映画芸術

脚本家荒井晴彦が編集発行人を務める季刊の映画雑誌。1月、4月、7月、10月に発行。2016年に創刊70周年を迎えました!書店、映画館、Amazon、Fujisanほかにて発売中。

映芸シネマテークvol.4『百年の絶唱』『微温(ぬるま)』トーク<br>井土紀州 今泉力哉 斎藤久志 荒井晴彦

 テレビ局製作の映画が増え、シネコンが濫立する状況のなかで、商業映画が均質化してきているのではないか。こうした傾向に対するカウンターパワーとして、インディペンデント映画(自主映画)にひとつの可能性を見出すことができるのではないか。そのような意図で行われたのが、本誌428号掲載の特集「インディペンデントの現在」です。しかし、この特集を通じて浮かび上がってきたのは、自主映画の世界でもある種の均質化が始まっているのではないかという疑問でした。撮影機材の進歩によって誰もが容易に映画を撮れるようになり、映画学校や映画学科の増設によって映画教育が制度化されつつある今、映像表現に対する欲望や、商業的な表現に抗おうとする意志は希薄になってきているのかもしれません。

 こうした変容について考えてみようと、先日の映芸シネマテークVOL.4では98年にフィルムで撮影された井土紀州監督の『百年の絶唱』、そして07年にデジタルで撮影された今泉力哉監督の『微温(ぬるま)』(第12回水戸短編映画祭グランプリ)を上映しました。この2本の自主映画の間には、どのような時代の変化が表れているのでしょうか。上映後のトークには、自主映画の制作を経てプロとなった斎藤久志監督と、自主映画嫌いを公言している荒井晴彦も参加して、様々な意見が飛び交いました。

(司会・構成:平澤竹識 構成協力:春日洋一郎)

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左から荒井晴彦井土紀州今泉力哉斎藤久志

――それではトークを始めたいと思います。『百年の絶唱』の井土紀州監督と『微温』の今泉力哉監督、他に映画芸術から荒井晴彦、それから今日は斎藤久志監督にも飛び入りで参加していただくことになりました。じゃあ早速なんですけども、井土さんから『微温』をご覧になってどんな感想を持ったのか話していただけないですか。

井土 非常にまとまっていて、よく出来た短編だと思いました。あとは、撮り方が昔とは全然違ってるんだなということは感じましたね。例えば、最初のシーンでも、引きのサイズで芝居を全部おさえて、男のヨリ、女のヨリも長めにおさえて、カットごとにほとんど全通しくらいで撮って、それを摘んで編集しているような感じとか、ああ、今はこういう風になってるんだと。8ミリは所詮、1秒18コマで1ロールが3分しかない。僕の『百年の絶唱』は24コマで撮ってるんですけど、24コマだと2分30秒ぐらいで1ロールが終わっちゃいますから、そういう撮り方をするのは現実的に難しかったんです。斎藤さんの時代はまだスーパー16で特別なカートリッジをつけて、16分ぐらい廻せるのがあったんですよね。

斎藤 普通の8ミリのマガジンが50フィートで、長尺カートリッジというのが200フィートだった。18コマで13分20秒回せた。

井土 それは僕らにしたら、羨ましいなと思ってたんですよ。8ミリでどのくらい普通と違うことをやれるのかって考えてたんで。まあ、『微温』を見て、そういう演出やコンセプトの違いをいろいろ考えさせられたところはありました。

――今泉さんは『百年の絶唱』をご覧になってどうでした?

今泉 ダムの話も含めて社会の繋がりとか、自分の作品にはそういうものが基本的にないので、何か熱があるというか、そういう印象を受けました。あとは見た人に後々考えさせる部分がすごく多いなと思いましたね。

――荒井さんはおふたりの作品を続けてご覧になってどういう印象を持ちました?

