映画芸術

脚本家荒井晴彦が編集発行人を務める季刊の映画雑誌。1月、4月、7月、10月に発行。2016年に創刊70周年を迎えました!書店、映画館、Amazon、Fujisanほかにて発売中。

短期連載「大阪CO2に見るインディペンデント映画のいま」最終回 <br>上映展レポート 神田映良(映画批評)

 2月26日と27日、大阪・梅田のHEP HALLで開催されたCO2(シネアスト・オーガニゼーション・大阪)は、今回で第7回を数える。両日共に、助成作品の上映に加え、トークセッションと特別招待作品の上映が行なわれ、映画を取り巻く国内外の現況が概観された。  助成作品5作品は、21日から25日、大阪・九条のシネ・ヌーヴォで先行上映された。限られた予算と時間の中、脚本の改稿という課題をも与えられた5作品。物心両面の爪痕と思しきものが残る作品と、それを瑕に残さぬものとで、玉石混交というのが率直な印象だ。 会場風景.JPG 会場風景 助成作品『適切な距離』(監督:大江崇允)  一つ屋根の下に暮らしながらも殆ど無視し合う関係でいる、母と息子。二人が互いに読み合う日記に、創作された虚構が次第に侵入する事で、その嘘の世界の中で、顔も合わさぬままの親子の関係が、静かに動き出す。母の日記が鏡台に置かれている光景には、彼女が自分の顔を見つめながら日記を綴る様を想像させられ、その心の裏側の、冷たい感触が感じられた。  同じ自宅や学校のシーンでも、雄司の日記シーンに対し、母が空想する息子・礼司が登場するシーンは照明が明るめになっている。雄司が着る黒光りするジャンパーと、母が職場で着る白衣、雄司が空想した父の白い服や、その住まいの白い壁などといった視覚的な区別は、次第に進行する虚実の交錯を演出する要素として利用されている。そして、雄司が着ていた格子柄の服を、礼司が着て現れたとき、思いのままに空想を綴る虚構の世界だからこその、嘘という倒錯のただ中で蠢く感情のリアルな手触りに、ドキリとさせられる。  そうしたメタフィクションな仕掛けは、俳優の身体性でも表現される。飲み会で雄司が、「嘘でしょ?」と茶化されながらも宴会芸としてやけっぱちな調子で語る、肉塊として生まれた双子の弟・礼司や、親からの虐待の記憶。礼司と母の穏やかなやり取りが、二人の台詞回しの変化によって急に波立つ瞬間の緊張感。その一方で、雄司が演劇を学んでいる設定を活かし、演技実習のシーンでは、「生みの苦しみ」や「笑い」を表す身体もまた嘘をつく事を暴いてもみせる。演劇畑の大江監督は、映像を通して俳優の身体を捉える作業を、ひとつの批評行為としてやってのけた印象だ。  こんなふうに幾重にも自己言及的な本作で、物語を動かす大きな要素は、弟と父という、日記の中で創作された虚構の存在。元々は、書き手にとって心地いいだけの存在として創作された彼らが、母と雄司の日記の間を行き来する事で、独立した「他者」として存在し始める。特に、礼司のどこか薄っぺらい笑顔の意味合いが微妙に変化していく様には、ちょっとしたサスペンスを感じた。  作品の冒頭では、「これは全て雄司の日記録の再現である」と宣言されている。それを前提として観れば、虚実が交錯する本作であるから、「(和美の日記)」と括弧で括られた母の日記さえ、雄司の創作という可能性がある。しかし作品は、そんな虚実の危うさに踏み込む事はせず、「適切な距離」というタイトルによって予め約束されたような適切さに収まっていく。そこが、筆者のような捻くれた観客には、少し食い足りないのだが。 tekisetu.jpg (C)チーズfilm 助成作品『新世界の夜明け』(監督:リム・カーワイ)  大阪・新世界の地域性を前面に出した作風で、CO2の会場であるHEP HALL付近のJR大阪駅周辺さえ一瞬、映る。