映画芸術

脚本家荒井晴彦が編集発行人を務める季刊の映画雑誌。1月、4月、7月、10月に発行。2016年に創刊70周年を迎えました!書店、映画館、Amazon、Fujisanほかにて発売中。

『ゲゲゲの女房』<br>鈴木卓爾(監督)インタビュー

 漫画家水木しげるさんの妻、武良布枝さんによる自伝的エッセイ「ゲゲゲの女房」の映画版を監督したのは、俳優としても活躍する一方、ドラマ「中学生日記」や映画『のんちゃんのり弁』(09)などの脚本を書き、『私は猫ストーカー』(09)の監督もつとめた鈴木卓爾さんです。NHKのドラマで広く知られるようになった「ゲゲゲの女房」ですが、映画版では昭和36年と現代、此岸と彼岸を自在に往来する独特の世界観のなかで、武良夫妻の営みが抑制の効いた演出で淡々と力強く語られていきます。現実の模写に近い作風が大勢を占める日本映画の中で異彩を放つ本作に、監督が込めた思いを訊いてみました。

(取材・構成:平澤竹識 構成協力:春日洋一郎)

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――今回、主演のお二人がとてもハマっていたと思うんですが、どうして吹石(一恵)さんと宮藤(官九郎)さんだったんでしょうか。

 原作を読んで、最初に布枝さん役として浮かんだのが吹石さんでした。僕は高野文子さんという漫画家が好きなんですけど、高野さんの「るきさん」のとぼけた感じを実写でやるなら吹石さんだと以前から思ってたんですね。昔、吹石さんと飲んでカラオケに行ったことがあって、僕がみんなに灰皿を配ってたら、「ママみたい!」と突っ込みを入れてきたり、そういうところをちゃんと見ていてくれる。それに、すごく陽気な感じが好ましい人だなと思ったんです。一見たくましい感じがるきさんみたいだし、あるキャラクタライズされた形に彼女を嵌めて、彼女の身体性で演じてもらうみたいなことが、そのときに夢として生まれたんだと思います。それで「ゲゲゲの女房」の話をいただいて、なんとなく漫画が被さるような夫婦なんだなという出発点があったときに、生々しい人がやるよりも吹石さんみたいな人がやるほうが映画を通訳できると思ったんですね。それが入り口でした。

――宮藤さんに関しては?

 最初は水木さんが漫画に描かれる自伝のキャラクターの少しぽっちゃりした感じの人を探してたんですね。でも、越川プロデューサーがある日、「大人計画」に電話して「宮藤君をどうか」って訊いたんですよ。「なんでそんな勝手なことをするんだ!?」と思いながらも、よく考えてみたら灯台下暗しだったんですよね。宮藤さんは個人的にもお会いしたことがあるし、街で偶然見かけたりもしていて、いつも何か荷物を背負ってる感じとか、フラ~ッと正体不明な感じとか、これは存外に水木さんが合うんじゃないかなと思って。メイクのときに初めて髪の毛を刈り上げの天然パーマにして、眼鏡を掛けてもらったら、本当に水木さんに見えて「これはいけるな」という感じがありました。

 もともと宮藤官九郎さんて「大人計画」の舞台でも、パンクロッカーでありながらとぼけてるという感じの人だったので、「グループ魂」を始めるもっと前の「大人計画」の時から「こういう役者さん、好きだな」と思ってたんですよ。『愛の新世界』(94/高橋伴明監督)に「大人計画」の役者さんが大勢出てるんですけど、演劇青年の苦悩が滲み出た宮藤さんの侘しくていいショットがあって、その宮藤さんはとても印象に残ってました。

 ただ考えてみると、僕が矢口(史靖)監督の『裸足のピクニック』(93)に参加したときから、「大人計画」の役者さんに出てもらったりしてたんですよね。阿部(サダヲ)君とは市川準監督の『トキワ荘の青春』(96)で藤子不二雄の役を一緒にやった経緯があったり、『パルコ フィクション』(02/矢口史靖鈴木卓爾監督)のときは荒川良々さんに出ていただいたり、僕の歴史の中で何かの折りには「大人計画」との関わりが独特にあって、当たり前ではないんですね。彼らの眼差しの注ぎ方というのは今もどこかアウトサイダー的だし、「やっぱりパンクだよね」って言い合えるような人が水木しげるさんを演じることにすごくときめいて。そういうことが大きかったですね。

