映画芸術

脚本家荒井晴彦が編集発行人を務める季刊の映画雑誌。1月、4月、7月、10月に発行。2016年に創刊70周年を迎えました!書店、映画館、Amazon、Fujisanほかにて発売中。

闘うドキュメンタリー映画時評(1) <br>『精神』『沈黙を破る』 <br>金子遊(映画批評家)

ビデオ・ジャーナリズムとドキュメンタリー映画

 ビデオ・ドキュメンタリー映画の勢いが止まらない。フィルム撮影によるドキュメンタリー映画を目にする機会が少なくなって久しいが、代わりにビデオ・ドキュメンタリー映画は質と量ともに充実してきている。多少の違和感を感じさせるビデオ映像の画質も、ことドキュメンタリー映画に関しては見慣れたせいか、不満を覚えることもなくなってきている。

 一方、映画の記録媒体は、フィルムからデジタルビデオへと変遷の一途をたどっている。95年にDVテープやmini-DVがデジタルビデオの統一規格となって以後、DVカムやHDカムなどの高画質な記録メディアを使う映画作家も出てきた。このような過渡期において最も恩恵を受けているのが、むろん撮影に長尺を要するドキュメンタリー映画である。佐藤博昭の「ビデオ・ジャーナリズムの現在」(『映画は世界を記録する』村山匡一郎編)によれば、デジタルビデオが登場した頃からノンリニア編集がアマチュアにも普及しだし、2004年に記録フォーマットでテープを使用しないハードディスク記録がはじまってことは「ひとつの革新」だったという。

 簡単にいえば、ドキュメンタリー映画のデジタルシネマ化が急速に進んだのである。これらの技術革新において本質的なことは、デジタルビデオ・カメラでの撮影によって、撮影チームが個人や少人数で事足りるようになり、機動力が上がり、製作費用の低コスト化が進んだことである。このことにより、ドキュメンタリー映画の製作母体が独立プロや個人の手へと移り、フリー・ジャーナリスト、テレビ・ディレクター、写真家、新聞記者などの異業種からも才能が流れ込んでいる。

 彼らはデジタルビデオ・カメラを持って、海外の危険地域や戦場など小回りが要求される現場へ出かけていく。あるいは、それまでタブー視されていたカーテンの向こう側へと入り込む。そして、そのときどきの題材によって「映画」というひとつの選択肢を選び、作品を発表していく。この流れは、趨勢を迎えている私的ドキュメンタリーと共に、国内のドキュメンタリー映画のシーンにおいて、もうひとつの核となっていくものだと思われる。

 ところで、9・11以降、アフガニスタンイラクパレスチナといった紛争地からビデオ映像が送られてくるとき、現地レポートだけにとどまらず、ニュース映像、ドキュメンタリー番組などの映像を提供してきたのが独立系のジャーナリストたちである。その背景には「大手メディアは安全面から社員記者を戦場などの現場に送ることができないという事情」(「ビデオ・ジャーナリズムの現在」)があった。なかでもよく目にするのが、アジアプレス・インターナショナルというフリー・ジャーナリストの集団である。彼らは現地にとどまり、小回りのきく取材をして、時にはテレビ電話を通じて映像をリアルタイムに送ってくる。

 そんなジャーナリストたちが映画を撮らないかと期待していたら、やはり『Little Bird -イラク戦火の子供たち-』(05)や『ガーダ~パレスチナの詩~』(05)といった映画が出てきた。それぞれイラクパレスチナの現地取材をしたジャーナリストが、マスメディアで取り上げられにくい題材や公共放送の電波に乗せにくいリアルな映像を使用し、映画として紛争地の現在を伝えている。『ガーダ~パレスチナの詩~』は、占領下に生きるパレスチナ人の女性や家族の営みに焦点を合わせた、古居みずえの個人撮影による映画であった。そのように個人が現場に入り、撮影した映像が「映画という形式でしかできない何か」として提示される動きは、これからも加速するものと思われる。

