映画芸術

脚本家荒井晴彦が編集発行人を務める季刊の映画雑誌。1月、4月、7月、10月に発行。2016年に創刊70周年を迎えました!書店、映画館、Amazon、Fujisanほかにて発売中。

『行旅死亡人』 <br>井土紀州(監督)インタビュー

 商業映画の世界では瀬々敬久監督作品や『YUMENO』(鎌田義孝監督)『ニセ札』(木村祐一監督)などの脚本に携わる一方、インディペンデントの世界では映画制作集団スピリチュアルムービーズを拠点に、『百年の絶唱』『レフト・アローン』『ラザロ』などの作品を精力的に発表している井土紀州さんの新作『行旅死亡人』が11月7日(土)からシネマート新宿にて公開されます。

 自分の名を騙っていた女の死に遭遇したヒロインが、その女の過去を調べるうちに思いも寄らない真相に辿りつく、という展開を見せる本作。井土監督はプレス資料のなかで「題材は重いけれど、それをきっちりエンターテインメントとして押し出したいと思って作りました」と語っています。松本清張原作のサスペンス映画を彷彿とさせるようなこの作品で、監督が実現しようとしたものはなんだったのでしょうか、脚本と演出それぞれの狙いについて聞いてみました。

(取材・構成:平澤竹識 構成協力:土田ひとみ)

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――まず企画の発端から伺いたいんですが、今回は、日本ジャーナリスト専門学校(以下、ジャナ専)が制作に入って、その学生が宣伝配給スタッフとして参加してるわけですよね。ジャナ専の講師で評論家の上野昂志さんが企画としてクレジットされていますが、最初に上野さんからなんらかの打診があったんですか。

いえ、最初は放送科の主任講師である沼口直人さんが「せっかく井土さんが来てるんだから、実際に映画を作ってみましょうよ」みたいな話をされてたんです。酒の場で一年くらいは「また沼口さんが言ってるよ」ってノリだったんですけど、そのうち沼口さんの熱意に、上野さんや事務局長の柳沢さんも本格的に動き始めてくれて風向きがそうなったという感じでしたね。

――それで実際にやろうとなったとき、上野さんとまず企画を練ったりはしたんですか。

上野さんと沼口さんと、あとはスピリチュアルムービーズのプロデューサーである吉岡文平にも入ってもらって、じゃあどういう企画でいきましょうかと。そのときに、主人公はジャナ専卒なりジャナ専在学中でルポライターとかを目指してるようなヒロインがいいという話だったんで、そういう子がどういう活躍をするのかってところから入っていったんです。

――それ以外はわりとフリーだったんですか。

そうですね。そういう設定ならやっぱりヒロインがジャーナリストとして何か事件を追いかけていくのがいいと思ったんで、どういう事件がいいか、自分のスクラップブックを出していろんな事件を探しました。

――プレスを読むと、1998年の朝日新聞に載った身元不明の行旅死亡人についての記事が発想の発端だと書いてあります。

これはちょっと面白いかなって思ったんですね。ただ、行旅死亡人の正体をめぐる真相などは創作です。

――ジャーナリスト志望の女の子という主人公の設定と行旅死亡人というモチーフがまずあって、そこから話を組み立てていったと。

そうですね。前半の真相を究明していく過程は出来ていたんですが、後半の真相が解明されるシークエンスは二転三転しました。最初は今とは全然違う設定だったんですが、ロケ地の候補として考えていたゴーストタウンの鉱山町の撮影許可が下りなかったので、思い切って設定を変えることにしました。僕の考える映画は土地の記憶や歴史と密接に結びついているから、ロケ地にすごく左右されるんです。つまり、こういうホンを書いてこういうことを撮りたいと言っても、同じような場所を探せるかどうか分からない。無理を通せば、予算がかかったり、いろんな問題が起こってきます。これは『ラザロ』の「朝日のあたる家」以降採用してるやり方ですけれども、まず撮影に協力的で、予算を安くあげられる場所を探してそこからシナリオを作る。最初の設定を捨ててから、どうもジャナ専を引退された先生で長野の小諸のほうに別荘を持ってる人がいるらしいという情報が入ってきた。その方だったら沼口さんも交渉しやすいということで、とりあえず小諸の別荘に行ってみましょうということになりました。それで、その土地や風土に絡んでくるような事件なり真相を考えようってことになったんです。

