映画芸術

脚本家荒井晴彦が編集発行人を務める季刊の映画雑誌。1月、4月、7月、10月に発行。2016年に創刊70周年を迎えました!書店、映画館、Amazon、Fujisanほかにて発売中。

試写室だより『LOOK』 <br>監視映画というジャンル <br>金子遊(映画批評家)

監視映画の歴史  「監視映画」の歴史は、映画史とほぼ同時に幕を開けたといっていい。世界初の実写映画といわれるリュミエール兄弟の『工場の出口』(1895)は、リヨン近郊の建物から一日の労働を終えた人々が出てくる姿をとらえた、50秒ほどの映画であった。この映画におけるカメラのまなざしには、工場主が労働者を観察する「監視の視線」がレトリカルに重ねられていたという指摘がある。  また、テレビもない時代にチャップリンの『モダン・タイムス』(‘33) は、資本家がモニターで工場労働者を監視するシーンを描いた。実際に世界最初の監視カメラが生まれたのは後年の1942年のことで、ナチスが開発した弾道ミサイル「V2ロケット」の打ち上げを観測したときであったというから、チャップリンの先見性には驚かされる。  早い時期から映画のつくり手たちは、映画撮影というテクノロジーのなかに、権力者によって一般人が監視化される危険性を見ていたのである。 サブカット3.jpg (C)2007 Captured Films,LLC 映画演出と監視  その一方で、映画は「監視の視線」を物語のナラティブへと貪欲に取りこんでいくこともした。ヘンリー・ハサウェイの『出獄』(‘48)には、イリノイ州のステイトビル州刑務所でロケ撮影した、パノプティコン(全展望監視施設)の姿が記録されている。  これは中央部の監視塔のまわりに、円周状の監獄を配置した監獄建築であり、看守に常に監視されていることを囚人の心理に内在化させて秩序を保つものだ。監視社会のあり方として隠喩的に使われるモデルであり、映画ではジェームズ・スチュワートが刑務所内を歩くシーンで効果的に見せている。  メディア文化研究のトーマス・Y・レヴィンは共著書『監視の修辞学』のなかで、フリッツ・ラングの『ドクトル・マブゼ』(‘22)やヒッチコックの『裏窓』(‘54)、マイケル・パウエルの『血を吸うカメラ』(‘60)を例にとりながら、カメラが持つ「監視の視線」が映画の演出において、洗練された形で使われていったことを明らかにする。  レヴィンによれば、登場人物を監視するカメラの視線、反対に登場人物とともに誰かを覗き見をするカメラの視線には、ひとしく観客とカメラを一体化させる効果があり、観客が本来的に持つ窃視症的な欲望を満たすところがあるという。そのように考えてくると、アダム・リフキンの『LOOK』(‘07)という映画は、観客とカメラアイが同期する原理をうまく利用し、全編を監視カメラの映像だけで構成した野心的なフィクションだといえそうだ。 サブカット2s.jpg (C)2007 Captured Films,LLC 『LOOK』  監視カメラ映画『LOOK』が示すのは、防犯という名のもとに「監視の視線」が街頭や家庭のインターホン、銀行、コンビニ、学校、オフィス、エレベーター、トイレや更衣室など、あらゆる場所へ入りこんだ現代社会の姿である。9・11以降は安全性確保の大義名分のもとに、「電子の眼」はますます増え続けているという。たとえば、全国に3000万台もの防犯カメラを設置したアメリカ人は、1日平均200回以上監視カメラに姿を映されているという、途轍もないデータさえある。  「情報化社会は監視社会である」という言葉があるように、広義に考えれば、いわゆるCCTV(防犯カメラなどの閉回路サーキット)に加えて、さらに携帯カメラやデジカメ、ウェッブカメラや顔認証システムが、公共の空間において監視カメラの機能をはたしていることがわかるだろう。 サブカット4.jpg (C)2007 Captured Films,LLC 現代人と監視  そんなジョージ・オーウェルの小説『1984年』のディストピアのようになってきた現実世界とは対照的に、『LOOK』で注意を引くのは、「監視の視線」を前にした人々の開けっ広げで、やりたい放題な態度である。  映画のなかでふたり組の女子高生は、防犯カメラのある試着室で堂々と衣料品を万引きする。ショッピング・センターのマネージャーの男は片っぱしから女性従業員を誘惑しては、監視カメラのある倉庫のなかで白昼堂々と情事にふける。彼らは、監視カメラが犯罪や盗難の抑止効果を狙ったものにすぎず、レンズのむこうには監視者ではなく、せいぜいビデオテープか保存メディアしかないことを熟知しているように見える。  