映画芸術

脚本家荒井晴彦が編集発行人を務める季刊の映画雑誌。1月、4月、7月、10月に発行。2016年に創刊70周年を迎えました!書店、映画館、Amazon、Fujisanほかにて発売中。

荒井晴彦の映画×歴史講義・第4回 <br>『私が棄てた女』(69)×安保闘争

 脚本家・荒井晴彦が映画とそこに描かれた歴史的事件について語る連載「荒井晴彦の映画×歴史講義」。本連載は日本映画学校脚本ゼミの卒業生を対象にした勉強会を採録したもので、映画『無能の人』などで知られる脚本家の丸内敏治さんがともに講師役を務めています。

 4回目に取り上げる映画は、遠藤周作のベストセラー小説を題材にした『私が棄てた女』。『キューポラのある街』や『非行少女』など、数々の名作を残した浦山桐郎が満を持して放ったこの作品は、60年安保挫折派の男を主人公に据え、経済成長と近代化を目指す日本人が、いつしか人間として大切なものを棄て、忘れ去ろうとしているのではないか、という問いが込められています。

 40年後の現在から安保闘争、そして60年代を回顧し、日本の青春を痛切に描き切った傑作を改めて検証します。

(司会・構成:川崎龍太

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『私が棄てた女』(1969年/117分)

監督:浦山桐郎

原作:遠藤周作 企画:大塚和 脚本:山内久

撮影:安藤庄平 音楽:黛敏郎

出演:河原崎長一郎浅丘ルリ子、小林トシ江、加藤治子加藤武

〈解説〉

かつて学生運動に情熱を燃やした吉岡(河原崎長一郎)は、上司の娘マリ子(浅丘ルリ子)との結婚も決まり、出世コースを歩むサラリーマンになっていた。そんな彼がひょんなことから、学生時代に肉体を貪るだけ貪って棄てた女、ミツ(小林トシ江)に再会する。だが、彼女は相変わらず、多くを望まず与えるだけの女だった。やがてミツは、あまりにも惨めな死を迎える……。

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――生きていくためには、何を棄てて、何を守るのか。先日、彼女に浮気されて別れたばかりなので、考えさせられました(笑)。

荒井 こうなったら『私を棄てた女』を書くしかないよ。でもね、棄てるより棄てられたほうがいい。久々にこれを観て思った。辛いんだけど、人間としては棄てられたほうがいい。

――そうなんでしょうか……。

荒井 人間ってね、棄てたことに対する反省や懺悔の気持ちがあっても、すぐ忘れる。でも棄てられたほうは覚えてるんだよ。吉岡がミツと数年ぶりに五反田で会って、今忙しいから今度また、と言って去ったあと、荷物を落としてミツが号泣するシーンがあるじゃん。あれ見て、やっぱり棄てるのはマズいよなと思いました(笑)。若い頃観るより、この歳で観たほうが、しみじみよく分かるね。昨日観たのが一番分かったな。映画って分かったつもりでも分かっていなかったりすることがあるんだよ。

――「私を棄てた女」に執着するのは分かりますけど、あそこまで吉岡のように「私が棄てた女」に執着するものですかね。

荒井 普通は、吉岡みたいにはならない。車から横断歩道を渡る女を見ても気が付かないって。「お、似てるな」と思うぐらいで、追いかけていかないよね。だからそれがテーマなんだな。忘れちゃいけないことがあるよ、棄ててきたものを抱え込んでいかなきゃダメなんじゃないの? と。

――今の映画の男と女の関係で、棄てないと這い上がっていけないという描き方はあまりないですよね。

荒井 石堂淑朗が映画評(映画芸術№263「絶縁が善縁に通ず」)に書いているけど、『年上の女』(59)は、上流社会の娘に接近するけどうまくいかなくて不幸な結婚に悩む人妻にいく。『青春の蹉跌』(74)と『陽のあたる場所』(51)は、金持ちの娘と結婚するために妊娠した貧しい娘を殺そうとする。『陽のあたる場所』はボートから女を湖に落とそうとするけどできない、女は男の殺意を感じてボートで立ち上がり、ボートが転覆して溺死。『青春の蹉跌』は雪山で首を絞めるのか。だいたい石川達三の原作自体が『陽のあたる場所』のパクリなんだよ。「アメリカの悲劇」というセオドア・ドライサーの原作。「北の国から」で『陽のあたる場所』のビデオを見てるシーンがあったな。

丸内 「ミツは俺だ」というセリフがあるけど、あれは原作にあるの?

