映画芸術

脚本家荒井晴彦が編集発行人を務める季刊の映画雑誌。1月、4月、7月、10月に発行。2016年に創刊70周年を迎えました!書店、映画館、Amazon、Fujisanほかにて発売中。

映芸シネマテークvol.9『適切な距離』レポート

 今週末の7月23日(土)から8月5日(金)まで開催されるCO2東京上映展2011。今泉かおり監督『聴こえてる、ふりをしただけ』(選考員特別賞、女優賞を受賞) 、リム・カーワイ監督『新世界の夜明け』(観客賞受賞)のほか、特別上映作品として万田邦敏監督『面影 Omokage』、佐藤央監督『MISSING』が上映され、連日スタッフ・キャストの舞台挨拶、ゲストを招いてのトークショーがおこなわれる。  そして大阪上映にてグランプリである大阪市長賞と男優賞(主演:内村遥)を受賞したのが、映芸シネマテークvol.9でも上映された大江崇允監督の『適切な距離』である。来るCO2東京上映展でも話題を集めるだろう本作について、大江監督より改めて話をお聞きすると同時に、シネマテークでのトークの席にも登壇された葛生賢氏による『適切な距離』評を掲載する。日記の世界を、様々なモチーフを散りばめることで念入りに作り込み映像化した本作の奥深さは、見る人を惹きつけて止まない。シネマテークにてご鑑賞いただいたかたにも、東京上映展を楽しみにされているかたにも、この記事が『適切な距離』と大江崇允監督の魅力をより伝えることができれば幸いである。 (取材・構成:中山洋孝) 映芸シネマテークIMGP9654.JPG 映芸シネマテークvol.9 トークショー (会場:人形町三日月座) 右より葛生賢(映画批評家)、菊地開人(原作)、内村遥(主演)、大江崇允(監督・脚本)、中山(編集部)  ※敬称略  測量士としての映画作家――『適切な距離』について 葛生賢  「新人監督のデビュー作」と呼ぶにはあまりにも落ち着き払った演出で見るものを驚かせた『美しい術』の大江崇允が早々に新作を撮り上げたという知らせは、前作に接した少なからぬ数の映画好きを興奮させた。もちろん私もそのひとりである。そう、彼は「新作」という言葉が「期待」という心の働きを煽り立てる数少ない日本の映画作家なのだ。その『適切な距離』で初めて彼の作品に接する人々に対しての紹介としては、これだけ言えば充分だろう。新作が期待できる映画作家など今の日本を見回しても、そうざらにいるものではない。  前作『美しい術』がそうであったように『適切な距離』もまた、そのタイトルが暗示しているように、主人公たちは「生きるのが下手」な人たちである。彼らは生きる上での「美しい術」を持ち合わせておらず、他人との「適切な距離」を計りかねている。人間関係。上司との、同僚との、友人との、恋人との、親との、子供との、などなど。およそ、大抵の人にとって、世間で生きていく上での悩みの原因のトップに挙げられるのは、カネの悩みを別とすれば、この「人間関係」であろうことは、電車の中吊り広告を眺めてみればわかる。大江崇允の映画に出てくるのは、このごくありふれた悩みを抱えた人たちである。そんなどこにでもいるような人たちの「日常」を描いた作品が果たして面白いのか。ところがこれが実に面白いのである。前作『美しい術』が一部のナイーヴな観客たちから受けた「物語が無い」という見当違いの批判の原因の一端も、おそらくここに由来する。彼らは『美しい術』の登場人物たちに自らの似姿しか認めず、そこから「非日常」へと逸脱していくストーリーが与えられなかったことに腹を立てたのだ。しかし映画は単なるストーリーに還元できるものではない以上、彼らが見なかったもの、それはまさに映画そのものである(例えば、そうした観客たちが小津安二郎の映画を見てやはり「物語が無い」と言うのかどうか、個人的にはやや興味がある)。少しでもまともな映画的感性を持ち合わせているものならば、黒画面に若い女性のオフの声で「私は犬だ。