映画芸術

脚本家荒井晴彦が編集発行人を務める季刊の映画雑誌。1月、4月、7月、10月に発行。2016年に創刊70周年を迎えました!書店、映画館、Amazon、Fujisanほかにて発売中。

『結び目』 <br>小沼雄一(監督)・港岳彦(脚本)インタビュー

 『童貞放浪記』の小沼雄一監督が、ピンクシナリオコンクール入選作である『イサク』(公開タイトル『獣の交わり 天使とやる』)や『ヘクトパスカル』などで頭角を現した脚本家の港岳彦さんとタッグを組んだ新作『結び目』が6月26日から公開となります。

 中学時代に関係を結んだ元教師と教え子がそれぞれの結婚を経て再会するというストーリーを持つ本作。人物の抱える葛藤が激しくぶつかり合うシナリオは、俳優陣の好演とキレのある演出により、緊張感あふれる映画世界を創りだしています。この映画で新進の演出家と脚本家が描こうとしたものはなんだったのか。日本映画学校の同期生でもあるお二人に伺いました。

(取材・構成:平澤竹識 構成協力:春日洋一郎・駒形一樹)

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左から小沼雄一(監督)・港岳彦(脚本)

――これはオリジナルの企画ですが、どういう形で始まったのか教えていただけますか。

小沼 プロデューサーの小田さんとは付き合いがあったんですけれども、小田さんが若手にオリジナルで撮らせる企画を手がけてまして、これまでに『窓辺のほんきーとんく』(08)とか『ランニング・オン・エンプティ』(09)という映画を作ってたんですね。そういう流れがある一方で、港がピンクシナリオコンクールで入選したというきっかけもあって、小田さんから「低予算だけどオリジナルの脚本で、内容重視で作りたい」というオファーがありまして。官能シーンを入れてほしいという以外、特に制限もなくできたのは巡り合わせがよかったんだと思ってます。

――中学時代に肉体関係のあった教師と女子生徒が再会するという話になったのはどういう経緯があったからなんですか。

小沼 小田さんも内容に関してはお任せみたいな感じだったんで、港が前々から温めてた断片的なアイディアをもとにプロットを書いてもらいました。それを小田さんに見てもらいまして、それなりにいいんじゃないかってことで、わりとすんなり行きましたね。

港 昔から中学教師の話をやりたかったんですよ。中学教師と教え子の女の子っていうので何か書けないかなっていう思いがずっとあって、同時にその頃、一人の女の人のイメージが強烈にあったんですね、「火のような女」というか。そういう女の心理を徹底的に探っていきたいってことを考えていて、今回のプロットでその二つがリンクしたっていう感じなんですよ。そんなところから探っていくと、それぞれの夫婦像が出てきて、4人の物語になっていったという感じですかね。プロットを3稿くらい書いて、シナリオの初稿を2008年の年末に上げたのかな。小沼さんに送ったら、「けっこういいね」みたいな反応で。

小沼 自分は初稿として提出する前のホンを読ませてもらったんですけど、とにかく頭からノンストップというか、二人の感情のぶつけ合いが「キャッチボール」どころではない(笑)。石を投げ合ってるみたいな感じで、これはもういけるなと。最後は放り出してるような感じだったんですけど、それがむしろいいなと思って、「もう乗った!」って感じでしたね。

港 そこから2稿、3稿と進んでいくうちに小田さんも入ってきて、3人でああしようこうしようみたいな場が何度かあって。主人公の女と教師の関係性はそんなに揺らぐことはなかったんですけど、それぞれのパートナーがどう絡んでくるかってところで結構悩んだ記憶はあります。あとは結末をどうするかですよね、やっぱり。

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――僕は日本映画学校にいたんで、小沼さんが卒業製作で撮られた『チャンス・コール』(95)をビデオで拝見してるんですが、前作の『童貞放浪記』(09)も『結び目』も一貫して「性」を扱ってますよね。そういうところに映画学校時代に小沼さんの先生だった武田一成監督とか、ロマンポルノの影響を感じるんですが。

小沼 自分はそこにこだわってるつもりはないんですけどね。

港 今回の設定はある種の定型だと思うんですね。この2組の夫婦が出てきたときに、彼らがどういう場で性交渉を持つかというところは型があるような気がするんです。それをまんまやったら憧れのロマンポルノになる(笑)、っていうのは分かってたし、途中までそういう風に進んでたんだけど、どこかでそれはやめようっていう風になったような気がします。

