映画芸術

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映芸シネマテークVOL1『喪服の未亡人 ほしいの…』<br>渡辺護(監督)、井川耕一郎(脚本)トークショー

 昨年11月に行われた映芸シネマテークの上映作品は、40年以上のキャリアを持つ大ベテラン渡辺護監督のピンク映画『喪服の未亡人 ほしいの…』でした。リアリティに拘泥しない俳優の演技と大胆な省略を用いた軽快な語り口は、リアリズム重視の演技や長回し撮影が多用される邦画群のなかでは圧倒的に新鮮な印象をもたらしてくれます。「映画における演出とは何か?」「映画のリアリティはどこに見い出されるべきなのか?」以下に採録する渡辺監督と井川耕一郎さん(脚本)によるトークショーは、そうした問いに対して一つの手がかりを提示してくれるのではないでしょうか。

(司会・構成:平澤 竹識)

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左から井川耕一郎(脚本)、渡辺護(監督)

――最初に質問させていただきたいんですが、ラストのベッドシーンでヒロインの淡島小鞠が叫ぶ「イク!」というセリフには、「逝く」という意味がかかってるんでしょうか。

渡辺 あのセリフはね、ただ、ある人生は終わった、ということを感じていただければと思って撮ってます。どう終わろうかと思って考えてたんですよ。そしたら、女が「イク」って言って終わるのもいいなと、それぐらいの気持ちで撮ってるんです。

 井川君の脚本の根底には、自分を裏切った亭主がもう生きてない、人生の収まりがつかないというヒロインの気持ちがあるんでね、それがドラマの基本になってるわけです。だから、彼女自身が浮気して快感を味わうことによって亭主を裏切ることができると、それが一応ドラマの流れとしてある。それが終わった後、何があるんだって言ったら、人生が終わったとも言えるんじゃないかと。亭主を愛していた時代が終わって、もうその時代は返ってこないわけですから。だから、あの最後のセリフを夫のいる天国へ「逝く」と解釈するのもカッコいいけど、特にそういう意図はないんです。

――ヒロインが浮気相手と寝ている場面で旦那の骨壷を蹴とばしたり、映像としては「あの世」が強く意識されているように見えたんですが。

渡辺 結局、彼女は死んだ夫に向かって行動しているわけですから、年中、死んだ夫の影がまとわりついているみたいには撮ってますけどね。

井川 観念的な世界を描いているように見えるみたいですけれども、僕自身はあまり観念を表現したいという気はないんですね。僕の中にあるのは要するに、人間というのは観念に取りつかれるしかない生き物だっていうことなんです。僕自身は「あの世」なんか信じてもいないし、どうでもいいと思ってるんですけれども、そうは言っても、世の中には「あの世」を必要とする人がいるわけですね。

渡辺 いくら好きでももういないというのは、人生のなかで一番悲しいことじゃないですか。浮気してもいいんですよ。相手がいてくれれば、「なんで浮気したのよ」って言えるじゃないですか。それも言えないっていうのは、やっぱり言いようがないぐらいに悲しい。そういうことがドラマになるんですね。人間なら誰もが持ってる悲しさですよ。ラストの「イク!」というセリフも、夫に対する別れ、「さよなら」の意味を込めて持ってきてるわけですよね。だから、別れの悲しさというものが、映画全体を通して漂えば、お客さんは少し分からないところがあっても納得してくれるんじゃないかと。映画っていうのは分からなくてもいいと思ってるんです。ただ、分かんないだけの映画にしてはいけない、理屈としては分からなくても感覚的に分かるという見せ方をしなきゃいけないだろうという思いはありますけどね。

――『ツィゴイネルワイゼン』(80)のように、「あの世」と「この世」を行ったり来たりするという話ではなく、ヒロインの執念が向かう先として、死んだ夫の存在が強調されているということなんですね。

