映画芸術

脚本家荒井晴彦が編集発行人を務める季刊の映画雑誌。1月、4月、7月、10月に発行。2016年に創刊70周年を迎えました!書店、映画館、Amazon、Fujisanほかにて発売中。

『ランニング・オン・エンプティ』<br>佐向 大(監督・脚本)インタビュー

 監督作『まだ楽園』(05)で注目された後、『休暇』(07/門井肇監督)や『アブラクサスの祭』(10/加藤直輝監督)の脚本を担当するなど、独自のキャリアを築きつつある佐向大さんの新作『ランニング・オン・エンプティ』が今月20日から池袋のシネマ・ロサにて公開されます。モラトリアムの感覚を生きる若者像、血縁のしがらみに対する抵抗のモチーフ、語りの効率を追求した無駄のない展開など、前作からの特長を継承しつつ、新たな局面を見せる新作について佐向さんにお話を伺ってきました。

(取材・構成:平澤竹識 構成協力:春日洋一郎)

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――この企画の立ち上がりの話から教えていただきたいんですが。

佐向 プロデューサーであるアムモの小田(泰之)さんが、新人監督にチャンスを与えるという趣旨で「ニューシネマ・クルセイダーズ」というレーベルを立ち上げたんです。このレーベルはDVDで売れるようにセクシャルな要素も含めた青春映画をメインに作っていくことになっていて、一応、その第二弾が『ランニング・オン・エンプティ』なんですよ。最初に、小田さんが「ダメな男が女のために走る映画をやりたい」「その走りが徒労に終るようなものをやりたい」と。それで「監督、誰にしようか?」と言われたんで、「じゃあ、僕がやりますよ」という話をして、小田さんがまず台本を書いて、それを元に打ち合わせを重ねていきました。

――佐向さんが監督するという話で始まったわけではなかったんですか。

佐向 ではないと思うんですよね。小田さんが自分でホンを書こうかなとおっしゃってたんで、そのときは「ああ、いいじゃないですか」とか言ってたんです。あわよくば監督をやらせてもらえないかなという気持ちもありましたけど(笑)。普段、僕が宣伝の仕事をやるときにアムモのデスクを借りているので、小田さんとはよく映画の話もしてたんですけど、始めから佐向にやらせようって意識があったのかどうかは全然分からないですね。

――監督すると決まったとき、佐向さんは小田さんのシナリオを自分の世界に引きつけるために、どういう風に変えようとしたんですか。

佐向 もともとVシネ的な要素が強い企画だったんで、それに則ったものにしようと思ったんです。でも人の意見を聞いたりスタッフやキャストを集めていくなかで、「そういう割り切り方はしないほうがいいんじゃないか」と思ったり、「ちゃんと自分のやりたいことをやらないと」っていう話になったりして。それで小田さんとも相談し、いわゆるVシネ的な要素からはみ出るようなものを加えていった感じですかね。実はシネマ・ロサ(公開劇場)の支配人から「佐向さんが撮るんだったらロードムービーにしなよ」って言われたんですよ。前作の『まだ楽園』(05)がロードムービーだったからだと思うんですけど。そうこうするうちに小田さんも「『まだ楽園』ぽくすればいいんじゃない」とか言ってきて(笑)。初めは、どうしてもうまくまとまっちゃう部分があったんですね、オチをつけるというか。そこを収束しないような形にしようとか、ラストでは普通あまりやらないようなことをやってみようとか、そういう部分で自分の世界に近づけていったところはありました。

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――今回はロードムービーではないですが、モラトリアムの感覚のなかで血を巡る物語が展開するところが前作から一貫してますよね。きっちり佐向さんの世界になっているように感じたんですが。

佐向 血を巡る物語は好きなんだと思います。でも、今回は敢えてそうしようと思ったわけではなかったんですよ。もともと低予算で撮影日数も少なくて、非常に狭い世界の話だったんで、それを無理に広げるよりも、もっと世界を狭くして住民全員が家族みたいな、そういう話にしちゃったほうがいいんじゃないかと思って。みひろさん演じるアザミにしても、主人公のヒデジ(小林且弥)と祐一(大西信満)の兄弟と血が繋がってる設定にして、ヒデジのバンド仲間とも肉体関係があるという方向で作っていければいいなと。だから家族の物語というより、一見いろんなキャラクターが出てくるんだけど、大元を辿れば全部同じというような構造を考えてたんです。

