映画芸術

脚本家荒井晴彦が編集発行人を務める季刊の映画雑誌。1月、4月、7月、10月に発行。2016年に創刊70周年を迎えました!書店、映画館、Amazon、Fujisanほかにて発売中。

■試写室だより『長江哀歌』<br>沈む街で聖者になるのは大変だ

『長江哀歌』の原題は『三峡好人』である…念のため

 2006年ベネチア国際映画祭金獅子賞グランプリを受賞した中国のジャ・ジャンクーの『三峡好人』が、いよいよ『長江哀歌(ちょうこうエレジー)』という邦題で公開される。

 最近は海外映画祭のニュースがやたらと早く伝わる分、公開までの期間が間延びして感じられてしまうことがあるから、原題まで几帳面に紹介することも必要ではないでしょうか、と個人的には思っている。前にベネチアで賞を取った『三峡好人』は良さそうだ、いつ日本でやるのかな?と思っている間につい忘れてしまい、『長江哀歌』と同じ映画だと気付くまで時間がかかる人は、意外といる気がするので。

 もちろん、様々な判断の上で付けられたろう邦題を否定する気は毛頭無い。

僕自身、『プラットホーム』『世界』で注目された中国映画第六世代の若き旗手がいよいよ国際的な地位を不動にした云々とあんまり強調すると、この映画の場合はかえって邪魔になりそうな気がして少し悩んだ。要は簡単で、もっと大きく構えて、「大規模な国家事業である三峡ダム建設によって生活に大きな変化を余儀なくされた人々の現実を描いた、中国現代映画の力作」と素直に書くのが一番いい、と気付いた。(どんな監督なのかについては、本誌420号に読み応えのある特集が組まれているのでそちらをお読みください。以下の文は、その特集記事を読む前に書いています)

小さき人々の大いなる甘受

 『長江哀歌』のストーリーは、いたってシンプルだ。

 大河・長江の中流を堰き止める巨大ダム建設で長く暮した住民がどんどん移住していく四川省の街・奉節(フォンジェ)に、中年の男と女が、それぞれ違う目的でやって来る。

 山西省の炭鉱夫であるサンミン(ハン・サンミン)は、別れた妻子との再会を願っている。

 16年前に違法の売買婚を摘発され、妻は娘を連れて奉節に戻ったきりなのだ。一方の看護婦シェン(チャオ・タオ)は、2年前に奉節に働きに出て以来、連絡の途絶えた夫を探している。

 奉節には住民と入れ替わるように、開発の利権を狙う経済人や解体工事の労働者が集まっていた。配偶者を探し歩く二人を通して、間もなく水没を迎える街の殺伐とした慌しさ、じっとりとした不安や諦観が露わになっていく。やがて配偶者と再会したサンミンとシェンは、それぞれの人生の整理をつけることになる。

 波乱に富んだ人生ドラマや愛憎劇が用意されているわけではなく、サンミンとシェンが街のどこかで出会い、運命の綾で別の物語が派生するわけでもない。ひらたく言えば、メリハリの利いた起承転結を楽しむタイプの映画ではない。だからといって単調どころか、静かな河ほど深く流れるの例えのごとく、見る人にいろいろなことを考えさせる力を、本作は持っている。

 街の水没は標高の低い土地から始まっている。人々は住処を追われた運命を嘆く暇を惜しんで、新しい生活のために非合法な稼ぎでもやらなくてはいけない。サンミンとシェンも、具体的な説明こそ無いが多くのことを考え、煩悶した末に奉節を訪れたろうことは態度から察せられる。本当は配偶者との再会によって人生を好転させることはもう半ば諦めていて、それをハッキリ納得したくてやってきた様子すらある。つまり、街も人も既にクライマックスは過ぎている。それぞれが見えない結末を待っている姿を描いた映画だと言ってもいい。

 しかしまあ、サンミンとシェンが出会う人たちの口から出るのは、金、金、金のことばかり。日々の稼ぎに振り回されて利己的になってしまっている彼らの姿は、レギュラーのないライターにはとても他人事には見えなかった。お金のことで揉めた時の砂を噛むような気持ちが、しみじみと蘇ってくる映画でもある。誉め言葉になっていないか。

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 そんな、奉節であくせくする人々の悲喜を映し出すための狂言回しが、本作のサンミンとシェンの役割である。狂言回しゆえ、二人には必要以上の(主人公としての)主体性は与えられていないのだが、それが逆に二人を、安易に流されることを拒む、人生のお手本として浮かび上がらせる効果を生んでいる。