井川 そうです。今回は渡辺さんから「不倫ものがいいな」と言われたんですね。じゃあどうしようかと考えても、さっぱり思いつかない。そういう時は掃除でもするかと思って、部屋を片付けてたんですよ。その時にフッと思い出したのがイーストウッドの『マディソン郡の橋』(95)でした。あの映画は冒頭で、子供たちが母親の遺品を整理していたら、とんでもない内容の日記が出てきたなと。あれ、書いてるお母さんは美しく回想してるけど、読んだ子供のほうはたまったもんじゃないだろうと(笑)。その時、たまたま渡辺さんから昔もらった落語のカセットテープを手にしていて、あ!と思ったんです。それから、渡辺さんの家に行って話したんですね。「旦那が死んで遺品整理をしてたら、カセットテープが出てきた。そこに浮気をしてるらしい声が入ってる。で、奥さんがカッとなって言う。『殺してやる!……もう死んでるけど』」。そこまで話したら、渡辺さんが大笑いして「それでいいよ」と。だから、渡辺さんが笑ったのを見て、これは当人たちにとっては真剣だけど、客観的に見ればお笑いでしかないって話を書けばいいんだなと思った。きっかけはそのぐらいなんですよ。もっとも、シナリオを書く前にカセットテープにするかMDにするかは迷いました。結局、情事の声は結婚後の不倫の証拠ではない、遠い昔に西岡秀記演じる亡くなった旦那はある少女とセックスにのめりこんでいた時期があったのだ、と考えて、カセットテープにしました。そう決めたら、確信犯的に「今」とか「時代」に背を向けてドラマを書こうという方針も見えてきましたね。

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――この映画を観た時に、主題は観念的なのに映像が現実的というか、はっきりしてるなぁという印象を持ったんですね。観念を抽象的な映像で語る作品は多いですが、こういう語り口は珍しいなと。そのギャップがとても面白かったんです。

渡辺 それは演出がうまいんですね(笑)。40年もやってると、バカだってある程度はうまくなる。僕はあと少しで80だからね、何回も人生を繰り返してきたような気がして、ドラマも全部分かってるような気持ちがあるんです。だから仕事の話がきた時も、この脚本をお客さんに面白く見せられると思ったら、簡単にOKしちゃうほうなんです。この間、フィルムセンターで伊藤大輔の『いとはん物語』(57)を観たんですよ。大阪の老舗に三人姉妹がいて、次女、三女は美人なんだけど、長女だけブス。でも、純真なんですね。その長女に番頭と結婚しないかって話があって、長女もその気になる。けれども、番頭には惚れてる娘がいて、結局、長女はふられてしまうってだけの話なんです。ところが、さすが伊藤大輔ですねえ。京マチ子がメイクなどで工夫してブスな長女を演じているんだけど、最初にその顔をアップで見せるところがいい。すごい顔なんだ、これが(笑)。伊藤さん、京マチ子をどうやってブスに撮ってやろうかと面白がってたんだろうなあ。それから、番頭と結婚できると聞いて喜ぶ京マチ子の姿をあの手この手で見せている。番頭やってる鶴田浩二はどうでもいいけど、京マチ子はよかったですねえ。それから、鶴田浩二が惚れている小野道子もよかった……ええっと、おれは何の話をしてるんだ?

井川 演出の話ですよ。

渡辺 ああ、そうか。役者と演出ってことで言うと、淡島(小鞠)君は頭のいい子でしたね。脚本をきちっと理解してヒロインの人妻を演じている。現場で僕にずいぶん怒鳴られたけど、負けず嫌いでね。そこもいい。でもね、ピンク映画はメジャーじゃない。オーディションをきちんとやって、いろんなことを完璧に準備するってわけにはいかないんです。映画の理論どおりにやってたら難しい。ピンクは違うんです。その役者さんの持っている雰囲気をお客さんに良い形で伝えること、お客さんに飽きさせないためにはどうしたらいいかってことを考えるんです。