わん」と言うすぐ後に、横断歩道に佇むヒロインの真横からのロングショットが続く『美しい術』の鮮やかな導入部に感嘆し、その「物語」の「語り口」に魅了されないわけにはいかないからだ。  しかし『適切な距離』で描かれるのは、一見『美しい術』とは真逆な世界である。この作品の主人公は飲み会の席でウケを取るために、幼い頃に父親から受けた虐待の思い出をオーヴァーな演技で自虐的に周りの演劇仲間たちに語ってみせるような大学生であり、しかも唯一の家族である母親とのギスギスした毎日を送っている。そこには前作のように美しい妙齢のヒロインたちは登場しない。こうした陰鬱な「日常」が暗部を強調した手持ちキャメラの慌ただしい画面によって切り取られるのを目にするものは、果たしてこの先、一時間半もこの調子で続くのだろうかと不安になっても無理はない。しかしそれが杞憂に過ぎないことは、主人公と親友が「シューカツ」用のスーツを選ぶシーンと、その直後、全く同じ舞台に主人公の母親が登場し、先の場面を変奏してみせる一瞬、繋ぎ間違いかと思わせるシーン(環境音が同じなので驚きは倍加する)を見てみればわかる。これ以降、主人公と母親が互いの「日記」を盗み読むという谷崎潤一郎の『鍵』を思わせる行為を介して、「そうである現実」と「そうでありえたかもしれない現実」との相互作用が生じ、さらにややこしいことに物語世界内に存在する人物に想を得て、それを理想化した姿で互いの「日記」に登場する架空の人物たちとの関係が、その「日記」の書き手たちにフィードバックすることで、ついには書き手たち自身の関係のあり方にまで変化を及ぼすという複雑な構造が、大江崇允の「語り口」によって実に明晰に描かれていく。しかしその明晰さが実はゆらぎを孕んだ不安定なものであることにも、現代日本の若手映画作家たちの中でも、一際その「知性」によって際立つ彼は充分自覚的であり、それは具体的には手持ちキャメラの画面の氾濫するこの作品の中にあって、その喧噪が瞬間的に静寂へと変わる、母子が食卓を挟んで向い合い、無言で食事をするショット(被写体とキャメラとの関係においては、この作品にあって、おそらくこれが「適切な距離」なのかも知れない)がこの映画の終盤でどのように撮られているかを見てみればわかるだろう。そして、この映画を最後まで見て、「日記」によって生じた人間関係の変化と思われるもの(それは終盤のカフェでの母子の切り返しによって、とりあえずは表現される)が、果たして真の変化だったのか、それを確かめてみるためにもこの作品をもう一度冒頭から見直してみたい欲求に駆られるに違いない。そして再びそこで作家の仕掛けた「語り口」の妙に私たちは唸らされることになるだろう。  最後に一言。この『適切な距離』の上映を機に、順序は逆になってしまったが一刻も早く『美しい術』が東京でも上映されることを願ってやまない。あらゆる点で対照的なこの二作を並べてみることで大江崇允の映画作家としての幅を私たちは知ることができる。なお手持ちキャメラを基調とした『適切な距離』に対し、端正な固定画面とパン、横移動が特徴的な『美しい術』の中で唯一手持ちキャメラが使われるのが、『適切な距離』で母親が感動しながら見つめるテレビ画面に映る、そのクライマックスシーンである。 葛生賢 (映画批評家映画作家映画批評家として『コロッサル・ユース』(06 ペドロ・コスタ)、「ジャック・ロジェのヴァカンス」特集のパンフレット、批評WEBサイトflowerwildなどに寄稿する一方で、『AA』(05 青山真治)などの作品にスタッフとして関わる。インディペンデント映画作家として『吉野葛』(03)、『火の娘たち』(06)などの監督作品がある。 DSC_0166.JPG 『美しい術』より 【大江崇允(監督・脚本)インタビュー】 ――クレジットにある「原作」についてお聞かせ下さい。 