荒井 原作は全然違う。熊井啓の『愛する』(97)のほうが原作に近い。「俺はミツじゃないが、ミツは俺だよ」というのは、山内久の名セリフだと言われているけど、人にぶら下がるということなんだろうね。

丸内 ミツが死んで俺も死んだ、という言い方をしていますよね。

荒井 内なる何か、ということだろうな。

丸内 そこが『陽のあたる場所』とは違うと思った。

荒井 『陽のあたる場所』は51年の映画だし、もっとストレートに野心を持った主人公で出世が目標なんだけど、吉岡は60年安保の挫折感のせいなのか、それほど露骨じゃない。出世もしたいし、疚しさもあるし、中途半端なんだよ。そのへんが面白い。ミツがアパートから転落したとき、ミツとの関係を警察に訊かれるけど、「行きずりの関係だ」と言ってシラを切って、また裏切る。でも『青春の蹉跌』にしたって『陽のあたる場所』にしたって結局はサクセスに失敗するわけでしょ。女を棄てた報いがくる。そういう意味では、この映画はハッピーエンドなの?

丸内 ハッピーエンドではないでしょう。でも最後は強引な感じがしたな。

荒井 あのラストは現実なの? 吉岡の願望ということ?

丸内 現実ではないと思いましたけど。

荒井 当時も思ったけど、カラー部分が分からないね。

丸内 ケツは特に。

荒井 イメージなんだろうな。「ミッちゃん、何故、あなたは死んだのか。何故、あなたはもっと生きつづけて私を苦しめなかったのか。私はもっとあなたを知るべきだったのだ。ミッちゃん、今、私はあなたを殺したものをハッキリ見つめて、そのものと闘っていかなくてはならない」というラストシークエンスもどうなんだろう。

丸内 団地の中で将棋を指しているのは加藤武でしょ。だからミツと吉岡が一緒になっているということなんですかね。あまりストンと落ちなかったな。

――シナリオには、モノローグ自体なかったです。浦山さんがダビングの時に加えたみたいです。

丸内 浅丘ルリ子が靴下を取り込むところも、ミツのイメージに寄っているわけでしょ。

荒井 「お前だってミツなんだ」ということでね。それと、能面がよく分からない。あの能面はミツのイメージなの? 社長に貰ったものだよね?

――社長に貰ったものですね、あれは。

荒井 昔、『私が棄てた女』を北京電影学院で学生に観せたけど、やっぱり能面が分からないって。

丸内 後半は山内久さんのカラーじゃないですよね。

荒井 それまでは考えさせられるんだけどね。勿体ないよな。当時もあのイリュージョンでシラけた。吉岡が浅丘ルリ子にミツからの手紙を見せられるんだけど、字が違うから笑ってる。浅丘ルリ子が出てって、実は妊娠したと帰ってきて、また日常が始まって、続いていくみたいなところでポンと終わっても成立する。あんなややこしいイメージシーンじゃなくてさ。シュールレアリズムだか悪夢なんだか、ロボットみたいな物に乗っかって何やっているのよ、と。監督のご乱心だよね。「止めたほうがいいですよ、監督」と、誰か言わなかったのかな。山内さんも激怒しただろうに。

丸内 最後までリアリズムでいってほしかったな。

荒井 ある意欲は分かる。それまでの浦山さんって、ベタで叙情派だから。でも、それがあの時代の影響だったら情けないものがあるね。ATGとかゴダールとか、実験的な映像がOKだった時代じゃん。その影響だとは思うけど、ガラじゃないよ。それに、浦山さんもここまでだな。『青春の門』(75)も『暗室』(83)も『夢千代日記』(85)も今一つだし。話題になったのは『青春の門』の吉永小百合のオナニーシーンぐらいでしょ。

