映画芸術

脚本家荒井晴彦が編集発行人を務める季刊の映画雑誌。1月、4月、7月、10月に発行。2016年に創刊70周年を迎えました!書店、映画館、Amazon、Fujisanほかにて発売中。

■試写室だより『君の涙 ドナウに流れ ハンガリー1956』<br>それでも映画は世界の窓なのだ

 ちょうど一年前にハンガリーで大ヒットを記録した『君の涙 ドナウに流れ ハンガリー1956』は、とても複雑な映画だ。先を予想させない筋立てや細部に仕組まれた演出の仕掛けがどうこう、ではなく、見た後の感想に困るという意味で。

 見た後の感想に困る映画とはすなわち、良否・好悪をハッキリ判断しにくい映画だ。判断しにくいものは、話題になりにくい。映画ファンのサイトやブログでも反応が鈍い。性分柄、そういう映画にこそグズグズと何かを言いたくなる。『君の涙~』の場合、文芸調なりアクションなりのトーンが統一されて上手くまとまった秀作よりも屈折が深く、そこに感じるべきものがある。そして、感想に困るタイプの映画のためにこそ「映画芸術DIARY」が存在するのだ……と思うんですけど、どうでしょう。

   

 映画ファンは大体において、共産主義政権下にあった国の民主化運動を描いた映画に弱い。それは無条件に肩入れして見るべきものであり、連帯的、好意的に遇さなければいけない、描かれた史実を真摯に学び取る姿勢で接しないといけない、と無意識に構える。要するに、点が甘くなる。

 一方で映画ファンは大体において、ユーモアとセンスに欠けた単純なアクション映画を嫌う。スタローンやシュワルツネッガーの80年代の主演作なんかを面白かったと言ったりしたら育ちが悪いと思われてしまう、と無意識に構える。要するに、点が辛くなる。

(さらに言うと、荒唐無稽さをシャレとして楽しまないとセンスが悪いと思われるかも、とプレッシャーを感じさせるものに対して大抵の映画ファンは、点が大甘になる。周りのようすを窺ってよく確認してから、グラインドハウス最高!などとやたら大きな声で言い始める。)

 カッコでくくった三行は余計なことだが、本作のどこが複雑かと言うと、史実に基づいたシリアスな民主化運動のドラマと、80年代に一世を風靡した単細胞アクションがあろうことか、堂々と練り合わされているところにある。しかも、その食い合わせの悪さは、安易な思いつきではなく、かなり本気な映画づくりの上での結果なのだ。

 僕たち日本の観客が近年のハンガリー映画と聞いて、やはりすぐ名前が出るのはイシュトヴァン・サボーだろう。つまり、ハンガリーといえば『コンフィデンス/信頼』や『メフィスト』の監督を生んだ国である。1956年のハンガリー動乱(多くの一般市民が参加した反スターリン反政府運動ソ連軍が介入して鎮圧した事件)を内側から描いたという本作に、ドッシリとした見応えを当然のように僕は期待した。しかも、メルボリン五輪大会で水球ハンガリー代表が金メダルを獲得した史実を織り込んでいると知れば、<政治とスポーツ/亡命>というモチーフを得て、さらにニュアンスの深いものが見れそうだぞ、と。

 そういう勝手な先入観は、持つべきではなかった。

 モスクワで、ソ連と衛星国ハンガリー水球の強化試合が行われているところから、映画は始まる。ホームびいきの判定によって惜敗し、ロッカー・ルームでクサる主人公カルチらハンガリー・チーム。するとそこへ数人のソ連選手が現れ、カルチらを見下すように「負けてくやしいか」みたいなことを言って笑う……。

 勝者がわざわざ敗者を挑発しにやって来る。開巻早々のこの展開に、冗談抜きで衝撃を受けた。冒頭のうちにソ連はこの映画の悪役だからね、と観客の意識に刷り込ませて敵意を共有させる、一番確実で、しかし一番ベタで幼稚なシナリオの手だからだ。本宮ひろ志の初期のノウハウを流用し続ける質の低い少年漫画ですら、そう何度も使ったりしない手だ。逆に水島新司サンなら、自分の作ったキャラクターにあんなスポーツマンシップに欠ける真似は絶対に許さないだろう。僕が例えば日本映画学校の講師だとしても、学生がこんな展開のものを作ってきたら間違いなく「若いうちから、人間を筋立てのための道具にしてはダメだよ」と叱っているぞ。(でもPFFに出したら評判が良かったりして。一人で恥を掻いたりして。あり得る……)