――たしかに、出来上がった映画では小諸特有の物が重要な小道具として使われてますね。

それもその土地でいくつかある中から見つけたという感じです。

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――『ラザロ』以降、感じてたことなんですけれども、今回の映画では特にセオリーとか定石というものに対する井土さんの意識が明確に現れてるなと思いました。かつての井土さんの仕事を見ると、瀬々(敬久)さんの影響も大きかったのかもしれないですが、わりと定石を踏み外していくというか、観念がそこに混ざってくるような特徴があったと思うんですね。『ラザロ』以降、セオリーみたいなものに自覚的に取り組まれるようになったのは何かきっかけがあったんですか。

原因は一つではないと思うんですけど、例えば 澤井信一郎さんとの出会いは大きかったと思います。澤井さんと話したりするなかで、オーソドックスであることの強さってなんなんだってことを考えるようになりましたし。

――澤井さんの本(「映画の呼吸」(ワイズ出版刊))でもそういう話は出てきますね。

台詞が映画のリズムを決定する、とかね。要するに、澤井さんがおっしゃってるのは撮影所システムがなくなって確実に失われたものがあるということで、僕自身もそれを探求したいという思いはあります。

――井土さんが自分なりに考えて辿りついたオーソドキシーの強さというのは何だったんですか。

それは非常に難しいですよね。やっぱり撮影所のような場所があって経験のあるスタッフが大勢いるという環境、そういう創作主体が一人ではない膨大な経験の蓄積からポロッと出るアイデアが一つのシーンの緊張感を生み出したり、コンセプトをより面白くしたりすることがあったと思うんです。でも、自主映画的な環境でそういうことを実現するのはなかなか難しい。だから、オーソドックスというものについて考えた末に自分が得たものって何なんだろうって言われると答えづらいものがありますね。

――プレスには50年代から60年代の日本映画ないし60年代のテレビ映画のエンターテインメント性を研究して、それを今回の映画にぶつけたと書かれています。シナリオの話に限定すると、そのエンターテインメント性というのは具体的になんだったんでしょうか。

それは『百年の絶唱』の頃からあったんですけど、簡単に言うと、〈社会性〉だったり〈毒〉だったりということです。形式面だけではなくて、何か犯罪が生まれる過程とか、そういう内容的な部分についてもなんですが。僕は瀬々さんとの仕事で、いろいろ犯罪について考えてきたんですけれども、自分がキャリアをスタートしたときは、犯罪に理由や原因が見つけにくい時代だったと思うんです、90年代前半から2000年代前半ぐらいですかね。「もうドラマでは現在は切れない」と言われるなかで、じゃあ、その無根拠な犯罪が起こる現在をどう捕まえるかってことをずっとやってきたんですよ。だから常に、僕個人の意識の変化で書いてるというよりは、時代のなかで自分も考えてきたところがある。例えば、『ラザロ』は最近の不況だったり、世相も含めてすごく変わってきた、犯罪も変わってきたというなかで考えた結果として作ったところがあるんです。 〈背景のある犯罪〉って言うんですかね、社会機構の面でも〈犯罪が生み出される背景〉がまた生まれつつあって、自分が子供の頃に見た映画やテレビドラマの作劇術が今の時代に一致するようになってきたんじゃないかと思うんですね。同じではないにしても参考にはなると。

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――最近、旧来のドラマツルギーでは現実を捕まえきれないんじゃないかなと思ってたんですけど、井土さんは初期の仕事でそういうチャレンジを散々やられていたわけですね。それで今、別の方向へ向かっていると。

最初に書いた『終わらないセックス』とか『雷魚』とかあの辺はずっとそうですね。『雷魚』ではバラバラの人間が理由なく人を殺して、理由なく出会って、というドラマをやったし。あとは時制をシャッフルして作るとか、そういうことをやっていた。ただ、そういうやり方にちょっと僕自身が飽きてしまった。今の現実を捉えるってすごく難しいですよね。まさにその時代の現実が生み出したドラマツルギーって実はその時代に一本あるかないかだと思いますよ。例えば、イエジー・カワレロウィッチの『影』とか。戦中戦後のポーランドの訳の分からない世情がああいうドラマの形式を生み出したんだと思いますし。