 しかし、そこにある「映像」はまだ「映画」とは異質な場合もある。私たちはテレビニュースなどを通じて、ジャーナリストが撮影した映像を見慣れているのだが、それが映画として提示されるためには、撮影者独自の「映画的視点」を反映する、もう一歩踏み込んだ何かが必要であろう。そのようにジャーナリズム・ドキュメンタリー映画にも、編集された映像が映画館で上映されるということ以上の何か、つまりはドキュメンタリー番組や報道番組との差違がなくてはならない。

 そもそも、フリー・ジャーナリストの多くは、取材する対象や地域を自らの専門として決定する「自由」を持っている。彼らはプレス腕章をつけて紛争地へ入り、取材が終われば自由に出てくる「報道人」と呼ばれる匿名の存在である。その中立性がジャーナリストとしての自己と対象との距離を保証するわけだが、それが映画では邪魔になることもあるのではないか。ドキュメンタリー映画は紛争地の現地リポートではあり得ない。端的にいえば、映画という形式では、彼らがなぜイラクパレスチナの人々と関わるのか、彼ら自身の視点が問われることにもなる。

 そのような意味において、広河隆一の『パレスチナ1948 NAKBA』は、映画として見るに足る構造を兼ね備えていた。それは、広河隆一がフォト・ジャーナリストとして40年以上パレスチナを取材し、その土地や人々に対して深い思い入れがあるからだけではない。また、映画が被害者のパレスチナ側の視点に立った告発になっているからでもない。『NAKBA』は、かつてホロコーストにあったユダヤ人たちがイスラエルの地へ移り、今度はパレスチナ人たちへ同じように強制移住民族浄化をしている、という虐殺の循環構造を明らかにしようとする「映画的視点」があるからだ。 

『沈黙を破る』土井敏邦

 土井敏邦が手がけた『沈黙を破る』は、ジャーナリストの手によるビデオ・ドキュメンタリー映画ということ以上に、映画としての美と構造を持ち得ている作品である。これまで土井敏邦パレスチナに関するルポルタージュを数多く発表し、またビデオ・ジャーナリストとしてドキュメンタリー番組を手がけている。93年からはインタビューなどの取材時に、ビデオカメラをまわしはじめたという。映画『沈黙を破る』は、その土井が15年以上撮りためてきた映像の集大成である。

 最も印象的なシーンのひとつは、パレスチナ人の虐殺があった難民キャンプでの光景であるが、それはすでに2004年の著書『パレスチナの声、イスラエルの声』にて報告されている。

「(チャベスというアメリカ人女性が)瓦礫の死体に埋もれた遺体を捜すためにブルドーザーとシャベル機が瓦礫を掘り起こす作業をじっと見つめていた。そのとき突然、これまで抑えていた感情の糸が切れたかのようにチャベスが嗚咽を始めた。やがて嗚咽は号泣となり、半狂乱となって泣き叫んだ。イスラエルを支援し続ける祖国アメリカ、この破壊のために使われた武器も大半はアメリカ製だった。その国民の一人であることがいたたまれなかったのだと、彼女は後に私に語った」

沈黙amp01-mini.jpg

 実はこの記述に相当する映像は、そっくりそのまま映画にも出てくる。このアメリカ人女性の短く刈った金髪、やせた顔の沈痛な面持ち、重い足どり、パレスチナ人たちのなかで立ち往生している寄る辺なさを、映像はあますところなく伝えている。撮影した映像がまず先にあり、それから取材が進められて、上に引用した文章が書かれたのだろう。ルポルタージュの方も充分に迫真性のある本であるが、やはりここには映像で見なくてはならない細部があり、何よりも最初に「映画的光景」があったということが重要なのである。また、ここには先進国に住む私たちとイスラエルによるパレチスナ人の虐殺が、他人事ではないという「関係」が示されている。アメリカや日本の国家や企業がイスラエルを支援することで、私たちは間接的にパレスチナ人の強制追放や虐殺に加担しているのである。

