映画芸術

脚本家荒井晴彦が編集発行人を務める季刊の映画雑誌。1月、4月、7月、10月に発行。2016年に創刊70周年を迎えました!書店、映画館、Amazon、Fujisanほかにて発売中。

映画館だより『パッチギ!LOVE&PEACE』<br>時代と激しく切り結ぶ力作!と認めた上で……

 映画は1974年の東京・枝川の風景を映し出す。雑多で猥雑だが活気のある枝川の町並みのなか、主人公アンソン(井坂俊哉)の息子チャンス(今井悠貴)の笑顔をナメ(前景にし)て、後方でチマチョゴリ姿の女子学生たちが歩いている。わたしは胸が痛くなった。懐かしさからではない。その風景がいま、「時代によって奪われている」からだ。

 『パッチギ!LOVE&PEACE』は、傑作『パッチギ!』の待望の続編である。前作同様、アンソンとキョンジャ(中村ゆり好演!)の在日兄妹らが、排外的社会で悩み苦しみながらもそれに屈せず激しく生き抜く姿が描かれている。

 京都から枝川に移り住んだアンソン一家。アンソンは妻に先立たれ、チャンスは筋ジストロフィーという難病に冒されている。なんとかいい治療を受けさせてやりたいキョンジャは、たまたまスカウトされた芸能プロの門を叩き、在日であることを隠すことに違和感を抱きながらも了解し、芸能界デビューする。メキメキと頭角を現わしていくキョンジャ。超大作戦争映画『太平洋のサムライ』のヒロイン役に抜擢され、「国民的」スターになっていく彼女だったが……。

 映画が時代の“いま”と切り結ぶメディアであることを、『パッチギ!LOVE&PEACE』は思い出させてくれる。この『太平洋のサムライ』、現在公開中の石原慎太郎製作総指揮映画『俺は、君のためにこそ死ににいく』(国家意志には泣こうがわめこうが誰も絶対に逆らえない、とするまさに「君(=天皇)のためにこそ死ににいく」映画)のパロディ(というか馬鹿にし尽くしている)なのだ。差別意識まるだしの大物プロデューサー(ラサール石井)が特攻兵士たちを勇ましく描いた映画を、ラスト、映画試写会の舞台挨拶でキョンジャは「わたしは在日朝鮮人です」とカミングアウトし、徴兵を逃れて生き続けた父の人生と、それによって生を受けた自身の人生のすべてをかけて、全面否定する。あえて石原映画と公開時期をぶつけることによって、石原都政(の延長としての映画づくり)に対して、井筒は激しい「NO!」を突きつけたのだ。

 粗悪乱造で、すぐれた作品もなかなか公開の見通しが立たない日本映画状況のなか、日本映画が“いま、ここ”のアクチュアリティを失って久しい。井筒はその悪状況のなかで“映画のアクチュアリティ”をみごと復活させたのだ。まずはそのことに拍手を送りたい。

 映画は現在(=1974年)と過去(=徴兵を逃れたキョンジャの父らの物語)とをクロスさせる。父・ジンソン(ソン‐チャンウィ)は命からがら逃げ延びて南洋のヤップ島まで流れ着いたものの、そこにも日本軍は進出していて、原住民は皇民化教育を施され、ジンソンらを脱走兵と見なして銃を突きつける日本軍兵士は朝鮮人である。逃れても逃れきれない“国家”の呪縛に足をとられながらも、ジンソンはなお“国家”に従属することを拒み続ける。その姿には、先の『太平洋のサムライ』(=石原映画)に見られる国家意志に組み込まれる人間像を徹底的に批判する、きわめて原初的な反戦、反国家主義の人民精神が焼き付けられている。そこにもまた、“戦争の時代”と徹底抗戦しようとする井筒のアクチュアリティの一つの達成が見られるのだ。

 『パッチギ!LOVE&PEACE』は、凡百の映画が及びもつかない力作だとわたしは思う。しかしながら、である。その積極的な意義を充分評価しながらも、わたしには「だからといって、これでいいのか?」という思いが消えないのだ。すぐれたアクチュアリティを保ちながらも、それを発揮する手法(ドラマツルギー)のあり方は、はたしてどうか。たとえば、である。医者に「息子さんはもう直らない」と宣告され病院を飛び出すアンソンの前に、キョンジャが駆けつける。息子の未来が閉ざされた悲しみに打ちひしがれるアンソンと、恋人だった有名俳優や大物プロデューサーの潜在的・顕在的な差別を目の当たりにし深く傷つき、「朝鮮人になんて生まれてこなければよかった」と泣き崩れるキョンジャ。だが、この二人の涙は(重なり合いながらも)実は別個ではないか。一つの悲しみにもう一つの悲しみが重なることで、観客が流す涙も倍になるかもしれない。しかし、それでは(映画のメインテーマである)「差別された」キョンジャの涙は、薄められてしまってはいまいか。

 日本人青年、「ノーベル」こと佐藤君(藤井隆)と在日たちとの交流の描き方もひっかかる。わたしは前作『パッチギ!』でもっとも感動したのは、キョンジャに思いを寄せる日本人青年が在日の老人に「日本人は何も知らない。知らんかったらいつまででも知らんやろ。生駒トンネル、誰掘ったか知ってるか!?」と問い詰められるシーンだ。差別と無知はイコールではないが同じく罪であることを、その老人は突きつけているのだ。われわれはほんとうに知っていると言えるのか――そう「日本人」の観客に思わせるほど、それはきびしい問いかけだった。それを描き出すことこそ「日本人」が在日問題を描く意義だ、とわたしは思ったのだ。だが、本作ではそんな先鋭な問いかけがあったか。佐藤君と在日たちとのやり取りはあまりにも物分りがよすぎはしまいか。岩手で育った佐藤君の純朴さが民族の壁を超えるというのなら、岩手に民族差別はないというのか。

 ――いささかイヤミな言い方になってしまったが、井筒作品全般に共通するある種の“大味さ”がまた前面に出てきてしまっている、とわたしは見たのだ。それを乗り越えないかぎりこのシリーズの“深化”はない、とわたしは言いたい。断るまでもないが、わたしは本作をいたずらに貶めるために批判を書いているのではない。この弱点を井筒なら必ず乗り越えるだろう、という信頼のもとに、わたしはいささかきびしすぎる論考をあえて書いているのだ。

text by 遠藤裕二(活動家)/『思想運動』783号より転載

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(C)2007「パッチギ! LOVE & PEACE」パートナーズ

パッチギ!LOVE & PEACE』

監督:井筒和幸 脚本:羽原大介/井筒和幸 音楽:加藤和彦

出演:井坂俊哉 西島秀俊 中村ゆり 藤井隆 

配給:シネカノン

5月19日よりシネカノン有楽町、渋谷アミューズCQN他全国拡大ロードショー!

公式ウェブサイト:http://www.pacchigi.jp/loveandpeace/