――脇の方も『私は猫ストーカー』から一貫して出ている俳優さんが多いですね。それは鈴木さんのキャスティングに対するこだわりなんでしょうか。

 そうですね。企画プロデューサー(越川道夫)が素晴らしくて、いつもワンピースで出演してもらってる寺十吾(じつなしさとる)さんや唯野未歩子さんのような方を、要所に置くのを勧めてくれたんです。『猫ストーカー』に出てる人で言うと、宮﨑将さんとか坂井真紀さんとか徳井優さん。スタッフもほとんど『猫ストーカー』と同じ人たちだったし、今回の美術は「コワイ女-鋼-」で一緒にやった古積(弘二)さんだし、第二弾みたいな感じで現場を立ち上げられたのは幸せでした。

 前回よりも先へ行くには同じメンバーのほうがいいし、今回は前のものを超えていこうという意識がみんな強すぎるぐらい強かったんです。だからそれだけ大変でもありましたかね。撮影が終わってからも、夢の中で『ゲゲゲ~』をずっと撮影してましたもんね。存在しないシーンをずっと撮ってたんです(笑)。

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――『猫ストーカー』は半ばドキュメンタリー的な部分があって、路地裏の猫たちを手持ちカメラで臨機応変に撮っていくような形でしたけど、今回はカメラを据えて画面をきっちり作られている印象がありました。

 『猫ストーカー』のときは、どうなるか分からない対象に向かっていかなきゃいけない。不確定要素が多いと現場は集中するんですよね。たぶんそういう仕掛けが、それはそれで良かったんだと思います。『ゲゲゲ~』の場合は、妖怪も時代の背景も全部自分たちで作らなきゃいけない。それが簡単ではなかったし、乗り越えるハードルがより高かったですね。方言だったり、昭和36年という時代だったり……、その昭和36年昭和36年に見えない時空を越えたところ、これをどういう風に世界観として扱ったらいいかというところで、みんなで悩みましたよね。それで、たむらさんが選択した撮影が、ああいう腰を据えた方向になっていきましたね。今回は、ある意識を持ったまなざしが画面を視点化してるようなものになったと思います。お客さんが妖怪になって、天井の隅から家にいる二人の女と男を見守っているような。映画のルックは全然前作と違うんですけど、使用してるカメラは実は同じ機種なんですよ。

――妖怪が人間と同じように出てきたり、現代の風景をバックに出すというのは、最初の段階からイメージとしてあったんですか。

 妖怪をどう見せるかというのは、みんなとよく話したんだけど、そのうちにポッと出しで、隅っこにいたりするという今の形になったんです。それは衣装合わせの辺りでだんだん決まっていきました。

 昭和30年代の東京の街をどう撮るかというのは、予算の都合が決まってから初めて出てきた問題でした。今回の予算は、猫ストーカーよりは多いけど、時代物をやるには全然足りないもんですから、市川準監督の『トニー滝谷』(05)の抽象性のあるフィクションの撮り方や、『トキワ荘の青春』のロケセットやオープンセットの扱い方などを参考に見たりして、色々悩みました。『トニー滝谷』は、高台に壁のないセットを組んで、望遠(レンズ)でいろんな角度から狙ってるんで、実はワンステージで全部撮ってるんですよ。そういう工夫をしないと、この映画はもたないし撮れないと越川プロデューサーが主張していて、「確かにそうだよな」というところから僕らの模索が始まっていって。結果は望遠でもないし、抽象化するというよりは、どちらかというとフィクションの屋台骨が見えるような感じになりました。武良夫妻の住む昭和36年の家のある一帯から川を越えたら、ポンと時空を飛び越えているという。外部から川を越え祠を通過して帰って来ると、そこに茂さんと布枝さんの時間と空間があるわけです。だから、あの橋と川が境界なんですよ。

――昭和36年の世界に現代の風景が入ることで、あの時代が相対化されてますよね。戦後の貧しい時代を必死で生きている人たちの背後に、発展を遂げた数十年後の風景が見えてるというのが皮肉に映りました。

