映画芸術

脚本家荒井晴彦が編集発行人を務める季刊の映画雑誌。1月、4月、7月、10月に発行。2016年に創刊70周年を迎えました!書店、映画館、Amazon、Fujisanほかにて発売中。

『NINIFUNI』クロスレビュー <br>神田映良(映画批評)、近藤典行(映画作家)

触れあうようで、触れあわない距離 神田映良(映画批評)  「顔」と「ノイズ」の映画。『ケンタとジュンとカヨちゃんの国』で強烈な拒絶のオーラを放っていた宮﨑将の顔は、今回、この世界の虚無を吸いとり、世界の表情のようにして、作品を支えている。ぼやけた風景が焦点を結んで浮かび上がる宮﨑の最初の表情は、寄る辺ない、言わば白紙の表情をしている。騒音の中に身を置くこと自体が目的であるかのように、半ば自動的に手を動かしながらスロットマシーンをするシーンでは、ざらついた、世界を突き放すような眼差しが観客を射る。彼の表情の微妙な移り行きこそが、この映画の最大のドラマだ。彼が国道沿いを彷徨するシーンでは、宮﨑以外の顔は映らない。宮﨑が立ち寄るコンビニの広告でさえ、花粉や風邪への対策を呼びかけつつ、マスクなどで覆われた顔が写っている。犯行時にはマスクで口許を覆い、匿名性を身にまとっていた宮﨑が観客に晒し続ける顔は、空虚の上にポツンと置かれた一点の染みのように、寂しい。他者が確かに存在しながらも、その存在が見えてこない画面の中に、独り置かれた宮﨑の表情。その彼もまた、顔の見えないアングルで収まっているカットが多いし、スロットマシーンやコンビニのカップ麺を見つめている時ですらその眼差しは、本当は対象を見てなどいない印象がある。彷徨しているのは宮﨑の身体である以上に、眼差しであり、それが世界の感触を不確かなものにする。 main.jpg  無言のままに彷徨い続ける彼を包み込む、国道を走る車の騒音は、最初、暴力的にさえ響くけれど、いつしかその音に、胎内で聴く心臓の音のような安らぎを覚えている自分に気づく。それは街の鼓動なのかもしれない。冒頭の、宮﨑と相棒が路を歩くショットは、一台の黒い車が画面左へと曲がるのを見た二人がそれを追って駆け出す瞬間、空気が一変する。路と、そこから逸れた空虚な空間。映画の前半は、その往復で構成されている。住宅街を歩くシーンで、路を逸れて空き地に佇む宮﨑。路肩に車を停め、風車を見上げる宮﨑。そして車を走らせた先に辿り着くのは、無人の浜辺。  国道の騒音と交替するように響く波の音。宮﨑は、波に洗われて湿った砂の感触を確かめるように浜辺を踏みしめる。爪先に迫る波を寸前で避けながら、波のリズムに歩みを合わせるようにする。ここに至るまでの彷徨で、僕らは彼と共に、世界の鼓動に耳を済ませていたのかもしれない。この海は、『ケンタとジュンとカヨちゃんの国』のように「外国」という彼岸(それは虚無と殆ど等しいのだが)を水平線の先に求めるような海ではなく、フェリーニの『道』やトリュフォーの『大人は判ってくれない』等々の海のようなこの世の果てというよりは、宮﨑が車を避けつつ横切っていた国道のような、「時間」を可視化した境界線として映じる。既に闇に沈んで見えなくなっていた宮﨑の顔は、目貼りした車内で彼が練炭に火をつけたとき、再び、そしてこれを最後に浮かび上がるが、間もなく画面は溶暗していく。彼は「時」から放逐されるのだ。 サブ3.JPG  この浜辺で、アイドルグループ「ももクロ」こと「ももいろクローバー」のPV撮影が始まることで、一気に雰囲気が一変する、かに思える。彼女らの少女らしい甘い声は、画面を浸食していた虚無感を徐々に払い除けていくし、浜辺に流れる「ももクロ」の楽曲は波の音をかき消し、PV用のカラフルなセットが、寂しい風景に色彩を添える。だが、その明るさが却って、背を向けて接しあう空虚を際立たせもするのだ。  PV撮影用のカメラの他に用意された、メイキング用のカメラに笑顔を向けるメンバーの一人が「今、浜辺で会えるアイドル、ももいろクローバーですっ」と、会いに来る人などいそうもない広漠としたノー・マンズ・ランドである浜辺で、明るくアピールし、カメラの前で、自らの役割を演じてみせる。宮﨑もまた、防犯カメラの前で、ニュースでお馴染みの「バールのようなもの」を手にした相棒と共に、世界の隅で、ありふれた犯罪者を演じていたのかもしれない。