映画芸術

脚本家荒井晴彦が編集発行人を務める季刊の映画雑誌。1月、4月、7月、10月に発行。2016年に創刊70周年を迎えました!書店、映画館、Amazon、Fujisanほかにて発売中。

脱映画批評『buy a suit スーツを買う』 <br>市川準監督の遺作のこと。 <br>河野孝則(プロデューサー)

 皆さんご存知のように、昨年9月19日、CMディレクターであり映画監督でもあった市川準監督が急逝しました。享年59才。あまりにも突然の死でした。

 その市川監督の遺作が『buy a suit スーツを買う』になります。

 ある日この映画について何か書いてくれと知人から頼まれ、引き受けたのはいいのですが、よくよく考えてみると僕は評論などできる人間ではありません。なぜなら、文章を書くということが得意ではないこと、そしてそれ以上の理由なのですが、僕は市川監督とCMの世界で長年一緒に仕事をさせてもらい、市川映画のファンでもあるからです。とても客観的には語れません。

 でも引き受けたからには、ちょっと頑張ってみようかな、と思います。あくまでも僕のひとりよがりな思いと市川監督の事をつらつらと綴るだけのものにはなりますが……。

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 『buy a suit スーツを買う』は市川さん(僕はいつも“市川さん”と呼んでいました。このほうがしっくりくるのでお許しを)のプライベートフィルムです。つまり簡単に言うと自主映画。市川さん自身が一般用のビデオカメラで撮影し、出演者は全てCMの仕事仲間の素人キャスト。編集も当初は自宅のパソコンで行なっていたそうです。観てもらえばわかるのですが、音声も聞き取りにくいところが多々あります。整音をまかされた橋本泰夫さんはどんなに苦労したことでしょう。

 市川さんは新作映画の準備に入っていたそうですが、クランクインが延びてしまい、その隙間を縫うようにこの映画を作ったそうです。亡くなる直前、市川さんと僕はCMの仕事をしていて、「自主映画を作っているんだけど、それが公開されることが決まっちゃったんだよ。まだ完成していないんだけどね」と話してくれました。それは本当に嬉しそうでした。市川さんは映画監督として確固たる地位を築いていながらも、CMの世界から身を引かず、両方の世界をいったり来たりしていたわけですが、この自主映画製作のことでもわかるように、本当に映像を作る事が大好きで大好きでたまらなかったのではと思います。会うたびに、そろそろCMをやめようと思うなどと言って、僕らCM業界の人間を焼きもきさせてはいましたが、CMであれ映画であれ作ることが大好きなんだから無理でしょ、と僕は密かに思っていましたけど。

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 さて、映画の中身について語らなければいけませんね。

 ストーリーはいたってシンプルで、失踪した兄からの手紙を頼りに大阪から上京してきた妹が、吾妻橋のたもとで段ボールの家に住む兄と再会し、その兄の別れた妻と兄妹で会う。

 ただそれだけの話です。

 ただそれだけの話が、なにげない会話と秋葉原や浅草の日常の風景を重ね合わせて綴られていきます。

 ほんと、何でもない話なんだよなぁ。

 兄が浮浪者であること、そしてネタばれになってしまうので詳しくは書けないのですが、ラストシーンがちょっとびっくりすることを除いては。

 しかし、何でもないことにこそ人間のリアリティは潜んでいるのであり、そのことを描き続けた市川さんらしい映画なのです。

 市川映画の特徴でもあるのですが、この映画もまた、都会の片隅でひっそりと暮らす、生きることに不器用な人々の焦燥感や孤独感を描いています。そしてその描き方ですが、物語を語るという方法ではありません。なんて言ったらいいのでしょうか、僕の能力ですと、日常を紡いだような、なんて月並みな表現しかできないのが歯がゆいところです。登場人物が交わす会話は、台詞とは思えません。なんでこんな自然な会話を作る事ができるのだろう、役者は全て素人なのに。そして頻繁にインサートされる街の風景が、登場人物たちの日常感をよりいっそう際立たせています。市川さんの映画を観ていつも思うのですが、カメラのレンズの設定、いや、カメラの距離感が被写体を撮っているというものではなく、見つめている、という感じがします。それは愛情が溢れているわけでもなく、かといって冷徹でもなく、ただただ柔らかく見つめているのです。だからこそ、そのまなざしの向こうの出演者たちや街の風景といったものが、時には切なく、時には温かく感じることができるのでは、と思ったりします。映画の中で兄が妹に「東京はクズばっかりや。自分の事ばかり考えてる」とか、元妻が兄妹に「だれがだれとどんなふうに生きなあかんとか、生きとったらあかんとか……もうわたしら、確かめ合うのやめよ……」とかいう台詞があり、この映画からある種のメッセージを読み取るという見方もあるでしょう。でも、僕は人の生きていることの切なさや愛しさ、なにげない風景の中にみられる人々の営みを、理屈ではなく、感じることができれば、それでいいのではないかと思います。