 このチャベスという女性の寄る辺なき歩行は、ロベルト・ロッセリーニの『イタリア旅行』におけるイングリッド・バーグマンの彷徨に比するしかないほど映画的である。この異国から来た女は純粋に「見る」ことによって、「自分が個人として耐えられるものの限界を越え、何か耐えがたいものを発見する」(『シネマ1』G・ドゥルーズ)。私たちはチャベスの号泣の理由を知らなくても、彼女の記憶と思念が頭のなかで逆巻いている、その歩行を見るだけで、直観的に人間的悲劇の途方もない何かを感得する。劇映画であるかドキュメンタリー映画であるかに関係なく、映像を「映画的光景」として現出することが映画作家の使命であろう。そのような意味において、現場のドキュメント映像に寄りかからずに、イスラエル軍の元将校たちへのインタビューを通して、その共同的な記憶を掘り越していく『沈黙を破る』という映画は、登場する人物たちの耐えがたき内面の痛みをスクリーンに定着している。

沈黙toam-mini.jpg

   

 どうしてビデオ・ジャーナリストのなかでも、土井敏邦は「映画的光景」をとらえることができるのか。『沈黙を破る』のなかに、イスラエル軍に包囲された難民キャンプの民家にいた土井敏邦が、ラジオで他の難民キャンプでの虐殺の報を聴くシーンがある。彼は現場に駆けつけたいと考え、白地の旗に「TV」と書いた旗を掲げて、ひとりでキャンプの外へと歩いていく。戦車のハッチから顔を出したイスラエル兵は「プレスだ」と叫ぶ彼を通してくれる。

 この場景で示唆されるのは、彼がジャーナリストという身分を示せば、それまで寄り添っていたパレスチナ人たちを置き去りにして、いつでもイスラエルの包囲網を越えて外へ出て行けるという事実である。映画を見る者は「ジャーナリストとは何て勝手な連中なんだ」と思うかもしれない。だが、現場での惨状の報告を積み重ねるだけではなく、紛争地におけるジャーナリストという自己の存在を批判的に提示する、この映画における余白ともいえる場景を差し挟むことで、彼は『沈黙を破る』を「映画」にしているともいえるのではないか。

 それは彼が日本人のジャーナリストとして、パレスチナの紛争地にいることの居心地の悪さを映画に内在化させているからでもある。彼はそのためにさまざまな工夫を施している。イスラエルの占領の実態を描くために、パレスチナ側の被害の報告だけでなく、占領する側のイスラエル兵の内面を描いて重層的かつ立体的に見せようとしている、と彼はいう。あるいは「元イスラエル軍将兵たちの証言は、日本人の加害の歴史と、それを清算せぬまま引きずっている現在の私たち自身を見つめ直す貴重な素材となる」と考えようとする。いくら考え抜いても、原理的には「所詮、現地の人々の不幸を食い物にして金銭に変えている外国人ジャーナリストのひとりに過ぎないではないか」という謗りを免れることはできないかもしれないが、彼自身の映像がその苦悩を語っているところが他の映画との決定的な違いなのである。

沈黙unishment-mini.jpg

 

『精神』想田和弘

 フィルムで撮影するかデジタルビデオで撮影するか、劇映画なのかドキュメンタリー映画なのかといった違いは、映画にとってそれほど本質的な問題ではなくなっている。どのような題材と向き合い、どのような機材を使い、どのような記録メディアを使用しようとも、映画作家は必ず「映画的光景」をとらえてくる。たとえば、アメリカが生んだドキュメンタリストに、フレデリック・ワイズマンがいる。彼の89年の作品に『臨死』という、末期医療の現場をじっくりと見せる358分の大作がある。

 映画の冒頭からして極めて映画的である。海を競技用ボートが横切っていき、次のカットで俯瞰から海の向こうにボストンの町を見せる。ボストンの町の風景、病院の外観から、病院内部へ入り、受付の様子を短く見せた後で、カメラは集中治療室へ入っていく。ワイズマンの映画では、ナレーションも音楽もテロップも一切なく、生のままの映像素材と編集のテンポだけで見せていく。それ自体がすでに音楽的ですらある。1本の映画あたりフィルムで100時間超をまわすことからもわかるが、鍛えられて練磨されたショットによる映画的モンタージュがそこにはある。

