映画芸術

脚本家荒井晴彦が編集発行人を務める季刊の映画雑誌。1月、4月、7月、10月に発行。2016年に創刊70周年を迎えました!書店、映画館、Amazon、Fujisanほかにて発売中。

『-×- マイナス・カケル・マイナス』クロスレビュー <br>持永昌也(ライター)、平澤竹識(本誌編集部)

伊月肇という、ひとつの映画の希望について。

持永昌也(ライター)

 太陽の塔。それは、70年に開催された日本万国博覧会の象徴であり、現在も撤去されることなく、持て余されたかのような昭和のシンボルだ。

 61年生まれであり、万博の開催時には吹田市千里丘の高台に住んでいた筆者にとっては、団地の窓から眺める太陽の塔は原風景のひとつとなっている。実際に訪れた万博会場でも、その巨大さに圧倒された。発光している熱量がとめどもなかった。

 近年の岡本太郎ブームで、あらためて注目を集めていると聞く太陽の塔だが、移り変わり流れ行く時代の変化を、ひたすら拒否するかのような迫力でそびえ立っている。

 伊月肇監督の映画『-×-』(マイナス・カケル・マイナス)は、彼方に太陽の塔が見えるモノレールの窓からの風景で始まる。関西の鉄道事情に詳しくなければご存知ないかもしれないが、太陽の塔がある「万博記念公園駅」へ至るためには、クルマを利用する以外、伊丹空港が起点となる大阪モノレールに乗るしか手段がない。

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 『-×-』は、そんな風土から生まれた映画である。舞台となっているのは、おそらく万博記念公園駅の隣にある千里ニュータウン。日本で最初に開発された巨大な人工的住宅街である。いびつともいえる昭和の象徴の下で育ち、現在を生きる人々の物語だ。男と人妻、そして少女たちの日常が二部構成で描かれてゆく。

 男は、日々の生活に疲れかけている。消費者金融からの督促や宗教の勧誘に悩まされながら、タクシードライバーとして地道に働いている。そんなある日、乗客となったワケあり風の人妻からの誘惑を受け入れる。

 両親が離婚した少女は、父とふたり暮らしている。ひさしぶりの母親との再会も、再婚相手との対面だった。その機会を楽しみにしていただけに苛立った彼女は、唯一の親友にさえ鬱屈をぶちまけてしまう…。

 重なりあうことのない男と少女、それぞれの感情のもつれを、これが長編映画のデビュー作となる31歳の伊月監督は、緻密なコントロールによって演出してゆく。冴えわたるその手腕は、オープニングの太陽の塔が見えるショットの正確さからも明らかだ。

 台詞での説明を排除し、映像で描写する演出は計算され尽くしている。淡いトーンの映像で、物語は進行してゆく。相米慎二にも匹敵するかのような、少女たちを映した長廻しのシーンでの叙情性が素晴らしい。

 このみずみずしい美しさは、なんなのだろう。『ミツバチのささやき』のアナ・トレントを想起させる少女たちは、感情を解放している。十代の一瞬にしか訪れないであろう輝きを、伊月監督は捉えた。凛の役を務めた少女は、現在ではアニメ「けいおん!」で声優を演じる寿美菜子ということだが、そのたたずまいの清冽さに目を洗われる。少女たちとは対照的に、男を演じる澤田俊輔(『鬼畜大宴会』!)と長宗我部陽子の抑えながらもケレンな芝居も見応えがある。

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 『-×-』という記号的な題名は、誰もが自閉して、自閉するしかない現代をあらわしているのだろうか。劇中で背景として流れるラジオ放送は、イラク戦争の開戦を伝える。その感情を逆撫でする唐突さからは、3月11日の東日本大震災を連想してしまう。

 太陽の塔イラク戦争東日本大震災。このやるせない時代の閉塞感の中で、伊月監督は監督デビューを遂げた。大阪芸大出身の彼にとって、熊切和嘉や山下敦弘は先輩であり、後輩にあたるのが石井裕也と聞く。シニカルでありながらも、くぐもったユーモアを忘れない作風はいずれの監督にも共通する特性だが、先行する監督の諸作品と比べても、この映画はまったく劣っていない。題材・脚本・演出・俳優、どれもが温かくやわらかい。そして、美しい。

 伊月肇監督は、いかに成熟していくのだろうか。衆知のように現在の日本映画界は、メジャー配給のシネコン型映画と自主映画しかありえない惨状となってしまった。ここから、どう羽ばたいていけばいいのだろう。

 AKB48ももクロのPVを器用に撮って凌いでいくのか。自主制作にこだわって、自身の生活を犠牲にしながらも思いの映画を孤高に撮り続けるのか。メジャーのプロデューサーの目に留まり、マンガ原作を与えられて撮る立場となるのか。まるで予想はつかないが、どの局面から考えても希望は見えづらい。映画に未来はあるのだろうか。未来に映画はあるのだろうか。