――オーソドキシーという問題にこだわってお聞きしたいんですけど、今の映画状況を見ると、基本や定型といったものがどんどん瓦解してる状況があるわけじゃないですか。井土さんが『ラザロ』以降、オーソドキシーに回帰しているのはそういう現状に対する反発もあるんですか。

それよりも、むしろ自分の好奇心が勝ってる感じですね、「シナリオ構造論」(野田高梧)の「基礎なくして独創性なし」じゃないですけど。やっぱり若い頃は変なものとか独創的なものをやりたいと力むんですよね。『百年の絶唱』を撮ってたときは「絶対、誰にも作れない映画を作ってやる」と思って撮ってるわけです。でも、それは長く続かないし、そのなかで「じゃあオーソドックスなものってなんなんだ」という方向へ純粋に興味が向かっていったということです。

――今回の映画はきっちり三幕ものの構成になってますよね。最初に主人公の置かれている環境と彼女の葛藤が示された後、「あなたが死にました」というプロットポイントをきっかけに第二幕に入っていく。その後、真相が究明されていって、大きな謎が解明される二度目のプロットポイントを経てクライマックスが訪れる構成になっています。本誌の前号で「シド・フィールドの脚本術」の書評を書いていただいたとき、プロットポイントについて書かれていたので、そういうシナリオの技術的な部分に対する関心も強くあったのかなと思ったんですけど。

ありますね。学校で教えるようになって、その意識がより強くなった。シナリオなんて本当は人に教えられるものじゃないんですけど、教えるとしたらそういう基礎的な事を教えるしかない。それって自分にはね返ってくるんですね。自分はどのくらいオーソドックスにやれるんだと。ただ、そう思う一方で、基本を守って作ってるようじゃ面白いものにはならない、その基本をどう外すかが大事なんだと思ったり、そういう揺れはすごくあります。まさか自分が人に教える立場になるとは思ってなかったですから、そうなったことの反動もあると思いますよ、オーソドキシーを探求していくっていうのは。

――そういう流れで考えると、『ニセ札』で向井康介さんと一緒にお仕事されていることには非常に興味が湧くんです。向井さんは正攻法というよりは、そこをいかに崩すかで勝負している脚本家だと思うんです、台詞の作り方にしても。一緒に仕事をされたとき、井土さんが感じたこととか、影響を受けたこととかはありましたか。

お互いにあったと思うんですけど、向井君が欲しかったのはたぶん僕の構成力というか、今話したような構成面のテクニカルな部分だったと思います。僕が勉強になったのは台詞の面白さですね。僕は台詞を書きすぎるので、向井君はもっとこれを縮めて言えるような言葉はないかと、そこで一個一個立ち止まって考える。それはすごく大事なことだなと思いました。書けるようになるっていうのは諸刃の剣なんですね。下手だったら説明台詞でしか書けないものを、血が通った台詞に見せかけて書けてしまうというか。それは最近の自分の反省でもありますね。

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――50年代、60年代の日本映画の面白さを井土さんなりのやり方で再生産していく、それはすごく面白いなと思ったんですが、正直に言うと、僕は今回の作品に古めかしさを感じてしまったんですね。

この前の「映芸シネマテーク」での話にも通じるんですけど、あの時は荒井さんがいて、 斎藤久志さんがいて、僕がいて、今泉(力哉)さんがいてね、僕もすごく古い世代の人間のような感じで、90年代は『百年の絶唱』みたいな自主映画が主流だったみたいな話になっちゃいましたけど、あの映画はむしろその時代にも孤立していた。僕が大学生の時から、今泉さんのような映画のほうが主流だった。だから、むしろ反時代的であろうと考えて撮ったのが『百年の絶唱』だったんです。あれは98年の公開当時から古いって言われてるし、そもそもピンクでホン書いたときから僕は古くさいって言われ続けてる(笑)。

――こんなことを聞いてしまうのは、やっぱり僕なんかは「ピンク四天王」世代なんですよ。二十歳ぐらいで『雷魚』とか『汚れた女』に衝撃を受けたほうなので。だから、井土さんがご自身で監督される作品がオーソドキシーみたいなところに返っていくことに違和感があったんです。