荒井 井土の『百年の絶唱』は今日が2度目なんだけど、やっぱり分かんねえな、みたいな。亀が喋るんだもんね(笑)。

井土 亀が死んだ、というだけの映画なんです(笑)。

荒井 いや、あとは平澤が最近この上映会で「桃まつり」とかをやって、今度も今泉君のと他に何本か候補を見せられたけど、なんでそんな自主映画ばっかりやってんだという不満があるんだけどね。

――まあ今は、その話はいいじゃないですか。

荒井 それで今泉君に聞いてみたいのは、なんで映画を撮るのか、撮りたいのか。「桃まつり」の女の子たちもそうだけど、どうしてあってもなくてもいいようなものを作るんだと。僕は食うために商業映画の世界で仕事してきたんで、やりたくないこともやらなきゃいけない。でも、なるべくならやりたいことを他人のお金でやりたいと闘ってきたというか、商業主義のなかでいかに自分を出せるかと格闘してきた。しかし、今はいわゆるエンターテイメントファシズムで、そんな甘いことは絶望的に不可能になってしまった。だから、お仕事でやれないことをやるのが自主映画じゃないかと思うんだよ。どうしてシネコンでやるような映画に限りなく近いものを作るのか分かんない。『微温』のダブル二股とかね、どうでもいいじゃない。井土のはよく分かんないけど、「何かやりたいんだな、この人は」って思うんだよね、何か撮りたいんだなと。下手さと分かんなさって自主映画の特権だと思うんだ。下手だし分かりにくいけど、井土はある年頃のときにこれをどうしても撮りたかったんだろうなというのは伝わってくるわけですよ。だから、井土に聞いてみたいのは、今これリテイクするとしたらどうよ?ってことなんだけど。

井土 まあ、振ってもらったので宣伝させてもらうと、それを上手くやろうとすると『行旅死亡人』という映画になるという(笑)、僕のなかではそういう思いもあるんですけれども。これをリテイクはしたいとは全く思いませんね。もう二度とごめんだなという感じのほうが強いです(笑)、この映画を作ってるときの自分の状況とかも含めて思い出すと。この映画は訳の分かんないところもいっぱいあるんですけど、それはわざと分からなくしたわけではなくて、まず技術的に未熟だったということと、俳優が途中でもう映画に出れないという事態になって、後半に理由もなく主人公が変わったりしてるんですね。結局、ダムがあって、そのダムの予定地に村があって、そこを出ざるをえなかった人たちの話をやりたかったんですよ。そういうものを年代記風にやりたいと思って、でもそれを演繹的に描くと予算もかかるし上手くできない。じゃあ、どうやればいいんだと思ったときに、帰納的な形でやればできるかなと。つまり、ひとつの謎みたいなものを追ってく過程でひとつの家族とか村のことが見えてくるようにしようと思って作ったのが、『百年の絶唱』なんです。

荒井 いくつのときに作ったの?

井土 足掛け3年ぐらいかかってるんですよ。26、7ぐらいのときに撮影して、最後の1年はアフレコしてました。後半の撮影のときは主演の男の子が音信不通になってしまったんで、アフレコは一緒にやってた吉岡文平が代わりに彼の声を吹き込んでるんです。音は菊池信之さんに全部やってもらったんですけど、菊池さんが「井土君、吉岡君、ちょっとこういう音採ってきて」とか言うわけですよ。僕らもマイクとDATを持たされて、えらい遠くまで行って音を採ってきて、ダメ出しを喰らってもう1回採りに行ったりとか(笑)、そういうことをずっとやってましたね。完成したのが29の時ですから、20代後半はほとんどこの映画に費やした感じです。

――『微温』も今泉さんが27ぐらいの時に撮られたんですね。

今泉 そうですね、同じ年ぐらいですね。

――さっき荒井さんから「なんで映画を撮るのか」って発言がありましたけど、それに対して言っておきたいことはないですか。

今泉 最初これを撮ろうと思ったとき、自分に彼女がいなかったこともあって、付き合ってるカップルのほとんどが片思いだっていう持論にこだわってたんです。そういう話をやろうと思って、これを作ったというのがまずあって。あと、出てる人たちは1人を除いて全員バイト仲間の素人なんですけど、その1人の女の子をバイト中に好きになってコクって振られたりして。それで気まずくなくなって、半年後くらいにこの映画に出てもらって。撮影してまた気持ちが盛り上がって、もう1回コクって振られたっていういきさつがあるんです。でも、「なんで映画やってんだ?」と言われると分かんないですね、何か映画で伝えなきゃいけないことがあるってわけでもないですし。