――血を巡る物語というと、やはり中上健次を思い起こしちゃうんですけど、佐向さんも好きだったりするんですか。

佐向 そうですね。全部読んでるわけじゃないですが。

――他に影響を受けた作家や映画監督はいますか。

佐向 血を巡る物語という部分で影響を受けてる小説や映画は今すぐには思いつかないですね。自分が親に捨てられたり虐待を受けてたわけでもないし。なんですかね、どうして血の物語が好きなのか、自分でもそこは謎です。

――監督でいうと例えば、青山真治さんが血縁にこだわって映画を撮られてると思うんですね。青山さんには北九州という磁場があり、中上さんにも和歌山という磁場があるわけですが、佐向さんの場合はある土地から影響を受けたということでもないんでしょうか。

佐向 ずっと横須賀で育ったので、どこに行っても横須賀の人間であるという意識は強いものの、土地と家族の記憶が結びついてるわけじゃない。ただ、自分は母方が東京の下町で父方が和歌山の田舎なんで、全然違う価値観を見て育ったところはあるかもしれません。

――中上さんの小説もそうですが、血を巡る物語の語り口は重たくなるのが一般的だと思うんです。佐向さんの場合も『まだ楽園』はわりとシリアスでしたが、『ランニング・オン・エンプティ』ではかなりポップになってますよね。そのバランスの取り方が独特で、そういう感覚の出所が知りたくなったんですが。

佐向 なんなんですかね、分からない(笑)。

――そうおっしゃるわりには、非常に確信的にやられてる印象を受けるんですよね。

佐向 うちは父親が自衛官で、子供の頃はそういうのが恥ずかしかったりするんです。祭日になるとうちの家からだけ日の丸が揚がってて、すごいムカついて父親と取っ組み合いの喧嘩になったりとか。「日本人なんだから当たり前だろ!」「じゃあ俺の部屋じゃなくて妹の部屋から揚げろ!」みたいな(笑)。それって客観的に見ると笑っちゃうエピソードだったりするわけで、そういった感覚を出していきたいとは考えています。また、自分の場合は同じ画面のなかに全然異質なものを出したいという意識が強いんじゃないかなとは思っていて。

――ある世代が同じ価値観のなかでワヤワヤやってるだけじゃなくて、全然違う世代との間に軋轢が起こったりとか、そういうことですか。

佐向 そうですね。それはすごいあると思うんですよ。

――そういう意味では、ヒデジと祐一の兄弟、それから義理の父親(菅田俊)という三人の男性のキャラクターは明確に差異化されてますよね。

佐向 その三人は家族だから繋がってる存在ですけど、繋がってるものを断絶させたいという欲望が自分のなかにあるんだと思います。無条件に繋がってるものに対して違和感があるというか、そういう繋がりを切っていきたいんですね。逆に、そうじゃないものを繋げたりすることへの志向がすごく強い。……今回、そこまで考えて作ってないですけど(笑)。

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――いや、よく練られてるなと思いましたよ。この映画って結局、ヒデジとアザミと祐一が三人共ある企みなり欲望を持っていて、それが全部空回りに終わる話ですよね。物語を構築しながら、一方で物語を裏切り続けてる、そこがとても面白かったんです。

佐向 どうしても物語は人物の成長を見せることだったり、何かの実現のためにみんなが頑張って、それが成功するかどうかという展開になっていくと思うんですね。今回は、この規模なら違う冒険もできるんじゃないかと思って作ったところはありました。

――三人の思惑が全て成就しない絶望的な話のはずなのに、表層的にはポップに作られていて全くそうは感じさせない、この感触は新しいなと思いました。

佐向 小田さんもそこは自由にやらせてくれて、今回はこういった形で作ることに納得してもらえました。最後のアザミとヒデジが仲直りするところも、特別な理由があるわけでもなく、結局ヒデジは本当にアザミが拉致されてたと思い込んだままだし、アザミにしてもヒデジからお金を取れないまま、またいつもの生活が始まるわけですけど、それでいいだろうと肯定してる部分を強引に出していければいいなと思ってたんです。

――佐向さんとしては、ヒデジとアサミがヨリを戻すまでにもう一つ何か必要だろうという思いもあったんですか。

佐向 物語をしっかり語るという意味だと、あれはちょっとないなとは思うんですけど、最後にヒデジがアザミに「(祐一とセックスを)やったか?」と聞いて、アザミが「やってない」と答える、それは確かにやってないわけで、そういう形で決着するのが非常に潔いと考えたんです。本来の物語的な決着なら、アザミがヒデジの自分に対する気持ちを理解して仲直りするという流れを作ると思うんですけど、それは面白くないと思ったし、現実はそんなものでは解決できないですし。

