映画芸術

脚本家荒井晴彦が編集発行人を務める季刊の映画雑誌。1月、4月、7月、10月に発行。2016年に創刊70周年を迎えました!書店、映画館、Amazon、Fujisanほかにて発売中。

試写室だより『ノン子36歳(家事手伝い)』 <br>鉄の鎧が脱げるまで <br> 深田晃司(映画監督)

 丘の上のキ○ガイ学校。

 これは、現在の日本映画界を支える多くの才能を輩出(排出?)している大阪芸術大学に、地元の人々が与えた呼称であるらしい。

 この話を僕にしたのは、やはり大阪芸大出身の友人H氏であったと思う。例えば、大学に近づくにつれ景色の中に「宇宙服」や「ゴレンジャー」など、あからさまに間違った格好の人間が増えていくことがそう呼ばれる一因らしいが、聞くとこれはまだかわいいもので、ある年、某女子大の文化祭で行われた「ファッションショウ」に出た芸大生の男子が、これが俺のファッションだと全裸で舞台を進み裁判沙汰にまでなった話など、ここまで来ると狂気の匂い香ばしい。

 それを話しているH氏自身も、上京後に住所不定の放浪生活を送りながら、主演俳優の6畳アパートから家具を全て追い出してロケセットに改造し、2年以上の歳月を掛けて宇宙船が舞台のSF活劇映画を撮りあげてしまったのだから、至極納得である。

 とにかく、大阪芸大出身者にしばしば見られる、映画を作ることへの貪欲なエネルギーには驚くばかりである。映画業界の傍でその匂いに酔いながら、モラトリアムの殻にこもっている東京の一部映画青年たちはその覚悟を見習うべきではないかと、自戒を込めて思えてくる。

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(C)『ノン子36歳(家事手伝い)』Film Partners

 閑話休題、そんな大阪芸大の名を日本映画界に知らしめたパイオニアはやはり、新作『ノン子36歳(家事手伝い)』(それにしても野心的なタイトルである)を発表したばかりの熊切和嘉監督であろう。

 卒業制作作品でありながらベルリン国際映画祭招待、タオルミナ国際映画祭グランプリなど華々しい注目を集めたデビュー作『鬼畜大宴会』は、冒頭から男の尻(無修正)が性欲処理のピストン運動をスクリーンへと刻みつけていく、「キチ○イ学校」の名に恥じない怪作であった。

 低予算でも妥協のない映画作りへの執念と合わせ、その迫力にさすが大阪芸大と僕は素直に感心してしまったのであるが、しかし熊切監督は周囲の期待をよそに、受賞後第一作『空の穴』では一転、前作の狂気の宴とは裏腹の淡い恋愛劇を材に上げ、驚かせた。最新作もまた、『空の穴』の系譜を継いだ一編と言えるのではないだろうか。そこには、『鬼畜大宴会』の狂騒から遠く離れて、しかしその宴で死に切れずに生き残ってしまったような人々の、浮世にあえぐ姿が描かれているのである。

 アイドル稼業にも結婚にも失敗して田舎に出戻ってきたノン子(坂井真紀)は、実家で家事手伝い(と言っても働く姿はほとんど出てこない)としてその日暮らしを決め込んでいる。そんなある日、ノン子の実家である神社の境内で行われる祭りで屋台を開きたいと現れた、ひよこのような青年マサル星野源)との出会いが、彼女の何かを変えていく。

 ノン子と青年の最初の遭遇は、奥行きある空間処理を持って確かな手裁きで描かれる。画面の奥で何事かを準備する青年にブルーシートを大胆に引きずらせる一瞬のささやかな演出がスクリーンにアクションを呼び込み、映像に対する熊切監督の確かな嗅覚を感じさせてくれる。

 一方で、祭りへと向かう地方の風景やかわいらしいひよこたちなどが、巧みな按配で映画の端々に配され目を楽しませるが、それ故に次第に不満が募ってくる。どうも、その練り込まれ方は映画の2時間弱が「様になる」よう、作り手の脊髄反射的な義務感が添えさせた小細工以上のものではない気がしてくるのだ。