そこにとどまるつもりはなくて、オーソドックスっていうのを一度、自家薬籠中の物にしたいんですよ。そのうえで、じゃあ次はどんなものができるんだって形でやっていきたいと思ってるんです、出発がオーソドックスじゃないんでね。

――今はちょうど井土さんのなかで第二期に入ってる感じなんですかね。

そういうことなのかもしれないですね、自分の興味の向かっている方向で言えば。宣伝の吉川(正文)君からも「『百年の絶唱』みたいなのはもう撮らないんですか」って言われますよ(笑)、よく出来た映画じゃなくていいから、もっとああいうのが見たいと。

――そういう期待を持ってしまうところはありますね、後続の人間からすると。

そういうのが撮れると一番いいですけどね。ただ、そこを狙いにいくとあざといし。僕がオーソドックスというものを探求して、それが血となり肉となった段階で、また飛躍できればと思ってるんですけど。

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――映画の話に戻りますが、オーソドキシーという観点で言うと、こういう捜索もののドラマだと最終的に捜索する側の主人公に何が跳ね返ってくるのか、そこに向かってドラマを組むのがセオリーだと思うんです。この映画の場合は、「男とは半年しか付き合えない」なんて言う今どきの女の子たちが行旅死亡人の真相を探るなかで無償の愛みたいなものに触れる、という構造になってますよね。だから、今どきの女の子たちがその無償の愛に触れてどう変わるのか、それが見せ場になるんじゃないかと思ったんですが、映画のクライマックスでは無償の愛のほうに比重が置かれていて、女の子たちの変化が見えづらくなってますよね。その辺はどうお考えになってたんですか。

そこは台本を作るときからすごく考えたことで、現場でも編集でも悩んだところですね。結局なんだろうな……「その女の愛ってなんだったんだろう」という謎が彼女たちに残る、そこで彼女たちの何かがたぶん変わったんだろうという締め方にしたんですね。女の子たちの変化を最後に見せようとすると、最初から彼女たちの恋愛も描かなきゃいけないじゃないですか。アメリカ映画のオーソドックスだとそれはやるんですよ。彼氏と問題を抱えていたりして、何かの出来事を経過した後、そっち側の恋愛にも作用するという。そういう作りにもできたんですけど、今回はやらなかった。

――井土さんのある誠実な答えとして、無償の愛に触れたからといって、すぐに彼女たちが劇的に変わることはないだろうという判断があったということですか。

ミサキの成長を見せるためだけに彼女の恋愛をネタにするのは嫌だったんですね。だから、本当は真相を究明しようとする人間と謎を持ってる人間の間に愛がある、この構造が一番いいんですよね。『飢餓海峡』の左幸子三國連太郎の関係じゃないけれども。『飢餓海峡』には刑事が二人出てきますけど、それを刑事でない人間にやらせるにはどうするかっていうのは考えどころでしたね。探す側の人間って実はそんなにモチベーションないんですよ。『砂の器』も探す側の人間は刑事ですよね、『人間の証明』とか、みんな職業として真相究明に向かう。まさに子供の頃に見た社会派ミステリーはそういう構造になってる。

――先ほど話に出ていた50年代、60年代の日本映画というのは今出たような作品なんですね。

他にもいろいろあります。今リメイクされてる『ゼロの焦点』もそうだし。『ゼロの焦点』は主人公のモチベーションが愛だから強い。自分の旦那が新婚早々に失踪したって話で、妻が旦那の消息を追って能登半島に行く、これは捜索の理由がいらないですから。

――そういう結びつきがあると、真相が究明されると同時に必ず主人公に何かしら跳ね返ってきますね。

そうなんです。それが今回の『行旅死亡人』であれば、“その真相をヒロインはルポに書けるか”という話になりますからね。

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――最初にヒロインが部屋の更新料を払えないというエピソードがあったので、ルポを書いて賞金をもらうみたいな形で成長を見せるのかと思ったんですが。

それはアメリカ映画的ですね。まぁでも、今の日本映画もわりとアメリカ映画的な作り方をしますよね。僕が古いと思われるのは日本映画的なあり方への偏愛からかもしれないな。

