映画芸術

脚本家荒井晴彦が編集発行人を務める季刊の映画雑誌。1月、4月、7月、10月に発行。2016年に創刊70周年を迎えました!書店、映画館、Amazon、Fujisanほかにて発売中。

■試写室だより『夜顔』<br>こにくらじいさんの優雅な愉しみ

 マノエル・ド・オリヴェイラの新作『夜顔』は、かなり素晴らしい。なにがと言って、ブルジョワジーの高慢への冷たい侮蔑を、ウィットに富んだディティールで優雅に包装して差し出す、完璧なほどの底意地の悪さが素晴らしい。オリヴェイラという人は、驚嘆すべきワルである。今まで、軽薄な上流階級の女性をとことんいじめる映画といえば、イーストウッドの『ホワイトハンター ブラックハート』が白眉かと思っていたが、本作の勝ちだ。あちらはエピソードの一つ。こっちは全編がそうなんだから。

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 僕が行った日の試写室には、ヨーロッパ映画を友人より先に見ると人生が愛に満ち、豊かになる(ステキなお仕事ね~、と羨ましがられるので)といかにも考えていそうなカタカナ職業風の中年女性が目立っていたものだから、上映後はシラけたような困った空気になってタイヘン。キツネにばかされた気分のまま帰るのがくやしいのだろう、「まあ、監督さんはこんなにご高齢なのに、お元気で、ねえ」と受付の若い女性にしつこく話しかける人もいた。いささか気の毒には思ったけど、しょうがない。世の中にはたまに、アナタたちの頬っぺたをぴしゃりと平手打ちするような映画があるのだ。

 ちょっと実務的なレポートとして言っておくと、ルイス・ブニュエル『昼顔』の三十八年後の後日譚である本作。その着想がまずもって面白い映画なんだけど、『昼顔』を再見して復習しておかないと中味が分からない、話に付いていけない、ということはない。独立した別個の映画として見られるよう、シナリオにちゃんと配慮がなされている。その点においては、焦っていただく必要はありませんのでご安心ください。

 もちろん、『昼顔』をパスしてよいわけではない。最近はすっかり名前が出なくなったブニュエルだが、若い人がマジで映画と付き合っていこうと考えたら、いずれ知らないでは済まなくなる。これを機会に見てみよう、と思うのはいいことだ。見たらビビるよ、きっと。世界映画史きっての悪意の人だからね。

 僕は1988年4月29日の深夜、テレビで見たっきり。当時はかなりショックを受けたが、ユッソン(ミシェル・ピコリ)がどんな役回りだったかは忘れていたので、序盤はすっかり、セヴリーヌに近い気持ちで見た。自分の忌まわしい不貞の過去を知っている亡夫の友人が、やたらとコンタクトを求めてくる。もう記憶の彼方だったのに、一体どういうつもりだろう……という不安。

 ところが、どうにかしてゼヴリーヌのパリでの滞在先を突き止めて、ぜひディナーを共にしたいと張り切って歩き回るユッソンの探偵振り。これが、実にいいんですな。

 人生の晩秋を迎えた頃、かつて懸想した友人の奥さんを偶然、見かけた。あの頃は自分も脂ぎっていたから、不貞を知っているのを利用して一度は奥さんの白い肌を心ゆくまで……とあぶないことを考えたこともある。今となっては懐かしい。そうだ、夕食を一緒に過ごしてみようじゃないか。彼女は私を警戒し、憎しみの眼差しすら向けるだろう。しかし、誘いを断ることはできないはずだ。未だに秘密を握っているのは私のほうなのだからね……。

 映画の中でここまでユッソンの動機が説明されるわけではない。しかし、そういうタチの悪いイタズラ心を思いついてワクワクしている高ぶりが、演ずるミシェル・ピコリの全身から伝わってくる。

 ここには、老いた人の真実がある。高齢者にとって、外に出て歩く用事があるかないかは、人生の死活問題なのだ。大げさではない。外出の用事や理由を探さなくなった時、人は足腰を衰えさせ、急激に老いる。高齢者と付き合いのある人ならよく分かってくれるはず。オリヴェイラ翁が御年お幾つだからと言って殊更それを評価のソースにするのは、ギネスブックの記録更新が目的で監督業を続けているんじゃあるまいし筋違いだとは思うが、目的を見つけたユッソンの街歩きのようすがことごとく活き活きとして魅力的なのは、やはり高齢監督ならではの実感が息づいているからだろう。