そんな、現実との地続き感が魅力となりえた本作だが、ヒロイン・ココが新世界、というより、にわか作りのゲストハウス「NEW WORLD」にまず抱く幻滅と、その後の「NEW WORLD」への帰還とをつなぐものは、殆ど何も描かれない。ココ自身はキュートなので、「NEW WORLD」の残念な印象や、そこの青年の雑な性格などに対しても一緒になって怒ってしまうのだが、この青年とココが屋台でラーメンを食べるシーン辺りで感じた、いよいよココと新世界の交流が始まりそうだという期待は裏切られる。代わりに、バーのママの失踪事件と、謎の男に追い駆けられるココという、唐突かつ半端なサスペンスが展開してしまう。せめてママを地域にとって大事な存在として描くくらいはしてほしかったが、殆ど風景的な人物のまま失踪。彼女を探す青年らが脅迫電話を受けるシーンで深刻そうにカメラが引いてみせても、筆者の方は気持ちがサーッと引いてしまった。ママの息子とココの前に、黒眼鏡のいかにも怪しい男が現れるカットも、階段で話す二人を捉えたショットの上方に妙な空間があると思ったらそこに男が現れる形で、驚きに欠ける。続くこの三者チェイス・シーンにも幾つか疑問を覚えるカットがあるなどキレが悪く、こんなシーンが本当にやりたかったのかと、疑問符が浮かんでしまった。  一連の騒動が落着して後、ココは、彼女が当初望んでいたはずの、清潔で、中国語も通じるホテルに泊まるが、部屋で一人ぽつんと居る彼女に漂う虚脱感は単に、騒々しい出来事が終息した事によるもので、「NEW WORLD」の人々や新世界という場所との、煩わしさや困惑を経ての生きた交流から切り離された寂しさではない。その代わりにあるのは、彼女が中国人従業員と交わす会話の中の、日本の大学生のバイト事情などという、殆どどうでもいいような「社会性」。ココが友人と買い物をするシーンでの、中国産の多さに関する会話や、天安門事件への言及などの「社会性」も、ココの心情にどう響いたのかいまひとつ不明だ。  それだけに、ココが「NEW WORLD」に戻る事にも説得力がなく、ヤクザ絡みのひと騒動を描いたのだから登場人物間に絆が生じるのはお約束だといった、甘い考えが覗く。全篇を通して、映画の娯楽性や社会性に対する短絡的な思考が目立つ。ラストに至っては、それまで描かれていた諍いが何の伏線もなく解消されてしまう。ココと一緒に不安や幻滅を味わったこちらの心情は放置され、物語の予定調和の上に置かれた駒と化したココをただ傍観しているしかない。作り手はもう少し、観客の感情移入に責任をとってほしい。  「NEW WORLD」の狭さ、汚さに怒って出て行ったココが、ましな宿を求めて新世界を彷徨うシーンでは、殊更に暗く薄汚れた街が映されるが、「NEW WORLD」に帰還したココは、一転して明るく撮られた街を楽しげに散策する。ココを幻滅させた新世界の同じ街並みがそのまま印象を変じるような心理描写もなく、物語の都合に沿って汚くも撮り綺麗にも撮る即物的な印象操作で処理してしまう。これでは、生きた地域として扱われずに終わった新世界が可哀想だ。 sinsekai.JPG (C)新世界の夜明け 助成作品『大野リバーサイドパーク』(監督:尾崎香仁)  冒頭の、砂場の動物たちを捉えたクローズアップの迫力に、まず圧された。無人の公園にヒロイン・えりの息子が現れた瞬間、ショットに生気が与えられる。斜面を登る彼が砂で滑るカットや、生気のない母に触れる仕種で、その身体的な存在を印象づけられる。だが、えりが映画の中心に収まった途端、息子は後景に退く。