映画芸術

脚本家荒井晴彦が編集発行人を務める季刊の映画雑誌。1月、4月、7月、10月に発行。2016年に創刊70周年を迎えました!書店、映画館、Amazon、Fujisanほかにて発売中。

荒井晴彦の映画×歴史講義・第六回<br>『将軍たちの夜』(67)×ワルキューレ作戦

 脚本家・荒井晴彦が映画とそこに描かれた歴史的事件について語る連載「荒井晴彦の映画×歴史講義」。本連載は日本映画学校脚本ゼミの卒業生を対象にした勉強会を採録したもので、映画『無能の人』などで知られる脚本家の丸内敏治さんがともに講師役を務めています。これまでしばらくの間お休みしていましたが久々の掲載となりました。

 6回目に取り上げる映画は、アナトール・リトヴァクの『将軍たちの夜』。第二次世界大戦下の猟奇殺人事件を描いた異色サスペンスです。

周知の史実を描くとき、そこに必要なフィクションとは何か。ブライアン・シンガーの最新作『ワルキューレ』と並べて、その作劇に迫ります。

(司会・構成:川崎龍太

×        ×       ×

『将軍たちの夜』(1967年/149分)

監督:アナトール・リトヴァク

原作:ハンス・ヘルムート・カースト 製作:サム・スピーゲル 

脚本:ジョセフ・ケッセル

撮影:アンリ・ドカエ 音楽:モーリス・ジャール

出演:ピーター・オトゥールオマー・シャリフトム・コートネイフィリップ・ノワレ

〈解説〉

1942年12月。ナチスドイツが支配するワルシャワで娼婦の惨殺事件が発生。アリバイのない3人の将軍たちが容疑者として浮上するが、情報部の捜査担当者(オマー・シャリフ)はパリに飛ばされてしまう。ところが3人の将軍たちが、パリに再度結集したことから捜査が再開される。自らの愉しみのためにワルシャワの街を破壊した異常な性癖を持つタンツ将軍(ピーター・オトゥール)のパリでの休暇中に、ヒトラー暗殺計画を気取られないために、クーデター派の将軍に命じられて車係を拝命した若者(トム・コートネイ)は、徐々に将軍の秘密に近づいてゆく。そして、若者は娼婦の殺害現場に直面することになるのだった。

×        ×       ×

荒井 『ワルキューレ』(08)は、導入部に解説があるんだよ。ヒトラーがドイツの首相になってからの流れが。でも、もともと本編にはないから、日本の公開に合わせて加えられたんだろうけど、そういう努力は効果あるのかね?

――うーん、どうなんでしょう。映画に入りやすくはなるんじゃないですか。

荒井 一方で『フロスト&ニクソン』(08)は、みんな知ってるでしょうということで始まってる。ウォーターゲート事件(※脚注1)のこととかさ。実際にあのテレビ番組を、世界中の何百万人だか何千万人だかが見たらしいけど、俺たちは知らないよ。外国の元大統領がテレビに出たからって。

――『将軍たちの夜』は、7月20日の数日前にピーター・オトゥールがパリに到着することになり、ワルキューレ作戦(※脚注2)に関与している将軍たちが慌てますよね。でもなぜ慌てているのか、この時点では具体的な説明が一切なくて、7月20日が作戦の実行日であることは、自明のこととして描かれていますよね。

荒井 ヒトラー暗殺計画についての一定程度の知識があれば、なるほどと思う。うまく絡めてるよ。

丸内 ホンがいいですね。戦争やナチの関係とかの情報をさりげなく入れて、うまく説明されている。

――ただ、なぜ娼婦殺しの犯人を、グラウ少佐があれほど執拗に追うのか引っ掛かりました。「大量殺人は賞賛されるが、小量殺人は犯罪になる。大量殺人に勲章をやるのなら、小規模の殺人に正義の裁きを与えたい」というセリフがあったので、ヒトラーは打倒できないけど、タンツ程度の将軍だったら何とか倒せるんだ、というモチベーションだったのかと解釈したんですけど。容疑者が “将軍”だったから執拗になったというか、下っ端の兵隊が容疑者だったらそれほど捜査に身を入れてなかったんじゃないのかなと。タンツをヒトラーのように描いているのもそのための気がして。

