映画芸術

脚本家荒井晴彦が編集発行人を務める季刊の映画雑誌。1月、4月、7月、10月に発行。2016年に創刊70周年を迎えました!書店、映画館、Amazon、Fujisanほかにて発売中。

『映画は生きものの記録である 土本典昭の仕事』<br>藤原敏史監督インタビュー

批評家であり近年は映画監督としての活躍も話題の藤原敏史監督に、土本典昭作品への思い、本作での試み、そしてこれからの活動について聞いた。

いまこそ観るべき土本映画の思想性

――世界的なドキュメンタリストである土本典昭さんを被写体とするドキュメンタリーを撮るにあたってプレッシャーはありましたか?

土本さんを撮ろうと思いついたのはプロデューサーの伏屋博雄で、ぼくではないんです。最初はたんに土本さんに話を聞こうとしていただけだった。記録のためにキャメラを回していたはずが、「作品にしよう」と伏屋さんが言い出した。後で土本さんに電話で「伏屋さんから話は聞きました。(演出は)藤原さんにやらせるようぼくから言っておきましたから」と言われたので、「わかりました」と(笑)。以前から土本さんは知っていましたから、プレッシャーはなかった。むしろ、わりと取材しやすい(笑)。ゴマをする必要もないし。

――土本さんは、被写体になることを気になさらなかったのですか?

伏屋さんも説得するのは大変だったようです。でも、説得されたからには、途中でやめるとは言い出さない。その辺は非常に真面目で、古風とも言える倫理観がある方ですから。

――藤原さんは批評をされていましたが、批評家が作品を作ることのプレッシャーは?

そういうことを考えていたらやらなかった(笑)。でも、自分で作るようになったのは、半分はものの弾みだけれど、半分は飽きていたんです。映画批評は映画のことしか書けなくて、世の中で起こっていることへの言及がなかなかできない商売じゃないですか。しょせんは提灯記事のようなものしか書けない。それではいけないのではないか、と思ったことがあります。2000年ごろから「これだったらオレが作った方がいいじゃないか」と思うくらい映画の質が落ちてきた。一部の作家を除いて、思想的にもきわめて未熟で、何も考えないでものを作る人が多くなった。

その点、土本さんの「水俣」シリーズがすごいのはその思想です。「水俣」の傑出しているのは、被写体を被害者としてだけで捉えてはいないところです。水俣病問題に限らず被害者を被害者としてしか見ない映画やニュースは山ほどあるが、被害者をただ被害者に貶めている点では、やっていることのひどさの具合は違うが、チッソのやったこととたいして変わりない、むしろ意図的であるだけ立派なこととは思えない。土本さんの場合は被害者がたんなる被害者でないことをすごくていねいに出している。映画の冒頭で使った『水俣 患者さんとその世界』のタコおじさんのシーンは、圧倒的に美しいシーンですが、考えたらとんでもない。

――水俣のタコを食べていますからね。怖いシーンです。

なぜ水俣病が起こったのかを考えると、かれらが魚を食べないと生きていけないことを考えざるをえない。でもそれだと、最近の自己責任論みたいに「食べるやつが悪い」となりかねない。根本的には海を汚染したチッソが悪いに決まっているのに、危険だと分かって食べる患者にも問題がある、と今だったら安倍晋三なんかが言いますよ(笑)。そもそも海を汚したことが最大の問題で、そこを思想的にも映画的にも考え抜いているからこそ、「水俣」はあそこまで完成度が高いのだと思う。

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映像への多様な解釈を観客に求めて

――『映画は生きものの記録である』では土本さんがみずから自作を解説されていて、「ドキュメンタリー作りとはこういうものなのだ」と非常に勉強になります。藤原さんの自作解説ということでお聞きしたいのですが(笑)、ふんだんに土本映画の引用が入る映画ですが、映画の前半で土本さんが振り返る、『不知火海』冒頭の魚が戻ってきたシーンや、中盤の同作の埠頭で熊本大学原田正純先生と患者の女の子が印象的な話をしているシーンは、終盤まで出しませんね。そのシーンが出たとき、象徴性を感じました。そうした「じらし」の編集など演出の狙いがあったのではないですか。音のつけ方もいろいろやっているようですが。