大江 菊池(開人)の原作は戯曲って言い張っているけど、実際は何だかよくわからない形式の、日記をそのまま書いたような、小説に近いテキストなんです。お母さんと直接コミュニケーションをとらずにどんどん日記を読み合うことでわかり合ってしまうというストーリーが面白くて。最初は事実をただ書いてただけだったのに、途中で母親が自分の日記を見ていると気づいて、「母親の日記ではこういう書かれ方をしていた」という劇中劇を語る主人公の文章が始まって、これは主人公視点の一人称の物語かなと思ったら話が進むうちに母親の日記が単独でボンと出てきたり。物語自体が母の日記に浸食されているのかもしれない。本人は何を意図して書いたのかはわからないけど。  僕が昔いた劇団(「旧劇団スカイフィッシュ」)で小嶋(一郎)の演出で上演されたんですけど、リーディングっぽく日記の内容をそのまま口語文にして俳優が観客に読み上げている感じで、テキストを読むとこれしかやりようは無いという気がしないでもない。たぶん原作を読んだそのままの感覚を舞台上に乗せようとしたのだと思う。  映画にならないんじゃないかという不安があって作るのを諦めてましたけど、CO2に出すめぼしい物語はないか探してたら、短い時間で撮るときに一番話の筋がしっかりしていて上手く使えそうだから選びました。やれそうだなといういくつかのアイデアが浮かびましたし。 ――主演の内村遥さんはどういった経緯でキャスティングされましたか。 大江 内村君は僕がプロデューサーをしてた『夕暮れ』(10 戸田彬弘 製作:チーズfilm)にチョイ役で出ています。強く印象に残ってて、オーディションでなく直接オファーしました。彼の現場での集中力には頭が下がります。スタンドインから絶対に演じてくれて、こんなに気を抜かない俳優は初めて見ました。臨む態度で俳優陣を引っ張る力があり、もう感謝しかありません。 ――演劇学校を舞台にされており、特に稽古のシーンはドキュメンタリー的で異質な雰囲気もあります。ただご自身が演劇出身であることがかえって目立ってしまう危うさがあるかもしれません。 大江 けじめや節目みたいな意味もありました。「演劇出身」って言われても別に良いんですけど、演劇やってた頃に比べたら最近の演劇をほとんど見ていませんし、いまの演劇がどこへ向かっているのかも想像できない。それなのに「演劇出身」を語るのは、何様だと思われるんじゃないか。だから今は自分からは言わないようにしています。  今回、原作では学校での稽古のシーンとか描かれてなかったから、避けて通ることもできたんですけど、この映画自体が物語に関する物語みたいなものにしたくて。  最初の『美しい術』では「映画って何だろう」をテーマに撮ったんですけど、「物語が無い」って結構批判されたから、今度は物語のあるものをちゃんと撮ってみたかった。だから「物語って何だろう」とまず考えていくと、嘘と現実のどっちでもある話にしたくなったんです。映画がフィルムのなかで起こしている物語は嘘だけど、現実にカメラを回して撮っているわけだから、必ずしも完全な嘘か、微妙ですよね。それに僕らは映画をなぜか嘘とわかっていながら見に行く。それは嘘を見に行ってるわけじゃなくて、フィクションの中にどっか世の真理が落ちてるから見る。嘘を描くことの価値を物語にしてみたくなったんです。この物語の母子は嘘をついている。主人公は嘘のつもりは無く日記を書いていたのに、母の嘘を目の当たりにして、自分の日記の嘘のレベルをあげていく。母子が嘘で対抗しあうことからフィクションをつくりたかったので、それ以外に嘘と現実をきっちりと扱う為にも、どうしても稽古シーンを入れたかった。たとえば日記のなかで父に会いに行くという嘘をつき始める直前に、笑う稽古、「笑いの階段」ってレッスンが入ります。僕はお芝居なのにあれを見てると笑っちゃうんですよ。人が笑っていると気持ちいいし、フィクションの笑いでも嘘を超えていくと、笑いが世の中でどういう力を持つかの真実がボトッと落ちていると思う。 ――稽古のシーンですが、別にああいう稽古を大江さんが映画を作る際に役者にやらせてはいないんですよね。 大江 やらせてないですね。でも俳優の身体をつくるための作業として凄く重要ではあります。台本持って喋るだけが稽古じゃない。むしろ稽古ではないホンを読む作業に入るまでが凄く大事だと学生時代に学んだし、そこが演技の醍醐味かと思っていたので、ああいう作業が演技をするうえで大事だと思っています。 ――今回の稽古では実際にどういったことをされましたか? 大江 このホンを読んでどう思うとか……、話をした時間のほうが多いですね。初日は自己紹介、次にダイレクトなホンの感想を聞く。そうすると何人か違う感想を持った人もいて、そこで話が膨らんだりします。初日の終わりか、二日目くらいには芝居をつけていく。でも時々どうしてもあるシーンがうまくいかないときに止めて、原因を探っていくんですけど、前のシーンから問題があったりするんですよ。だからそれをうまくやるにはどうすればいいのか、俳優と話し合う。僕は俳優を育成できるとは思っていなくて、僕ができるのはここにいる人たちを上手く混ざり合わせることです。  ロケ地のあの家を撮影前から借りれたので、キッチンでキッチンのシーンの稽古をつけたり、廊下とかその場で歩きながらホン読みもできたんですけど、でもそれはあくまで俳優との確認作業。むしろ「何でいまこのシーンでは笑ったの?」とか「このシーンではなぜ無表情なの?」とか、役者がどういうふうにホンを読んだのか、俳優は何を演じたいのかが知りたかったし、僕からもどう演じてほしいか話しました。椅子に座ってお茶とか飲みながらそういうコミュニケーションをして、今日のシーンの稽古をやるという流れが多かったです。 適切な距離1.jpg 『適切な距離』より7月23日(土)、27日(木)、31日(日)上映 ――メインのキャストに母親、父親役のかたなど年上の俳優さんがいます。何か稽古の上で変わったことはありましたか? 大江 いや、具体的には一緒です。その人たちが培ってきた何十年があって、その何十年のことをお話してくれるので、それはすごく楽しかったし、いろんな演出家の人とも仕事してきたでしょうから、僕がどういうタイプの演出家なのか考えてくれたかもしれません。年齢に関係なく、人間って考えてることにあまり違いは無いんです。息子に「おかえり」といわれたとき嬉しいのは、息子だからうれしいわけではない。恋人が言ってくれても嬉しいし、何歳だからどうとかじゃなくて何歳になっても感じることは一緒だと思う。僕より年下の十代の女の子を演出するとなっても、子供はこうだという観点から接したら駄目だと思う。一人の人として付き合わなくちゃいけない。むしろ今の段階では、接し方の区別をしなくちゃやれない人とは一緒にやりたくない。 ――最初と最後を携帯電話でのやりとりで締め括るのは、その場にいない相手と喋る、タイトルにもある「距離」をあらわしているのでしょうか。 大江 前作『美しい術』でも携帯電話とコーヒー、喫茶店は出てきて、自分の中でどうしても出したくなってしまう何かなんだと思います。今回撮るまでに映画の醍醐味って何だろうと考えたんですけど、それは歩くシーンと食事をとるシーンと車に乗るシーン、電話をしているシーンじゃないか。携帯が普及する前だって、電話をするシーンは相当映画で使われてきたし。ゴダールの映画で電話をかけているシーンや車に乗るシーンは凄く印象的です。でも歩くシーンなんか全部切れるんですよね。だからといって切っちゃったら、何もかもなくしてよくなるかもしれない。お客さんに時間を使わせてるんですよね。だからこそ何か事件と事件が起こる合間には、歩くシーンや、車内での会話シーンで時間を使わせたい。やっぱり時間の使い方について意識しないと映画は作れないと思います。