荒井 いっぱい殺すと勲章で、ひとり殺すと殺人犯、というのはチャップリンでしょ。だけど、だったら戦争での人殺しは裁けないから、娼婦殺しで裁こうというのは理屈で、観念的なキャラクターの説明でさ、もう少し分かりやすい動機を普通は作るよ。

丸内 情報部の捜査官、職務に忠実な少佐ということなんだろうな。逆にそこを掘り下げると、オマー・シャリフの話になる。原作はどうなのか分からないけど。

荒井 原作には何かあるか分からないね。

丸内 脚本は「昼顔」のジョセフ・ケッセルピーター・オトゥールを描く方にウェイトを置いている。

――ゴッホの自画像「炎の人」は、どういう意味なんですかね。いまいちよく分からなかったんですが。

荒井 片岡(啓治)さんのような解説(映画芸術No.238「小ヒットラーとエロス」)が分かりやすいといえば分かりやすい。ゴッホは自分を殺して、ピーター・オトゥールは他人を殺す。違いはあるけど、根っこは同じじゃないかと。

――冒頭、1942年にワルシャワの事件があって、同じような事件が1944年のパリ、1965年のハンブルグで起こり、その三つの事件の謎を追う形式ですが、ピーター・オトゥールが登場した瞬間に、こいつが犯人だと直感的に分かりますよね。それぐらい異様な存在感がありました。

丸内 役になりきっている。虚無というか、狂気というか、底知れない絶望を感じさせるあの目がいい。

荒井 『アラビアのロレンス』も似たような役だった。プロデューサーは『将軍たちの夜』と同じサム・スピーゲルだよ。

――ワルシャワとパリの事件をグラウ少佐が捜査し、1965年のハンブルグでは、捜査を引き継いだモラン警部が犯人を探していますよね。映画では、二つの時制がカットバックで進行していて、犯人が誰なのかではなく、なぜ捕まらなかったのかがポイントになり、グイグイ引き込まれました。

荒井 ピーター・オトゥールを突き止める展開が、上手くいきすぎている部分はあるけどね。

――都合はいいですけど、モラン警部が容疑者の一人だったガプラー将軍の娘・ウルリケに行きついて、事件の決定的な証人してトム・コートネイが登場する、あの展開はよかったです。

荒井 うん、あれが救いにはなってる。

丸内 カプラー将軍の娘も面白い。ピーター・オトゥールに初めて会ったとき、「死体を砂嚢代わりにしたのは本当? 戦場では死んで腐り果てる兵士もいるというのに、死体を働かすのは妙案ね」と言うじゃない。原作なのかもしれないけど、こういう人物は思いつかない。

荒井 あのトム・コートネイとのベッドシーンはハリウッド的だよな。ラブロマンスだよ。

丸内 清涼剤というか、毒消しみたいなってる。

荒井 だいたい、あんな女の子はあの時代にいない。いくらイケメンとはいえ、将軍の娘が下っ端の兵隊に恋するなんて。

丸内 ロンメル元帥(※脚注3)が敵機の掃射を受けたシーンが出てきたのは意外だったな。あそこだけしか出てこないんだけど。

荒井 要するにロンメルを担ごうとしているわけでしょ。

丸内 延々とやっていますよね。裏にしてもいいのに。あの戦闘機が実はドイツ軍だった、とかなるのかと思ったら、そういうことでもない。

荒井 『ワルキューレ』にはそんなシーンが全然出てこないんだよ。

丸内 どうして『ワルキューレ』なんか作るんだろう。

荒井 トム・クルーズが主演だから客が来るの?