 だからこそ、歩み続けなければならないのだ。劇中の男や少女たちのように。地面にポツポツ語りかけ、太陽の塔を仰ぎ見ながら。本作に先行して公開される「NO NAME FILMS」の短編『トビラを開くのは誰?』を観ても、伊月監督の揺るぎない才能は明らかである。この監督デビューを、映画にとってのひとつの希望として祝福したい。

 観たあとで、こんなにも幸福な気分になれる映画はひさしくなかった。ここには現在があり、人間がいる。伊月肇という名前を憶えてしまう。

 そして優れた映画は、もはや自主制作という土壌からしか生まれないものなのだろうか。

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「2003年のこんにちは」が見たかった

平澤竹識(本誌編集部)

 カメラは蛇行するモノレールの車内から窓外へと向けられている。窓枠によって仮構されたフレームが、太陽の塔に続いて団地の一群を捉える。すると、左手前から乗客の女(長宗我部陽子)がフレーム・イン、窓の外を振り向いた瞬間に、画面は黒味に転じて白字のタイトルが浮かび上がる。映画の舞台と主要な人物を印象づける鮮やかな導入部である。

 本作には、こうした「第二のフレーム」が散見される。部屋の襖や壁、建物の外に通じる扉の縁などがフレームの中にもうひとつのフレームを形づくり、被写体との距離間を保ちつつも、クローズアップやスプリットスクリーンのような効果をあげているのだ。他にも、小道具や衣装の鮮やかな色使い、ワンカット内における時間の飛躍、春の陽射しの捉え方など、フレーム内を活気づける様々な工夫が凝らされている(撮影高木風太、照明浅川周)。この作り込まれた画面の豊かさが、本作の大きな魅力になっているのは間違いない。しかし、視覚上のフレーミングが技巧的であるだけに、説話上のフレーミング、つまりエピソードの選択と構成の手つきには首をかしげざるをえなかった。

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 映画は、イラク戦争が始まった2003年3月20日に至るまでの3日間を描いている。18日、両親の離婚で転校が決まっている中学生の凛(寿美菜子)は、父親と荷物を取りに元の自宅に戻ってきた。タクシー運転手の貴治(澤田俊輔)は、荷物を運び出した凛の父親を車に乗せる。夜、凛は母親の恋人を紹介された動揺から、呼び出した親友に不満をぶつけてしまう。19日、仕事中の貴治は挙動のおかしな京子(長宗我部陽子)を拾う。そして、運賃を持ってないと言う京子に誘われるまま、彼女が息子と暮らしている団地の一室に上がり込む。同じ頃、凛は前夜仲たがいした親友と通いなれた中学校へ向かった――。実際、ふたつのエピソードはこのようにパラレルな形で展開されるわけではない。作者は時制を一度だけ戻して全体を二分しており、貴治と京子の前半、凛の後半、双方のエピローグへと続く構造を採っている。一方のエピソードには必ずもう一方のエピソードの人物が顔を見せるが、互いのドラマに絡むようなことはない。いわゆる群像劇とも違う、二部作のような説話法が選ばれているのである。ここで注視すべきは、一見脈絡のない“第一部”と“第二部”のエピソードを繋ぐ主題が何かということだ。

 そのひとつの答えとして、イラク戦争が始まる直前という共時性が挙げられるだろう。イラク戦争に関わる情報は全編を通じ、ラジオやテレビから伝えられる。けれども緊迫した世界情勢とは裏腹に、映画は日常の細部にひそむ葛藤こそを描こうとしているようなのだ。つまり、作者はまず前提として、大状況と日常との隔絶感を観客に提示しているのである。井上陽水はかつて「傘がない」でこう歌った。「テレビでは我が国の将来の問題を 誰かが深刻な顔をしてしゃべってる だけども問題は今日の雨 傘がない」。分かりやすく言えば、こうした認識が本作の通奏低音なのである。だから、今の観客は「イラク戦争」を「東日本大震災」に置き換えて見ることもできるだろう。そのことに思い至ったとき、本作への期待は高まった。こうした認識の先に、作者はどのようなビジョンを提示してくれるのだろうと。

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 “第一部”と“第二部”に一貫するもの、それはひとつに物語の舞台となる大阪郊外の団地であり、大阪万博に関わるモチーフである。団地は京子の住まいであると同時に、凛が両親と住んでいた場所としても設定されている。また、万博のシンボルである太陽の塔は画面に度々登場し、「世界の国からこんにちは」というテーマソングもまた物語の展開上、重要な役割を担わされている。この構成を真に受けるなら、作者が構える説話上のフレームは、“大阪万博から33年後の今”という時制的な「辺」と、“大阪の団地”という地勢的な「辺」とによって区切られているはずだ。だとすれば、万博の時代が相対化する「現代」と、大阪の団地が輪郭化する「郊外」とが、本作を貫く主題であろうと、ひとまずは考えることができる。しかし、そのフレームの中で語られるふたつのエピソードは結局、「現代」も「郊外」も焦点化するには至っていない。この感じは、「描かれている絵(物語)と額縁(主題)が合ってない」とでも言えばいいだろうか。