荒井 女の子を口説くために、ってことじゃないの。それはそれでわかりやすくていいんだけど。松岡錠司もそれで撮り始めたみたいだからね、共演者とデキちゃってフラれたらしいけど。

今泉 『微温』の現場でも僕が好きになった子と主演の男の子がすごくいい感じになってて、「これは何なんだ?!」って思いましたね(笑)。自分の家で撮ってたんですけど、帰るのが面倒臭いからって2人で一緒に寝たりしてて、「ちょっとこれはやってられんなあ……」と思いながら撮影してました。

荒井 そんな話聞くと、いじめたくなくなってきたな(笑)。

――斎藤さんは井土さんよりも年長ですから、自主映画の流れをわりと客観的に見れる世代ですよね。

斎藤 これ、プロの役者さんも出てるんだから、井土は26のときにもう仕事してたってことでしょう。

井土 それは微妙で、撮影が一時中断してたんですよ、金もなくなったりして。なんかいろんなことがうまくいってねえなと思ってウダウダしていたときに、瀬々(敬久)さんから「ピンクのホン書かないか」って言われたという、非常に入り組んだ経緯なんです。だから、これが完成した頃にはもう『雷魚』(97)を書いてた。佐野さんと葉月蛍さんには、ピンク四天王の上映を通じて知り合って、出演をお願いしました。だから、撮り始めた時は、まだホンは書いてませんでした。

荒井 これはユーロスペースのレイトの動員記録作ったんでしょ。おれはそれで昔、見に行ったんだけど、どこが受けたの?(笑)

井土 いや、それは僕にもわかりません。

荒井 さっき、この映画が分からんと言ったけど、斎藤のなかではあの前半と後半が繋がってるわけでしょ。

斎藤 たぶん僕なんかは、自主映画の見方をどっかで養われてるんですよ。井土の10年以上前から自主映画をやってて、そういうものを散々見てきて、ウォーホールの映画よりも訳の分かんないものもあったりしたから、分かりにくいことには慣れてるのかもしれない。なんだろう、画面だったり空間だったり、そういうところで井土が何かやろうとしてるんだなとか、いろんな映画へのオマージュみたいなことも感じるし……。

荒井 トンネルを抜けると時間が逆戻りするとか、亀が喋ってからけっこう分かってくるんだけど、前半部分とどう繋がるのかが分かんないんだよ。

今泉 亀が喋ってから分かるってすごいですけどね(笑)。

斎藤 でも、話そのものはものすごくシンプルに作られてるんですよね。今の話を聞きながら思ったけど、要はジャ・ジャンクーの『長江哀歌』(06)だもんね。しかし、なんで村がダムに沈むだけで人まで殺すような大騒ぎをしてるんだというのは分からなかった。それはある種の定番で、その「怒り」は当然でしょうとなってる感じがする。その後の『ラザロ』(07)とかでやっている「階級闘争」の萌芽がここにあるんだなって思った。でもそういうことよりも「想い」で走ってるなって感じがした。あの「第九」を使ってるのは小川紳介から来てるんでしょう。

井土 そうですね。

斎藤 だから、延々と森の風景とダムを見せるところは『日本開放戦線 三里塚の夏』(68)のラストの高揚感に近いものを感じた。なんか言葉にならないものを伝えたいって意志なんだと思うんだけど。ある種の自主映画の王道なんじゃないかな。その後の井土の映画には言葉がいっぱいくっ付いてきてるけど、当時はこういう言葉のない映画をやってたんだというのが非常に初々しくて、面白くは観ました。

――『微温』についてはないですか?

