映画芸術

脚本家荒井晴彦が編集発行人を務める季刊の映画雑誌。1月、4月、7月、10月に発行。2016年に創刊70周年を迎えました!書店、映画館、Amazon、Fujisanほかにて発売中。

試写室だより『SR サイタマノラッパー』<br>ニッポンノラッパー、スクリーンノラッパー<br>深田晃司(映画監督)

 「モンタージュとはふたつの異物の衝突である」とは誰の言葉だったか。

 自分で映画を作るとき、ふいにこの言葉を思い出し、一方で目の前の編集台で繰り広げられる退屈なる「交通整理」に冷や汗が出たりするのだが、「ふたつの異物の衝突」という部分だけを拡大解釈すれば、観客の目撃する最初のモンタージュとは映画タイトルと本編の衝突であると言えないだろうか。

 いかにもコジツケな感は否めないが、事実私にとって優れていると思う映画タイトルとは、本編が心地よくタイトルを裏切り、またその逆にタイトルによってより複雑な余韻が本編に与えられるようなものである。

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 『母情』(50)という映画がある。この映画を特にあらすじも読まずに見に行ったときのこと、何しろ監督の清水宏は『有りがたうさん』(36)のような牧歌的名作で有名な人であるし、単純な先入観もあったのかも知れない、とにかく湿っぽい「母物」のメロドラマを想像して映画館に入ったのだが、その予想はファーストシーンでいきなり覆されることになる。

 水商売の女が、新しい店を始めるため邪魔になる我が子を親戚の家に「捨てに行く」場面から映画は始まるのである。「母情」など入り込む余地もないようなヒロイン演じる清川虹子のケダルイ母親像と、寒々とした山村を捉えた余白の多い渇いた絵作りに私はガツンとやられてしまった。映画のタイトルかくあるべきか、とひどく感動したものである(そのうえ、この映画を最後まで見るときっちり「母情」になっているのである。スゴイ)。

 もちろん、この何気ないタイトルが当時どこまで意図されたものかはわからないが、こういったタイトルをつけられるのは、作り手が自分たちの作ろうとしている題材、あるいは作ってしまった映画に適切な距離を置き客観視できているからである。

 『SR サイタマノラッパー』の作り手に感じたかったのはその距離なのかも知れない。つまり、この映画は既にタイトルが「出オチ」になってしまっているのだ。『サイタマノラッパー』というコトバが想像させる、田舎町の景色にラッパーがたたずむ滑稽、地方の若者特有の鬱屈が80分通して反復され、観客の想像力を裏切ることはない。「西海岸? 東海岸? 埼玉に海ないけど」の秀逸なギャグで、もうこのタイトルは完結してしまう。

 この、1+1は2であるような単純さは、良くも悪くも作品全体の印象と合致するのである。

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 映画は、サイタマの夜景に響くラップと、まるでライブハウスのフライヤーのようなキッチュなタイトルバックから始まる。

 ラッパーを夢見るニート青年IKKU(駒木根隆介)は、彼と夢をともにするメンバーたちとともに地元での初ライブを目指すものの、皆それぞれにいい年で仕事にバイトに忙しく、思うように物事が進まない。親友のTOM(水澤伸吾)はおっぱいパブで働き、農家の跡取りのMIGHTY(奥野瑛太)はブロッコリー作りに精を出している。

 そんななか、東京でAV嬢として活躍していた同級生の千夏(みひろ)の地元への帰還が、メンバーの絆に波紋を投げかけることになる。はたして、初ライブを無事に開くことはできるのか?

 と、あらすじだけを読むと、社会的弱者が一念発起一致団結してひとつの成功を目指す青春スポ根映画にも思えるが、この映画の目新しさはその逆で、ダメな人間が自分のダメさ加減を思い知るまでを「サイタマ」という舞台装置を徹底して生かすことで、リアリティあるものとして提出していることだ。この映画に描かれる「成功」は物語を回収するゴールではなく、霞のようにおぼろげなシャングリラなのだ。

 しかし、ダメな人間をダメなままで放置はしてくれないのが入江監督の優しさであり厳しさである。諦めない若者と諦めた若者がラップを通じてせめぎあうラストシーンは、ワンアクションで映画を締めくくる鮮やかさと相まって印象深い。

 一方で、いささか残念に思えたのが、物語の鍵となる千夏の使い方である。都合よく登場しては主人公に絡んでくるあたり作り手の作為がやや透けて見えてしまうのだが、それ以上に引っ掛かったのはそのキャラクター造形である。

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 千夏は何かというと上から目線で主人公を罵倒していく。役柄としては「辛酸をなめて成長した同級生」として、主人公IKKUの幼稚さを相対化しているわけであるが、逆にその比較の安直さが監督の「成長」に対する認識の甘さを露呈してしまっている気がして、鼻白んでしまった。