丸内 僕も『青春の門』と『夢千代日記』の二本は観ているんですけど、あんまり……。

荒井 イメージシーンはちょっとあれだけど、『私が棄てた女』までの三作は、完璧に日本映画の伝統、いわゆるリアリズムと暗い叙情を踏まえてる。

丸内 ミツが転落するシーンも上手いですよね。

荒井 普通は綺麗にハイスピードかなんかで落とすんだけどね。やっぱり30代は力があるんだよ。

――日本映画のリアリズムを継いでいたのは、今村(昌平)さんの影響も強いんでしょうか。

丸内 今村さんよりはスマートな感じがする。変に泥臭くなくて。

荒井 浦山さんが兵庫の人で、今村さんは東京っ子だから、田舎に対するスタンスが逆転するんじゃない? 顔は学生時代の河原崎長一郎にそっくり。酒乱で女癖も悪くてどうしようもなかった。

女性A 河原崎さんが主演なのは意外ですけど、ハマリ役でしたね。

荒井 『五番町夕霧楼』(63)の金閣寺に放火する修行僧が印象的だったけどね。しかし、加藤武にしろ小沢昭一にしろ、日活名脇役が総出演だったね。加藤治子も若かった。

――「東京ドドンパ娘」は流行っていたんですか?

丸内 大ヒットだよ。「♪好きになったら離れられない それは初めての人」

荒井 歌ってたね。さすがに踊ってないけど(笑)。いやぁ、歌声喫茶(※脚注1)を見ると恥ずかしい。

丸内 ミツはよく歌いますね。養老院では新相馬節を歌っていたし。

荒井 海岸で学生たちと「東京ドドンパ娘」を踊っているミツを見て、吉岡は逃げようと思ったのかね。

丸内 そんな感じがしましたね。

荒井 あの逃げ方は良いなぁ。

丸内 部屋でヤラないのが良かった。シャワー室のスノコにゴザを敷いて。

荒井 ミツが笑顔で歌っているわけじゃない。そういうのって逆に憧れないかね? インテリの男は。

丸内 そんなことないと思いますよ。

荒井 あの二人は田舎者同士じゃない。女は、集団就職で上京した中卒の女工で、男は早稲田大学の学生で。

丸内 長部日出雄さんが書いていた(映画評論1969年8月号「浦山桐郎の引きずっていく力)けど、最初から棄てる気があって、ただ紛らわすための女だから、踊っているのを見ると自分も辛くなるんでしょ。

荒井 普通手出さないだろう(笑)。

丸内 性の渇きという雰囲気では撮ってないですよね。

荒井 吉岡にどれだけの経験があったのか。初めてなのかどうなのか、そのへんが見えない。それと、60年安保(※脚注2)の国会が出てくるけど、河原崎江守徹も活動家じゃないよね。いわゆるシンパというか。それとブント(※脚注3)じゃないだろ、あれ。

丸内 そういう雰囲気はなかった。

荒井 全学連(※脚注4)反主流派だよね。だいたい浦山さんと山内さんは共産党系だからさ。

丸内 歌声喫茶に行っているところは、あれですよね。

荒井 全学連主流派は行かないんじゃないのかな。だって帰郷運動とか言ってからかわれてたじゃん。そのへんが曖昧だよね。東大の安田講堂(※脚注5)が1969年の1月18・19日でしょ。それから各大学のバリケードが落とされるわけじゃない。9月が早稲田で、10月が京大かな。九大もそれぐらい?

丸内 そうです、10月14日。

荒井 それで軒並みやられて、「もう火炎瓶なんかじゃダメだ。爆弾じゃないと機動隊に勝てない」ということで、赤軍派共産主義者同盟赤軍派)が出てくるわけじゃん。69年の12月に、大菩薩峠で60何人が、武闘訓練の合宿をしていてパクられるわけでしょ。そういう時にこういう映画を観るとさ、何をやっているんだと思うわけよ。何が60年安保の挫折だ、と。今は70年安保(※脚注6)をみんなやっているんじゃないか、と。69年の現実をこの人達は何も考えてないんじゃないだろうかと思った。あのカラーのイリュージョンで機動隊が出てくるけど、それがあの時代の反映というなら、安易というか、分かっちゃいねぇというか、だな。

丸内 その頃、あまり映画観てなかったな。

荒井 もう捕まってた?