斎藤 まず思ったのが、空気感みたいなことが高橋泉に似てるなと。だけど高橋のは、テーマがきっちりあって、人と人が擦れ合ってひりひりするところまで見せてくれるから、面白かったんだけど。これは中身が何もない感じがした。ただ状況があるだけ。これでタレントが出てたら深夜ドラマになるんだと思うけど。昔観ていた自主映画って、もっとストレートに観客に向かって言葉を発するような力があったんだと思う、伝えたいという意志も含めて。ポストダイレクトシネマと呼ばれた平野(勝之)、園(子温)がやってたような、キャメラが存在することを登場人物が意識しているドラマもあった。ドラマとドキュメントの狭間みたいな感じで、それは圧倒的な力があったんだよ。商業映画にはないものだったし、だからエンターテイメントだったんだと思う。『微温』は、なんでせっかく自由なはずの自主映画なのに、いろんなことをオブラートに包んでいってしまうんだろうと感じた。逆にもし、商業映画に近づきたいのなら、もっと脚本をしっかり練らなければダメだと思う。自主映画の最大の欠点は監督だけが分かってりゃいいで作ってしまう脚本にあると思う。恋愛のすれ違いというありふれたドラマが悪いんじゃない。そのことをどう見せるかということを脚本できっちり煮詰めないと。そうじゃないと、「だから何?」ってことにしかならない。『微温』に関して言うと、どう見ていいのかちょっと分からなかった。コメディを撮ろうとしているのか、マジにやってるのか。せっかく主演の子を好きになったなら、その気持ちだけで走っちゃえばいいのに、そうはなってないじゃない。それだけで走れるのは自主映画のある種の特権でもあったりするんだから。例えば、松岡錠司の『三月』(81)という自主映画は、主演の女の子のことが好きだって気持ちがすごく伝わってきて、それだけで見れちゃうんだよ。『微温』と比べると下手くそだよ。だけど、自主映画の場合は逆にそれが力になることがある。ビデオで撮影してパソコンで編集して、プロと同じ技術レベルを持てるようになったとき、見てくればかりがきれいになって、中身を伝えようとする意志とか情熱がどんどん希薄になってる感じがする。そういう変化はこの『百年の絶唱』と『微温』の2本の差に如実に表れてると思う。

今泉 自分の作ってるものがオブラートに包まれてるのは、自分のなかにもそういう感覚があるからだと思うんですよ。何かを直接伝えることに躊躇してしまうところがあったりとか。ただ、僕が一番気にしてるのは、映画を年に1本ぐらいしか見ないような人が見たときにもちゃんと伝わるかどうかっていうことなんですね。普段から映画を見ていない人にも伝わるものを作りたいという思いがすごくあるんです。そうすると、表現がテレビに近くなったり、どっかで弱くなるのかもしれないけど、もちろんテレビとは違う表現をしている自信もあるし……。今日2本とも初めて見た人にとっては『百年の絶唱』が難しい映画だなと感じた人もいたと思うんです。だから、その辺については難しい部分があるなと。

荒井 たぶん、ここに来ている人に手を挙げてもらうと君の勝ちだと思うよ。君の映画のほうが面白いって、みんなが言うと思う。それが嫌なんだよね。君が撮ったもう1本の『最低』も見たんだけど、同じなんだよ。オチが全てじゃないんだな、映画のラストっていうのは。だけど、今の若い子はそういうほうに流れやすい。表面的な何かを描いて映画を作った気になってしまうというか。男と女が付き合うって何だ?とか、人を好きになるってどういうことなんだ?とか、そういう根源的な問題をとりあえず置いといて、どうオチに持っていくかばかりを考えてるでしょ。『微温』も「二股やめてよ」って言われてどうしようかと思ったら、相手のほうも二股でしたっていうだけの話じゃないですか。

