映画芸術

脚本家荒井晴彦が編集発行人を務める季刊の映画雑誌。1月、4月、7月、10月に発行。2016年に創刊70周年を迎えました!書店、映画館、Amazon、Fujisanほかにて発売中。

「第一回こまばアゴラ映画祭」評論ワークショップ レポート <br>皆川ちか(ライター)

 さる2月22日より一週間にわたって開催された「第一回こまばアゴラ映画祭」。評論部門ワークショップに講師として参加した皆川と申します。他講師二名は、映画芸術ダイアリー執筆者である映像作家の金子遊さん、放送・構成作家若木康輔さん。三人の中でもっとも「おまえは誰だ」的な立ち位置のもと、はっきりいって勉強させていただく気分で臨みました。

 私は肩書きを、基本的に“ライター”としています。“映画評論家”“映画批評家”などとうっかり名乗ったら、「評論家のくせにこんなことしか書けないのかよ、おまえ」と人様に言われかねません。「ただの感想じゃねえか」というのもいいですね。私自身、“評論家”“批評家”の方の文章を読んで、そう思うことが多いので、「これは確実に大多数の人が思っているな……」という確信をもって、それを避けるため“ライター”と名乗っています。びびりとも言います。

 なので、今回ワークショップ(以下WS)で教える側となるにあたり、自分に条件を課しました。

 参加者の皆さんに、失笑されないこと。そして参加費をいただく以上、楽しんでもらうこと。

 この2つです。

h_ws_ph01.jpg

ワークショップ風景

 実のところ、WSの実施日は平日の朝九時半というのもあり、「本当に人が集まるのだろうか……」と、関係者は直前までおののいておりました。下手したら「東京人間喜劇」の第二話状態になるやも。もしもそうなったらなったで、その現実を受け入れよう。しかし幸いそうにはならず、早朝にも拘わらず合計九名の方がいらしてくれました。

 短編映画を上映して、鑑賞後、その印象を135文字以内で書く。できた順からその文章を、このWSのために作ったツイッターに投稿し、プロジェクターで映写、各自感想を述べ合う。前半はこのように進みます。上映したのは、昨年度ぴあフィルムフェスティバルで準グランプリを受賞した片岡翔監督の「くらげくん」。ガーリーなくらげくんと、戦争ごっこが大好きな虎太郎は友だち同士。引っ越しの決まったくらげくんは、残された時間のなか、ふたりの仲を進展させようとする……という物語。十四分の短編ながら、初恋、友情、性差、無垢、そして困難な現実が巧みに自然に描かれて、非常に見せる作品です。参加者の皆さんには、この印象を書くにあたり、NGワードを設けました。それは以下の三つ。

「おもしろい、つまらない、すばらしい」

 理由はおわかりですね。それを言っちゃあどんな評論も批評も、まさに「感想じゃねえか」になってしまいます。もしこれがドキュメンタリー作品だったらNGワードは、「考えさせられる」になっていたでしょう。理由は以下に同じ。

 これらの三語を禁句として、十五分の制限時間の中、皆さん黙々と、真剣な表情で鉛筆を走らせます。鉛筆書きの文章をパソコンで打ち、ツイッターに上げていくといった、アナログとハイテクの混在した空間。書き上がった順に大型スクリーンに文章が映し出されて、合評がはじまります。

 それらの一部を紹介いたしましょう。

1「子供時代と今のわたしをつなぐ何か。そのおぼろげところはおぼろげなまま、つかみきれていないところはつかみきれないままに、私のくらげちゃんは場末のもうすこしグロテスクなところにいるなーと思った」

2「じゃんけんとサスペンスのフックとして、世界の不条理さを、子供に仮託して描く。残酷な日常を生きる現在人の絶望感を幼い子供のみが発するほんわかとしたユーモアにくるんで描く監督の手腕は完全にプロのものである」

3「危うい。ヒラヒラの洋服を着た男の子がボクの事を好きだと思っている時点で危うい。なんとも可憐なクラゲくんとゲタにボウズの少年が結婚をジャンケンで決めている。わざとらしい演技とわざとらしい台詞とわざとらしい歌。なのに切なさまで十分伝えてしまうこの映画は危うい」

