この映画は不思議なムードを持った映画です。
簡単に言ってしまえば、韓国でヒットしたいわゆる韓流の<泣ける映画>のタイ映画におけるリメイク作品でしょう。
それをTVの女性ディレクターが監督している……。
とくれば、日本ではもはやお馴染みの、昨今では邦画バブルのメインストリームを闊歩するようにすらなってきた、TV屋さんの泣ける映画のタイ版、ということにも端的にはなるでしょう。
しかしタイ映画では日本と違って未だにこの手の映画は珍しいようで、アクション映画やホラーが主流という状況があるからか、またはTV出身の監督といってもお国柄によって違うのか、あまり日本のTV屋監督のような、ひたすらわかりやすく見せるために、もはや恥も外聞もないほど臆面もないことを堂々とやってしまい、挙句、観客の涙の数だけお金が落ちる、というか、それがそのままキッチリ金銭の数に比例し儲けに換算出来るような、功利的な商売人テクニックとしてのスキルを見せつけているような、ああいうわざとらしい派手な見せ方はクライマックス以外にはあまりありません。
確かにどう見てもわかりきったお話を語り、例によってもう何度も何度も繰り返し描かれている、死に行く、または死んだ人間との純愛を描くことによって、その死の永遠性と悲劇性が純愛の永遠性と悲劇性にすり替えられ、それをダブらせることでお涙効果を増幅していくという、あのお決まりのうんざりするような平板なパターンがこの映画でも飽きもせず繰り返されてはおります。
それにほとんどこの映画には、途中で「いつ泣ける映画独特の材料になる<不幸>というものが訪れるのか?」という、ちょうどホラー映画で、いつ亡霊や怪物が現れるのか?までの<待ち時間>的なサスペンスすら生まれています。
これを<映画のサスペンス>と言うのかどうか、それは知りませんが、しかしわかりきった話を引き伸ばしまくり、それを淡々と描いたことによって生まれたヘンでちょっと間抜けなサスペンス感が映画の中に溢れている瞬間は随所にあったりします。
それは悪く言えば日本のYoshiの演出手腕を彷彿とさせるほどの間抜け感すら漂わせてはいるのですが、しかしこの映画、タイという国の風土がいいのか、はたまたその舞台となるドーイ・アンカーンの山間地域の生活感がいいからか、そう嫌な感じはしないのです。
太い竹の棒が物干し竿の代わりになっていたり、アロマな蝋燭が緩やかに点灯していく瞬間を長々と撮っていたり、その生活感の心地よさとクライマックスに辿り着くまでのあくまで淡々としまくった描写が、良い……とまでは言えないのですが、別に嫌な感じはしないのです。
またヒロインが恋人が好きだったプラムの大木を抱きしめている時のやすらいだ表情とその安堵感が広がっていくシーンなどにも、露骨に「泣かせよう」というよりも、確かに大切な<何か>を抱きしめていることの安らぎが伝わってはくるのです。
それはあまりにテクニカルにすぎると思うクライマックスの泣かせのシーン以外には、それほどこの映画が大仰な見せ方ばかりに走らず、意外と真面目にこの物語を語ろうとしたからかもしれません。
その事とちょっと関係ありそうなこんな製作裏話がこの映画にはあるのです。
実はこの映画のプロデューサーのドゥアンガモン・リムジャルーンは、親友のパウーン・チャンタラシリ監督にこの映画の監督を依頼したのですが、しかしテレビで活躍しているチャンタラシリ監督は、最初映画の世界に足を踏み入れることに戸惑い、3年間ほどその返答を保留にしたままにしていました。
しかしプロデューサーのリムジャルーンが病に冒されていて余命いくばくもないことがわかり、そのために監督する事を急いで引き受けたという裏話があるのです。
結局リムジャルーンは、映画製作の準備を全て整えたのに、映画の完成を見ることなくこの世を去ったそうです。
それをチャンタラシリ監督は、この映画の中の死に行く恋人がヒロインのために残した「僕を忘れないで」という言葉こそが、リムジャルーンからの、残った人々へのメッセージだと受けとめている、と解釈したそうです……。
現実の映画製作にまつわる悲話が、映画の中の悲話とあまりにも重なりすぎてしまったことが、この淡々とした真面目なタッチを生んだのかも……とつい想像してしまいます。
だからか、例によって例のごとくの泣ける映画の亜流なようで、そう悪い気もしない映画なのかもしれません。
text by 大口和久(批評家・映画作家)
『レター 僕を忘れないで』
監督:パウーン・チャンタラシリ
脚本:コンデート・チャトゥランラッサミー
出演:エーン・トンプラソム、アタポーン・ティーマゴーン ほか
公式サイト:http://www.letter-movie.jp/
10月13日より K's Cinemaほか全国順次公開