 ふたつのエピソードはつまるところ、家族に関わる普遍的な痛みを描いたものである。京子のおかしな挙動は息子の死に由来することが後に知らされるし、凛が親友と仲違いをするのも両親の離婚がそもそもの原因なのだ。さらに言えば、貴治が離れて暮らす息子の存在、ふたりの微妙な距離感もまた、本作には周到に描きこまれている。では、どうして「現代」や「郊外」という額縁=フレームの中で、家族についての物語が語られなければならなかったのか。

 ひょっとすると団地という舞台設定には、共同体の記憶が隠されているのだろうか。そうであれば、この映画がその最小単位たる家族について語ろうとするのも少しは納得がいく。団地と言えば、核家族化を促した高度成長期の遺物であり、その時代を象徴する大阪万博を持ち込んだのも、そうした記憶を喚起させるためかもしれない。思い返せば、親友と仲違いした凛が夜の商店街を駆け抜けるシーンに人影はなく、あらゆる店のシャッターが下ろされてもいたから(ある店には廃業を知らせる張り紙もある)、その光景に“共同体の衰退”を見て取るべきだったのだろうか。いや、それは深読みというものだろう。実際の映像から、その商店街を「シャッター通り」と見なすことは難しく、単に“夜更けの”シーンとして感得されるのみである。

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 こうした違和感が頂点に達したのは、“第二部”のクライマックスにおいてだった。親友と和解した凛はバスで帰宅する途中、迎えに来た父親の鼻歌につられて「世界の国からこんにちは」を口ずさむ。彼女は晴れやかな気持ちを仮託するように、「1970年の こんにちは/こんにちは こんにちは 握手をしよう」というフレーズを歌い終えるのだが、腑に落ちないのは、彼女の歌声にアイロニカルな響きが一切伴わないことだ。たしかに、家族や友情の話として見れば、このフレーズはクライマックスに置かれるに相応しいものだろう。けれども「現代」がどのような時代なのか、「郊外」がどのような場所なのか、という問いに対して何らかの答えを示唆するものではない。あるいは、その歌が大状況と日常の隔絶感を埋める何かを暗示しているとも思えない。これではエピソードの決着をつけただけで、映画の主題に決着をつけたことにはならないのではないか。身近な他者と真摯に向き合うこと、それが作者の到達したひとつのビジョンであるにしても、「1970年のこんにちは」と「2003年のこんにちは」の間には大きな断絶があるはずで、その違いをきちんと提示してほしかった。

 と、つらつら書きたててはきたものの、この映画に描かれたふたつの絵それ自体はなかなかに魅力的なのである。特に “第二部”は寿美奈子と親友役の大島正華による好演も相まって、中篇として見れば、かなりの完成度に達している。そこで思うのは、イラク戦争も万博も団地も、そんな大層な額縁は必要なかったんじゃないかということだ。力のこもった作品だけに惜しい気がした。

マイナス・カケル・マイナス予告

『-×- マイナス・カケル・マイナス

製作・監督・脚本・編集:伊月肇

制作・共同脚本・音響効果:松野泉

撮影:高木風太 照明:浅川周 助監督:桝井孝則

美術:塩川節子 樋口麻衣 録音:東岳志 音楽:森谷将之

出演:澤田俊輔 長宗我部陽子 寿美菜子 大島正華

12月3日~16日まで渋谷ユーロスペースにてレイトショー

公式サイト http://mainasu-kakeru-mainasu.com/

『-×-』の公開に先立ち、伊月肇監督の『トビラを開くのは誰?』を含む

特集上映「NO NAME FILMS」が開催中 

日程:11月19日~12月2日 連日21:00~ 2週間限定レイトショー

※各日AorBプログラム上映(75分)。その後イベント(45分)を続けて開催。

場所:渋谷ユーロスペース

【Aプログラム】

『ニューキッズオンザゲリラ』監督:阿部綾織 高橋那月

『トビラを開くのは誰?』監督:伊月肇

『バーニング・ハーツ』監督:ジェームズ・マクフェイ

『日曜大工のすすめ』監督:吉野耕平

『遠くはなれて』監督:廣原暁

【Bプログラム】

『わたしたちがうたうとき』監督:木村有理子

『路上』監督:山川公平

『ふたつのウーテル』監督:田崎恵美

『ぬくぬくの木』監督:片岡翔

『閑古鳥が泣いてたら』監督:小林岳

公式サイト http://nonamefilms2011.com/