小沼 もし武田先生に影響を受けてるとしたら、武田先生の映画は女の情念とか男女の湿った関係に入り込んでいくというよりは、そこからポンと飛躍しちゃう。そこが一番好きなところなんで、今回その影響が出てるかどうかは分からないですけど、一歩引いた感じになってるかもしれないですね。それは元々の資質もあると思います。彼ら彼女らの感情に入り込んでいくというよりは、もう少し距離を置いて眺める感じで演出はやったつもりですね。

――激しい感情の応酬があるシナリオを演出するときに、そっちに持っていかれそうになる場面もあったと思うんですが。

小沼 自分は引きすぎるタイプなんで、今回は港の脚本と相性が非常に良かったなと、バランスが取れてたんじゃないかと思ってるんですよ。

港 醒めてるんですよね、小沼さんは。すごい醒めてる。俺は醒めることができないタイプなんで。

――たしかに『童貞放浪記』は距離を置いて撮ってる印象でしたよね。今回はカッティングも細かくて、要所ではクローズアップを使って内面に踏み込んでる感じがあったので、同じ演出家が直後に撮った作品という感じがしませんでした。

小沼 キャメラマンや脚本家が変わったのも大きいと思うんですけど、あっちは主人公が男ですからね。男にはあまりのめり込めない(笑)。それと『童貞放浪記』は原作が私小説なんで、主人公の一人称というのが大きくて、そこに入り込んじゃうと一方的な視点になるんですよ。今回はオリジナルの脚本で、絢子もいれば啓介もいて、それぞれのパートナーがいて、という風に関係が割りと対等に繋がってますよね。だから逆に、彼ら4人をしっかり撮らないと、そのドラマに入っていけないだろうなと思ってたんです。あとは技術的な問題もありますよね。今回、ニコンD90という一眼レフカメラの動画機能を使って撮影したんですけど、そうなるといろいろ制約があるんですよ。激しく動かせないから、ほぼフィックスで処理しなくちゃいけない。かといって、長回しができるような現場体制にもできない。美術費も限られてるし、エキストラもほぼいない状態ですから、映像のリッチ感を考えるとドンと構えられないっていうのがあったんですね。あとは個人的に『童貞放浪記』からの反動で、今回はカットを割っていきたいという思いもありました。

――中心となる4人の役者さんはどうやって選ばれたんでしょうか。それぞれに個性を発揮されていてとても良かったと思うんですけど。

小沼 脚本がほぼ出来上がってたんで、その役に合う人を純粋に探すっていうことですよね。この業界でそういうキャスティングができるのは実は非常に珍しいことなんです、少なくとも主演に関してはスポンサーが付くかどうかで決まりますから。ただ、今回は絢子だけでも複数の候補を挙げて、4人くらいの方にお会いして決めたんです。これはほんとに珍しいことですね、“普通に”キャスティングができたというのは。

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――自分で選んだ役者の方とは現場でも上手く噛み合ったんですか。

小沼 役に合ってるというだけでも、まず直す必要がないわけですよ。あとは俳優さんたちをいい状態に持っていけばいいだけなんで、そういう意味ではほんとに楽でしたね。あまりテストをさせずに、とにかく本番にとって置くという感じでした。

――スタッフについてなんですけれども、脚本の港さんも撮影の早坂さんも編集の前嶌さんも日本映画学校の卒業生ですよね。久しぶりにみんなで集まってやろうか、みたいなことだったんですか。

港 早坂さんは期が違うんですよ、年齢は俺と一緒なんですけど。小沼さんと俺と前嶌は7期で、早坂さんは11期。ただ、小沼さんとは学生時代は喋ったことがない(笑)。

小沼 港と話したのは卒業してだいぶ経ってからで、他の同期と飲んでるときに港もいるみたいな関係が続いていて、一緒に仕事をする機会もなかったんですけど、今回たまたまそういう巡り合わせがきたという感じですね。お互い生き残ってて良かったねっていう(笑)。早坂さんは自分が『ボディジャック』(08)という映画の監督補をやったときに撮影で入ってたんですよ。それでお互いの仕事がなんとなく分かって、自分の監督作品でお願いしたいなと思ったんです。今回は低予算の厳しい状況を理解してくれたうえで、なおかつクオリティを求める人を入れないと厳しくなるなと思ってたんで、ほんとに信頼できるスタッフばかりを集めた感じですね。