宮﨑も「ももクロ」も、映画内のカメラの被写体として存在している。だが、宮﨑とは対照的に、少女たちはその顔をカメラに積極的に向ける。宮﨑のその匿名性は、誰でもあり得る、つまりは僕ら自身でもあり得る一つの人影のようでもある。一応は与えられている「田中」という役名さえ、彼という匿名の存在に何となく付随してきたという以上のものではないだろう。  宮﨑が死んでいる車内から、「ももクロ」が踊る浜辺を捉えたショットは、車窓越しに風景が覗く、フレーム内フレームのあるショット。真利子哲也(監督・脚本・編集)の脳裏に浮かんだこのショットから構築されていったというこの映画は、眼差すことを眼差す映画とも呼べるだろう。このカット中、「ももクロ」の歌と波音は――、絶えず、単調に響き続ける世界の鼓動と、それをかき消すように一瞬の輝きを放つ少女の歌とは、等しい大きさで聞こえてくる。やがて歌は消え、「ももクロ」は去り、ホワイトノイズのような波音だけが残される。この世の果てから、死者の眼で、為すすべもなく「ももクロ」を見送るということ。僕らが『NINIFUNI』から持ち帰ることになるのは、この眼差しの経験なのだ。 sub3_yama_SBA4758.jpg  「歩く」という日常的な行為から、その足で強盗へと向かうカットで始まるこの映画のエンドロールに流れるのは、「ももクロ」の歌う“行くぜっ!怪盗少女”。ダイアモンドなんかより、あなたの心が欲しいの、と歌う明るい声は、現実の生々しい窃盗行為とは縁もゆかりもないハッピーさを放射し、宮﨑が呼吸していた世界とは別の宇宙で響いているようにも聞こえる。だがその歌詞は、顔を隠した犯罪者としての宮﨑が得ようとして、虚しい彷徨を余儀なくされていたものを、あっけらかんとした明るさで歌い上げてしまっているようにも聞こえる。強烈な違和感さえある“行くぜっ!怪盗少女”とこの映画とは、宮﨑の爪先と波のように、触れあうようでいて触れあわない。  触れあうようでいて、触れあわない距離。それは僕らが、自らの死との間に持つ距離でもある。なぜなら、それが訪れた時には、僕ら自身は存在しないのだから。反面、その死は、他の誰でもない僕ら自身にのみ訪れる。この「死」は、「孤独」と言い換えることもできるだろう。宮﨑が死んだ車内から見た光景は、僕ら自身が抱えている光景でもあったのだ。「ももクロ」の歌は、たとえそれが虚しさの上に響くとしても、むしろそれ故に、強烈に生を感じさせる。宮﨑が奪い、死んでいき、最後は魂の抜け殻のようにレッカーされていったあの車のボディの黒さに抗うためにこそ、あの歌声は切実に響いてくる。広漠とした浜辺に四つ葉のクローバーの如くハッピーを運んできた、ももいろクローバーの下には屍体が埋まっている! 今こそ僕は、あの熱狂の中で声援を送っているヲタたちと同じ権利で、彼女らの歌声が聴けそうな気がする。 サブ2.jpg 死はひっきりなしにやってくる 近藤典行(映画作家  書き出しからで恐縮なのだけれど、真利子監督ならびに『NINIFUNI』関係者の皆様には、これから映画とはほぼ関係なくアイドルのことだけを書き連ねることになるだろうご無礼をお詫びして、この文章を始めたい。ただ、これも私の取り返しのつかない「死」を多分に含んだ愚鈍な「生」だと甘んじて納得の上、どうか目をつむっていただきたい。さて、  2010年8月31日、新宿の狭すぎるいつもの居酒屋に集まった、結束などまるで持ち合わせていない映芸ダイアリー執筆メンバーがこの日も暑苦しい映画談義を喧々諤々やりあっているのを遮って、私はその日に目撃したばかりの真の戦いの模様とその壮絶さを揚々と説いてみせた。そこにいるメンバー全員が、まるで興味のない顔を隠そうともしない中にあって、「今、最も厳しい戦いの矢面に立ってそれを乗り越えているのは映画作家でも、ましてや批評家なんかでもなく、10代の少女たちである」、ライブの興奮と安い焼酎は私を急造の煽動家に仕立て上げていた。その日のライブとはC.C. LEMON ホール(現・渋谷公会堂)で行われた「アイドルユニットサマー2010」であり、プレスとしてちゃっかり忍び込んだ私のお目当てはSKEでもスマイレージでもbump.yでもなく(正直全部見たかったんだけど)、ももいろクローバーであり、いつ何時も全力のパフォーマンスをぶつけてきた彼女たちは、もちろんその日も最高だった。  