――僕が古さを感じてしまったもう一つの理由は大回想に入ってく作りなんです。最近の流れで言うと、回想シーンてあまり使われなくなってきてると思うんですが。

好きなんでしょうね(笑)。『百年の絶唱』でも同じことやってますから。むしろ今回は我慢してわりと現実を出してるほうなんですよ。もちろん、新しく見せるには時制を入れ替えるっていうやり方はあるんです。『アヒルと鴨のコインロッカー』なんかはそれを上手くやっている。ああいうやり方はすごく現代的だと思うし、それは自分でもけっこうやってきたんですけど、そうじゃなくて反時代的にガッツリやると。

――過去を前半からつまみ食いみたいに見せるよりも、あの長いシークエンスでうねりまで見せたいってことなんでしょうか。

たぶんパターンとして二つあって、『百年の絶唱』もそうですし、『行旅死亡人』もそうですけど、「帰納法」のドラマなんです。先に結果があって、探偵役がその原因と行動に遡って行くという作りになってる。それは低予算映画でやるには非常にいいんですよ。帰納法のドラマって謎があるわけですよね。結果に対する謎があるから、観客にとってその謎への興味は持続するんです。逆に「演繹法」のドラマだと、ある人間たちがどうなっていくのかを見つめていく作りになんですね、それは変化だったり、成長だったり。僕も演繹的なドラマのなかに回想が入ってくるのは嫌いなんです、絶対に入れない。

――どうして演繹的なドラマでは入れない回想を帰納的なドラマには入れるんですか。

帰納的なドラマでは、後半にストーリーを推進してきた謎、原因の提示が不可欠です。その原因を登場人物の言葉で語らせるのは嫌なんですよ。そうではなくて、やはり映像で見せたい。それから、僕には、ある文明が起こって滅んでいくような叙事詩をやりたいという欲望がある。これは演繹的な映画では莫大な予算がかかります。しかし、帰納的な映画であればそれを断片的に描くことで実現できるのではないかと考えているんです。

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――演出の話に入っていきたいんですけど、先ほどオーソドキシーを目指したときに、低予算映画の枠組みでやるのは難しいという話がありましたが、映画を見た印象で言うと、役者さんの芝居という点にその難しさを感じました。今回主演したお二人はプロの俳優ではないんですよね。

ミサキ役の藤堂さんは演劇を中心に活動していますが、アスカ役の阿久沢さんは全くの素人ですね。彼女は本当に素のキャラクターで選んでるんです、オーディションで。

――あれだけきっちりした構成で台詞が立っている、いわゆる「劇」的な作品の場合、ああいうナチュラルな演技が邪魔になることがあるんじゃないかと思ったんですが。

そうかもしれないですね、それは僕の演出家としての未熟さです。そういう子たちを演出して、今風な感じを残しながらもパキッとした芝居を作れるはずなんですよね。でもそれにはものすごい時間がかかるんです、たぶん。そのことを計算して、事前のリハーサルをやるなりして、そういうものを作っていかなきゃいけなかったんでしょうね。彼女たちがナチュラルに演じてることに対して、こっちも「生き生きしてるな」と心が柔らかくなって、こちらのリズムに統御していくことがためらわれたんです。

――その辺りは井土さんのなかでもまだ試行錯誤しながらやってるという感じなんですね。

それはめちゃくちゃしてますね。早く自分の座標軸を確立したいと思います。

――ただ、『ラザロ』を拝見した印象だと、三本撮るうちに演出がどんどん進化していたと思うんです。僕は三本目の『朝日のあたる家』が好きなんですけど。

『朝日の当たる家』はものすごく時間をかけて事前のリハーサルをやったんですよ。オーソドックスな芝居、オーソドックスな台詞回しをこの人たちでどうやれるか、それを考え抜いて作れたところがあった。だから、ほとんどの役者が素人でしたけど、リズムと方向をきっちり合わせて人物が芝居をしていく気持ちよさがあるんです。僕も『朝日のあたる家』で何かちょっと掴んだような気がしたんです。でも期間が空くと忘れるんですね、その感触って。『朝日のあたる家』みたいな作品をポンポン短い期間に作っていけば身に付くんでしょうけれども、間が空くとなかなか難しい。『ラザロ』は期間が短かったですから、一本一本の試行錯誤がすぐに形になった。公開は2007年でしたけど、『朝日のあたる家』を撮ったのは2005年の春だから、『行旅死亡人』を撮った2007年の夏まで二年半ぐらいは空いてるわけですね。そのブランクってすごくいろんなことを忘れますよ。