 色々悩んだ結果のある種の解釈なんだけど、東京駅や調布駅のポンと開けた視点がね、「抜けた」という感じがするんです。まさに今言われたように、動き続けてる街が彼女らにとっての外部の世界だと思ったんですね。それが一向にとどまることを知らない変化し続けているものであるならば、昭和36年の新宿も、今の新宿も、ベクトルとしては変わらない。それなら、現代の風景に、布枝さんや茂さんが放り出された瞬間が、映画のなかにヌッと現れることで、「ゲゲゲの女房」という貧乏暮らしの話を、今、映画にするということもすんなり通じるような気がしました。「私達を取り巻く状況は何も変わってないんですよ」ということをすごく思ってるので。面白かったのは、現代の高層マンションを背景に坂井真紀さんが布枝さんに言う「今はもう、そういう時代じゃないけんね」という言葉がすごく皮肉に聞こえる。いつだって「もうそういう時代じゃないよ」ってみんな言うんだけど、幸せになるかどうかは個人の問題でしかなくて、時代から与えられる幸せなんて一つもないんですよね。

 水木しげるさんが描く漫画世界もよく時空を飛び越えていますし、喫茶店でコーヒーを飲んでるのが妖怪だったりして。そういうちぐはぐな神出鬼没な、水木しげるの漫画っぽさを、映画に反映させたいというのは最初から思ってたことでした。一方に「目には見えない」妖怪と共存してるような世界があって、川を挟んで、もう一方に外側の世界がある。

――撮影の話になりますが、この映画では俯瞰ショットが二カ所で印象的に使われてますよね。

 あれは現場でびっくりしました。たむらさん、どこから撮るのかなと思ったら、天井からカメラを据えてたんで。たむらまさきのカメラって『猫ストーカー』でも『ゲゲゲの女房』でも眼差しを強く感じるんですよ。突き放すでもなく暑苦しくもなく見守ってるような距離感があるんです。そこにすごく他者を感じるんだけど、だからといって作為的でもなく、ただ「見る」ということに素直なんですよね。あれは鴨居の上に時計があるんだけど、そこから何かがあの夫婦を視てるんですよね。

――その後に墓場で俯瞰に入ると、茂が戦場で腕を失った場面になって、そこで時空を飛び越える。「天の眼」じゃないですけど、俯瞰に入ることの一貫性が感じられて面白いなと思いました。

 恐ろしいですよね、たむらまさきカメラ。

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――この映画には妖怪も出てくるし、現代の風景も映り込んでるし、アニメーションまで入ってきたりするじゃないですか。でも不思議だったのは、全体としてとっちらかってる感じがしなかったんですね。

 この映画の心棒という風に考えてるのは、布枝さんの眼差しなんですよ。布枝さんが何を見てるのか、それがまなざしの先に起こることの選択になっています。布枝さんの視線の先に漫画が動き出したり、橋があったり、東京駅があったりするんだと思います。一瞬だけ茂さんの視点になるところがあるんだけど、基本的に布枝さんの視点で進めようというのは台本のときからはっきりしていた。でも、その布枝さんをまた誰かのまなざしが見ているようだ、というのは撮影で生まれた視点だったようです。布枝さんの「主観」に限りなく近いけど、視線の主である布枝さんも、誰かのまなざしで客体化されているんじゃないでしょうか。幻視を糧として絵を描いている旦那さんに嫁いだ女の人の目から見た世界なんで、そういったことになったんでしょうね。

――それと、僕がいいなと思ったのは初めの夜の場面なんです。片腕のない茂が「背中を流してください」と言って風呂場に誘った後、布枝が靴下を脱ぐ生々しいアップがあって、未明に布団から出た布枝が帯を拾うカットへ繋がる。あそこは行間のある素晴らしい繋ぎだと思ったんですが、これで観客に分かるかなという不安はありませんでしたか。

 お見合いして、結婚して、すぐ家に来て、何から始めるんだろう、ごはんはどの段階で作り始めるのかなとか、家での最初の一日はシナリオでいろいろ脚本の大石三知子さんと悩みました。今の人みたいに恋愛から入っていってないし、デートもしてないし、そこを本当に二人きりで築いていく。ちょっと想像を越えているなと思いました。でも、そこはちゃんと描きつつ、慎ましくやりたいものだなと思ったんです。

 茂が「背中を流してください」と言うところで良かったのは、茂の母親のイカルさん(南果歩)があそこに現れて、二人のやりとりを見てるんですよね。あのときの果歩さんの俯きがとてもいいんですよ。あれは果歩さんが自然に反射してくださってるんですけど、あの俯きに慎みがあるんですよね。あそこにフッと「新郎の母」が出る。