――演出の話に戻ると、今回は編集もスピーディーで、「意味のない間は使わないよ」みたいな意思を感じたんですが。

小沼 編集はその前嶌という同期がやってるんですけど、最初に繋いだときは間を持たせてみたんです。でも、そんな間はいらないなって感じがしたんですよね。今回は何かされたときのリアクションにしても、いろいろ考えたり計算してそうなるのではなくて、お互い反射的にやり取りするような、動物的な感じもあったと思うんで、リズムとしては間を持たせずに繋いだほうがいいような気がしたんですね。あとは、台詞が少ないというのも大きくて、編集で会話させるようなところもあったんじゃないかと思います。

港 前嶌がせっかちなだけだよ(笑)。

――今回、脚本も読ませてもらったんですが、必要最低限の台詞しかなくて、ト書きにも人物の背景が分かるようなことが書かれてるわけじゃないですよね。その脚本からああいう演技が出てくるということに驚きました。

小沼 今回の俳優さんはそこまで考えてくれる人が揃ってたってことだと思います。茜役の広澤(草)さんは面談した直後に長文のメールを送ってくださって、この脚本に関して自分はこう思うとか、茜について自分はこんな風に思っているとか、そういうことを言ってきてくれたんですね。主演の赤澤(ムック)さんはもともと演出の人ですし、現場で「やっと絢子が分かってきた」と言ってましたから、そういう風に言えるくらい考えてたんだと思います。川本さんは川本さんで自宅に帰っても役のまま日常生活を送ってる人らしくて、それで奥さんに愛想尽かされたっていう話を聞きましたけど(笑)。

――港さんを交えて役柄についてディスカッションしたり、エチュード的なことをしたわけではないんですか。

小沼 ホン読みは1回やったんですよ。そのとき軽く動いてもらって、もう十分だというのは分かりましたんで、役柄についても具体的な話はしなかったですね。ただ、現場で仲良くしないでくれっていうことは言いました。この4人は普通の人と仲のいい繋がりは持ってないだろうし、裏表のない会話は一切しないと思ったんで、とにかく距離は置いておいてほしかったんですよ。やっぱり現場で俳優さんが仲良くなると、それが演技にも出やすいんです。そういうお願いを分かってくれる方たちだったので、現場中はほとんど話をしないような感じでしたね、目も合わさないっていう。

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――港さんの脚本はピンクシナリオコンクールで入選した『イサク』から一貫してキリスト教のモチーフがあると思いますが、今回は「創世記」の言葉が冒頭に引用されてますね。ただ、その辺が難しいところもあるんじゃないかなと思ったんですね。というのは、義父の将司(上田耕一)を超越的な存在というか神の分身のような形で置いてたと思うんですけど、認知症の将司が、絢子が不倫に走る原因みたいに見えてしまう部分もあるんじゃないかなという気がしたんです。そうすると、鬱屈した人妻の不倫話みたいに受け取られてしまうんじゃないかと思ったんですが、その辺のことはどう考えてたんでしょうか。

港 エピグラフは脚本家の気分を表すものだと思うんですね。仕上がったときになくてもいいんですよ。観念的な意味合いで作りました、というのは誰も知らなくていい。それで成立してる話だと思います。ただ、あのエピグラフがあることで、二重三重の意味もあるよっていうことは言えるかなと思ってました。ある町があって、欲望だったり罪だったりを抱えながら生きてる人間たちがいるというときに、彼らが何かに射すくめられてるという話にしたかったんですよ。例えば、罪っていう言葉があるときに、何をもって罪とするかといったら、そこに神という存在を置かなければ罪という概念は成り立たない。法律的には成り立つけれども、倫理的な意味での罪というのは絶対的な価値基準があって初めて成り立つわけじゃないですか。創世記の言葉を出しておくことで、そこから彼らの生き方なり人間性を、ある側面から照射しておきたいっていうのはありましたね。

