなと。だから、僕としてはあのラストでいいんじゃないかと思ってます。

荒井 全然理解不能だね。「もう一回チャンスをくれ」ってどういう意味なの?

濱口 それは「もう一度おれと付き合ってくれ」というつもりで。あの早さがいいんだと思ってるんですが。

荒井 あれだけ、「もう付き合えない」とか言っといて、それはちょっと分かんない。それでベッドルームへ去っていくわけ? それはないよ。ああ、こんな修羅場のない別れ方っていいなぁって見てたのに(笑)、慌てて戻ってきて土下座すんな!みたいな。タカコとはもう120%うまくいかない、それでカホのところに戻ってくるっていうなら分かる。それならしみじみ分かるんだけど、あれじゃ早すぎるよ。クレジットのエンドロールが終わった頃ならまだ、そうか、結局そういうことか、と思えれるけれど、あれは早い。

――まだまだ話し足りないかもしれませんが、そろそろ時間なので、今日はこれで終わらせてもらいたい思います。どうもありがとうございました。

(3月3日 乃木坂COREDOにて)

『PASSION』

監督・脚本:濱口竜介

出演:河井青葉、岡本竜汰、占部房子岡部尚、渋川清彦 ほか

2008年/HD/115分

《今後の上映情報》

カルロヴィヴァリ国際映画祭 7月4日、5日上映予定

湯布院映画祭 8月30日(予定)

仙台短編映画祭 9月19日~22日のいずれか1日