今泉 そこはもう前半を見てる段階で分かっていい部分というか、そこで驚かせようとは思っていないんですけど。

荒井 いや、今の若い人はこんな感じなのかと、そういう勉強にはなるのかもしれないけれども、映画の手としては古いなと思うわけ。「誤解する権利」っていう鶴見俊輔の言葉があるけど、映画は誤解されていいんだよ。今、シネコンなんかでやってるテレビ局の映画は誤解する余地がないでしょう、全部説明しちゃうから。そういう意味で、何か分からない部分が映画のひとつの力でもあるんじゃないかと思う。君の映画は非常に分かりやすいんだけど、根本のところが逆に分からないんだよ。形だけは見えるんだけど、思想と論理が見えてこない。斎藤が言ったように、女の子を口説こうと思って撮ったら、そういう気持ちがカメラを通して出てくるとか、そういうのがあると面白いんだけどね。

――井土さんは「分かりやすさ」の問題をどう受け止めていらっしゃいますか。

井土 その前に一言いっておきたいんですが、僕と今泉さんの映画の間に時代的な隔たりがあるかのような話の流れになっていますが、実は僕が映画を撮り始めた90年代前半においても、『微温』のようなテイストの映画の方が圧倒的に多かったし、今泉さんが言われた考えの方が支配的でした。僕はそういう潮流への抵抗として『百年の絶唱』を撮ったんです。それで、分かる/分からないの問題は大事にしなきゃいけないとこではあるんだけれども、それに捉われすぎると、感じたり想像することを奪われていきますよね。映画ってずっと「イメージ」を見てるわけですけれども、カットとカット、シーンとシーンの間に描かれないことを想像できるかどうかが僕にとって一番大事なんです。ただ、仕事を続けてると「分かる/分からない教」にどんどん取り込まれていくんで、格闘しなきゃとは思いますけどね。

荒井 「これじゃ、お客が分かんないぞ」と言うプロデューサーや監督がいるのはね、彼ら自身が分かんないから、客の名を借りてもうちょっと説明入れてくれみたなことでしかないんだよ。で、分かる分かんないっていうのは結局、程度の問題なんだ。全国150館、300館開けるのと、単館でかけるのでは相手の数が違うじゃない。俺なんかはもう「会員制」でいいやと思ってるけどね。100人のうち10人分かってくれればいいと、そういうふうに覚悟しないとやってられない。

――でも、作り手としては大きい仕事をどんどんやっていきたいという欲望もあるんじゃないですか。井土さんはどうでしょう。

井土 やっぱりある程度稼いだら、自分が作りたいものを作りたいと思いますよ。そこに還元するためにドーンと稼げるなら、それに越したことはない。でも、稼ぐことが目的だったら映画なんかまずやらないですからね。株をやるとか、もっと別のビジネスをやればいい。世間の最大公約数的な興味に気を取られすぎると、なんのために自分が映画をやろうとしたのか、その根本を見失っていくわけですよ。それは僕もライターとして瀬々監督とやっていくなかでいろいろ考えたりもしたし、自分が映画と向き合う時のモチベーションを問われる場面は当然出てきますよね。

荒井 精神衛生上は井土のやり方が一番いいんじゃないかと思うよ。生活は脚本でやる。で、自分が撮るときは分かる人には分かる映画でいくという。新藤兼人さんみたいな人も『ハチ公物語』(87)は書くけれど自分じゃ撮らないでしょ。自分で撮るときはかなり実験的なことをやってるじゃない。

――今泉さんの立場からすると、これから商業映画の世界に出て行きたいという思いもあるわけじゃないですか。今の話を聞いてて、ちょっと違うなと思うことはないですか。

今泉 僕の場合は結局、自分の作りたいものが分かりやすい映画だったりするのかもしれないですね。みんなが面白がるだろうと思って作ってるわけじゃなくて、付き合ってる相手のことを本当に好きなのかどうかも分かんない、そういう話を自分が作りたくて作ってるんです。さっき言われた最大公約数的な表現っていう問題もあるけど、自分にしか分からないような映画が自主映画だとは思ってなくて。みんなが分かっても自主は自主だし、べつに誰に作れと言われて作ってるわけじゃないという思いが自分のなかにはあるんですよ。それが面白くないと言われたり、「それで何なの?」と言われても、それは自分が作りたいから作ってるとしか言いようがないという。