――それは映画を見ていて感じました。神っていう絶対的な存在を導入することで倫理が生まれる、だから港さんのシナリオの特長としてドラマや葛藤がはっきり見えるのかなと。

港 そうですね。例えば、ドラマのなかで少年犯罪みたいな事件が起きたとして、欲望のままに突っ走りました、と言われてもピンとこないんですよ。現実ってそうだよね、ということでしかないじゃないですか。だから、1本この世界に線を引いておきたいんですね。そのうえで人間の葛藤を浮かび上がらせたい。そうすることで、客観的に彼らを見ることができるような気がするんです。さっきも言ったように、僕は客観的になれないタイプなんで、脚本を書いてるときも人物が泣いてるときは自分もボロボロ泣くし、人物が笑うところはゲラゲラ笑いながら書くタイプなんですね。そういう自分を引け目に感じているところもあって1本線を引いておきたいし、西洋のドラマに学んでるところがあるので、単純に言うとそういうドラマが好きなんですね。

――ただ、キリスト教の位置付けも西洋と日本では全く違うわけじゃないですか。そのせいか分からないんですが、ドラマが非常にきついところに着地してるような気がするんですね。これが自分だったら息苦しくなるなっていう。

港 それは平澤さんが倫理的に乱れた人間だからですよ!(笑)。

――そんなことないですよ、たぶん(笑)。

港 でも、それっていいことだと思うんですよ。僕は個人的な考えを露骨に出すほうなので、それがしっくりくる人もいれば、平澤さんみたいに嫌だという人も当然いる。そういう好き嫌いが出るのは自然な気がします。100人いたら80人の人間が納得するものっておかしいと思うんですよ。たぶん個人的な思想なり感情で作ったものは少数の人にしか届かないんじゃないかなっていう。シナリオはそれでいいような気がするんです。ただ、演出はそこから膨らませていく作業だと思うんですよね、映画表現として。

――そういう意味で、小沼さんとしては港さんのシナリオをどうやって膨らましていこうと考えていたんでしょうか。

小沼 演出が脚本の狙いを100パーセント引き出せるとは思ってないんですね。あくまで自分があって、港の脚本があって、そこに同じものや違うものがあるなかで表現していくしかない。港の本当の思いはどこにあるのか未だに分からないとは思ってるんですけど、それはそれでいいと。キリスト教のモチーフにしても、映画における宗教というのはあくまで現象の一つであって、映画は今我々のいる世界と一番近いものであろうとする、純粋にそういうことでしかないんですよね。そこに登場する人たちが「罪」のような意識を持ったり、「救済」のような感覚を持つとしても、それは宗教の言葉であって、その感覚を映画のなかでどう表現するかが重要なんだと思います。それを一番イメージしやすいのは『シークレット・サンシャイン』(07)で、あれも宗教がモチーフですけど、行き着くところはただの陽の光でしかない。それはどこにでもあるもので、少しカメラを振ればそこにある、という終わり方だと思うんです。だから『結び目』のなかでも、人間が支えられていたり、敵わなかったりするもの、そういう存在があるということが表現できればいいんじゃないかと思ってました。映画は創世紀の言葉から始まりますけど、そういう感覚のなかで生きている人物たちの生活に一つドラマがあったということで十分かなと思ったんですよね。見てる人にもそこにあまり引きずられないでほしいなと。

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――港さんにお伺いしたいんですが、『イサク』でも『結び目』でも必ず人間の両面性というか引き裂かれる感情を描かれるじゃないですか。今回の絢子と啓介の関わり方にしても、憎しみと愛情の間を激しく行ったり来たりしています。人間の描き方として、その辺はこだわりがあるんですか。

港 師匠の馬場(当)さんが「人間とは非合理的な存在である」ってことを言ってて、それはドストエフスキーのテーゼなんですよ。それで僕自身も、合理的な行動を取らないところに人間の面白さがあるという感覚はずっとあるんですね。好きだと思ったから「好きだ」って言うのは当たり前で、「好きだ」と言いつつ暴れている人間のほうが、僕としては愛を感じるんです。

小沼 港自身が引き裂かれるタイプだと思うんですよ。自分のなかにある衝動と実際にやってる行為のバランスが悪い。そういういうときだけ必ず体調を崩してるんですよ(笑)。それがシナリオに書く人物に反映されてるのかもしれないですね。