すぐに終わるであろうと粗方の人に思われていたブームだったが、新しく2012年を迎えてなお、今年もしばらく続きそうなそれは、実力の伴ったアイドルグループが次から次へと登場してくることからも保証されている。一方、去年の年末にはスマイレージから前田憂佳が、ぱすぽ☆からは佐久間夏帆が、私立恵比寿中学からは宮﨑れいなが、そしてその他のいくつかのグループからもそれぞれアイドルたちがその場から身を引いていった。そして、それでもアイドルと呼ばれた彼女たちは、どんなときだって決して笑顔を絶やすことはなかった。その在りようのなんという過酷さ。死を知るもののもつ儚さ、なによりもその美しさ。 サブ1.jpg  『NINIFUNI』という映画は一見すると、罪を犯した一人の青年の「死」と「生」に満ち溢れた一組のアイドルグループ(ももいろクローバー)が対をなしているようにも思えもするが、事態はそんなに単純ではない。なにより彼女たちがその自分たちにいつ訪れるかわからない「死」に対してあまりに自覚的であるし、少女の「生」など一瞬でしかないことを肌で感じ取ってもいる。現に、『NINIFUNI』が撮られた際の早見あかりがいる「ももいろクローバー」はもはや二度と見ることができない、その事実が目に前に広がっているではないか。  プレスシートに寄せられたキャストのメッセージを読む。私より一つ年上の、この映画でPVのプロデューサー役を演じた山中崇氏は、「生と死、静と動、孤と集団、二つの対極にあるもの」というように書いてしまっていて、残念ながらこの映画を掴み損なっているのを露呈させてしまっている。私はこの映画の本質を掴み取っている、などと主張したいわけではない。むしろ30をすでに越え、理屈で考えてしまうような男どもにこの、中心を欠くことで素晴らしい作品になりえている『NINIFUNI』という映画はどこまでも隔てられた距離がはっきりと横たわっているだけだ。「ももいろクローバーZ」の感電少女こと、18歳の高城れにはどうであろう。「時間の流れ、人生とはなにか深く考えさせられる物語。私達が過ごすこの時間も『NINIFUNI』です」。  宇宙とも死者とも交信できるさすが高城れに、どうやらすべてがわかってしまっている。いや、わかっているのは彼女だけなのかもしれない・・・  しかし、だからこそ私は『NINIFUNI』を繰り返し観ることになるだろうし、その一回性のものでしかない感触に何度も触れようと試みるだろう。同じ波はやってこない。  かつて映画が一秒に24回の死を見せてきたのであれば、フィルムで撮られることの方が珍しくなった現在の映画は一体どれほどの死をその身に纏っているのだろう。『NINIFUNI』が名状しがたい欠落を中心にするしかない、映画そのものの死と向き合っている、その一点のみだけでも、この映画がきわめて誠実な現在の映画だと断言できる。  最後に一つだけ、ももクロファンの方ならご存知、なぜかこの映画にはその名がクレジットされていない川上アキラ氏の演技を超越した存在そのものは、宮﨑将と並びとんでもない領域にいることも、この映画の大きな魅力の一つであると力を込めて特筆しておきたい。 映画『NINIFUNI』FULL VOLUME ver.予告編 『NINIFUNI』 監督・脚本・編集:真利子哲也 共同脚本:竹馬靖具 撮影:月永雄太 録音:高田伸也 美術:寒河江陽子 助監督:海野敦 出演:宮﨑将 山中崇 ももいろクローバー 玉井英棋 宇野祥平 守谷文雄 松浦祐也  配給:ムヴィオラ 配給協力:日活 2011年/日本/42分 (C)ジャンゴフィルム、真利子哲也 2月4日より渋谷・ユーロスペースにて公開 2月25日よりシネ・リーブル梅田、シネマスコーレ、京都みなみ会館ほか全国順次 公式サイト http://ninifuni.net/ 【『NINIFUNI』公開記念『イエローキッド』一週間限定レイトショー】 1月21日~27日、オーディトリウム渋谷にて、連日21時より 当日料金:一般1200円 *『NINIFUNI』前売券をご提示の方は1000円