――今回の現場で迷いが出たりすることもあったんですか。

ありましたね。芝居の作り方って本当に難しいですよ。例えば、元保険調査員役のたなかがんさんとやってると、「あ、俺はこの芝居を求めてたんだ!」とか思うわけです。でも逆に言うと、女の子たちのテイストに合わせるなら、たなかさんの芝居はもっと崩さなきゃいけなかった。

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――もう一つ伺いたいのは、『ラザロ』を全部見たときに対象との距離感が変わってるなと思ったんです。端的に言うと、一作目のシャワールームで男を殺す場面はカメラがシャワールームのなかに入って非常に間近で撮っていたのが、三作目の殺しの場面では襖か扉の向こうでバタバタしてるのを引きぎみに撮ってましたよね。あの距離感の変化は井土さんの変化でもあったんじゃないかと感じたんですが、『行旅死亡人』ではその距離がまた近くなったのかなと。

それはカメラマンの生理ですね。『ラザロ』は三本とも鍋島(淳裕)さんというカメラマンとやってくなかでの試行錯誤なんです。『蒼ざめたる馬』のときは僕もド素人の女の子三人を相手にワーッとやってて、カット割りもほとんどなくて、いけるとこまで撮るという感じでしたから。そうするとカメラマンも手持ちになってきて、対象を追っかけながら撮るしかないという風になってくる。で、二本目の『複製の廃墟』を経て『朝日のあたる家』でなんとなく僕自身が役者の動きの演出と、カメラポジションについて鍋島さんとちゃんと話しながらできるようになってきたんです。今回、『行旅死亡人』はカメラが伊藤(学)君に変わってるんで、それは彼と僕のコミュニケーションが足りてないんですよね。なにせ、予算的な問題から、一日に五シーンから六シーン撮らなきゃいけなかったから、スケジュールを消化するだけで大変だった。事前にカットを割って、カットごとのヨリとヒキのプランは投げてありますが、それぞれのサイズの感覚はカメラマンに任せるしかない。

――井土さんとしては役者さんのほうに集中したいと。

それがベストですね。まだ公開はしてないですけど、川崎(龍太)君がホンを書いてくれた『犀の角』は『朝日のあたる家』を経て、さらにあの感じでやれたと思います。これは『朝日のあたる家』の次に鍋島さんと組んだ作品なんで。

――そういうことで大きく変わるもんなんですね、映画って。

変わりますよ、それは。カメラマンが映画の要ですからね。そこが聖域とは思わないですけど、どっかでその人の絵作りが出るわけですから。

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――冒頭の話に戻るんですけど、『ラザロ』以降、スピリチュアルムービーズとしていろんな団体と一緒に作り続けてると思うんです。『ラザロ』の一本目「蒼ざめたる馬」篇から京都学生映画祭のスタッフと作られてますよね。そういう制作形態の可能性と限界についてお伺いしたいんですけど。

可能性も限界も、僕たちと先方がいかにいい関係を作れて、お互いに気持よい撮影ができるかということに尽きると思います。そこでの関係作りが上手くいかなければたちどころに限界に突き当たるでしょうね。結局、映画は人間同士の関わりから生まれるものですから。一つ頭の痛いことがあるとすれば、その先の上映に際して生まれてくる新たな予算のことですね。

――現場的には可能性が大きいけれども、その後の配給、宣伝とかの部分でのお金の問題が出てきたりするということですか。

そうですね、そこで新たな予算を捻出しないといけないですから。それはいつも頭が痛い。ちょっと答えは違うかもしれないけど、僕自身は流れに逆らわないというか、流れが来ていると直感したら、その流れに乗ってみる。まぁ博打の感覚ですよね。麻雀やってても、「今だったら俺、上がりにいったほうがいいぞ」とか、風が吹いてないと思ったら「振り込まないようにだけしとくか」とか、そういう感覚ってあるじゃないですか。可能性と限界って話し合えば、いろいろ細かい問題が出てくると思うんですけど、僕もたちもその時々に考えるしかないんで、あんまり方向性みたいなことは考えてないですね。それを決めると、いろんな団体とやっていくことが自分たちの方針みたいになってしまうし、そのことで組織が固着化するのはよくないんですよ。立ち位置を見失うことになりかねない。風が吹かなかったら自分たちでより小さな予算でもいいから作ってみようという感じでやっていく。「じゃあ次はジャナ専で撮るぞ、次は映画学校で撮るぞ」なんて思ってやってるわけでは全然ないですから。