 例を挙げるとね、浮気相手の男の奥さんを演じてる倖田李梨が、撮影を始めたら思うように芝居ができなかった。それが撮影初日の最初のカットなんだよね。それでどうしようかなぁと思った時に、おれの知ってる女優さんに聞いた話を思い出した。「おまえ、亭主とどういう風にセックスしてるんだ」って聞いたら、「おまえ、しっかりやれよ、手ぇ抜くなよ」「なんだ、おまえ、しっかり勃てろ、おらぁ」とか、そんな風にやってるんだと。それを現場で思い出して、あ、あれでいこうと決めたんですよ。

――あの夫婦の関係性や、奥さんのキャラクターも脚本にはなかったということですか。

井川 シナリオでも岡田智宏と倖田李梨のあの夫婦の関係は“お笑い”として書いてますけど、渡辺さんは役者の素の面白さを活かすようにいじってるんですよ。倖田さんが、風呂上がりに股を開いてタオルでゴシゴシ拭くところなんてシナリオでは書けないですから、アフレコで観た時に呆然としましたけど(笑)。

渡辺 彼女は体の線がセクシーなんですよ。だから、それを活かさないともたないって思いがあるわけだよね。

――倖田さんが「二発やろう」と言うベッドシーンでは、一回目の絡みで股間を押し付ける倖田さんのお尻と、二回目の絡みで腰を振る岡田さんのお尻を同じフレームで撮っています。ああいうところも、現場でのひらめきなんですか。

渡辺 あれも脚本通りなんですけど、それをどう面白く見せるかっていう問題があるわけでね。結局、勘ですよね。Aポジで撮っておいて中抜きするとか、だいたいこう撮ったら色っぽく見えるとか、現場の勘でカメラマンに指示するんです。あんまり始めからカット割りを決めてはいません。だいたいの流れは決めてますけどね。

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――カットが変わるたびに撮影を止めるということですか。

渡辺 おれの中では、止まってるという感覚はないな。だいたい、役者を動かしてる間にカメラの位置を変えて撮っていくという感じなんです。

――そうすると、編集の時に繋がらなくなったりするんじゃないですか。

渡辺 映画はどう撮っても繋がるんですよ。昔ね、『ニッポンセックス縦断 東日本篇』(71)って映画で、大久保清の事件をやったことがあるんです。新聞のすみっこに載ってた記事を読んで、これ、映画になりそうだなってことでね、下田空ってライターが大久保清が犯罪に走るまでをきちんとシナリオにまとめてくれた。ところが、初日の撮影が終わって旅館に戻ってきたら、プロデューサーの小森白から電話がかかってきてね、「おい、ナベ、テレビを見ろ」。それでテレビを見たら、大久保清が8人殺したと自供したってニュースで言ってる。で、小森白が「8人殺してるから、それを全部撮れ」と言うんだ。これは当るって商売人の感覚が働いたんだろうね。

 あわてて新聞や週刊誌をかきあつめて暗記してね。翌日からは大久保清が実際に行ったところで、実景、撮ったり、大久保清役の今泉洋に「通りかかった女に道を尋ねろ」なんて指示して隠し撮りをしたり、もうシナリオなんか無し。ナレーションでつなぎゃいいだろうってことでドキュメントふうにどんどん撮っていったんです。シナリオは撮影が終わってからできた。

 出来上がった映画を見て、面白いなと思ったね。つながりなんか気にしないで撮ってるから、カットとカットの間に飛躍があるんだ。それが新鮮だった。いい経験した、勉強になった。映画ってどうやったって繋がるんだな、と思ったんですよ。

 今回の作品でもそうですね。カメラマンの志賀君(清水正二)が、現場で「この牛乳を飲むシーンは、冷蔵庫を開けて牛乳を取るところからいきますか」って聞くんだよ。「あぁ、いらない。牛乳飲むところからいくよ」と言ったら戸惑ってましたけどね。この映画でも僕は、説明とか雰囲気のカットはなしで、行動を直接にシーン繋ぎしちゃったわけですよ。僕のやり方は、そのシーンの行動、ドラマの行動を直結していく演出なんです。