音はほとんど音響の久保田幸雄さんがやったことです。こちらとしては好きに遊んでください、と(笑)。前作の劇映画『ぼくらはもう帰れない』ではいろいろ苦労させたので、今回はお任せしました。実は『不知火海』の引用の仕方について土本さんは不満があって、映画の中盤で土本さんがそのシーンを振り返る語りが入りますが、そこで見せないと分かりにくい、と。それはその通りですが、ぼくからするとそれでは、そのシーンをその説明としてしか見なくなってしまう、と思ったのです。

映画作りとは意味を限定していく作業です。撮るときに写るものをフレームで限定して、スタートからカットまで時間を限定して、なおかつ編集で撮ったものを限定する。どんどん意味を狭めていくのと同時に、映画の文脈の中にはめ込むことで観客を一定の解釈に誘導するものにせざるをえない。古典的な映画とは、その作業をもっとも完璧にやることでその主張なりを支える完成されたフォルムを作るものだとすると、この映画での、シンクロ(同時録音)を使わないで撮った『ある機関助士』や『ドキュメント路上』についての土本さんの話は、そういう古典的なアプローチのことなんですよ。(画や音が)撮(採)れないものがあっても自分は理解しているのだから、その理解にのっとって音や映像に演出を加えることは、ドキュメンタリーにおいても何の問題もない、という考え方です。でも、『水俣一揆』からシンクロで撮り始めていることで、現場の音を採れているときに、違う音を当てていいのか、という問題が出てきます。それはけっこう倫理的な問題です。土本さん自身はそうしたことを考えてきているのですが、われわれから見ればすごく古典的な世代の監督で、啓蒙目的は絶対にある。「水俣」にしても第一の目的はこの悲劇をちゃんと伝えるということです。

ところが現代では、その伝えるという行為自体の問題を考えざるをえない。ニュース報道などにおいてすら、映像を構成することによって作られる非常に単純化された直線的な物語を、あたかもそれだけが真実であるように信じ込ませている、そういう時代になってしまっている。それはきわめて一方的な考え方で、アメリカにすれば9・11で自分たちはこんなにひどい目にあった、国を守るためには戦わなければならない、という論理がある。しかしそれはかれらの中で完結した論理で、世界はそんなに単純なものでないことに気づかなければならない。古典的な直線的な論理構成を持った物語を作っては、その論理に賛成か反対か、という態度でしか観客と接せられないという怖さがある。

土本さんの話したシーンの説明としてそのシーンを見せると、たとえば『不知火海』の埠頭のシーンは土本さんのキャリアの中でもっとも圧倒的なシーンだと思うが、あのシーンの持っているほかの意味を観客に考えてもらえない。引用を使うのに際して非常に気をつけたことは、説明的な意味で引用が入ってくるときも、ある種しりとり遊びなのですが、その引用の後にはそのシーンから連想される土本さんの話を持ってくることです。一つの意味だけで引用を理解されては困るという考えでやりました。最初から考えていたのは、映画の出だしで「ここで魚が泳いでいたところを撮った」と土本さんが振り返っていますが、その引用シーンはなるべく後で出そう、ということでした。古典的な演出で言えば「じらし」の手法ではあるが、そこで出してしまえば説明にしかならないが、その映画全体で語られていることを観客が背負ったところで、その魚が蘇っているシーンを見たときに、観客がそれぞれ考えることはあると思う。

不知火海』の埠頭でのシーンは、もう水俣病の問題を超えた話です。撮影の大津幸四郎さんは、あれは実存主義だ、と言っていました。患者さんらは非常に極端な状態に置かれ、その問題に直面せざるをえないから、自分の人生の意味とはなんだろうと考える。それは実はわれわれがいつも考えていることです。でもそれを、知能障害を負っているはずの女の子が言ってしまう。水俣病問題を捉えるにあたって医学的な事象としての科学的なアプローチだけだと、哲学的なアプローチなどが入り込む余地がない。『医学としての水俣病』三部作のように科学的アプローチでやっていくと、どうしても患者としてしか患者を見られなくなってくる。それを土本さんはどこかで分かっていたから『不知火海』を作ったのではないでしょうか。