 千夏は一体なぜそんなに自信満々なのか、そのキャラクターの根拠がかつてAV嬢であった経歴と「東京に行く」というアクションでしか示されないため、今一つ説得力を欠いている気がするのだ。

 千夏は地元を捨て東京へと発ち、IKKUは地元に残る、そこにもひとつの成長の対比が示されるわけであるが、考えてみればダサいサイタマを飛び出したところで、そこにはダサいトウキョウが待っているだけである(大体、「ラップ」そのものが海外から輸入されてきたものではないか)。監督だってそんなことは百も承知なのかも知れないが、IKKUたちのダメさの根拠が最初から最後まで「サイタマ」という土地の特殊性に大きく縛られてしまっていた点は疑問として残った。

 IKKUの真の葛藤は、そこがサイタマであることを言い訳にできなくなったときからこそ始まるのではないだろうか。その先にあるドラマを映画のなかでもっと見たかった気がしてならない。

 ところで、白状すると私は「ヒップホップ」というものに極めて疎い人間である。ラッパーと聞いて最初に思い浮かぶのはプレイステーションの『パラッパラッパー』で、しかもそのゲームですら遊んだことがないのだからお話にならない。

 そんな人間が言っても説得力はないかも知れないが、この映画を彩る「ラップ」は心地よかった(音楽は入江悠監督とたびたびコンビを組んでいる岩崎太整である)。

 これは一種のミュージカルである。

 ミュージカルが映画ジャンルの主流でなくなってから幾久しく、昨今それをやろうとするとどうしても特殊な文法に対するパロディになってしまうものだが、日常語が自然とリズムを刻み始めるラップは案外とミュージカル向きなのかも知れない。ミュージカルの大前提である「普通に話していた俳優がいきなり歌い始める」不可思議をすっとクリアするのである。それゆえに、リアルな等身大の日常を描きながら、違和感なく音楽シーンに移行できるのであり、例えば上述したラストシーンは「ラップミュージカル」ならではの面白さに満ちていた。ヒップホップを題材にした映画は今までもあったが、これほど日本語ラップを確信的に取り込んだ作品は今までなかったのではないか。

 そういえば最近では気鋭の若手劇作家・柴幸男氏もラップを意欲的に演劇に導入している。そちらも大変面白いのだが、何か世の中にそういう流れでもあるのだろうか。

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 『サイタマノラッパー』を印象づけるもうひとつの特徴は、ワンシーン・ワンカットの多用である。

 手法としてのワンシーン・ワンカットは元来多くの困難を抱える、決してお手軽な演出ではない。それはまず、ある芝居をひとつの流れの中に完結させようとするときに発生する、撮影現場における種々の物理的な困難がひとつとしてあるのだが、それ以上に重要なのは、映像というものが前提として抱えるある種の「貧しさ」を身も蓋もなく露呈してしまうことである。

 例えばテオ・アンゲロプロスの有名なワンシーン・ワンカットが感動的なのは、時間と空間の果てしない持続がもたらす豊穣さを辛抱強く希求し達成する一方で、そこに当然生まれるであろう「貧しさ」も恐れず引き受ける覚悟が感じられるからである。

 一方で昨今の日本映画を見回して、すべての作品がそうだとは言わないが、「長回し」が演出に高級感を与える安直な意匠として流通しているように思える傾向には不意に違和感を覚えることがある。

 『サイタマノラッパー』を見ていても実はその感覚は拭い切れなかったのだが、映像の持続をリズミカルに刻んでいくラップという音楽によって、長回しであることがギリギリ正当化されているようにも感じた。その正当化され腑に落ちてしまうところに、何か小さくまとまってしまっている弱さを感じてしまうのかも知れない。

 なんとも煮え切らない分析になってしまったのだが、ラップと映画の相性には強く惹きつけられたので、入江監督にはぜひもう何本かラップ映画を撮って欲しいと思った。ぜひよろしくお願いします。

ゆうばり国際ファンタスティック映画祭2009

オフシアターコンペティション部門グランプリ受賞

SR サイタマノラッパー

脚本・監督:入江悠 

撮影:三村和弘 音楽:岩崎太整 録音:高田美穂 

MA:山本 タカアキ HIPHOPアドバイザー:RTR 

出演:駒木根隆介、みひろ、水澤伸吾、奥野瑛太杉山彦々、益成竜也 

製作:ノライヌフィルム 配給:ロサ映画社/ノライヌフィルム

2008/日本/カラー/ステレオ/HD/80分

公式サイト http://www.sr-movie.com/

3月14日(土)~27日(金)池袋シネマ・ロサにてレイトショー!