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 これと似た露骨な手が以降も堂々と使われつつ、民主化を求めるブダペスト市民と軍の衝突、騒乱の国を離れた水球チームの苦渋の五輪出場が極めて大真面目に描かれるのだ。当時のブダペストで勇気を持って銃をとり、戦った人々を讃え、顕彰したい作り手の気持ちはすごく分かる。多くの人が命を落とした事実には襟を正したくなるし、そういう犠牲によって個人の自由と尊厳を無二の価値とする世界的な常識が培われたことを(その常識のもとで暮らせていることを)、僕たちは改めてよく考えなきゃいけない。

 しかし、讃えるために過剰に英雄的な描写をし、必要以上に悪役を憎たらしく造形してはいけないんじゃないか。そういうプロパガンダは、かえって当事者のみなさんに対して失礼になってしまわないか。チームをいったん離れて市街戦に参加したカルチが、初めて手にとったはずの銃を勇ましく構え、美女学生をかっこよく守る姿には、かつてのアメリカン大味アクションを見ているような既視感を覚えた。あゝ、あの、見ているうちにどんどん頭が悪くなっていく気がする、不安で、妙に懐かしい感じ……。

 試写室でもらった資料に目を通して、一体どういうつもりだったんだろう? と悩まされる不可解な気持ちに、少しハッキリとした答えが出た。

 本作はハンガリー映画だが、プロデューサーはアンドリュー・G・ヴァイナ。『ランボー』のシリーズ三作や『トータル・リコール』『ターミネーター3』などを製作してハリウッドに地位を築いた人。脚本クレジットのトップに名前が出るジョー・エスターハスは、どこかで聞いたと思ったら、『氷の微笑』で三百万ドルの脚本料を稼いだと失笑と羨望交じりで話題になった人。

 この布陣をつかまえて、まるで一昔前のハリウッド大作みたい、とわざわざ批判するのは筋違いというか、こっけいな所業なのだった。抜擢された三十代の女性監督(僕と同い年)は、むしろマッチョなプロパガンダ活劇になり過ぎないよう、かなり現場で健闘していると評価すべきかもしれない。

 アンドリュー・G・ヴァイナは12歳だった1956年、まさに動乱の時に家族の決定でハンガリーを離れたのだそうだ。映画を通して、共産主義体制が<半革命的な暴動>と切り捨てた市民の武力蜂起を、<自由を求めた革命>として世界に伝え直すことが宿願だったそうだ。

 そう、この映画が抱えている複雑さは、祖国に錦を飾った越境者が証し立てなければいけないと考える強い愛国心と、アメリカで財を作るために掴み取り、身に染み付いた娯楽映画のビジネス・パターンが、ないまぜになったところにある。

 ヴァイナ氏にとっては、あの時ブダペストに残って戦った人々は全て、神聖でアンタッチャブルなヒーローなのだ。なかには慌ててズルく立ち回った人やへっぴり腰の人もいたよ、とシニカルな喜劇仕立てで描いたりすることは、ヴァイナ氏には絶対に許されないことなのだ。

 愛好者をきっと満足させる迫力ある市街戦の描写に、キレが良くて痛快な水球の試合シーンに、凛々しい美男美女の恋愛に、プロデューサーの人生の陰影が反映されている。見ている最中はなんじゃこりゃと思ったわけだけど、世界には、こういう風に仕上がらざるを得ない映画があり、仕上げざるを得ない越境映画人の人生があるのだ。勉強になります。

 最後に、マイ知ったかぶり知識を一つ。戦前のハンガリーにも政変によってイギリスに亡命し、大成功することになった映画人がいる。アレクサンダー・コルダ。プロデューサーとしての代表作に『生きるべきか死ぬべきか』『第三の男』などが挙げられる人だ。

text by 若木康輔(放送ライター)

『君の涙 ドナウに流れ ハンガリー1956』

英題:CHILDREN OF GLORY

2006年ハンガリー

製作:アンドリュー・G・ヴァイナ

監督:クリスティナ・ゴダ

脚本:ジョー・エスターハス エーヴァ・ガールドシュ ゲーザ・ベレメーニ レーカ・ディヴィニ

撮影:ブダ・グヤーシュ

音楽:ニック・グレニー=スミス

出演:イヴァーン・フェニェー カタ・ドボー シャーンドル・チャーニ

配給:シネカノン

http://www.hungary1956-movie.com/

11月17日~ シネカノン有楽町2丁目ほか全国順次ロードショー