丸内 ええ、福岡拘置所に。中で閲覧する新聞が墨であちこち黒く消されて。だから大菩薩峠も保釈で出てから知ったくらいで、この映画の公開自体覚えてない。『少年』(69)は観に行ってたけど。

荒井 『少年』は、加害と被害の問題をテレコにしていく問題だよね。『私が棄てた女』も似ている。戻ってくる鳩を売る『愛と希望の街』(59)、女を売るというか美人局をやる『青春残酷物語』(60)、女を棄てる『私が棄てた女』、車に当たってカネを取る当たり屋一家の『少年』、何かそういうことをしないと資本主義社会では生きていけない、と。

丸内 『少年』が好きだったのは、普通に考えると、親から言われて当たり屋をやらされている男の子が被害者なんだけど、その男の子が犯罪を引き受けていくのが良かった。

荒井 それは『愛と希望の街』と同じテーマだよね。いわゆるプロレタリアというか、やられている側は、体制に対して何をやってもいいんだと。そういう意味では、この主人公は挫折派というのもあるんだけど、戦闘的じゃないんだよね。出身階級を棄てようとして棄てられず、みたいなところがある。仕方ないんだと自分に言い聞かせながら、もう1人の自分を棄てていく。

浅丘ルリ子バツイチの理由もよく分からない。なかなか正しいことは言っているけど。「貧乏が嫌」と言いながら、なんで吉岡と結婚するのか。それにしても、あの当時大スターだった浅丘ルリ子に風呂場のシーンをやらせるとは、浦山さんも相当なものだよね。吹き替えだろうと思っていたら、振り向いたから驚いた(笑)。

丸内 関係性も分かって良かった。典型的な理想主義のプチブルの娘、ということですよね。

荒井 そういう意味じゃ、自分の生まれに対する自己否定的な部分もあって、吉岡に惹かれたんだろうけど。

女性A なんで吉岡のことが好きなのか全然分からなかった。だって全然素敵じゃないもん。

荒井 社長の姪だけど、浅丘ルリ子は屈折を持っているわけよ。だから、吉岡の鬱屈している感じに惹かれるんじゃないの?

女性A うーん。

荒井 君には分からないんだよ、ミツだから(笑)。

――吉岡が、社長の家に招かれて悪酔いしますよね。社長の息子は、「弱い者はぶったたきゃいいんだ」という考え方の持ち主で、それに吉岡が「おまえたちには、何もわかってやしないんだ」と食ってかかる。でも、そんな吉岡を受け入れる、裕福な家の懐の深さみたいなものがあって可笑しかったです。

荒井 図式的でチープなシーンになりやすいけど、上手い。吉岡には、良心というか反撥があるわけだよね。結婚前にあれだけ酔ったら面接失格じゃない。それでもいいやというところもある。いっそ楽だと。あそこは泣きの浦山の面目躍如だったな。

――ただ、浅丘ルリ子の母親を見ると突然「お母さん!」と叫ぶじゃないですか。反撥しながらも、その家族の一員になりたいと思っている吉岡の甘さですよね。心情的に痛いほど共感しました。

荒井 浅丘ルリ子と吉岡は、酔って部屋に戻ったあの晩が初めてなの?

丸内 だと思いましたけどね。

荒井 それなのに、ほかの女とヤッてるんだ。どうしようもないな。というか、浅丘ルリ子がそれまでやらしてくれなかったのか。産婦人科の使い方も上手いけど、いたたまれない。ミツが「吉岡さん!」と叫びながら、産婦人科で吉岡の子供を墜ろすシーンは、色々と思い出して嫌になる(笑)。

丸内 浅丘ルリ子も大事にしたいし、ミツのことも棄てきれない。川崎は分かると言っていたけど、アンビバレンツというか、その心情は今の時代で分かるのかな。

荒井 話自体が分からないと思うよ、若い人は。

女性B 作っている人がバカなんじゃないんですか。だって女性蔑視の映画じゃないですか。主人公が何をやりたいのかよく分からなかった。

荒井 今時の映画しか観てないから分からないんだよ。女性蔑視ということじゃなくて、男と女が好きになって、男が背負っているものと女が背負っているものがあって、その背負っているものは何だ、と描こうとしているわけじゃない。今の恋愛映画にはそれがない。背負っているものが病気だったり、突然死ぬとか、そういう話しかないから。