【精神】ベンチ(中メイン).jpg

 フレデリック・ワイズマンと同じようにナレーション、テロップ、音楽を放棄し、自覚的な「観察映画」の方法論に徹しようとしているのが、『選挙』(07)を撮った想田和弘という映画作家である。彼はアメリカのダイレクト・シネマの手法を強く意識しており、一単語からなるタイトルのつけ方や、社会の一断面を切り取って観察する手法はワイズマンのそれを踏襲している。無論、多くのドキュメンタリストがワイズマン映画を自らの内に体内化しているが、それを自分の映画の方法論として謳い上げている作家は日本では想田くらいしか思い当たらない。

 「観察映画『精神』について」という文章(「ドキュメンタリー映画の最前線メールマガジン neoneo 125号」)において、想田は自分の観察映画を次のように説明している。

「観察映画は、世界を作者の視点で描写することに徹するのであり、映像や音声を「言いたいこと=メッセージ」に従属させないのである。 また、観察映画は客観主義にも組しない。それは、観察の主体=制作者がカメラを通して観たり体験したことを綴る主観的な表現方法である。(……)そもそも、僕は客観的なドキュメンタリーなど、原理的に存在し得ないと考えている。」

 短くいえば、想田和弘は自分のカメラから見える世界に忠実でありたいといっている。映像や音声をマイケル・ムーアのように作者の社会的メッセージに即して編集するのではなく、また、多くの伝統的な記録映画やテレビ・ドキュメンタリーのように歴史や社会を俯瞰する「客観的視点」を捏造するのでもない。撮影者が或る社会的な機能を帯びた場へ入っていき、なるべく先入観なしに、その有り様を映像によって記述するのが観察映画なのだ。想田のいう「観察の主体」というのは能動的な主体性を持つものではなく、たとえばカメラのように空ろでありながら定点観測を続ける「視点」のことであろう。

dr1サブ2(中).jpg

「観察映画」を問う

 フレデリック・ワイズマンの映画と想田和弘の観察映画を比べてみることで、ドキュメンタリー作家たちが直面している事態が見てくるのではないだろうか。まず、デジタルビデオで撮影された想田の『精神』という映画ソフトが減価償却率の高いものとなっていることが指摘できる。

 プレスリリースの「プロダクション・ノート」によれば、想田が精神科クリニック「こらーる岡山診療所」で2005年秋と2007年夏に行った撮影の延べ日数は30日程度である。想田がカメラマンと録音を担当し、その妻が撮影に付き添った基本的に2名で作っている。それでいて、精神科クリニックというひとつの社会体を斬新な切り口で見せ切る、想田版『チチカット・フォーリーズ』といえようか。

 ドキュメンタリー映画において、これだけ撮影日数と労力を節約できるということは異例のことかもしれない。それは、彼がテレビ・ディレクターをしてきたこととも関係があるのだろう。それが可能になっているのは、想田が選びとる撮影対象が小さな社会体であるということと、起伏のあるストーリー構成を放棄するという手法があるからだ。観察映画の方法論は、フレデリック・ワイズマンの映画の手法を、ビデオ・ドキュメンタリー映画時代に移植したものとして注目できる。

p3サブ1(中).jpg

 想田和弘の「観察映画『精神』について」という文章を読むと気がつくのは、テレビ・ドキュメンタリー番組の方法論ではできないことを、映画でやろうとしているということだ。たとえば、リサーチをしない、構成表やシノプシスを書かない、カットは長めに編集し余白を残す、といった具合である。そうすることで、彼はテレビ・ドキュメンタリーのようにバイアスのかかった撮影状況や映像の質からの乖離を目指す。そして現実を素の状態で観察し、撮影の過程で発見した視点を作品として結実させていき「観客による能動的な観察」が可能となる映画を作るのだとしている。