 サンミンもシェンも、いかにも寄る辺ない、心細そうな顔で登場するのだ。ところが、寡黙に配偶者を探し、周りにあれこれ言われても黙って聞き流し、アテが外れても感情が荒れるのに耐え、取るべき行動を取る姿を見ていると、誰もが先を予想できない大きな状況の変化(なにしろ三峡ダム建設は「万里の長城以来」と言われる大事業。国や党や行政機関がシュミレーションし得ると言うほうが嘘だ)の際には、二人のように終始我慢強い態度を続けることこそ正解のように思えてくる。

 常に受身で弱々しく見えている二人が、実はひとかどの人物なのではないか……と徐々に気付かされる時の歯応えには、主人公の挫折や成長をその感情の起伏に沿って描くドラマを見るのとはまた違った感動がある。

 チェーホフは『桜の園』に出てくる人々の頭上に、この世の終わりとも古い時代の崩壊とも未来の予兆とも、どうとも解釈できるような、木に斧を打ち込む音を響かせた。本作に響く轟音や倒壊音がサンミンとシェンにどう聞こえたかもまた、僕たちの解釈次第だ。

立派であると同時にとてもヘンな味わい

 と、ここまで書いてみると、『長江哀歌』はまるでいかにも重厚で立派な作品のようだ。実際にそうなのだが、深刻一辺倒と思われても困る。同時に、なんとも言えないファニーな個性を持った映画でもあるからだ。

 大きくうねる時代と人の絡み合いをじっくり描く作劇や画面には、<傑作を世界からはこぷ「バウ・シリーズ」>がミニシアター・ブームを支えた時代にベテランの映画ファンを引き戻し、心地よくテオ・アンゲロプロスやホウ・シャオシエンの名前を舌に乗せてしまう格調が確かにあるのだが、ジャ・ジャンクーは、そこのところを微妙にはぐらかす。

 まず、三峡の風景をたっぷりと映し出す詩的なショットをほとんど見せない。見せたとしても大抵は、登場人物たちの不安そうな姿や、いじましい会話の背景にしてしまう。

(また時折その遠景がざらついたように見えるのだが、技術音痴の僕は試写室で頂いた資料で、本作が小型のHDVカム=高画質ビデオカメラで撮影後35ミリに変換されたと知り、納得するより先にショックを受けた。スケールの大きな風景を綺麗に残しておくより街の中に分け入る機動性を優先したのだとしたら、その判断には畏怖に近い感情を覚える)

 それに人物の出し入れややりとりにしても、どうもヘンで、後でよく考えてみたら間合いがほとんどコントだった、という場面が幾つかある。さらに、実に唐突に、前後の脈絡を全く度外視してCGが使われているショットに至っては、ダウンタウンの浜ちゃんに「自分なにしとんねん!」とツッコミを入れてほしいのかと疑いたくなるほどだ。

 自分の監督する映画の格調に自分で照れてボケてしまうセンスは、1970年生まれ(僕より二歳下)らしいという気がすごくするし、いや、やはり独自のものかとも思う。『風櫃の少年』そっくりで、すわホウ・シャオシエンへの目配せか?と一瞬思わせる場面にしても、引用がもたらしがちな理論武装の窮屈さは無い。いい場所が見つかったし、カメラマンと相談するうちにそうなっただけですから……という感じ。

 例えサル真似でも「いえ、あれは誰それへのオマージュです」と大きな声で答えてしまえば済むし、かえってそっちのほうが(引き合いに出せる固有名詞が増えて)有り難みが増す風潮のなかで、ジャ・ジャンクーはヘンなことをしながら自然と世界の巨匠連に近づいている。相当な器だと思う。

 大体、安易な比較は危なっかしい。僕もなるたけ避けるよう気をつけた方がいいみたい。だから、いくらジャ・ジャンクーの演出に備わった柄の大きさと愛嬌に嬉しくなったからといって、「中国の相米慎二」だなんてことを、人には言わないようにしよう!

text by 若木康輔(放送ライター)

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長江哀歌

三峡好人/STILL LIFE

2006年中国映画

監督+脚本:ジャ・ジャンクー

撮影:ユー・リクウァイ

音楽:リン・チャン

出演:チャオ・タオ ハン・サンミン ワン・ホンウェイ

配給:ビターズ・エンド オフィス北野

http://www.bitters.co.jp/

8月18日より、シャンテシネほか全国にてロードショー