その死さえ、知らぬ間に過ぎた事として描かれ、演出的に「生きた人間を殺す」事が避けられている。これは、陰惨な出来事を直接的に描かない倫理的な慎みとも解釈できるが、死の前にその身体性を予め抹消する演出には、えりが息子の遺体を隠蔽し、その腐臭を掃うのに躍起になる事と共犯しているような印象が拭えない。  えりの夫の出勤シーンで、遅刻しそうな夫の焦りを暗示する秒針の音は、過去に固執するえりと裏腹に流れる時間の冷徹さを感じさせる。「時計」は、えりの新たな職場で、彼女と同僚女性の仲を嫉妬しているらしい中国人女性が渡す目覚まし時計としても登場し、目覚まし時計はまた、同僚女性の過去の罪とも関係する。時計は更に、えり自身のトラウマにも関わる。二人の過去は「時計の停止」という共通項を与えられる事になる。  えりの異常な行動が、彼女と同僚女性との仲に隙間を生んだ後のシーンでの、ゴミ置き場を掃除する同僚女性の前にえりがうな垂れて立つカットでは、ゴミ置き場の床が僅かに高い事で、えりが小さな子供のように映じる。この象徴的なカットの後、同僚女性は、えりの全てを母性的に受容していく。えりの罪と自らのそれを重ね、過去との対峙も含めたえりの全てを肩代わりする彼女の存在は、些か都合がよすぎるように思えた。占部房子の鬼気迫る演技によるえりの情念は、誰にも受けとめてもらえないがために、スクリーンを越えてこちらに直に降りかかってきたのだが、同僚女性がその全てを回収し始めてからは、出来事はスクリーンの向こう側で完結してしまう。同僚女性はえりにとって「他者」というより、求め続けた母性を都合よく与えてくれる存在なので、映画自体も母胎回帰をして自閉してしまう。筆者としてはむしろ、完全に孤立したえりの彷徨の果てを見届けたかった。  えりが、一度はわが子の遺体を棄てた川。自らの身をも投じようとして為しえなかった彼女が再び川に入るとき、えり自身が「遺棄された子」としてそこに在る。だが、彼女から母性を与えられずに殺された子の方は絶対に生き返らないという、取り返しのつかない事態は黙殺されたままに思えた。えりが最後に口にする言葉も、どう受けとめたらいいのか戸惑わされる。それはまた、えりと母の関係が漠然とした「母子の葛藤」という以上の具体性を持たないせいで、えりの心境に掴みどころがないためでもある。  不穏さと稚気の混じるオープニング曲から始まり、無機質に時を刻む秒針、彷徨するえりのアップが重ねられるシーンでの、街のノイズと静寂、そして何より占部の、子供のように甘えた声の孕む、固く握られた拳のように頑なな情念。柔和な夫がえりに「もういいよ」と優しく呟く台詞がそのまま投げやりな言葉に変じる様など、耳で感情を揺さぶられた箇所は多い。 oono.jpg (C)OZAKI 助成作品『スクラップ・ファミリー』(監督:加治屋彰人  ホームレス殺害犯の娘から逃れて岡田一家が向かった祖父の家にいた、一体のリアルドール。無言の人形が「しずか」と呼ばれているのは笑えるし、その硬質で滑らかな顔面と、ぶよぶよと皺のよった手とのギャップにダッチワイフらしい機能性が見てとれて、不気味な可笑しさを感じさせられた。とはいえ、性的に枯れていそうな老人とダッチワイフという異色のコンビの面白さは、大して物語に活かされない。主人公格の少年・隆弘と祖父の交流に「しずか」が介在する他は、隆弘の母が人形を嫌い、世間体を気にする様が、娘の不幸や罪から目を逸らす態度の暗喩となってはいる。案の定、人形が死体と間違われるシーンもあるが、それを除けば、例えば女装趣味や、家がゴミ屋敷だといった設定でも代用できそうだ。