映画芸術

脚本家荒井晴彦が編集発行人を務める季刊の映画雑誌。1月、4月、7月、10月に発行。2016年に創刊70周年を迎えました!書店、映画館、Amazon、Fujisanほかにて発売中。

試写室だより『極道めし』 <br>違和感と虚構性がもたらす可笑しさ <br>神田映良(映画批評)

 とある刑務所の雑居房・204房の面々は、受刑者でありながら妙に能天気に暮らしている。新入りの栗原健太だけは浮かぬ顔で、房そのものに慣れない彼には、自分を取り囲む明るい面々もどこか不気味に映じる。陽気で丸々とした通称「チャンコ」の甲高い笑い声が狂気さえ漂わせるシーンは、その怖さがまた可笑しい。そして、房の最年長である八戸の、テラテラと輝く禿頭と、地の底から響くような、ドスの利いた声。チャンコ役のぎたろーと、八戸役の麿赤兒は、204房という空間の創造に大きく貢献している。  クリスマスが近づいたといって、何やら怪しげな盛り上がりを見せる204房。その恒例行事とは、皆のおせちから一品ずつ貰う権利を賭けた、めし自慢。クリスマスの足音を聞いて、正月を賭けた勝負が開始されるというこの、前のめりに未来へ向かう物語にあっては、主人公格の栗原が刑務所で迎える正月の更に先、出所後の生活こそ、物語のすべてが集束していく地点となる。 ごくめしmain.jpg  大物の極道と思われている八戸は、実際はそうではなく、人生の残り時間が多くはない彼にとっても、204房はつかの間の、かりそめの世界。だが、房内でのその貫禄だけは本物だ。他の四人が披露するめし自慢では、常に女性が大きな存在だが、八戸の場合、女性である母は、さりげなく食卓に着いており、食材を手に入れてくるのは幼い八戸ら兄弟、食卓を牛耳るのは父だ。昔の家父長制的な家庭が再現されているだけだといえばそうなのだが、八戸からすれば青二才の四人が皆、女にすがり、女に庇護され、女に笑い、女を振り回し、女に涙し、女を泣かせるのに対し、そうした騒がしさと無縁の食卓を語る八戸は、めしを食う行為を、日々の生活という地盤に根を張った、静謐さと厳粛さに据えつける。  対照的に、元ホストという経歴からして女頼みの相田は、逃走の果てに駆け込むのも、母が暮らす田舎の実家。母の「黄金めし」の卵の黄身の色は、室内を染める夕陽の色と溶け合い、めしの旨さと母の愛とが渾然一体となって画面を満たす。家には、相田を追ってきた警察が乗り込んでくるが、母は彼らを制して、息子に、シャバでの最後のめしを食べ終えさせてやろうとする。めしを食うことの幸福は、誰かの愛情に包み込まれ、守られることと同義となる。過剰なほどに夕陽色に輝く夕陽は、全篇のそこかしこで画面を染める。 ごくめしsub4.JPG  ただ旨かった、愉しかった、というだけではない、ほろ苦さもある人生の一場面としての「食」。その行き着く先も作品に織り込まれている。即ちウンコである。コメディタッチで食を描く映画には不可欠ともいえる食いしん坊キャラのチャンコは、その通称どおりの体型を有しているが、彼は頻繁にトイレに行ってウンコをする男としても描かれており、その巨体に詰まっているのはめしというよりウンコに思える。否、めしがウンコになるのだから同じことだが、その「めしがウンコになる」という真実をわざわざ前面に出す映画も珍しい。騒動を起こした罰として204房の面々が独房入りになるシーンでも、彼らがトイレで放屁と共に脱糞するカットが挿まれている。  狭い204房内のトイレに於けるウンコは、チャンコのプライベートな営みというのみならず、204房の全員にとっての日々の営みでもある。南や相田も房内で、補足のように放屁する。この映画では、「食事中にウンコの話をしてはいけません」という常識的道徳など知らないかのように、ごく自然に生活の中にウンコがある。栗原の恋人が書いた手紙さえ、チャンコに食われてウンコになる。ほろ苦い思い出と共にあった食もまたウンコとなるように、人の想いもウンコとなる。だがそれは、「人生はクソだ!」といった嘆きや怒りではない。チャンコは、明るく朗らかにウンコをしている。鬱々とした不幸ではなく、ただ幸福が「思い出」となることへの諦念が甘酸っぱい後味を感じさせるこの映画は、夕陽とウンコの映画としても記憶されるべきだろう。人が生きていくうえでウンコをせざるを得ないという現実は、「食べ物にいい思い出なんかない」と言っておせち争奪戦への参加を突っぱねていた栗原が、房の面々に強いられて己の過去と真情とを吐露せざるを得なくなるその格好悪さや切なさと、相通ずるものがある。 ごくめしsub5.JPG  栗原が204房で再び騒動を起こして独房に入れられ、両手を縛られ犬のように飯を食うシーンは、その、孤立し、人間性を奪われた姿や、辛い過去を思い出して寂しさに慟哭するさまと併せて、飯がいかにも不味そうに写っているのが印象的だ。栗原がめし自慢で語った、恋人が作ってくれたラーメンは、幸福だとも、満たされていたとも言い難い状況での食事だったが、それでも、その食事が旨かったというその一点が、彼が決して一人ではないことの証しでもあったのだ。だからこそ、「旨かった」と過去形で口にされるその台詞は胸を衝く。  