むしろ上手く使えないと、映画監督としてダメなんじゃないかという不安もあるし、それを自分に課してもいます。 ――ほとんどがハンディの撮影で、登場人物の目線に近い位置にカメラを置いています。撮影に関し意識されたことをお聞かせ下さい。 大江 原作読んでてブログを読んでるときに似た気分がしたんです。まあmixi日記が原作モチーフになってるんですが。ブログって自分のことではないので感情移入とは違うし、でも傍観でもない、横に居る人として、友人として話を聞いているみたいに読むじゃないですか。だから映画も見る人に近すぎず、遠すぎずの距離感を与えたかった。撮影をしているときに桜井さん(カメラマン)と三浦君(撮影監督)に、友人のポジションにカメラを置いてほしいと言いました。また、照明は演出家で、カメラマンは演者、そういう感じで映画を撮れないかと。  手持ちの撮影がほとんどだったのは、単純に機材を借りてくるお金がなくて、できたらステディカムが良かったと三浦とも話しました。カメラがずっと静止して止まっていたら疲れるから、安易ですがちょっとでもエンターテイメントに近づけるには動かそうと。お客さんのことを考えないとどうしても自分の好きなことをやってしまうんで、やっぱりエンターテイメントにはしたいんです。ただハンディの良さを当然ながら桜井さんと三浦君は主張してくるわけですよ。もっとダイナミックに動かせてくれとか、最終位置を決めずにルーズな画を作りたいとか言われたんだけど、それはやりたくない。手持ちで動いてしまいたい衝動を抑える、簡単にいけるのをグッと堪えることには凄く力が必要で、その力が画に出たほうが面白いんじゃないかと。 ――息子の日記の世界は黒い色調で統一されていますが、母の日記は白い色調ですね。また紺とグレーの2つのスーツも印象的なモチーフです。対立の図式が強調されます。 大江 でもパリッとした対立はやっぱり嘘くさい。対立構造は物語をつくるうえでどうしても頼りたいけど、図式で見られたくないし、黒と白で分けようにも、黒の中にあるいろんな部分を探っていくと紺になり、白を探っていくとグレーになる。人間もそうじゃないですか。最初は対立する者として見ますよね。母と息子は異性だし、年齢も違うし、いろんなものが白と黒で別れているはずなんだけど、その役に入って俳優と一緒に考えていくと、どうしてもお母さんは息子に対し、息子だけではなく男を求めているし、夫に近い存在でもあってほしい。それは息子の場合も然りで、母親に父親を求めていたりする。一人の人物の周りに複数のぼやけた像があるから、どうしても白と黒で分けられなくなっちゃう。  日記の内容は全部嘘なのかって言うと、そうではなくて全部現実ともとれるような構成にしたつもりです。だから両方の日記とも僕らが普段見ている現実にも見えるようにしたくて、最初は母と息子、どちらの日記かわからないように演出するつもりでした。でも三浦君から明かりを変えたいと言われて、話し合いの結果「下品にならないように変える」ことで落ち着きました。僕が嫌なのは、照明を全く変えることでどちらも嘘っぽくなることだったから、「この明かり強すぎない?」とか「もうちょっと緑を入れて欲しい」とか、やり過ぎにならないよう気を使いましたね。結果的には両方を違う感じにしても、どちらも現実にある世界に近くしてくれて、面白くなったと思っています。同じような画だと混乱させただけかもしれない。 ――様々な解釈のできる作品ということなのでしょうか。 大江 解釈されるのはちょっと癪だったりするんですよ。解釈で映画は見て欲しくなくて、でも解釈できない映画にするのは逃げだし。僕の中には一つの明確な解釈が存在しますが、僕は観客のかたに「どう思いました?」と言いたい。たとえば5人の人が中山さんと会話したとして、5人全員が違う印象を受けると思うんですけど、それに近い感じを映画で出せないか。ひとつの人格に近い、どう見るかによって変わってくるし、そこで自分に引き寄せて映画を見て欲しい。