4「日本版『ぼくのバラ色の人生』」

1は、この作品のもつおぼろなイメージを言葉で表現し、かつ書き手がどんな人物なのかも伝わってくる文章。

2は、言葉づかいにやや紋切り型なところはあるもの、100文字の中で批評を成立させている。

3は、同じ言葉をリズムよく繰り返しながら、最初と最後の「危うい」では危うさの意味が変わっている。それは劇中のくらげくんと虎太郎が繰り返すジャンケンの変化にも重なる。

4は、おすすめコメントにそのまま採用できそう。

h_ws_ph02.jpg

写真左から若木康輔、皆川ちか(筆者)、金子遊の三氏

 そう、この時点で、参加者のレベルがそうとう高いことに気づきました。平日の朝、こまばアゴラ劇場までわざわざ足を運んでくるだけはあります。

 合評が終わり後半は、原稿用紙のリライト作業へと移ります。先ほど書いたつぶやき状の短文をベースに、それを四百字へと膨らませる作業。三グループに分かれて各講師が、明光義塾の授業のように自分の担当する参加者と向き合い、その文章を読み、評する。いま「評する」と書きましたが、思い返してはたして自分が参加者を評せていたのかどうか。これは私の映画にまつわる文章もそうなのですが、作品からその作り手の人物像・価値観・世界観・人生観・恋愛観が見えてくるかどうか。作り手は自分の作品に自分を落とし込んでいるか。その落とし込みは本気か。本当か。自分独自の落とし込み方か。先人の影響を受けている部分があれば、なぜこの人の影響を受けるようになったのか。きっと理由はあるはず……といったことを見つけるのに重きを置いて書いています。その点では、私の書く文章は、作品の良い点・悪い点を見つけその価値を論じる“批評”にはなり得ません。あえていうなら“作品を通して作り手はどんな人間なのかを探る”といったところでしょう。この、“作り手”という部分は“書き手”にも置き換えられます。その作品から、文章から、作者が見えてくるか否か。これが、現在の表現世界でサバイバル(サクセスに非ず)してゆくためにもっとも必要なものだと、経験上から思っています。ですので、後半のディスカッションでは、その点にのみ心を留めて参加者の方に意見しました。

 残念ながら映画批評という表現ジャンルは、現在かつてなく力も影響も浸透性もない状態にあります。その原因は単純ではなく、色いろなものが組み合わさった結果の弱体化ではありますが、一つの原因には、書き手の顔の見えない批評の増加にあると思われます。批評というのは評する対象である作品ありき。つまり、ゼロから生まれる表現ではありません。その時点ですでに、ゼロから生まれた作品の方が表現として、批評よりも一歩先にあるのは当然といえます。そうした作品と互角にわたり合い、競い合うためには、映画的教養・素養はもちろんですが、それだけでは勝負にはなりません。表現の手段が映像である映画に対して、私たちもまた唯一の表現手段である言葉の強度を鍛えなくては、研ぎ澄まさなくては、批評は映画には決して勝てない。勝つ必要はないかもしれません。まずは共存、そして対等。はじまりはそこからです。

 この「映画を評する」ことの意味に関しては、金子さんは「たとえるなら骨董品の鑑定士。監督の個性や、その人がもっとも活きる場所を見つけ、教えてあげる役割」と語り、若木さんは「監督自身も気づいていない深層心理を作品から読み解くこと」と、作り手への敬いをベースにしつつ、「一番いいのは、映画以上におもしろい映画評論」という意見では三人ともに一致しました。

 九人の参加者の中にひそかに紛れ込んでいた片岡翔監督が、「これ、「くらげくん」以上におもしろいつぶやきじゃないか……」と、感じてくれていたらいいのですが。そういう陰気な楽しみもまた、「批評」のおもしろみの一つです。あ、NGワードだ。

h_ws_ph03.jpg

『くらげくん』の片岡翔監督

こまばアゴラ映画祭公式サイト http://www.agora-summit.com/2010w/lineup/film.html