一方、八戸の語りは、その人間としての深みがそのまま、彼の語る食べ物の旨みを溢れさせる。めし自慢は、食べ物そのものが食卓にのるわけではなく飽く迄も語りの勝負であり、味そのものが決め手ではないのだ。めし自慢を聞いた参加者のうち何人が咽喉を鳴らすかが勝敗を決めるのだが、八戸の、咽喉の奥から絞り出すような声は、それ自体が既に「咽喉を鳴らして」いる。彼のめし自慢の大詰めでは、その声はもう言葉にならない唸り声と化し、絶頂へと至る。麿赤兒は、舞踏家らしく首の動きのキレのよさを見せもするが、何よりもその語りと存在感が見事だった。 ごくめしsub2.JPG  「おっぱいプリン」や、八戸の語り、夕陽の赤々とした輝きなど、全篇を通して過剰さや虚構性を厭わない演出が為されている。尤も、面白いことに、過剰さの最たるものである回想シーンの舞台美術風の作りは、実は、限られた撮影期間内にあちこちをロケして回る余裕はない、という、現実的な事情によって採用されたものであるらしい。また、刑務所内で行なわれる、バンザイとヒンズースクワットを組み合わせた動作を「ヨイショー!」のかけ声と共に行なう「天突き体操」は、どうやら実際に刑務所で実践されているようだが、正直、作業場に舞う木屑がカツオ節に見えるシーンよりもシュールな印象さえ受けた。というのも、映画内で木屑がカツオ節として捉えられるのに先立って、筆者自身の目には既にそれがカツオ節に見えていたからだ。そもそも、カメラに捉えられたその浮遊物が木屑かカツオ節かなど、こちらの知らぬことでもあり、「見る」ことのうちには、そうした「現実」の曖昧さ、虚構性がいつ忍び込んでくるか分からないのだ。 ごくめしsub3.JPG  映画に於ける過剰さ、「嘘っぽさ」の境界は、複雑で微妙なものがある。回想シーンの、舞台美術風であるがゆえの限定された空間性は、回想が語られているのが狭い雑居房であるという、映画内での「現実」と合致してもいる。この、舞台美術「風」の映像は、演劇に於ける舞台美術が現出させる世界のように、眼前の舞台上に、約束事としての想像的な世界をもたらしはせず、まさに書割的なものとして嘘臭く見える光景だ。そして映画は、その嘘臭さをこそ利用して、回想の語り手による、思い出の美化や、塀によって隔てられたシャバとの距離感を観客に感じさせる。舞台美術風の造形が、コメディとしての笑いを誘うのは、単に嘘臭さを前面に出していることの滑稽さだけではなく、その滑稽さがどこか、思い出というものが実際に持つ、現実とのズレと重なって見えるからだろう。天突き体操は、現実でありながらもその動作自体に可笑しみがあり、その一方で204房の面々のウンコや放屁は、食べたらウンコをするという、現実世界では敢えて無視されている「現実」を臆面もなく示していることで、その滑稽味を得ている。可笑しさをもたらす違和感や虚構性は、現実といつでも境を接しているのだ。 ごくめしsub001.JPG  栗原のめし自慢だけは、笑いやユーモアとは無縁のリアリズムで描かれるが、映画内で出所後が描かれる彼の場合、シャバの思い出は、思い出として過去となっているのではなく、現在進行形でもある。ユーモアとは、現実だと思いなしている世界が揺さぶられ、緊張感が緩むことでもたらされる感情なのだとすれば、204房の中で唯一、ほとんど笑いと無縁のキャラクターである栗原は、シャバから持ち込んだ固い感情が、ずっと切れずに持続しているのだ。その頑なさから遂に解放されるのは、出所後に目にした光景にひとつの答えを見つけることによってである。それは、幼い日に母に置き去りにされ、アウトローの道を歩んできた栗原にとって、自身が捨てられ、また彼自らも捨ててきた世界が何であったのかを痛感させる光景であり、あまりにも眩しい光景でもある。  クリスマスが近づいたからといって、おせちの話をし始めるということ。冒頭で筆者はこれを「前のめりに未来へ向かう物語」と評したが、204房の「恒例行事」としてのおせち争奪戦はまた、いまだ刑務所にいることの証しでもあり、シャバに出て自由を呼吸するには至っていないということでもある。それゆえに、204房の食卓におせちが並べられる光景の祝祭性は、閉じた空間のうちでの慎ましい営みであることに拠ってもいる。房内ではおせち争奪戦の頃合いとしての意味づけしかなく、当然のように無視されていたクリスマス。最後に栗原がシャバでクリスマスを、クリスマスそのものとして迎えることは、今その時を生きている自分を取り戻すことでもあっただろう。そして観客もまた、映画を「現実」に作り上げた人々の名が連なるエンドロールを見つめながら、自身の今生きているその場所、その時へと帰ることになる。 『極道めし』予告編 極道めし 監督:前田哲  脚本:羽原大介 前田哲 原作:土山しげる プロデューサー:春名慶 小河原修 池田慎一 撮影:谷川創平 照明:金子康博 録音:加藤大和  美術:露木恵美子 装飾:松尾文子 編集:高橋幸一  出演:永岡佑 勝村政信 落合モトキ ぎたろー 麿赤兒 制作:ディープサイド 配給:ショウゲート (C)2011『極道めし』製作委員会 (C)土山しげる双葉社 9月23日、新宿バルト9ほか全国ロードショー 公式サイト http://gokumeshi-movie.com/