斎藤 いや、荒井さんが言ったのは、分かんないことが正しいっていうことじゃないんだよ。全国何百館という規模で公開する映画だと、ものすごく説明をしなきゃいけない。たぶん今泉君の映画もいろんな説明を加えなきゃいけないんだよ、これ以上に。で、その説明がドラマをつまんなくする場合もある。良い悪いじゃなく、最大公約数を狙うことは、それだけ表現が弱くなるんだよ。そんな誰にでもはてはまる「共感」じゃなくて俺が見たり作ったりしてた頃の自主映画って単純に商業映画より面白かったんだよ。それは、あるパターンしかなかった商業映画とは違って、あらゆるジャンルの映画が存在できたから。その頃の自主映画は、それこそジョナス・メカスみたいに風景を撮ってナレーションを乗っけてるだけの日記映画も含めて、いろんなのがあったんだ。だからさっき、今泉君が「映画に詳しい人だけに伝わるものじゃなく、もっと一般の客に伝えたいんだ」と言ったけど、おそらく井土だってそういう風に作ってるし、特定の客を目指してない。ただ、誰にでも分かることを前提に作ろうとすると、ものすごく底の浅い表現になるような気がする。一個のテーマをもっと掘り下げようと思ったら、多くの客を望むより一部の客に力強く伝わる表現のほうが勝る場合もあるんだよ。だから、分かる分からないの問題ではない、そういう二極しかないわけじゃないと。そのことをたぶん井土は言ってるんだと思う。

荒井 分かってもらったほうがいいんですよ。でも、酒も水割りのほうが飲みやすいように、分かりやすくするには薄めなくちゃいけない。あとね、井土の映画には自由を感じるんだよ。逆に、君の映画は窮屈だなと思う。見やすいんだけど、見やすいかわりに自由をどっか捨ててる気がするんだな。

――すいません。時間もなくなってきたので、最後に新作についてのお話をしていただきたいんですけど。まず、今泉さんから。

今泉 12月に「3分の映画×15人の監督」という企画の上映会が下北であるんで、まだ日にちとか決まってないんですが、よかったら見に来てください。あと、12月19日から21日まで名古屋シネマテークの「自主製作映画フェスティバル」で1日1回、『微温』と『最低』が上映されるんで、名古屋に知り合いのいる方は宣伝してもらえるとありがたいです。『最低』は二股じゃなくて三股になったという話なんですけど、『微温』とほとんど同じことしてる映画です。

井土 僕の新作は『行旅死亡人』という映画で、これもある種のクロニクルをミステリーの形式というか帰納法的に、女の年代記みたいなものを逆に描いていく映画です。『百年の絶唱』よりはだいぶ上手くなっているんですけれども(笑)、逆に荒井さんの言ってくれた自由であり続けることの難しさも痛感しています。是非ご覧になっていただければと思います。シネマート新宿という劇場で、11月7日から公開です。今日はどうもありがとうございました。

井土紀州監督作品情報】

行旅死亡人』シネマート新宿にて公開中

  『行旅死亡人』公式サイト http://www.kouryo.com/

  スピリチュアルムービーズ公式サイト http://spiritualmovies.lomo.jp/

今泉力哉監督作品情報】

11月22日、TAMA NEW WAVEコンペティションにて『最低』上映

ヴィータホール(京王線聖蹟桜ヶ丘徒歩2分)

http://www.tamaeiga.org/blog/2009/11/10tama_new_wave_1.html

12月19日~21日、名古屋シネマテーク「自主製作映画フェスティバル」にて『微温』『最低』上映

名古屋シネマテーク http://cineaste.jp/ 

次回の映芸シネマテークは12月1日(火)20時~、沖島勲監督の最新作『これで、いーのかしら。(井の頭) 怒る西行』を劇場公開に先駆けて上映します。

http://eigageijutsu.com/article/132536069.html