つまり、『LOOK』の登場人物たちは、何か犯罪でも起きない限り、膨大な量となるテープを巻き戻して見る者はおらず、もしあったとしても、そこには一定のタイムラグが生じると高をくくっているのだ。これは示唆的な描写であり、現代社会では「監視の視線」があまりに常態化したため、人々が電子の眼の存在を意識すらしなくなったと主張しているかのようだ。  このような社会は、『善き人のためのソナタ』(‘06)で描かれた1984年の東ドイツの国家保安省が、国民へ徹底した盗聴行為をしていたような時代からは、遠くかけ離れている。国家権力や警察組織による監視はあいかわず強化の一途をたどっているが、ここでは、監視システムにおける「監視する者」と「監視される者」という対立の構図は崩れている。 メインカットs.jpg (C)2007 Captured Films,LLC モニタリングの功罪  『LOOK』で印象的なのは、ベビーシッターが悪質でないか見張るために、夫婦が出かける前に子どもの人形のなかに監視カメラを設置するシーンである。安全対策のためには仕方がないと思う反面、やはり私たちはげんなりした気分をおぼえさせられる。  そもそも、監視システムは人々に安全性と利便性を与えるからこそ、これほどまでに発展してきたという社会的背景がある。デイヴィッド・ライアンは著書『監視社会』のなかで、他人や権力による監視のほかに、広義の監視の肯定的な面についても考察している。  たとえば、クレジットカードの使用状況の記録や会員カードによる顧客の囲いこみ、住基ネットによる個人の基本情報のモニタリングは、社会生活を円滑化させる合理性のもとに進行してきた。近代以降は社会そのものが利便性を追求するために、監視というプロセスを必要として社会に内在化させてきたのである。  こうして、私たちの日常生活の細部は、政府や企業や他人の監視の下にさらされることになった。ライアンによれば、現代において「監視の視線」の対象は個人の身体そのものから、個人情報や個人の映像へとその裾野をますます広げる傾向にあるのだ。 サブカット1s.jpg (C)2007 Captured Films,LLC ハイパー監視社会  たとえば、ロンドン同時爆破テロや秋葉原通り魔事件などで、防犯カメラがとらえた犯人の映像がニュースでくり返し流されるたびに、多くの人がさらなる監視システムの強化を叫ぶ。だが、そこには防犯カメラが撮影した映像をマス・メディアが自由に使用する権限はあるのか、という肖像権をめぐる新しい問題が発生する。  あるいは、ライアンがSF映画の『ガダカ』(’97)を例にあげていうように、身元確認のための生体認証技術や遺伝子情報が動員されて、デジタル化された「ハイパー監視社会」がSF的ディストピアのように、すぐそこまで来ているような感さえある。  要するに、現代に生きる私たちは、コッポラの『カンバーセーション…盗聴…』(‘73)のラストでジーン・ハックマンが演ずるプロの盗聴屋のごとく、誰かに監視されているという脅迫観念に悩まされて暮らすしかないところまで追い詰められている。ここには2つの選択肢しかない。『LOOK』で描かれるように、カメラの存在を意識下におさえて欲望に忠実な生活を送るか、リンチの『ロスト・ハイウェイ』(‘96)やハネケの『隠された記憶』(‘05)のように、監視者が不在であるような「監視の視線」に深層心理で脅え続けるか。  だが、ここでひとつの希望が、やはり『LOOK』から与えられる。深夜のコンビニでバイトするロックスター志望の青年と踊り好きの悪友は、夜な夜な防犯カメラの前にキーボードを持ち出して、オリジナル・ソングを歌い、即興的なダンスを踊る。  彼らは「監視の視線」をライブ中継のカメラに読みかえ、電子の眼のむこうにいる架空の聴衆にむけてライブ・パフォーマンスをくり広げる。これ以上の社会の監視化を許してはならないが、モニタリングが日常生活の細部にまでおよぶ世の中では、個々人の抵抗はこのような発想の転換によっておこなわれるのかもしれない。いずれにしても『LOOK』は、さまざまな議論を巻き起こすきっかけとなりうる監視映画の新作である。 『LOOK』 監督・脚本:アダム・リフキン 視覚効果監督:スコット・ビラップス 出演:ジョゼッペ・アンドリュース、リス・コイロ、スペンサー・レッドフォードほか 2007年/アメリカ/配給:トルネード・フィルム、AGMエンタテインメント/102分 原題:Look  9月6日(土)からシネセゾン渋谷にて公開 公式サイト http://www.cinemacafe.net/official/look/main/