――ラストの話でいうと、最後のドタバタでヒデジが脚を引きずるようになりますよね。物語としては、ヒデジと祐一の兄弟は最後まで和解しないわけですが、あそこでもともと脚の悪い祐一とヒデジの同一感みたいなものが映像的に表現されていますね。

佐向 ヒデジと祐一に関しては、極端に正反対の性格や境遇を作っておいて、全く違うところから始まるんだけれども、徐々に近づいていって、最後は一人の人物じゃないかというぐらいまで行かせたいなとは思ってたんですよ。それを目で見て一番分かりやすい形にしました。

――そういうところが面白いなと思うんですね、掛け合い漫才のような細やかな台詞のやり取りがある一方で、台詞には一切頼らずに映像だけで押し切る部分があって。

佐向 基本的には台詞で何かを説明したり、話を展開しないようにしたいといつも思っています。映画の構造的なところで見せていければ一番いいですよね。

――構造という意味では、工場のノイズが冒頭からずっと鳴り響いていて、クライマックスのヒデジとアザミの和解シーンを巨大な工場の前に持ってきてますよね、そこでノイズもピークに達するように作られている。あの工場の存在には、どういう意図があったんでしょうか。

佐向 まず最初に、舞台が狭い町内であっても、それは世界の果てみたいなところだというイメージがあったんです。でも、いいところが見つからなくて、最終的に工業地帯の傍に落ち着いて。そこに住んでる人たちはおそらく、どこの会社のものであるとか、何を作ってる工場なのかということは知っていても、実際に何が行われているのか無頓着に生きてると思うんですね。この映画のキャラクターたちも、近くに工場があることを意識せずに生きてる人たちで、そこではもしかしたら原発よりも危険なことが行われているかもしれない。つまり、外部から見ると異様だと思っても、内部にいる人たちはそれを異様だとは思ってない、そういう舞台設定を作りたいなと思ったんです。

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――それはこの『ランニング・オン・エンプティ』の物語世界が、観客にその工場のようなものとして映ったらいいなということですか。

佐向 そうですね、近親相姦のようなことが起きてるけれども、彼ら自身はそれを異様なものとは思ってない。彼らにとって、それは日常のなかの出来事として、当たり前にあるわけです。あと、それとは別に、自分たちはこうやって普通に生きてるけれども、いつ核爆弾が落ちてきて死んでしまうかも分からない、普通の生活のすぐ隣で異様なことが起きてるかもしれないと、常に考えていることも影響しているかもしれません。

――『まだ楽園』でも、ラジオで世紀末的なニュースをやっていて、登場人物たちの日常的な世界が相対化される場面があったと思うんですけど、それに近い構造なんですか。

佐向 そうですね、それと同じことをやってみようという気持ちがあったんで。『まだ楽園』なんか見てる人ほとんどいないからバレないでしょうし(笑)。

――設定の置き方としては今のお話で納得できたんですけど、ラストにあれだけのボリュームで工場のノイズを入れたのはどういう意識があったからなんですか。

佐向 この映画の街に住んでる人たちにとっては、工場のノイズが「騒音」として聞こえてるわけではないと思うんですよ。例えば、異様な臭いがしてる場所でも長くいると慣れちゃうじゃないですか。でも、初めてそこに行った人は「なんだろうこの臭い」と違和感を持つわけですよね。観客もこの映画に出てくる街に初めて行くわけで、この街は普段自分たちが生活してる街とは違う場所だと感じさせる装置として工場の音が使えればいいなと思ってたんです。でもラストで工場の音がなくなったとき、逆にそのことが違和感として残るようになればいいなと。そういう日常と異常のズレが、自分のなかではすごく重要なんだと思います。

――そういう発想が面白いですよね。ダイアローグにしても、一見くだらないお喋りのようでいて、かなり構築されてるように感じました。『まだ楽園』もそうですが、ダラダラ喋ってるようで、ちゃんと会話が組み立てられている、それが佐向さんの一つの個性だなという気がしました。なんかクスクス笑いながら見ちゃうんですよね。

佐向 ほんとに日常的な会話なんですよね、自分のなかでは。どうしても脚本を書いてると、会話のなかに次のエピソードへ繋げるための伏線を作っていかなきゃいけないんですけれども、伏線となる部分とそうではない部分のバランスはどこかで意識してるのかもしれません。