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水俣三里塚・池子これからの展開

――技術的なものを含めて、土本さんのキャリアを継承することをこの映画では探究されていますが、そのことによって同時に水俣病の問題も引き継ぐ作品になっていると思いますが。

明らかになっていますね、結果として。でもぼくもあの時行ったきりですし(笑)。おそらく今後多くの患者さんが亡くなるでしょうし、撮るのはなかなか辛いですよ。これは土本さんも言っていることですが、これからは水俣の人たちが自分たちの映画を撮るべきなのではないかと思う。ぼくがもしも水俣をやるとすれば興味あるのは、日本の近代化の問題です。その負の面が全部出てしまっている。日本が近代化され豊かになっていくことはおそらく必要だったと思うが、それをやってきた結果、その矛盾が出てきた。映画に出てくる埋め立て地も、実は大規模公共事業の典型です。非常に広い、いい公園になっていますが、ぜんぜん使っていない。

――野仏やメモリアルのある公園ですね。

メモリアルのショットは皮肉で入れたんだけれど、だれも気づいてくれない(笑)。野仏はすばらしいですが、それと比較したときのあのインチキくささは何なのか。教科書どおりのコンテンポラリー・アートで蹴飛ばしたくなる(笑)。あれできれいに水俣病の痕跡を隠ぺいしようとしている。

これから大津さんと一緒にやろうと話をしているのは、三里塚のことです。三里塚がいまどうなっているかというのを撮ろうと思っていて、一任派、条件派、つまり妥協して出て行った人たちの事情はなんだったのか、ということを探りたい。それと、これは小川紳介三里塚を撮るときにずっと避けていた問題で、やらないといけないと思っていることは、あそこは天皇制的な場所であるということです。御料牧場でしたからね。あそこはもともと大久保利通が明治八年に作った農業の実験場で、伊藤博文の計算だと思うが、後にあそこを天皇家のものにして、お上には洋服を着ていただく、肉も食べていただく、と御料牧場にした。そこで防風林が作られ、普通の人も入植してきて、だんだん農業コミュニティーができ、戦後は御料牧場を縮小して一般の人々に分け与えた。まさに御料牧場とともに生きてきた人々のコミュニティーです。そこに、平坦で台地で飛行場には理想的で、しかも関東地方で最大の国有地だから、ここに空港を作ろう、となった。そこに住む人たちにとっては晴天の霹靂だし、天皇家とともに生きてきたプライドもあるから、猛反対になった。老人行動隊には宮内庁まで文句を言いに行った人もいるのです。

いまやっているのは、昨年12月に神奈川県逗子市の池子問題でPR短編映画を作ったのですが、それが面白かったのでその長編バージョンを作っています。むかしそこには米軍の火薬庫があって、それが廃止されたとき、ほんとうは日本に返還しないといけないものを、アメリカが、横須賀の海軍兵のための住宅を作りたいと言い出して、その反対運動で非常に盛り上がった。緑地保全などの条件を入れた形で結局住宅はできたのですが、逗子市としては全国区でいちばん有名な話なんです。実は米軍施設になる前は日本海軍のもので、昭和一〇年代のはじめごろから軍事施設が作りはじめられ、池子村等の住民が追い出された。その追い出された人たちが80代でけっこう元気なので、その人たちを中心にした映画になります。

――監督のこれからの作品も期待しております。

聞き手=遠藤裕二/『思想運動』779号より転載

『映画は生きものの記録である 土本典昭の仕事』

監督:藤原敏史 製作:伏屋博雄 撮影:加藤孝信

出演:土本典昭

6月2日(土)より渋谷ユーロスペースにてモーニングショー、

以後全国順次公開

なお、公開期間中、毎週土日にトークイベントを開催。

出演者は以下の通り

6月9日(土)、16日(土)、23日(土)土本典昭

6月3日(日)鈴木邦男

6月10日(日)池谷薫

6月17日(日)鎌仲ひとみ

詳細は公式サイトへ

http://www.tsuchimoto-eiga.com/

また、6月16日(土)、17日(日)、Space Neoにて

「映像作家・土本典昭の 発見の旅」と題し、

土本典昭監督作品を特集上映する。

詳細はneoneo坐サイトへ

http://www.neoneoza.com/