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 先にちょっと触れましたが、この映画は市川さん自身がビデオで撮影した自主映画です。ある追悼番組の中で、生前のインタヴューがあったのですが、そこで市川さんはこう語っています。「PFFの審査員とかやらせてもらって、若い人たちがビデオで自由に作品を作っている。なんかそれを観ていたら、市川は市川なりの視点で作れば彼らと違った何かができるのではと思った」と。その後HDVのビデオを手にした市川さんは、その誰もが手にすることができるビデオカメラの素晴らしさをいろいろな人に言っていたそうです。

 一般的にプロが映画を作るとなればたくさんのお金がかかり制約もいっぱいつきまといますが、ビデオカメラはそんなものから自由になるための手段になる。パソコンでの編集を含めた今のビデオの性能なら十分に表現の武器になり得る、と考えたからだと思います。

 『buy a suit スーツを買う』はとても静かな映画です。派手さはありません。しかし、市川さんにとって表現の可能性への挑戦映画なのです。

 市川さんは自主映画だからといって個人で楽しむだけといった考えではなく、作ったからには人に観てもらうこともきちんと考えていました。それゆえ公開が決まったときは照れながらも、こんな映画なんだ、と、できたばかりのチラシをくれました。CMや劇場公開用映画などを作りつつ、新たな可能性を求めて実験的に作られた映画ですが、しかし、その実験もわずか一本で終わってしまいました。

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 できることなら若い人たちにこの映画を観てもらいたいものです。刺激の多い今を生きる人たちにとって、「市川映画は地味でつまらない」と思う人も多いでしょう。でもその反面、多くの人たちがささやかな事の積み重ねの大事さを感じてくれることを信じています。また、市川さんの表現に対する姿勢が、これから映像制作を目指す人たちにとって、ある意味、勇気を与えるんじゃないかなと思ったりもします。

 市川さんが亡くなる10時間程前、僕はとある編集室に一緒にいました。CM編集の作業が終わり、「これからプライベートの編集だ」「完成したら試写に呼ぶからね」と市川さんは次のスタジオへと向ったのです。

 翌日の早朝、僕の自宅の電話がなりました。

 「市川が亡くなりました」と身内の方からの声。

 僕は自分の耳を疑いました。

 そんな。

 あれほど元気だったのに。

 市川さんの映画は、他の映画とまったく違う市川さん独自の映画だと思います。まだまだたくさんのそして良質な映画を作っていくだろうと思っていたのに残念でなりません。

 そして、とても寂しく悲しい思いでいっぱいです。

河野孝則 プロフィール

1963年生まれ。

CM他映像のプロデューサーとして(株)テレパックに勤務。

アシスタント時代から市川準監督と「金鳥タンスにゴン」など多くのCMで仕事を共にする。

『buy a suit スーツを買う』

監督・脚本:市川準

出演:砂原由紀子、鯖吉、山崎隆明、三枝桃子、松村寿美子、佐藤慎一、柏木慎一、宍戸貴義

助監督:末長智也 制作:宍戸貴義 衣裳:宮本まさ江

音楽:松本龍之介 整音:橋本泰夫 音響効果:佐々木敦

製作:市川準事務所 配給:市川準事務所+スローラーナー

4月11日よりユーロスペースにてモーニング&レイトショー

併映:『TOKYOレンダリング詞集』(2008年/撮影・編集 市川準

公式サイト http://d.hatena.ne.jp/ijoffice/