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――現場の話も伺いたいんですが、今回はいつも冨永昌敬さんと組んでる月永雄太さんが撮影を担当されてますよね。今回、月永さんと組んでみて発見したことはありましたか。

佐向 もともと素晴らしいカメラマンであることは知っていましたし、脚本のかなり早い段階から、内容についても逐一相談はしていたので、ある程度のイメージは共有していたんです。ですから、こう撮りたいというのは何箇所かありましたけど、どう撮るかは基本的に月永さんにお任せしました。現場では自分は一番の傍観者というか、スタッフの素晴らしい仕事ぶりを、後ろで笑いながらジーッと見てるだけだなっていうのが正直な実感です。

――現場はわりとスムーズに廻ったんですか。

佐向 もともと時間がなかったんで揉めてる時間もない。撮影前に全てカット割りを決めてたんで、現場に入ったら流れ作業でやるしかないという感じではいました。もちろん実際は予想外のこともたくさん起きましたが。

――ちなみに佐向さんが撮り方のイメージを持っていたのは、やはり走るところですか。

佐向 走るところの横移動とかハイスピードとか、あとはラストですよね。

――街を去っていく祐一が車のフロントガラスから見てるカットですね。『まだ楽園』も同じようなカットで終わってたと思うんですが、車から見る風景に何かこだわりがあるんでしょうか。

佐向 今回はヒデジとアザミがメインではあるんですが、祐一が街を出て行くというのが一つ重要なことだと思っていて。きっと祐一には工場のノイズが「騒音」に聞こえたと思うんです。そういう男が最後に街を出て行くというときに、彼の表情よりも彼が見る世界を一緒に見たいという思いが強かったんですね。その先どうなるかは分からないし、おそらく同じような世界が待ってるんだろうけど、全く違う場所へ向かって行くわけですから、そのときに見える風景が大事なんじゃないかと。

――撮影的には、『まだ楽園』は並んでる二人を正面から撮ったり真横から撮った画が多かったと思いますが、今回は画面の奥行きが生きてるような気がしました。その辺も、月永さんが入ったことの影響なんですか。

佐向 『まだ楽園』のときはカメラマイクで録音してたので、あまり被写体から離れると音が録れないという物理的な事情があったんですね。ただ今回は、月永さんとも話して「ウェルメイドな作品を低予算で作る」というところから始めていて。そんなに凝ったことはせずに、物語を語るうえでも撮影的な意味でも、一番効率のいい方法を採ろうとしたんです。

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――でも、ヒデジの走りを横移動で撮ってきて、カメラが行き過ぎて戻ってくるとヒデジが立ち止まっていて、その背後にトラックが入り込んでくる、さらに後方には飛行機が飛んでるみたいな、明らかに狙いすましたカットもありますよね。

佐向 もともと小田さんから「走る映画がやりたい」と言われたときに、自分としては「じゃあ、いかに走らせないか」ということを考えたんですよ。それは「走る」という運動を際立たせたい狙いもあったし、「走る」こと自体に動きはあるけれども、映像として見たときにそんなに面白いと思えなかったからなんです。スピード感があるとか躍動感があると言われてる映画を見ても、それほど面白い撮り方があるわけじゃない。だったら、走ってるものが止まったときのほうが面白いんじゃないかと思ったんですね、映像的にも物語的にも。あのシーンでは、タイミングが合わずに何度も撮り直してるうちにトラックが来て、「これはいいね」という話になったんです(笑)。

――周りが動いていれば、止まってる状態は強調されますよね。

佐向 そうですね。なんでヒデジが走りだしたかといえば、借金の取立屋を装った田辺に脅されただけだし、ヒデジが立ち止まるのも女の子から電話がかかってきただけ。そうやってアクションの原因となるものが全てどうでもいいことにしたいなと思っていて、その「どうでもいいこと」と運動的な部分のコントラストを強調したくて走るところをハイスピードにしたりしたんです。

――役者さんについてもお聞きしたいんですけど、『まだ楽園』のときはいわゆる素人さんと一緒に作っていたわけですよね。今回、プロの方と仕事されてどうでしたか。

佐向 それはもう全然違いますよね、話が早い。ただ、なんでこれをこういう風に演じるのかということを尋ねられるので、そこで説明しなきゃいけないというのは自分も勉強になりました。『まだ楽園』の出演者は友達だったので、「理由はどうでもいいから、とにかくやって」と言えばよかったんですけど、今回はそういうわけにはいかない。とはいえ、ほんとにみなさん、こちらの狙いをそれぞれに理解していただいて、みひろさんとか感覚的にすごい人なんだなというのはよく分かりましたね。