ホームレス殺害と関連づけて、人を物のように殺す事と、物(人形)を人と同等に扱う事とを対比させるのかと思いきや、何もない。祖父自身もあまりに茫洋とした淡白な存在で、求心力に欠ける。母が若い女に「全てが義務っていう感覚、分かる?料理も子育ても」云々と語る台詞の中には「セックス」も含まれているので、彼女が嫌悪していたダッチワイフに、次第に共感を覚え始める展開があってもよかった。レストランでバイトを始めた父が、求められる役割を演じえずに叱られる事や、祖父が夜空を指さして星座の名を挙げるシーンには、『空気人形』(監督:是枝裕和)の板尾創路を想起させられた。ラストシーンで短いカットを重ねて群像劇を見せる演出も似てはいる。何も『空気人形』の剽窃だと批難する気はないが、そうした既視感を超える個性がもっと欲しい。  笑えたのは、娘の友人が訪ねてくるシーンの、祖父が「しずか」を逆さに持って無言で廊下を通り過ぎる箇所。祖父の足音のドン、ドン、ドンという淡々としたリズムが更に可笑しい。だが「しずか」を大事にする祖父が逆さに持つ行為は不自然にも感じた。ヒステリックで狭量な女として戯画的に描かれた母が、夫の前で突然ヒーローごっこを始めるシーンも、そこに至る心理描写が薄く、爆発力を得ない。刑務所シーンでは、窓の格子に人一人通れそうな隙間が開いていたりと、描写に現実の厚みが欠けている。  だが、編集やアクション演出の瞬発力は気に入った。冒頭シーンで、娘が男子生徒に声をかけられた瞬間、事が済んだ後の彼女の表情へと切り替わる、思い切りのいい省略。少女が怒声と共に投げたミカンがフレーム外から飛び込むカット。フレーム外から駆け込んだ隆弘の、思いがけない相手への、思いがけない蹴り。「しずか」の首が、叩かれたテーブル上で跳ねる短いカット。隆弘が遂に家出を実行するシーンでの、その決意のほどが表れた重装備のランドセル姿を捉えたカットが挿入されるタイミング。そうした瞬間的な驚きで映画を紡ぐ力は捨て難いので、あとはアイデアを充分に練る持続力が欲しい。 scrap.jpg (C)Akihito Kajiya 助成作品『聴こえてる、ふりをしただけ』(監督:今泉かおり)  恐れの対象である幽霊と、亡母が魂になって見守ってくれているという、少女への慰め。この二つの事柄を絡ませる着眼点が目を引くが、作風はとてもスクエア。まっさらな空気感をそのままフィルムに定着させた素直さが、作品の力となっている。その静けさは、ときに垣間見える少女たちの残酷さも際立たせる。特にヒロイン・サチがそれを覗かせる瞬間は、心理的な必然性に沿いながらも、観客に驚きをもたらす。彼女が、友人である希に向かって投げる、短くも鋭利な或る言葉が、一度目と二度目では、微妙に、だが決定的にそのニュアンスを違えている繊細さ。子供の残酷さは、抉り出されているというより、残酷さという現実も含めて全てを受けとめる優しさで包み込まれている。そんな作品の空気は、全篇を充たす、細やかで純白な光の温かみが醸し出すものでもある。サチを演じた野中はなは、口数少ない少女が、母の死と共に静止した時間の重みを、密かに孤独に耐えている様を体現している。戸惑いながらも一心に何かを見つめているような、いつも身の置き場所に僅かな困惑を抱えているような寂しさが、その全身から伝わってくる。  サチの父は、娘と同じく、妻の死後、その時間を停止させている。喪失がもたらす虚脱感によって静かに変調をきたしていく父によって、逆にサチの時間は、後戻りのできない瀬戸際へと追い詰められていく。父が、亡妻の指輪をお守りとしてサチに与えたのも、娘を通して妻を延命させようとした代償行為として映じてくる。