 東京での挫折や諦めきれない夢、しかし今は家事手伝いに甘んじていることへのノン子の葛藤なども、紋切り型な書き割りとしてしか機能していない。輪を掛けるようにその鬱屈は、例えば自転車に乗りながら看板を蹴り倒すなど、記号的、というよりは大雑把なアクションによって示され、彼女が抱えている(かもしれない)深刻なる心の襞にまで想像力を広げるのを阻害する。なぜそんなお手軽な演出でヒロインの葛藤を戯画化しようとするのか、どうにも作家が楽な道を選んでしまっているように見えてしまうのである。

 ラスト近く、それまでおとなしかったひよこ青年マサルがいきなり暴力的に祭を破壊する場面など、その行動の唐突さこそ際立つが、そこにごろりとした暴力性が突出して伝わってくることはない。どこか、物語の要請から場面転換のために派手な大立ち回りを取らされているように見えてしまうのだ。

 考えてみたら『鬼畜大宴会』で描かれた狂気と殺戮は、現代の神話とも言うべき連合赤軍を材に取っている時点で、忠臣蔵の討ち入りよろしく、これ以上ないぐらい予定調和的な狂気であったはずだ。それにも関わらず、そこには粗削りではあるものの、人が狂気の渦にのまれていく確かな手触りがあった。それは、物語よりも狂気そのものが描写されるべき対象として優位にあったからではないだろうか。

 観客を飽きさせないための努力(それは観客という曖昧模糊とした存在への得体の知れない不安感でもある)が、いつしか息継ぎのような細部の充実と分かりやすく記号的なアクションに費やされ、それぞれの映画が持っているはずの本質的なモチーフを見えにくくしてしまうという問題は、何も本作に限ったことではなく、日本映画の製作状況が抱える構造的な閉塞感の現れであるように思う。

 ところで、僕の見ていない数多くの超有名映画のひとつにダスティン・ホフマンの『卒業』がある。特に何か理由があって見なかったのではなく、ただなんとなく見逃したまま今日に至っているのであるが、それでもダスティン・ホフマンがヒロインを結婚式場から奪っていく有名なラストシーンぐらいは知っている。あるとき、あのラストシーンはハッピーエンドではない、という評論を目にしたことがある。結婚式場から逃げ去った二人は最初のうちは高揚し笑い合うが、やがて自分たちのしでかしたことの大きさと未来を思い、段々と笑顔が凍りついて映画が終わるのだ、と。その解釈の真偽のほどは分からないし、実際にそういう場面なのかどうかも知らないが、僕はその評論を読んだときに素晴らしく映画的なラストシーンだと思った。もう本編を見る必要がない気さえしたぐらいである。

 そして、『ノン子36歳』にもまたそのような瞬間があり、少なくともその場面において素晴らしい演出だと感じた。何かが決定的に変化してしまう瞬間(それはまさに映画的である)がそこには描かれていたからだ。その場面がどこかは実際に映画を見て確かめて欲しいと思うが、僕はその場面ひとつでコロリとご機嫌になってしまったのだから、映画は油断できない。

 最後に、ノン子を演じる坂井真紀について触れておきたい。不機嫌さを全面に押し出したその演技は、まるで鉄の鎧をまとっているかのような印象を与える。それは悪く言えば状況に対応する可変性を欠いているようにも取れる鈍重な芝居である。しかし、全体を見通した後で振り返ってみると、この映画はまさに坂井真紀の鉄の鎧が少しづつ脱がされていく過程をこそ描いた映画であったことに気づかされる。ラストのノン子の表情はまさに鎧を脱いで軽やかになった裸の笑顔であった。

『ノン子36歳(家事手伝い)』

監督:熊切和嘉

出演:坂井真紀、星野源鶴見辰吾ほか

配給:ゼアリズエンタープライズ

12月20日より、銀座シネパトス、ヒューマントラストシネマ文化村通り(旧シネ・アミューズ)、千葉劇場にて公開

公式サイト http://nonko36.jp