映画芸術

脚本家荒井晴彦が編集発行人を務める季刊の映画雑誌。1月、4月、7月、10月に発行。2016年に創刊70周年を迎えました!書店、映画館、Amazon、Fujisanほかにて発売中。

脱映画批評『遭難フリーター』 <br>アートの閾、アクトの閾 <br>丹澤肇(会社員)

 世界中で、ストリートは燃えている。  94年メキシコ・サパティスタ武装蜂起、99年アメリカ・シアトルでの反WTO闘争、01年イタリア・ジェノバでの反G8闘争……これらの反グローバリズム運動を中心として新たな世界的な連帯=運動体が生起している。グローバル・ジャスティス・ムーブメントと呼ばれるこの新たな「運動体」を言説化/定義することはある種の困難が付きまとう。祝祭的なデモ、ラジカルな音楽/パーティー、反権威主義的なシンポジウム、反市場主義的な食育/共同炊事、直接民主制による会議/合意形成等々、イデオロギーや志向の異なった出来事が同一の運動体内で生起しているからだ。そしてこの現場に立ち会っている人々もまた多様だ。政治活動家、パンクス、ビーガン、ミュージシャン、フェミニスト、エコロジスト、アーティスト等々。グローバル・ジャスティス・ムーブメントは異種交配的な不可視の総体として現れている。しかし、実はこの言説化を拒む多様性は他の運動と一線を画す特徴点でもある。90年代初頭、グローバル・ジャスティス・ムーブメントを目撃したアメリカの人類学者D.グレーバーは、その不可視の総体について著作の中でこう記している。  80年代に私をがっかりさせた、終わりなきセクト主義的喧噪には反対する趨勢だった。それは全面的に「直接行動」の原理に基づきながら、いわゆる――新しい形式の社会性を「現在」において創出することで、すでに自由であるかのように振る舞うことを目指す――「予示的政治(prefigurative politics)に邁進するアナーキズムだった。それがもっとも重視するのは、アナーキストであろうと誰たろうと、一緒に並んで世界中の暴力制度と闘おうとする人々との関係において、「聞くこと」「理解すること」「道理(reasonableness)」を開発することであった。それは、それを望む同盟者との関係においてさえ、相手に圧力をかけ、協定を結び、制度的な統合を計ることを含む、あらゆる「暴力的制度」を接待的に拒絶しようという挑戦であった。そこではすでに自由になった社会で振る舞うだろうように振る舞い、ここでの「政治」は、実際に考えていることを言い、正しいと信することのみを実行することと同義であるような自律の泡を創出し、その泡をまったく譲歩しない様態に保つことを目指していた。(デヴィッド・グレーバー『アナーキスト人類学のための断章』以文社 デモ1.jpg  これはグレーバーが99年、当時勤務していたイェール大の学内掲示板で「シアトルに厳戒令布かる!」という記事に触発され調査をはじめたところ見えてきた世界だ。(ちなみにこのときシアトルで巻き起こった反WTO闘争は、かつてないほどの運動の盛り上がりと、それによる会議の流会によって反グローバリズム運動史上に燦然と輝いている。)グレーバーが記述しているように、「理解すること」を中心においた反権威的連帯。様々な市民団体、NGONPOなど、イデオロギーの異なった個人・グループ・ネットワークが脱中心的/水平的な関係を構築し、差異を孕んだまま幅広い連帯。これがグローバル・ジャスティス・ムーブメントであり、近年の反グローバリズム、反新自由主義運動の世界的な潮流となっている。そして今、グレーバーの目撃したシアトルから10年が経とうとしている。その間、世界各地では路上を取りかえす意欲的で野心的な試みが絶えずなされてきた。昨年爺谷湖にてG8サミットを開いたここ日本でも、遅ればせながらその萌芽は生まれつつある。  この運動体の一側面でしかない「メディア=運動」をとってみても必然的に多様なスタイルが生成している。例えば一番素朴な形態はデモの撮影だ。