――本当に大胆に省略されていて、それが映画のリズムになっていたという気がしました。

渡辺 分かんないところから入っても、映画を観てるうちに「あぁ、そうだったのか」と気付かせるのも、ドラマを見せる一つの手ですからね。それはちゃんと計算してます。このドラマの流れも、浮気相手にヒロインが言う「さよなら」に絞りました。死んだ旦那と完全におあいこになった、裏切りっこしたんだということですよね。あそこのところでお客さんが納得してくれるという演出はしてるんですよ。

 

――脚本に書かれていることでも、監督の判断で省略してるところは結構あるんですか。

渡辺 脚本をそのまま画にしたらちっとも面白くない、こういう風に撮らないと面白くないっていうことは、どんな映画でもあります。よく説明カットを丁寧に撮る監督さんがいるけれども、説明カットの省略も演出としては大事なんです。

井川 こうやって渡辺さんの話を聞いてると、職人だからスイスイ撮ってるような印象になってるけど、これがまったく嘘なんです(笑)。実際はむちゃくちゃ悩んでいる。カット割りなんか、クランクイン前に「間違ってた」と言って少なくとも二度はやり直していたはずです。しかも、撮影現場では、事前に考えてきたカット割りさえも捨てて、もっといい表現はないかと悪あがきしている。

 僕は五日間の撮影のうち、後半の三日、撮影現場を見に行ったんですが、「井川、撮影終わってから、ちょっとうちに来てくれ」って言うんですよ。「明日、撮る分をもう一回整理しなおして、ちょっと尺のことも含めて相談したいんだ」と。結局、撮影が終わった後、渡辺さんの家に行って、シナリオの直しをやらされるんですね。「井川、こういう風なのはできないか?」「だったら、こうしてみましょうか」「それいいな。じゃあ、ちょっと書いてみてくれ」って言われて書きだすと、「おまえメシ食ってないだろ、おれ、チヂミ作るから」って(笑)。で、チヂミ作って持ってきて、「おまえ何やってんだよ。そんなとこでチマチマ字ぃ書いて」とか言うわけです。あんたが言うから直してんだよ!って思いましたけどね(笑)。

 だから、スイスイはやってないんです。いつも必死で一生懸命考えてるんですよね。僕はそれを見て、映画を200本撮っても結局は悩むんだなぁと思って、自分がスイスイ行く日はもう来ないと諦めましたけどね。

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――この映画のトップシーンで、夫の遺影を見ていたヒロインが足を痺れさせて転ぶという描写がありますよね。短い描写のなかに悲しみとおかしみが同居していて面白いと思いました。全体的に見ても、ヒロインに関する部分は比較的シリアスですが、浮気相手の男性の夫婦は終始コミカルに描写されています。その辺りの匙加減というかバランスはあらかじめ計算していたんでしょうか。

渡辺 井川君が「淡島さんが泣いてるところをトップカットにするとは思わなかった」と言ったんだけど、泣いてる顔っていうのは客観的に見たら、おかしな顔だったりするじゃないですか。始めから画面に泣く顔が出てきたら、お客さんも用意がない。だから最初にバーンと、泣いてるおかしな顔を撮りたかったんですよ。そして、ドッコイショって立ち上がったらバターン!と転ぶ。そういう撮り方がね、演出でお客を引っ張っていけるかどうかってことなんです。でもね、『いとはん物語』の、一番最初の京マチ子のアップを見て反省したよ。『喪服の未亡人』では、もっと大胆に淡島君を撮らなきゃいけなかった。アングルを工夫して撮ればよかったと思いましたねえ。

――亡くなった旦那と浮気していた相手とおぼしき女性(結城リナ)とヒロインがマンションですれ違うシーンがありますけど、あそこは現実として撮ってるんでしょうか。それとも幻想のシーンとして撮っているんでしょうか。