――商業映画が均質化している現状ってやっぱりあると思うんですよ。もう超低予算から超大作まで動物ものを作ったり、余命ものを作ったり。そういう状況のなかで見ると、ある団体と組んで自主制作よりも少し予算を大きくしてやっていくという方法論には何か希望を感じてしまうんですね。そういうことを井土さんが実践されてきてるように見えるんです。

それは本当に結果なんです。たぶん僕らが『ラザロ』をやるまでは、みんな公開するっていう発想がなかったんですよ。実習的な作品とか、ワークショップで撮った映画はいっぱいあっても眠ってたんでしょうね。でも、僕は自分の信念とか存在を賭けて作ったものは、よっぽどの短編でもない限り公開したい。僕も吉岡も、あるいはスピリチュアルムービーズの他のメンバーも、自分たちの作品を劇場でかけていくことへの信念は圧倒的にあるんですね。それを続けてたら、今のような流れになったってことなんです。最近は、ワークショップで作ったような映画も劇場で公開する流れが出来てきてるんじゃないですか。

――そうですね。同時期に公開される『谷中暮色』は舩橋淳監督がENBUゼミナールの実習で撮ったものをベースにしてますし。そういう事態が広がっていくとカオスになると思うんですけど、それはそれで今よりはいいんじゃないかなと思うところもあるんです。

要は、公開っていうことにエネルギーと予算を使うかどうかなんだと思うんです。

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――最後に、後続世代というか若い人たちに接して思うことはないですか。

やっぱりどんどん撮って、面白いものはどんどん出てくればいいと思ってるんですよ。あと、若い人にはやっぱりパンチのあるもので出てきてほしいとは思います。世間とか僕らでもいいですけど、何かそれを撃つような強度を持った映画と出会いたい。そういうものが続々と出てきて、今オーソドキシーに向かってる僕なんかが「井土は反動だ!」とか言われて(笑)、若いヌーヴェルヴァーグから糾弾される存在になるのが理想です。

――たしか『LEFT ALONE』の公開時だったと思いますが、井土さんは「批判も含めて議論したい」とおっしゃってましたよね。でも今はあんまり議論する雰囲気がないじゃないですか。そういうことはどう思われますか。

それはたぶん場がなくなってきてるんじゃないかな。例えば、大学の学生会館みたいな場所とか。そういう意味では、映画芸術って多事争論の場だと思うんですよ。そういうメディアやミニコミや空間が議論なりそういう空気を生み出すとも思うんで。だから、映芸が一回やった同人誌作ってる人たちの座談会(425号掲載)とか、ああいう企画は面白かったです。飲み屋でもいいですし、議論の場はあったほうがいいと思います。ま、スピリチュアルムービーズはだいたい議論して最後は大げんかになるパターンですけど(笑)。

――大げんかしながらも続けてるのは今の若い世代にはあまりないことなんじゃないですかね。

だいたい飲み屋でもみんなそれぞれ四隅に座るんですよ。お互いが近くにならないように、意識的に(笑)。

――たぶん井土さんやスピリチュアルムービーズの活動に期待してる後続の人は多いと思いますが。

そういうヌーヴェルヴァーグに突き上げられたいですね(笑)。

行旅死亡人

監督・脚本:井土紀州 

企画:上野昂志/柳沢均 プロデューサー:沼口直人/吉岡文平

撮影・照明:伊藤学 録音:小林徹哉 音楽:安川午朗 

出演:藤堂海 阿久沢麗加 本村聡 たなかがん 長宗我部陽子

行旅死亡人』公式サイト http://www.kouryo.com/

スピリチュアルムービーズ公式サイト http://spiritualmovies.lomo.jp/

11月7日(土)より、シネマート新宿にてロードショー

【公開イベント情報】

11月14日(土)には、『行旅死亡人』公開記念として、新作2本(『犀の角』他)を含むオールナイトイベントを開催。シネマート新宿1の300席大スクリーンで『百年の絶唱』を上映します。

詳細は作品公式サイト、シネマート新宿HPをご参照ください。