港 バーッと書いてるところがあるから、それは俺自身がそうだからってことかもしれないですけど。

――これは僕の勝手な思い込みなんですけど、「キャラ」って言葉が使われ始めた頃から、映画で描かれる人物も一面的になったような気がするんです。だから、港さんが書かれる人物の引き裂かれ方っていうのが非常にいいなと思います。

港 ありがとうございます。もっと持ち上げて(笑)。でも、古典を読んだり見たりすると必ずそうなってるんですよ。たまたま昨日、イプセンの「人形の家」を読み直してたんですけど、ノラっていう主人公がいるじゃないですか。全然いい女じゃないんですよ。お嬢様で、苦労知らずで、人を騙す小狡さも兼ね備えていて、挙句の果てに夫を罵倒して、子どもを捨てて家を出て行くんですけど、それがすごく生々しいんですね。存在としてそこら辺にいる人と大して変わらない、それが普遍性だって気がするんですよ。だから、今がいつの時代だろうが、人間が本来持ってるものを描くべきだという志はあります。

――そういう意味では、茜だけは何が起きても旦那を愛し続けるキャラクターとして描かれていますよね。彼女の捌け口はどこにあるんだろうと思ってしまったんですが、茜のキャラクターについてはどう考えてたんですか。

港 僕としては、一番怖いのが茜というつもりで作ってるんですよ。絢子は分かりやすいですよね、考え方も行動も。茜はいい奥さんで啓介に一途な愛を捧げているように見える、でもそうじゃないんですね。自分の欲しいものは確実に手に入れる強欲な女というのが僕のなかの茜なんです。夫が浮気してるのが分かったと、それで「どういうことなのよ!」とか言ったりせずに、そういう思いを全部飲み込んで、かわいい顔して「好きだよ」とか言えてしまう、そういう女に僕はゾクッてするぐらい魅力を感じるんですね。それができちゃう女性として、絢子の対極にある女性として茜を置きたかったっていうことなんです。ただ、マクベス夫人みたいにそれを露骨に出しちゃうのは全然違うと思ってたんで、説明不足に感じるかもしれないですけど。

――僕がそういう風に茜を見られなかったのは、たぶん茜が絢子を家に連れてきて啓介と鉢合わせするシーンがよく分からなかったからなんですね。啓介が絢子の頬に手を置いて二人の世界に入っちゃう、それに茜が勘付いたのか分からなくて。茜が二人の関係に気付いてああいう風に振る舞ってるのか、単に鈍感なのかというのが掴みきれなかったんです。

小沼 あそこははっきりさせたくなかったんですね。自分の演出的な解釈で言うと、あのシーンで茜は二人の行動に気付いてるし、過去のことも知ってる、啓介の絢子への思いが消えてないっていうことまで分かってる。ただ、啓介も今の生活を受け入れようとはしてくれている。要するに、啓介と茜の関係は無理矢理成立してる状況じゃないですか。でも、茜はそういう状況でもいいから成立させたいと思ってるような気がするんです。絢子を家に連れて来るのは主婦として正しい行為なんですよ。店の常連さんに商店街で会って、「よかったら家に来てお茶でも飲みませんか」と言うのは主婦として正しい。啓介が家に帰ってきても、世間話をしながら三人で食事をして、絢子が素直にそのまま帰って行ったら、この状況はこれで成立するんじゃないかと考えている、茜はそうやって生きてるような気がするんです。そこに計算が働いたわけではなくて、自分がそういう生活を望んでるんだ、という思いだけがある。そういう意味で、自分はあのときの茜の行為は非常に素直な行為だなと感じながら演出してました。

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――実は、ここはじっくりお話を伺いたいと思ってたところなんですね(笑)。例えば、喫茶店で啓介と絢子が居合わせる場面とか、最後に山で二人が交わる場面でも、どっちかが呼び出したのか、あるいはどっちかがいることを知っててその場所に行ったのかという前段は省略されてますよね。シナリオと映画を比べると、説明的な部分がカットされていて、観客の想像力に委ねようという姿勢を感じましたし、そういう姿勢はすごくいいなと思う一方で、「でも、そこは分からせてほしい」というところがあって。それが喫茶店であり、山であり、茜と絢子と啓介の3人居合わせる場面だったんです。小沼さんは、山の場面とか喫茶店の場面についてはどう考えてたんですか。