渡辺 あそこはヒロインの妄想としてのカット割りでいこうと考えてました。彼女は亭主に対して腹を立てているから、どの女を見ても浮気した相手だと思うような状態なんですね。だから、あそこですれ違う女性は「妄想の女」です。映画っていうのは、オーソドックスにやるよりも、そういうことをしたほうが面白いじゃないですか。井川君は大和屋(竺)さんの弟子だから、いつも妄想と現実をカットバックしたがるんだよね。だから、その脚本に応えただけなんです。

――井川さんにお伺いしたいんですが、渡辺さんに最も身近な観客として、今回の映画をどうご覧になりましたか。

井川 渡辺さんは200本ぐらい映画を撮ってますから、その中にはいろんなジャンルがあります。だから渡辺護の作風はこうだと一概には言えないんですけど、基本的なトーンがあって、それは「幸せな時は過ぎ去ってしまった」という悲しさだと思うんですね。たとえば、『紅蓮華』(93)のような作品でもそうです。役所広司が演じた男は原作に数ページしか登場しないひとなんですよ。その男が渡辺護作品独特の悲しみを背負って、実質的な主人公になってしまっている。で、「幸せな時は過ぎ去ってしまった」という感情を表現するのに都合がいいのが復讐の話なんですね。要するに、幸せな時を奪ったやつは誰だ、許せないという話をやると渡辺さんも乗ってくる。デビュー作『あばずれ』(64)という作品は観たことがないけど、『五瓣の椿』(64)のイタダキだと言いますし、『少女縄化粧』(79)とか『聖少女縛り』(79)とか、僕が学生の時に観ていたピンク映画もやっぱり復讐ものだったんですね。だから、僕としては今回もどこかで復讐みたいな話をやりたいんだろうと。ただ、復讐の相手がいなくなったら笑えるんじゃないのかなということだったんですけれども。

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渡辺 だけど僕の場合は、このドラマで何を言おうとか、意図、テーマっていうのはあんまり考えないんですよ。やっぱりねぇ、これがテーマだ、これが狙いだ、なんて構えたらつまんなくなっちゃうような気がするんです。人間ていうのは面白くておかしい存在じゃないですか。わけのわからない動物でしょう。だからあんまりテーマや意図で映画は撮れないと思う。井川さんはマジメで几帳面な人だから不満もあるでしょうけど(笑)、やっぱりおれは長いこと繰り返して生きてきたんで、いろいろ笑ったり泣いたりしたことを思い起こして現場でパッとひらめいたことを大事にします。

――渡辺監督の映画のなかには今の日本映画が忘れがちなことが残ってると思うんですね。たとえば、カットを細かく割ってどんどん省略していくとか、演技もリアリティにこだわりすぎずに、時には型の芝居をさせることによって面白みを引き出すとか。今の映画をご覧になって何か思うこととかありますか。

渡辺 おれはこの歳になって結構、観てるほうですよ。このあいだ瀬々君の『フライング☆ラビッツ』を観ましたけど、それはやっぱり演出がしっかりしてました。ただ、若い人の映画はみんな下手くそですね。やっぱり映画は客観カットと主観カットの組み合わせの基本みたいなことがあると思うんですよ。

 やっぱり溝口(健二)さんとか小津(安二郎)さんは、客観と主観が同時進行で撮られていて、客観カットだけ、テーマだけで撮ったら映画じゃないと思うんだよね。溝口さんが客観のワンシーンワンカットで撮るのは、ワンカットでいこうというのが狙いじゃないんだよ。芝居の流れが良ければカットを割らないってことで、結果的にワンシーンワンカットになってるんですよね。だから、長回しをする演出力もないのに長回しをしてる映画なんていうのは商品にならないと思う。

――長回しのなかに主観も客観も入っていなければいけないと。

渡辺 そうですね。僕にはできないけど、小津さんの『晩春』(49)のなかで娘が結婚して父親(笠智衆)が一人になった時に、リンゴを剥くシーンがあるんですよ。で、笠智衆がリンゴを剥きながら泣くわけですけど、それを背中のほうからポンと引いて撮りますよね。これは客観カットじゃない、主観カットなんです。悲しみを表してるわけですから。