何とか良い暮らしがしたいと思うのは当たり前なんだよ。で、ミツという女の子は、吉岡という早稲田大学の学生とくっつけば何とかなると思うわけ。でも、人にぶら下がられたら逃げるよね、と。それはそうなんだけど、吉岡も社長の姪の浅丘ルリ子にぶら下がろうとするわけじゃん。じゃあ、そういうことって今はないかというと、あるじゃない。学歴だとか背が高いとかイケメンだとか。『セックス・アンド・ザ・シティ』(08)を観たってそうだよ。女性蔑視でも何でもない。女も男もそういうことを考えているだろうに。純粋に好き合って一緒になるわけじゃないだろ。どこかで計算があるじゃないか。

女性B ミツを死なせたのが、男性がシナリオで書きやすい処理の仕方に感じました。

荒井 じゃあ、どうすりゃいいの?

女性B やっぱりミツは吉岡から離れないと。一人になっても逞しく生きるのが女じゃないですか。

女性A そんなミツは見たくないな。

女性B でも現実感がないですよ。

荒井 実際にミツが出来ないことを、同じように田舎から出てきたシマ子という女は、ヤーサンと組んで出来ているわけじゃない。ミツはそういうことが出来ないという設定なわけ。理念なわけだよ。何でも一途に人を好きになって、裏切られても許す。「死んでもあいつは許してくれるよ」と吉岡が言うのはどうだろうと思うけどね。そんな甘くないとは思うけど、ミツは日本の庶民の良い部分、原像を具現化したわけ。出世して偉くなるには、大衆を棄てていかないといけないんだ、という痛恨を込めて描いている。それが日本の経済成長なんだよ。それに対して新左翼支持の大島渚はシマ子みたいな女とヒモを主人公にするだろう。旧左翼的な浦山、山内はその被害者を主人公にしたということだと思う。そういう意味では、同じ階級での連帯はありえないのかという絶望、あるいは同じ階級での内ゲバを描いたとも言える。

女性A ミツの死に方は可哀想だったね。というか可笑しかった。

荒井 あそこを美しく描かないのが浦山さんだよ。あと凄いと思ったのが、加藤武がミツとキスするシーン。「酒飲むか?」と加藤武が訊いて、ミツが首を振る。「ライスカレー食うか」「いい」そしたら急に振り向いて加藤武がミツにキスする。名シーンだね。ミツが生きていたら多分あの二人はくっつくんだろ、同じ階級同士で。プロレタリアートと農村の娘が。

女性A あのチュー嫌だったな。

荒井 良いじゃん! 今度マネしようかと思った(笑)。

女性A 複雑な気持ちになったけどな。

荒井 なんで? 減るもんじゃないし。

女性A 乱暴だったから。

荒井 そう? 燃えない? ああいうの。

女性A 私はそこまで……。

荒井 いい歳なんだから、あれぐらいじゃないと燃えないだろ。一瞬驚くけど、思い出すとちょっと良かったな、みたいな。

女性A もう少し心の余裕があったら良いのかもしれないけど。悲しかったな。

丸内 あんなシーンは書けないな、と感心した。

荒井 走って逃げて行く加藤武も良いしね。

丸内 無骨な人物の掴み方は山内さんだろうけど、理屈じゃないんだよね。

荒井 上昇志向がなければ上手くいくんだよ。

丸内 そう考えると、浦山さんと山内さんは全共闘(※脚注7)に対しては……。

荒井 嫌いだったと思うよ。二人共、共産党シンパだったと思う。

丸内 当時はこの映画、たぶん無視していたんだろうな。大島渚さんの映画とかあっちのほうばかりだったから。

荒井 俺は『非行少女』(63)が好きだったから観たんだよ。金沢駅の待合室で和泉雅子浜田光夫が、お互い別々に生きていこう、と延々と喋るシーンがあって、『Wの悲劇』(84)のラストは、それをイメージして書いた。