小沼 演出的に言うと、絢子が喫茶店にいて、そこに啓介がフレームインしてくるってすごく自然なんですよね。映画の原則じゃないですけど、最初にクリーニング屋で啓介が伝票にある絢子の名前を見た時点で、二人の磁場は完全にリンクしちゃったと思うんですよ。そうすると行けばいる、行っていないほうが変というぐらいの感じだと思うんです。だから、そこの理屈は全く考えなかったですね。

港 ああいうところは裏設定を全部作るんですよ。そのうえで捨てるっていう形でやってるから、あそこを説明的に撮ったら「こんちくしょう」なんですよ。あれぐらい抑えて演出してるのは僕のなかでは正しいことで、あれ以上説明的にやっちゃうともう嫌なんですよね。

――僕はどうしても気になるんですよ。映画のなかで人と人が会うときに、それは偶然なのか意思なのかと。特に啓介と絢子は禁断の愛に踏み入るかどうかというところにいる二人なので余計にそういうことを感じたんだと思います。港さん的にはあの喫茶店の場面はどちらかが会いに行ってるという意識なんですか。

港 啓介は絢子の家も知ってるし、生活の成り立ちから何から実は全部を見てる、絢子も啓介に見られてることを知ってる、という関係性が出来上がってるんですよ。小沼さんの言う「磁場」ってそういうことだと思うんですけど、そうやってお互いの意思を分かりつつ無言でいるということが映画のような気がするんですよね。そういうもんじゃないですか。例えば、平澤さんが商店街を歩いてたら、昔手を出した女の子が人妻になって子供を連れて旦那さんと歩いていると。お互いに気付いてるし、散々セックスした熱い夜があったみたいなことも覚えてるんだけど、二人とも素知らぬ顔をして通り過ぎていく。それが人生じゃないですか。そこが僕は味わい深いと思うんですよ。

――感情の表れ方としてはよく分かりますし、映画もそういう風に演出されてたと思うんですけども、その前の段取りは見せておくという教育を荒井さんたちから受けてきたような気がするんですよね、単にアメリカ映画の影響かもしれないですけど。そこにどうしても引っかかってしまったんです。僕はそんなに映画を見てるわけじゃないですけど、もしかすると港さんの映画的な記憶の蓄積がヨーロッパ寄りで、僕の記憶がアメリカ寄りで、みたいなこともあるんですかね。

港 そうかなあ。アメリカ映画、好きですけどね。というか、どんな映画が好きであれ、日本で生まれ育ってきたというのは厳然としてあるし、基本的には自分の知ってる世界として書いてるつもりなんですよ。そこにヨーロッパ映画の何かを入れるとかってことではなくて、あくまで自分の実感として把握できることを書いてるつもりなんです。だから、男女がお互いの意思を知りつつ無言でいるみたいなことが、あるいは日本的なのかもしれないし。日常に立ち込めるエロティシズムってああいうところだなって思いますよね。

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――なるほど。あと最後にこれを伺っておきたかったんですが、今回、役者さんの脱ぎ方に物足りなさを感じてしまったんですね。これが官能ドラマだというのもあるんですが、自転車で転倒するシーンとか撮られてるじゃないですか、ああいうところで身体に肉薄していく演出意図を感じたので、この流れだったらもっと見せてほしかったなっていう。

小沼 なかなか難しいですね。まず、見る側が乳首にこだわりすぎてる(笑)。その一点にお金が発生するみたいな状況になってますよね。だから、作り手はそれに関してどうしようもないんですよ。

『結び目』

監督:小沼雄一 脚本:港岳彦

プロデューサー:小田泰之 撮影:早坂 伸 照明:大庭郭基

録音:杉田 信 助監督:木ノ本 豪 制作担当:森田理生 編集:前嶌健治

音楽:宇波 拓 衣装:宮本まさ江 ヘアメイク:岩部杏子

出演:赤澤ムック 川本淳市 広澤 草 三浦誠己 辰巳琢郎 上田耕一

配給・宣伝:アムモ

(C)2009アムモ

6月26日(土)よりシアター・イメージフォーラムにてモーニング&イブニングショー

公式サイト http://musubime.amumo.jp/