 溝口さんの場合はクレーンをやたらと使うから、ちょっと事情は違いますけど、やっぱりカット割りを考えてないですよ。あくまでも芝居を追っていった結果でワンシーンワンカットになってる。『残菊物語』(39)の中に12分の移動カットがあるんですけど、子供を抱いた女が歩いていく芝居を追いながら、風鈴を買うところのやり取りとか通行人の往来とかをすべてワンカットで撮ってる。それはものすごくいいんです。そういうものを感じさせる映画というのは今の若い人の映画にはないねぇ。

――その場面の状況をきちんと伝えつつ、人物の感情も観客に伝わるような長回しじゃなければいけないということですか。

渡辺 そうです。だから客観カットというのは、フルショットで人物を撮りながら、間合いですかね、喋ってる時に考え込む、それから歩きだすとか、そういうことが完璧に演出されてなくちゃいけない。それをしないで説明に終始してる長回しなんていうのは話にならないですよ。それで意図がはっきり出てたでしょう、なんて言うのは映画として面白くないわね。だから、やっぱり客観カットにどう主観を織り交ぜるのかっていうことはきちんと考えてもらいたいと思う。だから、あくまでも役者の芝居を見てね、もう持たないと思ったらアップに入ればいいんですよ。なにもワンカットでやると最初から決めて撮ることはない。

 僕は昔、東京興映というところで山本晋也とよく一緒に映画を撮ってたんだけれども、あいつは元々、岩波で羽仁進の助監督をやってたんですよ。それであいつが「映画的に」と言いながら撮ってるんだけど、どうしてもおれの考える「映画的」と違う。で、ふと気が付いたのは、山本晋也の映画はアップが入っていても客観なんだよ。たとえば、男と女が景色のいいところを歩いていて、男が「僕は君が好きだ!」と言って、女が「私も!」って言ったら、あいつのラブシーンは終わっちゃう。そこに主観が入ってこないんだ。山本晋也は客観カットの撮り方はものすごくうまかったから、僕も影響されましたけどね。

――そろそろ時間なので、最後に一言お願いします。

渡辺 また来年、撮ります。井川君のホンで、もう出来上がってるんですけどね。その時は今回の失敗を反省して、これはピンクですか?!と言われるぐらいの傑作にしようと思ってます。今回の映画以上のものにしないと、骨壷に入れないんで(笑)、がんばります。

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(2008年11月26日 乃木坂COREDOにて)

注1:『喪服の未亡人 ほしいの…』のあらすじなどは下記のURLで読むことができます。

PG-Web-Site 

http://www2u.biglobe.ne.jp/~p-g/data/2008/080304/080425hoshiino.htm

注2:『喪服の未亡人 ほしいの…』については、下記のURLにも監督インタビューが掲載されています。

プロジェクトINAZUMAブログ

2008年6月6日「渡辺護、『喪服の未亡人 ほしいの…』について語る」 

http://d.hatena.ne.jp/inazuma2006/20080606/p2

注3:渡辺護監督が主観カット・客観カットについて語ったインタビューは下記のURLにも掲載されています。

プロジェクトINAZUMAブログ

2008年11月16日「渡辺護の映画論『主観カット/客観カット』(1)(2)」

http://d.hatena.ne.jp/inazuma2006/20081116

2008年11月16日「渡辺護の映画論『主観カット/客観カット』(3)(4)」

http://d.hatena.ne.jp/inazuma2006/20081120

日本映画監督協会「あなたの台本、見せて下さい」

http://www.dgj.or.jp/japanese/daihon/11_watanabe.html

『喪服の未亡人 ほしいの…』

監督:渡辺護 

脚本:井川耕一郎 企画:朝倉大介深町章 撮影:清水正二 編集:酒井正次

出演:淡島小鞠、岡田智宏、倖田李梨、結城リナ西岡秀記川瀬陽太

(2008年/62分)