 イカルさんは最初のシナリオでは披露宴のシーンもあったし、お見合いのシーンもあったんです。島根や出雲のシーンの割合が今よりずっと多かった時期のシナリオでは、あの台詞は全て披露宴で白無垢姿の布枝さんにイカルさんが言ってる言葉なんです。けど、その場面をシナリオからカットしてしまった。長かったんですよね、東京にさっさと来たかったので。「じゃあ、茂と布枝の新居に妖怪として現れることにしていいか」と言ったら、みんなが「いいよ」って言うから、それでなぜかイカルさんが調布の武良家に現れるって、変更したんですね。

――状況論になってしまうんですけど、変なことをしてる日本映画ってどんどんなくなってきてると思うんですね。それでこの映画を見たときに、「映画ってこういうことをやっていいんだよな」と思ったんです。

 今、観客も作るほうも物語のリアリズムに対して真面目ですよね。保守化傾向にあるというか。そうすると、映画を見たときの判断基準がストーリー性とかテーマ性に集まっていく。もちろん、ストーリーを借りて二時間とかの映画が作られるので、ストーリーはそれで大事なんですけど、物語はシナリオに書かれてるから、撮影ではそれをいかにして「映画」にしていったらいいのかという、腑分けの作業が不可欠です。撮影はそれが全てと言ってもいいかもしれないですね。台詞を喋ってる人の顔だけ撮って繋いで、状況説明のためのルーズショットを嵌めていってって、そういう思考で映画になるかというと、そうでもないわけですよね。シナリオの映像翻訳だけやってたら、映画の見方をみんな忘れちゃうのは当たり前ですよね。昨今みたいに、予算を映画に多くかけられない、現状の中小級クラスの日本映画のポテンシャルは、逆に攻撃的なアプローチに出られるチャンスでもあるんじゃないかと思います。だから本当に、もうちょっと変な映画を見て、映画で驚くことを楽しんでほしい……、いや、偉そうなこと言いましたね、今(笑)。映画が楽しいのは何が起きるか分からないところだと思うし、もっと自由に摩訶不思議なことが起きればいいと、僕は思います。

――そうなる一因として、システムの抑圧が強くなってるということもあると思うんですが。

 僕たちは今回、予算をどこにかけて、どこを省くかの方法論を現場レベルでやれたんです。それは現場でのプロデューサーが、映画のためを考えて、抑圧を最小限に抑えてくれたこともあったのだと思っています。映画は、どこを見せてどこを見せないかで自ずと姿を決めていくので、作品ごとに、できることを武器にして、製作サイドも現場スタッフも全員で「かまえ」を決めていくのは大事なことだなと思います。そこから作品と向かい合った考え方なども、あぶり出されてきますし。中小級クラスのよいところはフットワークの軽いところだと思っています。全部生真面目に作っていくと、相当辛いんじゃないかな。既成事実化した方法論が、安全な担保としてとりあつかわれているぶん、息苦しくなっているのをみんな感じてるけれど、打破できないでいますよね。

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――アイデアさえあればお金も節約できるし、お金を出す側からの抑圧も受けなくてすむと。たむらまさきさんや菊池信之さんのような人たちと続けてお仕事されているのも、システマティックな思考にとらわれない人たちだということが大きいんでしょうか。

 とらわれないし、引き出しがすごくある。水木さんも言ってますけど、「工夫しなさい」ということですよね。

 最近少しずつ、「映画において、そうじゃなきゃダメってことは一つもない」と言われていることの意味が分かってきました。「切り返し」や「イマジナリーライン」や、「それをやらないと、分かんなくなっちゃうのでは? 不安だ」と昔からよく言うけど、全然分からなくならないと思うんですよ。鈴木清順さんはワンカット目から時空を飛ばしてますよね。カットを変えた瞬間に訪れるものが映画なんだから、カットが変わっても同じ空間のほうが逆におかしいと思ってもいい。それはどんどんやっていったほうが、映画にとって刺激的ですよね。やりすぎたら、戻ればいいわけで。

――最後にちょっと気になったことがあるんですが、前回も今回も主題歌を作られるじゃないですか。それはなぜなんでしょうか。

 『猫ストーカー』のときに音楽の蓮実(重臣)さんから提案されたのがきっかけなんですよ。あの映画は非常に低予算だったので、そこまではこちらからはお願いしにくかった。でも、蓮実さんのほうから「主題歌、作りましょうか」って言ってくれたんですね。