――自主映画でやってこられた監督の場合、素人のほうが癖がないからやりやすいという方もいると思うんですが、そういうのはなかったですか。

佐向 もし癖があってもそれ生かしていけばいいかなと思ってました。

――実は正直、菅田さんの演技はあれで良かったのかなと思ってしまったんですね、ちょっとコメディになりすぎてるのかなと。

佐向 菅田さんが演じる父親に関しては、この世の人物とは思えないような感じになるといいなと思っていて、最初から菅田さんに絶対お願いしたいと思ってたんですよ。

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――それはあの役がラストで銃を撃つ役割を担ってるからですか。行動に飛躍があるから、リアリズムじゃなくていいと。

佐向 菅田さんに関しては初めから飛び道具的な存在として考えていて。あの父親だけは、「近くの工場に無頓着な人間」じゃなくて、むしろ工場側に近いというか、わけの分からない存在として機能させたかったんです。

――ヒデジともみ合って投げ飛ばされるところの転がり方からして尋常じゃないですよね(笑)。ちなみに、佐向さんは脚本家としても『休暇』(07)や『アブラクサスの祭』(10)などの作品に関わってらっしゃいますが、今後の活動についてはどう考えてるんですか。

佐向 金持ちになりたいです(笑)。

――そこですか(笑)。

佐向 もしいくつか仕事を選べる状況があれば、やりたいと思うものよりもギャラのいいほうを選びますね。映画はどうやら産業として成り立ってない部分があるらしいので、安くてもいいからやりたいことをやるという風にはしたくない。あと、やはり脚本だけだと設計図を組み立てるだけなんで、監督をやりたいという気持ちは強いです。というか自分が脚本家であるという意識は全くないんですよ。だから逆に、脚本だけなら自分の世界観とは外れたところでも書きやすい。そういう意味では、脚本を書くときはできるだけ自分を出さずに、職人的に書けたらいいなと思ってます。そのほうがたぶん仕事も来るでしょうし(笑)。

――「自分がやりたいものより、ギャラがいい仕事を選ぶ」という今の言葉は新鮮でした。

佐向 映画の宣伝をやってるときと比べて、監督や脚本の何が違うのかと言ったら、やってることはそんなに変わらないと思うんですよ。もっと言えば、他の映画とは関係ない仕事ともそれほど変わらない気がします。結局、自分だけじゃ完結できないし、あっちを立てればこっちが立たないという状況になるのはどんな仕事も同じことで。例えば、脚本作りも行為としては一人でやってるものであっても、作っていくうえでのバランスが重要になってきたりするじゃないですか。

――どこかで自分の書いたものを相対化する作業が入ってくると。

佐向 そうですね。それはたぶん全ての行為において必要なことだと思うんです。そもそも、自分のメッセージみたいなものは全然ないんですよね。だから、自分が客だったら一番見たいものに近づけようと思ってるし、やっぱり見る人のことをものすごく意識してるし。相対化ですよね、まさに。

――メッセージはないといっても、血を巡る物語とか、そういう部分で佐向さんの作家性は一貫してありますよね。

佐向 何か大きな話をしたいなという思いはあるんですよ。『ランニング・オン・エンプティ』はすごく小さな話ですけど、話の規模が大きい小さいじゃなくて、もっと世界に対してどう生きるかという部分を描けるもの、依頼されたものであれ自分がやりたいものであれ、そういう方向に近づけるものをやりたいという気持ちがすごくあるんです。

――神話というと大げさなのかもしれないですけど、佐向さんは物語の非常にコアな部分、プリミティブな部分に対する志向が強いのかなと映画を見て思いました。

佐向 今回それが成功してるか分からないですけれども、そういうところで映画を作っていきたいという思いはあります。

『ランニング・オン・エンプティ』

監督・脚本・編集:佐向大 脚本・製作総指揮:小田泰之

プロデューサー:大野敦子 撮影:月永雄太 録音・効果・整音:高田伸也

音楽:MISSILES JET BOYS

出演:小林且弥 みひろ 大西信満 杉山彦々 菅田俊 大杉漣 角替和枝 ほか

制作プロダクション:ユーロスペース 製作・配給:アムモ

2009年/ビスタ/80分

(C)2009アムモ

2月20日(土)より、池袋シネマ・ロサにてレイトショー

公式サイト http://roe-movie.com/

※2月13日(土)より前作『まだ楽園』が同劇場にて1週間限定レイトショー

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『まだ楽園』