近年デモの現場には、無数のハンディカムが持ち込まれるようになった。そして、その場で撮影された映像は翌日にはYOU TUBEなどでストリーミング/共有化されている。足立正生や佐藤満夫、山岡強一の例を出すまでもなく、ドキュメンタリー映画/作品は常に対象とどう関わりながら撮影するかということを思考し、そのことが創造の一側面をなしていた。素朴な形態であれ、デモの隊列の中で撮影するということは、直接行動の場に身体を曝け出しながら一方では意識的な視線を対象に注ぐことを意味している。つまり、撮影は配信/共有の前段階としての、現場における対象との関係を重視する。直接行動の現場において警察権力と対峙した場合、行動の妨害と権力の過剰行使にさらされる。そしてローカルな現場ではその過剰権力行使が語られないことで、グローバルな現場では権力に寄生/癒着している大手マスメディアによる一方的な「情報」垂れ流しによって、現場の出来事が隠蔽化されていく。これに抵抗すべく、カメラが導入されるのだ。そこでは権力の恣意的で過剰な権力行使や隠蔽化を記録し、また抑制させることを志向していくことになる。また、編集を経た配信の段階では、マスメディア情報に対するオルタナティブな情報となることは言うまでもない。「メディアを恨むな、メディアになれ」とばかり権力に回収されることのない新たな生のあり方を開示していく。この撮影行為は撮られた映像がどういう形態をとって世界中で共有化されていくのかという「メディア=運動」への広がりと、撮影された映像それ自体が力を持った映像として作品に生成していくのかという「メディア=アート」への広がりを同時に孕みつつその初動点を形成しているのだ。 sub2.jpg  世界に無数とある新しい「運動/体」のそれぞれが垣間見せてくれる風景は、一つの想像力(=一つの暴力=一つの物語)に回収されることのない差異を孕んだ多様な生のあり方だ。そしてそれらのアクト/アートが連帯しながら来るべき世界像を予示しているのである。そしてなによりも重要なことは、輪郭が曖昧で明確な組織体を採らず、たえず緩やかな不可視の総体としてある連帯が故に、この「運動/体」が常に可能性としての潜在的民衆をも含んでいるということだ。そこで本作『遭難フリーター』である。本作はいわゆる「派遣労働者」として働く若者の一年をロードムービー風に撮影し日々の現実が語られる。派遣社員のゴミ箱使用禁止をうたう工場内のビラ、自己責任論を唱える友人との語らい、眠い目を擦りながらアルバイトに向かう朝の電車で食べたパン、ロフトプラスワンでのイベント、憧れていた東京の路上で向かえた朝、古典的「搾取」を振りかざし白々しく説教を垂れるオヤジ、生活の隅々までカメラを持ち込んだ瞬間は、ささやかながら、美しい。作家としての孤独と、貧困で分断された孤独を二重に抱え込み世界の多様な響きの中で自己を見つめること。それは、同時に大手マスコミの語る一方的な「派遣社員」像とは別の生活を別の物語を生成することでもあった。監督は、映画の撮影/完成を経て予示的に自律空間を生成させている。この映画が、デモという直接行動に懐疑的な志向を伴いつつも片時もカメラを手放さず、運動体と同伴し続けたこと。それは一方で運動体の多様性の証左であり、また一方で青春映画という枠を超えた一つのローカルな抵抗手段であることの証左でもある。最後に語られるモノローグ「東京の果て。俺は、いまやっと入り口についた。」映画の完成が同時に新たな生を再帰的に語りだしている。「ぼやけた生活」に凛とした輪郭が生まれた瞬間だ。 main.jpg   丹澤肇プロフィール 1980年生まれ。出版社勤務。 遭難フリーター 監督・主演:岩淵弘樹 プロデューサー:土屋 豊 アドバイザー:雨宮処凛 (c)2007.W-TV OFFICE 公式サイト http://www.sounan.info/index.html 3月28日(土)、ユーロスペースにてロードショーほか全国順次公開