 僕自身、映画の最後に、急にタイアップの「この人、誰?」みたいな人が、映画の中で今まで聴いてこなかったサウンドで歌いだすと興ざめだし、字幕が上がりきるまで映画の余韻に浸りたいもんですね。だったら、インストでもいいから、最後までその映画の音楽家のタッチで聞かせてほしい。映画の余韻と一緒に、お客さんは劇場を出て、町や家に帰るわけですから、作品性の憑衣した手応えのある音楽で送り出したいなと思いますよね。映画の音楽家と主題歌が別の人であっても『ヱヴァンゲリヲン 新劇場版:序』(07/庵野秀明総監督)の宇多田(ヒカル)さんとかは良かったな、ちゃんと「エヴァ」の世界を理解して身体を通している感じがする歌だったから。『私は猫ストーカー』も『ゲゲゲの女房』も、『となりのトトロ』(88/宮崎駿監督)みたいなことがやりたいなと思って、タイトルがさびにくる主題歌を流したかったんですね。それを越川プロデューサーが一緒に楽しんで、背中を押してくれたんです。越川さんとやった、これまでの二つの映画には、僕たちなりの目標があって、それは「映画でのポップ・ソング」を作ることなんですね。そこにはポップな音楽が不可欠で、だから主題歌も必要なんです。

――些細なことかもしれないですけど、そういうこだわりを貫いてる方は少ないですよね。ただ、今回は『猫ストーカー』より出資している会社も多くなっていて予算規模も……

 5倍ぐらい増えているのかしら。

――それでも、とんがっていてすごいと思いました。

 けして多い予算じゃないので、あくまで低予算映画です。でも、こういうかたちで「ゲゲゲの女房」を多くの人が認知してくれているなかで、映画を公開できる状況というのは、それは本当に、NHKの朝ドラでも武良布枝さんの「ゲゲゲの女房」を取り上げてくれたおかげですよね。

 この映画は、武良布枝さんの書かれたエッセイに対してのラブレターなんです。そういう出発点は、浅生ハルミンさんのエッセイを原作に映画化した『私は猫ストーカー』と同じです。原作の行間を読みながら「どんな人なんだろう。どんな二人の生活だったのだろう」という興味から始まって、抽象化した印象の中から、場面を順番に見つけ出していく作業です。そうやって徐々に、映画の世界があたたまっていった。小説を原作にした映画化とは、そこが違うんじゃないかと思っています。

 エッセイを書かれた布枝さんに、映画を見ていただけるようなこと、そのラブレターをみんなにも覗き見ていただきたいなという気持ちで作っていました。ですので、当初はこれほどの規模で公開するということになるとは、思いもしませんでしたね。

――普段変わった映画を見たことのない朝ドラのファンの方がこういう映画を見るってすごくいいことだなと思うんですよ。そのうち何人かは絶対ハマると思います。

 どんな言葉が返ってくるのかすごく楽しみで、そこで映画が全貌を現すと思ってるんですよね。だから非常に僕らは希望を持っているし、楽しみにしています。

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ゲゲゲの女房

監督・共同脚本:鈴木卓爾 脚本:大石三知子 原作:武良布枝

企画・プロデュース:越川道夫 プロデューサー:佐藤正樹

撮影:たむらまさき 照明:平井元 音響:菊池信之 美術:古積弘二

編集:菊井貴繁 装飾:吉村昌悟 衣装:宮本まさ江 音楽:鈴木慶一

出演:吹石一恵 宮藤官九郎 南果歩 坂井真紀 平岩紙 夏原遼

村上淳 柄本佑 徳井優 宮﨑将 鈴木慶一 寺十吾 唯野未歩子

制作プロダクション:スローラーナー 配給:ファントム・フィルム

(2010/ヴィスタ/119分/DTSステレオ)

(C) 2010 水木プロダクション/ 『ゲゲゲの女房』製作委員会

11月20日(土)より、新宿武蔵野館、ヒューマントラストシネマ有楽町ほかにて公開

11月6日(土)より、鳥取県島根県にて先行公開

公式サイト http://www.gegege-eiga.com/

映画『ゲゲゲの女房』予告編