 しかも、ユッソンの希望は、因縁のある女性と久しぶりに緊張感のある時間を過ごすことにある。お互い懐かしいですね、では退屈で意味が無い。過去のことを持ち出されて強請られるのでは……と怯える高慢ちきな女性をゆっくり眺めながら食事を楽しむ、これがいい。最高に贅沢な、大人のあそびだ。上機嫌で高級レストランの個室を予約したりして、ブニュエルが演出した卑劣な男は、38年後、オリヴェイラの手にかかってもやはり卑劣で残酷である。

 で、災難なセヴリーヌ役だが、カトリーヌ・ドヌーヴから小柄で華奢なビュル・オジエに交代していることがやはりポイント。現在の堂々たる女偉丈夫のようなドヌーヴなら、逆にミシェル・ピコリの服を剥ぎ取り、腹上死させかねない。それはそれで想像するとドキドキしちゃうが、まるで違う映画になる。

 食えないジイさんのサディズムに付き合わされるこの非道な映画が、なぜか典雅で奥深い味わいに満ちている。過去を甘く感傷してはいけないし否定してもいけない、という確固たる人生考察が芯にあるからだ。

 セヴリーヌは「今の私は貴方が考えているような女じゃありません。昔とはまるで別の人間です」とユッソンを拒んでおきながら、「私の秘密を(生前の)夫に話したの?」と、それだけは知りたがる。知りたくて、ディナーの誘いについつい応じてしまう。これがいけないのだ。お嬢様育ちの女性独特の可愛らしい図々しさ。僕がユッソンの立場でも、正直に教えてあげる気にはならない。いじめたくなる。大体、過去を都合よく仕分けしようとする狡さが、38年前の悲劇(『昼顔』の終盤)を招いたことをセヴリーヌは自覚していない。だからもう一度痛い思いをしなくてはいけなくなる。そこが本作のモラルだ。

 好対照として思い出すのは、大使夫人の不倫を描いたカール・ドライヤーの『ゲアトルーズ』。全てを失った40年後も「私の人生は肉欲で狂いましたが、いささかたりとも後悔しておりません」と答えるヒロインの姿、あれは見事なものだった。

 一方、ユッソンのほうも歳月によって人間性に深みを加えたわけではない。あくまでも卑劣漢のまま年を取っただけの男である。ただし、セヴリーヌと違って過去を悔いたりしない。即物的に生きてきた分、彼女よりも強い。ケッセルの原作(かなり古い新潮文庫)を本棚の奥から出してざっと読み直してみたら、ユッソンという男の行動原理をずばり一言で書いてあった。

「ところが、あの痩せた、寒げにしている男は、彼女の肉体を奴隷にして快しとせずに、その魂を撓めることを喜びとする男だった……。」(堀口大學訳)

 セヴリーヌを散々じらし、いたぶった後で葉巻をくゆらすユッソンの表情は、昔ずいぶんと冷淡な態度をとってくれた友人の美しい女房をやっと心ゆくまで辱めてやった、そんな満足感に満ちている。そうか、老人はシチュエーションと会話のみで、愉しめるのか。

 人は変わらないまま年を取る。老人になったからといって急に思慮深くなったり、かわいらしくなったりするわけではない。ブニュエルのイジワル魂を受け継いだ<世界最高齢監督>がそう教えてくれるのだから、みんな、いいジイさんバアさんになれるよう今から右の拳を、もとい、良心を鍛えておこう!

text by 若木康輔(放送ライター)

夜顔

BELLE TOUJOURS

2006年フランス=ポルトガル合作

監督+脚本:マノエル・ド・オリヴェイラ

撮影:サビーヌ・ランスラン フランシスコ・オリヴェイラ

出演:ミシェル・ピコリ ビュル・オジエ ジュリア・ブイゼル

配給:アルシネテラン

http://www.alcine-terran.com/main/yorugao.html

12月15日~ 銀座テアトルシネマほか全国順次公開