そして「こう見えました」「こう思いました」と意見をいただくことで、観客がどういう人かわかる。作家の意図で観客を操作するんじゃなくて、観客の一部分を刺激して、作品自体が観客のなかにどう入れるか考えています。  CO2の企画書を選考された際に、黒沢清さん、大森一樹さんといった選考員の方々から「字幕を使うのか」「日記というモチーフは大丈夫なのか」と言われたんです。でも僕は言葉の意味がわからなかった。「映画的ではない」から、字幕で説明しないで、映像の中で表現したほうがいいそうですが、実際どうなのでしょうか。  僕はあの字幕こそ映画的な手法じゃないかと今でも思っています。時間の使い方の一つですね。中盤のお父さんのことについて嘘を書き始める前の、画がないのに、長々と字幕を読むことでお客さんのなかで画を想像させることは、凄く映画的じゃないのと。お客さんに画が浮かんで、主人公の心が流れてくるわけですから。  ただ日付のクレジットを脚本では全部の日に入れるつもりでしたが、撮影の段階で途中から消そうと決めました。やはり息子と母親の日記が交じっている感じを出したくて。日付が出ているうちは差別化されているじゃないですか。でも途中から消えることで、それまでと観客も立ち位置を変えなければいけなくなる。傍観者にはなってほしくないけど、主人公に近付き過ぎてほしくもなくて、ちょっとずつ物語のなかに入っていってほしかった。 適切な距離2.jpg 『適切な距離』より 大江 話は変わりますが、今回のCO2の5作品中、1本はリム・カーワイ監督による中国から来た女性の話なんですが、4作品は家族に関する映画で、日本在住の監督達が揃って家族の話を扱っている。これは論じなきゃいけない問題じゃないでしょうか。是非、御覧になっていただきたい。  この映画は家族の話であると同時に、個と個の話にまでコミュニケーションの話を戻して、コミュニケーションを取れなくなった一人の男と一人の女が、どうにかして結論に向かっていく話にしたんです。いまはもう昔の家族は良かったなんて、そんなこと言っても戻れないし、後ろ向きで不毛すぎて言う価値もない。  いまの若い子ってみんな家族と仲良いんですよ。それが僕らの時、ちょうど原作が書かれた頃は核家族とか、バブル崩壊後みたいな家族間の分断の名残があって、そういう家族の形態に通じる描き方をしたつもりです。でもいまの日本で生きてて、持って帰れるものがある映画にしなければとは思っています。二人家族も多いと思うし、断絶しちゃった家族もたくさんあると思うんですけど、家族はいろんなかたちがあって良いし、世の中ってこういうものという模範回答に捕われないようになってきている。これは最初から最後までコミュニケーションをとらない二人が、ちょっといびつかもしれないけど、彼らにとって一番落ち着くかたちになるまでの物語です。家族に関してはそういう願いをこめてつくりました。 ――家族に関して、父親の存在の曖昧さは気になりました。彼はもしかしたら父親本人に会いにいく選択もあったかもしれないのに、あえて嘘で対抗します。   大江 これは原作から感じたんですが、父親には会いに行ってないけど、なんか会ったような気になるというのが一番良かったんです。自己完結といえば自己完結だけど、そこにも価値はあるんじゃないか。それこそ嘘の中にある真実、父親に会いにいかないがゆえに、会った以上にもっと大きなものを持って帰ったかもしれない。原作にあったこの感覚をどこまで演出できたか自信はないけど。 ――今後どのような作品を撮られたいと思いますか? 大江 無茶苦茶リアルな世界だけど、そこを超越しちゃう世界観を持ちたくて、今回はリアルな話だけれど全部嘘かもしれない日記の世界観を作りました。今後はもっとこの生きてる世界の方程式とはズレた世界観を作らないと成立しない、そういう映画をつくりたいと思う。