――さすがに監督のブライアン・シンガーでは来ないでしょうし。

丸内 『Xメン』の監督なんて誰も覚えてないよね。

荒井 ほんとつまらなかったなぁ。

丸内 ヒトラーが暗殺されなかったのは知っているわけだからね。

荒井 みんなが結果を知っているものをどう見せるかだよ。河村(雄太郎)が書いている(映画芸術№427「君はナチを見たか 極私的リストアップの試み」)ように、事実だけをやっても意味がない。作戦自体、ずさんとしか言いようがないじゃない。今は自爆テロもあるわけだから。

丸内 自爆テロなら間違いなく殺せますからね。

荒井 自分が生き残ろうとする発想はダメでしょ。『ジャッカルの日』(73)は、シャルル=ド・ゴール暗殺計画の話だよね。これもド・ゴールが暗殺されなかったことをみんな知っているわけ。腕こきの殺し屋が狙撃したらド・ゴールがお辞儀しちゃったという(笑)。それで弾が外れましたと。でも映画はなかなか観られる。

――『KT』(02)のときも、それを意識されたんですか?

荒井 その時点で出ている資料は全部目を通したよ。韓国に行った時、向こうの人に「真相はこういうことだったんですか」と聞かれて、「いや、僕の推論だ」と言ったんだけど、去年か一昨年に韓国の調査委員会が出した報告書とほぼ同じだった。分からないことは想像力でもっともらしく作る手があるわけ。山田風太郎がやっているようなことでさ。だけど、『華の乱』(88)では、与謝野晶子有島武郎がデキるんだけど、作さん、それはさすがに歴史の偽造でしょうと(笑)。ありえたかもしれないと仮定するのと、あったと断定するのは違うからね。でも、そういうのが『ワルキューレ』にも必要だったと思うよ。歴史物は結果が分かっていることをやらざるを得ないわけじゃん。客は失敗したことを知ってるのに、『ワルキューレ』は失敗するかどうかをサスペンス・タッチで引っ張ってる。あれが虚しいんだよ。どうしてトム・クルーズが命をかけて暗殺を企てるのかも分からない。ヒトラーを暗殺するのは良いことだという前提があるよな。だから実行する動機をやってないんだよ。

丸内 疑う余地のないことだということですか。世界の警察・アメリカはこれが好き。

荒井 そういえば、『将軍たちの夜』は英語だった?

丸内 ドイツ訛りっぽい英語でした。硬い感じの。

荒井 そんなことしてもね。

丸内 世界中の人が英語を喋る。

荒井 『愛を読む人』(09)も英語で違和感がある。おかしいよね。『おくりびと』が英語でやっているようなもんだからね。

丸内 最近は少し変わってきた。『SAYURI』(05)なんかは、最初は日本語で始めて、5分もしないうちにスルッと英語に変わる。他の映画にもあったけど、現地語で最初雰囲気を出して、あとで英語。ホントはこんな言葉で喋ってます、とエクスキューズしているよう。

荒井 『史上最大の作戦』(62)は、ノルマンディー上陸作戦の話だけど、ドイツ兵はドイツ語、フランスのレジスタンスはフランス語、連合軍は英語で喋ってるよ。

――監督(ベルンハルト・ヴィッキ、ケン・アナキン、アンドリュー・マートン)もそれぞれ違いますもんね。

丸内 支配言語とそうじゃない言語で暮らしている人間の感覚の違いかなと思いますけど。侯孝賢の『非情城市』(89)は、台湾の現地語と中国語と日本語、三つの翻訳をしっかり映画のなかでやっていますよね。

荒井 『愛を読む人』はナチの収容所で働いていた文盲の女の話なんだよ。だから、本を読んでと若い男に頼む。読む本もドイツ語なのに、それで英語はダメでしょ。

――ドイツの人は『ワルキューレ』をどう見るんですかね。

荒井 もしかしたら吹き替えかもしれない。自分たちの言葉に誇りがある国は吹き替えが多いんだよ。リュック・ベッソンの『ジャンヌ・ダルク』(99)は、フランスの国民的英雄に英語を喋らせているけど。

――では、みなさんの感想を。

男性A 事実とは違う、フィクションの部分が面白かったです。ピーター・オトゥールの狂気が伝わってきました。殺人事件と大量殺人との関係も面白かったです。

男性B あのように人格が変わってしまったのも戦争のせいだったんだなと思いました。娼婦は慰めや優しさの人間らしい象徴なんですよね。だから、多くの市民を殺してきたタンツが、もし娼婦を受け入れてしまうと、人間らしさを認めることになるじゃないですか。記憶を封じる意味でも、娼婦を殺したんじゃないですかね。