『私が棄てた女』にしても、社会に向けてちゃんとテーマを持って作っているよね。今、こういう映画は出来ないよな。今時の映画って、考えたらテーマがないじゃん。菊島隆三賞候補の『秋深き』(08)とか『おくりびと』(08)とか『人のセックスを笑うな』(08)も、結局テーマがないもん。

女性A 『おくりびと』もテーマがないんですか? ありそうに見えるけど。

荒井 死んだお父さんが石を握ってるんだよ? ちょっとウルウルするけど、それと良い映画とは別。〈泣いた=良い〉映画ではないからさ。自分を棄てた父親が死んで、死化粧しようとしたら手に石を握っていて「ああ、俺のこと忘れてなかったんだ」と。こんなのテーマでも何でもない。

当時、『私が棄てた女』を良い家のお嬢さんと観に行ったとき、チョイ役で遠藤周作が出てきてみんな笑うんだけど、その子は笑わないんだよ。遠藤周作の顔を知らないから。笑いには知識がいるんだなと思ったね。でも涙には知識がいらないんだよ。

女性A 生と死について考えさせる映画じゃないの?

荒井 考えさせないよ。親子和解の話だよ、それもご都合主義の。そんなのテーマじゃない。バカな観客がいるから、表層的な話しか作れなくなってるのかな。安保闘争にしたって、挫折ということも分からないんじゃないの? 江守徹が部屋で寝てばかりいるのも分からないだろ? 引きこもりじゃないよ?(笑)。

女性A 体験してないから分からない。

荒井 体験しないと分からないなら全部分からないでしょ。人を殺すシーンなんて書けないよ。時代劇はどうするの? 近未来ものはどうするの? 男は男しか、女は女しか描けないの? そこに想像力が必要なんだ。逆立ちしても書けないだろって話だよ、君らには。

女性B 男女の心の機微みたいなところは良かったですよ。

荒井 それだけじゃなくて、もっと大きなものを両側で背負っているという話じゃない。ある観念があって、それをお話にしているわけだよ。だけど最近の映画は観念がない。バカなお客がどうしたら喜ぶかと発想するからただのストーリーになる。日本が抱えている問題をやってやろう、という考えがないわけ。

女性B 『やわらかい生活』(05)は、どういうテーマだったんですか?

荒井 なんで逆襲するんだよ(笑)。

女性B あれも何となく挫折しちゃった女の子が、男の優しさに癒される話じゃないですか。

荒井 そんな簡単な話じゃないだろ。『やわらかい生活』を説明するなら、病気という問題。それと、自分と違うキャラクターを設定しないと生きていけないんじゃないか、ということだよ。でもそれが結局客に伝わってなくて驚いた。妻夫木がヤクザだと思ってみんな観ていてガックリきたな。妻夫木は、ネットをやっている時だけヤクザなんだよ。本当は電車の運転手なんだ。痴漢のおじさんだって仕事はちゃんとしてる。とにかくみんな片側の生活、嘘の自分を作っていかないと生きづらいんじゃないか、と。大した観念じゃないけど、それだけだよ。ただ、あの程度の映画でもヤクザ映画を観たことがないから、妻夫木をヤクザだと思っちゃう。カモメにマック盗られたから撃ったなんていうヤクザいるのかよ。薬莢なんて、そのへんに行けばいくらでも売ってるじゃないか。何をやろうかという時に、小さいなりにもテーマを決めないと書けないものですよ。

女性A 観念を持って映画を作ろうとしても、なかなか『私が棄てた女』の時代のようには出来ないんですね。

荒井 出来ない。お金出す人の問題とか、配給の問題とかあるけど、それでもやろうとする人がいなくなっちゃったよね。

女性A 荒井さんはやろうとする人だもんね。

荒井 だから貧乏なんだよ。

(2009年1月24日 日本映画学校にて)

【脚注】

脚注1 歌声喫茶……日本において昭和30年代に流行した飲食店の一形態。リーダーの音頭のもと、店内の客が一緒に歌を歌うことを主目的としている。歌われる歌はロシア民謡唱歌、童謡、労働歌、反戦歌、歌謡曲など。1965年(昭和40)頃をピークに急速に衰退していった。