段階を踏んでいきながら、フィクションの要素を少しずつ強くしていきたい。僕は日常の映画が得意なのですが、理想としては世界観をつくらないと成立しないものに興味があります。 適切な距離4.jpg 『適切な距離』 監督・脚本・編集:大江崇允  プロデューサー:戸田彬弘 原作:菊池開人 音楽:石塚玲依 撮影監督:三浦大輔 撮影:櫻井伸嘉 録音:竹内 遊 美術:寄川ゆかり 衣装:増川智子 メイク:平野美緒 スチール:miyuu 製作:チーズFILM  出演:内村 遥 辰寿広美 時光陸 佐々木麻由子 大江雅子 堀川重人   2011年/95分 【関連記事】 短期連載「大阪CO2に見るインディペンデント映画のいま」最終回  上映展レポート 神田映良(映画批評) 短期連載「大阪CO2に見るインディペンデント映画のいま」第2回 助成監督5人に聞く、4ヶ月間の激走を終えて 短期連載「大阪CO2に見るインディペンデント映画のいま」第1回  新生CO2の描く近未来ネットワーク図 『美しい術』 大江崇允(監督) 土田愛恵(主演)インタビュー 【上映情報】 CO2東京上映展2011 公式サイト: http://co2-tokyo-2011.jimdo.com/ 7月23日~8月5日、渋谷・ユーロスペースにて連日21:10よりレイトショー。 ・入場料金 前売券:1,200円 当日一般:1,500円 大学・専門学校生:1,200円 シニア・会員:1,000円 高校生:800円 中学生以下:500円 《スケジュール》 7月23日(土)『適切な距離』  上映後、大江崇允(CO2監督)、内村遥、辰寿広美、佐々木麻由子(以上、出演者)によるアフタートーク 7月24日(日)『聴こえてる、ふりをしただけ』  上映後、今泉かおり(CO2監督)。今泉力哉(映画監督)によるトークショー「夫婦対談」 7月25日(月)『新世界の夜明け』  上映前にリム・カーワイ(CO2監督)、小川尊、安藤匡史(以上出演者)による舞台挨拶。  上映後、奥原浩志(映画監督)、リム・カーワイによるトークショー「中国で映画を撮るというこ と」 7月26日(火)特別上映『MISSING』『面影 Omokage』  上映後、万田邦敏(映画監督)、佐藤央(映画監督)、富岡邦彦(CO2運営事務局長)によるトークショー「大阪で映画を撮るということ」 7月27日(水)『適切な距離』  上映後、山田雅史(映画監督)、板倉善之(映画監督)、大江崇允、加治屋彰人(以上、CO2監督)、「CO2出身監督VS本年度CO2監督トークバトル」 7月28日(木)『新世界の夜明け』  上映後、リム・カーワイ(CO2監督)、真利子哲也(映画監督)によるトークショー「反インディペンデント映画宣言1」 7月29日(金)『大野リバーサイドパーク』  上映後、村松正浩(映画監督)、尾崎香仁(CO2監督)トークショー「女性映画の作り方」 7月30日(土)『スクラップ・ファミリー』  上映後、Sleepyhead Jaimie(音楽提供)によるライブ 7月31日(日)『適切な距離』  上映後、向井康介(脚本家)、大江崇允(CO2監督)によるトークショー「映画作劇論序説」 8月1日(月)『聴こえてる、ふりをしただけ』  上映前、今泉かおり(CO2監督)、出演者による舞台挨拶 8月2日(火)『新世界の夜明け』  上映後、トークショー予定 8月3日(水)『大野リバーサイドパーク』  上映後、占部房子、野口雄也(以上、出演者)、尾崎香仁(CO2監督)による舞台挨拶 8月4日(木)『スクラップ・ファミリー』  上映後、関口陽子(出演者)、加治屋彰人(CO2監督)によるトークショー 8月5日(金)『聴こえてる、ふりをしただけ』  上映後、深田晃司(映画監督)、内田伸輝(映画監督)、今泉かおり、尾崎香仁、加治屋彰人(以上、CO2監督)によるトークショー「反インディペンデント映画宣言2」