女性A 歴史を知らない私には難しかったんですけど……。はじめに娼婦が殺されたとき、「犯人はナチスのスパイかもしれない」と言っていましたよね。

荒井 あれは関係ない。客をミスリードさせようとしているだけ。スパイに原因があるじゃないかと惑わしている。あそこで、片岡さんのように死体を見せるべきだったという意見もあるよね。要するに性器がグチャグチャになっているわけだから。

丸内 片岡さんが「タンツとほぼ同じ意味でゴッホもまた自然現象だった」と書いているけど、映画を観る限りではよく分からなかったですね。ゴッホの絵を見て、心の底から揺さぶられている感じはあったんだけど。

荒井 自分だということでしょ。

丸内 川崎が、タンツはヒトラーだという言い方をしていたけど、この映画はナチズムを描こうとはしていない気がする。

荒井 だけど、ナチズムを個人に持ってきている。ピーター・オトゥールは、平気で大量殺人をするけど、それは命令でしているだけだと。システムのなかでは優秀なわけだよね。

丸内 一番忠実ですよね。

荒井 『スペシャリスト 自覚なき殺戮者』(99)というドキュメンタリーがあるけど、アイヒマン(※脚注4)もそうじゃない。ユダヤ人虐殺の歯車として役人のように働いて。ピーター・オトゥールが、平然とゲットーを火炎放射器で焼き払うのは、ある意味で非人間的なことで、猟奇殺人は人間的なことだよね。自分の手で、凶器を持って、女の性器を切り刻むわけでしょ。そういう形でしかピーター・オトゥール人間性が出てこない、というのは分かるような気がする。だから片岡さんは「自然現象」という言い方をしているんだと思うよ。でも、平気でオマー・シャリフを銃で殺すのに、トム・コートネイをどうしてあの段階で殺しておかなかったのかね。

丸内 何となくだけど分かるな。トム・コートネイの財布の中にある将軍の娘の写真を見て「良い女だ」と言ったりするでしょ。いわゆる狂人として描いてない。

荒井 トム・コートネイを逃がす段階で、ドイツは負けると思ってるんじゃないの?

丸内 それは将軍の共通認識ですよね。

荒井 勝つと思っていたら殺したんじゃないかな。だから、戦争があんな人間を作ったのか、あんな人間だから戦争をしたのかは考えどころではあるよね。

丸内 映画は、戦争があんな人間を作ったと描いてますよね。

荒井 連合赤軍にしてもナチスにしても、変な人たちがしたこととするのはダメだよ。人間誰でもああなるよということで歴史をおさえないとさ。特殊な人たちがやった事件だとするのはね。

丸内 荒井さんの言っている意味も分かるんだけど、ナチズムの民族優越主義は一切描いてないでしょ。

荒井 描いていないというか、それはみなさんご存知でしょうということだよね。

丸内 僕はナチズムだからというより、ベトナム戦争イラク戦争から帰ってきた人間もこうなるんだということと非常に通じるものがあると思う。

荒井 それは同じだよね。現段階で観てればそうだよ。『将軍たちの夜』が作られた時代はベトナム戦争中か。

丸内 あまりナチズムは、形だけはある程度描かれているけど、強調されていないと思う。

荒井 うん、そうね。だから面白いんだな。

丸内 そこはシナリオ段階で作っているような気がする。原作というよりも。

――ただ、ワルキューレ作戦と絡めているので、どうしてもヒトラーピーター・オトゥールがリンクするんですよね。

丸内 あの暗殺計画は映画の作りとして見せているだけに感じた。むしろピーター・オトゥールの壊れ方だよね。ただ、そこだけで押すと辛いから、将軍の娘や伍長なんかが出てきてバランスが良くなっている。