 確かに想田の「観察映画」の撮影手法によって切り取られた社会の断面は、多義性に満ちた現実の似姿を獲得しているように見える。しかし『精神』という映画でひとつ気になるのは、録音を担当する想田自身が被写体に話しかけることで、カメラの背後にいる撮影者の存在が観客に意識されることである。重い口のクリニックの患者たちに話をしてもらうためには、それを引き出す対話者が必要であろう。だが、しばしば撮影者の声が見る者の「観察」を阻害することがある。撮影者がどんなことを考えてこれを撮っているのか、ここではこういうシーンを狙っているのか、などとカメラの後ろにいる撮影者の気配がどうしても気になってしまう。

 それならば、ナレーションや音楽、テロップと同様に、インタビュアーの声もカットした方がより純粋な「観察映画」に近づくのではなかろうか。撮影対象となるコミュニティなり、社会体なりに、撮影者が撮影行為を通じて参与している時点で、既にその社会体は無垢ではありえず、撮影者によって変化し、手を加えられたものとしてそこにある。それがあるがままの現実だとは考えにくいのだ。観察映画の手法の場合、意識的にそのコミュニティに介入する撮影者をメタ的に主題に据えるのでないならば、むしろ撮影者の気配を消し、カメラの眼に徹底することがより適確な場景を生むのではないか。

 ところで、フレデリック・ワイズマンが初めて撮った「劇映画」だとされる『ザ・ラスト・レター』(02)を見ると、彼にとって劇映画とドキュメンタリー映画の境界がはじめから存在していないことがわかる。『ザ・ラスト・レター』はウクライナユダヤ人ゲットーを舞台にした、ワシリー・グロスマンの「人生と運命 (Life and Fate)」という小説の一部分を戯曲化したものである。真っ暗なスタジオで、一人芝居をするカトリーヌ・サミーが、ナチス強制収容所へ連行される前に、息子への最後の手紙を読み上げる。それをワイズマンは白黒の映像によって、カトリーヌ・サミーの声と身体所作だけで、光と影の劇としてシンプルに撮りあげている。

 この映画のように、目の前にある被写体の充実したショットを撮ること。そして、それをショットとショットのつなぎによって、モンタージュとして見せること。私たちがフィルムからデジタルビデオへ変遷するなかで失ったものは、フィルムに独特の質感でも、粒子でも、奥行きのある画でもなく、ショットとショットを繋いでいく指と手の運動の方なのではないか。デジタルビデオの編集作業は不必要な映像を削除していき、使用できる映像素材を彫り出すところからはじまる。反対に、映画は何かと何かをつなぐことによって「映画的光景」を現出させる編集作業であった。そのように考えてくると、デジタル化されたビデオ・ドキュメンタリー映画の全盛時代にあって、もっとも意識される必要があるのは、指と手が生み出す「つなぎ」という原初的な技術のことなのかもしれない。

『沈黙を破る』

監督:土井敏邦

出演:「沈黙を破る」メンバー、メンバーの家族、他

2009年/日本/DV/130分/カラー

配給:シグロ

(C)『沈黙を破る』

公式サイト:http://www.cine.co.jp/chinmoku/

ポレポレ東中野京都シネマ、第七芸術劇場にて上映中、6/13(土)よりシネマ・クレール丸の内他、全国順次ロードショー

【上映日程】

○東京:ポレポレ東中野  5月2日(土)~6月12日(金)まで

○京都:京都シネマ    5月23日(土)~6月12日(金)まで

○大阪:第七芸術劇場   5月9日(土)~公開中

○岡山:シネマ・クレール丸の内    6月13日(土)~

○名古屋:シネマテーク        6月27日(土)~

○神戸:神戸アートビレッジセンター  7月11日(土)~

○佐賀:シアター・シエマ       7月18日(土)~

○沖縄:桜坂劇場           7月18日(土)~

『精神』

監督:想田和弘

出演:「こらーる岡山」のみなさん、他

2008年/アメリカ・日本/デジタル上映/135分/カラー

宣伝・配給:アステア

(C)2008 Laboratory X, Inc.

公式サイト:http://www.laboratoryx.us/mentaljp/index.php

6/13(土)よりシアター・イメージフォーラム他、全国順次ロードショー