脚注2 60年安保……1960年に日米安保条約の改定をめぐって行われた闘争。1951年のサンフランシスコ条約とともに調印された日米安保条約が、米軍の日本駐留を認めながら、日本を防衛する義務をともなわない不平等な条約であるとの批判にもとづく。1960年5月、多くの反対のなか、当時の岸内閣が衆議院本会議で強行採決したことから、運動がさらに激化し、33万人ともいわれる学生や文化人、一般市民などが国会をとりかこんでデモを行った。

脚注3 ブント……共産主義者同盟が正式名称。武装闘争方針を放棄した共産党から反党分派活動として除名、あるいは離党した旧学生党員を主体として1958年に結成された。一国社会主義革命に対する世界革命をとなえたが、60年安保闘争敗北後の総括をめぐって分裂。再び統一されるが、70年安保闘争後に再分裂、約17の派にわかれた。日本赤軍連合赤軍の母体になった赤軍派もそのなかから生まれた。

脚注4 全学連……全日本学生自治会総連合が正式名称。1948年全国の145大学により結成。日本共産党の強い影響下にあったが、ときに過激な闘争をくりひろげたため、1955年に日本共産党武装闘争路線を放棄してからは、砂川闘争を経てブントが主流派になった。60年安保で大きな役割をはたしたが、安保闘争後のブントの分裂とともに全学連も実質的に解体。その後は、社学同中核派、社責同解放派といわれる3つの派からなる三派全学連も形成されるが、のちにそれぞれが独自の組織として独立する。「ファシズム反対」「学問、学生生活の自由」「民主主義の擁護」、全学連が掲げたスローガンは、その後も学生運動にとって不変の基調となった。

脚注5 東大の安田講堂……1969年1月18日から19日にかけて、学生たちが東京大学安田講堂に立てこもり、機動隊と攻防戦をくりひろげた事件。機動隊の実力行使に対し、学生側は火炎ビン、石、机、椅子などを投下して応酬、機動隊の放水、催涙ガスなどとの激しい攻防がつづいた。しかし、講堂周辺のバリケード、ついで講堂内の一階、二階と、順次封鎖が解除され、機動隊が全面的に制圧、三百人以上が逮捕される。

脚注6 70年安保……1970年6月の日米安保条約自動改定が目前に迫り、「日米共同声明」と「72年沖縄返還」を焦点に70年安保闘争が展開された。学生の間では、ベトナム戦争をめぐる一連の反戦闘争を経て、1968年後期から1969年にかけて、全共闘による大学闘争、大衆的学生運動が爆発を迎え、自動延長の6月23日には全国132大学がゼネストに入った。全共闘、全国反戦主催の集会には4万数千人が集まり、デモの際、警察署や交番に火炎ビンや投石を行い、機動隊とも衝突した。

脚注7 全共闘……全学共闘会議の略称。1966年に早大の学費値上げに反対して結成された。それ以降、既成の学生自治会組織とは別に、無党派学生らが各大学で組織した。明文化された綱領規約も加入手続きもなく、希望する学生、大学院生、教員や個人などが任意に加盟できる組織だった。各大学でそれぞれの「全共闘」が組織され、1969年までの全共闘運動を主導した。

(参考引用文献 「全学連全共闘」「革命待望!」)

荒井晴彦が勧める安保闘争関連書籍

「六〇年安保闘争」保坂正康 講談社現代新書

「民主主義の神話」現代思潮社

「60年安保――センチメンタル・ジャーニー西部邁 文藝春秋

吉本隆明が語る 戦後55年(1)60年安保」三交社

「ブント書記長 島成郎を読む――島成郎と60年安保の時代」情況出版

「ブント私史」島成郎 批評社

「1960年5月19日」日高六郎 岩波新書

「岸上大作歌集」現代歌人文庫 国文社

吉本隆明の時代」すが(糸ヘンに圭)秀実

「シリーズ20世紀の記憶 60年安保・三池闘争・石原裕次郎の時代 1957-1960」毎日新聞社

ForBeginnersシリーズ「全学連現代書館

「装甲車と青春――全学連学生の手記」現代思潮社

全学連三一新書

全学連全共闘講談社現代新書