荒井 結局テーマは、ドイツ=ナチスじゃないよと。でも、区別するのもおかしい。日本が、A級戦犯に戦争責任を押しつけるのと同じだよ。悪いのは全部あの人たち、みたいなさ。昭和天皇ヒトラーが同じだとすると、ワルキューレ作戦は二・二六事件(※脚注5)だよね。ヒトラー暗殺計画はほかにもたくさんあったのに、どうして日本は誰もいなかったのかな。どういう国なんだ、日本は。

――愛国心の違いですかね。

荒井 もう一つの愛国心だよ。

(2009年4月18日 日本映画学校にて)

【脚注】

脚注1 ウォーターゲート事件……1972年の大統領選挙の際、リチャード・ニクソン陣営がウォーターゲート・ビル(ワシントンD.C.)にある民主党事務所を盗聴した事件。世論の反発によってアメリカ史上初めて現役大統領が任期中に辞任に追い込まれる事態となった。

脚注2 ワルキューレ作戦……1944年7月20日に起きたドイツ国防軍将校によるヒトラー暗殺計画。内乱鎮圧計画「ワルキューレ」を利用して権力掌握を計った。暗殺実行者には国内予備軍司令部参謀長、クラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐が選ばれたが、計画は失敗に終わる。地下会議室で行われる予定の作戦会議は地上の木造会議室で行われ、仕掛けた爆弾の威力を削ぐ結果となったこと、会議の開始が直前に30分早まったため、用意していた2個の爆弾のうち1個しか時限爆弾を作動できなかったこと、総統副官ブラント大佐が爆弾の入った鞄を移動させたことなどが、暗殺失敗の直接原因といわれている。

脚注3 ロンメル……エルヴィン・ヨハネス・オイゲン・ロンメル(1891年~1944年)。ドイツ陸軍(ドイツ国防軍)の軍人。中産階級出身者初の陸軍元帥でもある。砂漠のアフリカ戦線において巧みな戦車部隊と歩兵を組み合わせた戦術により戦力的に優勢なイギリス軍をたびたび打ち破り、英首相チャーチルに「ナポレオン以来の戦術家」とまで評された。第二次世界大戦当初は、ヒトラーのお気に入りの将軍だったが、ドイツが劣勢となるにつれ、実績・人気とも極めて高いロンメルを、ヒトラーが脅威に感じるようになる。1944年7月17日、ノルマンディーの前線近くを走行中のロンメルの乗用車が英空軍に機銃掃射され、頭部に重傷を負って入院。同年7月20日ワルキューレ作戦が発生。ロンメルも計画への関与を疑われた。1944年10月14日、ヒトラーの使者として療養先の自宅を訪れた二人の将軍(ヴィルヘルム・ブルクドルフとエルンスト・マイゼル)は、ロンメルに「反逆罪で裁判を受けるか、名誉を守って自決するか」の選択を迫った。裁判を受けても死刑は免れず、粛清によって家族の身も危うくなることを恐れたロンメルは「私は軍人であり、最高司令官の命令に従う」と、暗殺事件への関与に関して一切弁明せずに服毒自殺を遂げた。

脚注4 アイヒマン……アドルフ・アイヒマン1906年~1962年)。ナチスの親衛隊隊員。最終階級は親衛隊中佐。ナチ政権によるユダヤ人の組織的虐殺の歯車として働き、数百万の人々を強制収容所へ移送するにあたり指揮的役割を執った。その実務的手腕から「スペシャリスト」と呼ばれており、自らの職務に対する生真面目さの一方、無責任な服従の心理を持つ人格の典型として有名。映画『スペシャリスト』は、保管されていた350時間にも及ぶアイヒマン裁判のフィルムを再構成して製作された。

脚注5 二・二六事件……1936年2月、昭和維新を唱える陸軍青年将校が起こしたクーデター未遂事件。1936年2月26日、青年将校22名率いる1400名の反乱軍は首相官邸朝日新聞社などを襲撃。元老・財閥・政党などを排除した軍事政権樹立を企てた。天皇周辺の元老・海軍などの当局側は決起軍の帰順策をとり、29日までに反乱軍を鎮圧した。この事件は、結果的に軍内部の結束を固めさせることとなり、軍の政界に対する影響力は一段と強化され、国政の全体主義が色濃くなった。