その証拠に、彼は毎日、下校したサチから指輪を返させていた。父自身が薬指にはめた指輪が、そのだらりと垂れた手に見えるカットが挿まれたとき、舞台装置の裏側が覗いて見えたような、静かな崩壊が胸をつく。  希をいつも迎えに来る母親は、遠くの方にぼんやりと見える人影として写り、抽象的な「母親」のイメージとして現れ、同じく抽象的な存在であるサチの亡母のイメージと重なる。それ故、希が母と並んで現れるカットで、この母が一個の身体としての存在を浮き上がらせたとき、サチが母の死という現実と改めて向かい合い始めた事が感じとれる。そして、遠からずしてサチ自身の母の肖像が、他の誰でもないその顔として現れる瞬間をも、待ち望む事ができるのだ。終始、表情に静けさを保っていたサチが、母の魂の臨在という慰めによって却って抑圧されていた感情を、遂にその顔に発露させる長回しのカットでは、うな垂れ、髪の影で暗くなっていた顔に光が当たる。それは、サチの哀しみを無言の内に優しく清める、慰めの光のように感じられた。 kikoeteru.JPG (C)Kaori Imaizumi 特別招待作品1『梨の女(原題:PEAR)』(監督:ジャン・ツーユー/中国)  梨を集めて街に来た男は、娼館で働く妻の傍で、無為に時を過ごす。娼館内を染めるピンクの照明と、点けっぱなしのテレビ画面の空疎な光。反復される、事を終えた客が店の奥から出てきた後に、男の妻がタライを手に現れる光景が、静かに悲痛だ。ドラム缶から煙が昇るのを捉えた無人のカットや、店から男が外出する姿を、廊下に干された女の下着越しに見せるカットなどに、苦くも甘い寂寥感を噛みしめさせられた。  上映後の質疑応答では、中国政府にとって些か都合の悪い内容の映画ではないかという観客の質問に対し、監督は、有志による上映会等は別だが、やはり映画館では公開できない状態だと回答した。その一方、本作のエグゼクティブ・プロデューサーである奥原浩志氏によると、中国での制作では人からの援助が多く、日本のような苦労は少ないという。映画に加えられる制約は、国によって様々だと改めて実感した。 特別招待作品2『ギ・あいうえおス –ずばぬけたかえうた-』(監督:柴田剛)  サイレント映画のように始まる冒頭の、点在する水溜りを轢いて走る車が上げる飛沫のリズム。無音の静謐さと、大きく揺れる車内の視覚的な騒々しさ。スタッフがキャストでもあるこの即興的かつ野生的な作品で特別な位置を占めるのが、録音用のマイクだ。通常は影が映る事さえ禁じられるその存在が、「映画」の自明性を解体する。例えば、一同が車で出発するカットに、置き去りの録音技師が映る事で、「出発のシーン」として演出されたその虚構性が露わになる。音は、映像に対する「適切な」位置から解放され、ショット内のマイクの位置がそのまま響きとして観客の耳を打つ。そうした空間性の他、時が止まったような無音がノイズと入れ替わる事で、映画内の時間も二重化される。  上映後のトークで監督は、「原曲がある替え歌なのにずば抜けるというのは凄い」、「“あいうえお”という母音を超えるバンド」などと、スケールの大きなユーモアを発揮。音の響きと戯れる作品のセンスはタイトルに既に表れていたのだと、改めて気づかされた。 トークセッション1「映画はできた。それからどうする?」  製作者、配給宣伝、研究者等の肩書きを持つ登壇者らは、自主制作の作家が、どこかに作品を預けた後は宣伝等を任せきりにする傾向があると指摘。例えば若松孝二監督のように、上映に至る過程全てに自主的であれと主張する。これは、インターネットの登場により、映像を発信する手段が身近に、かつ多様になった現状を踏まえての提言でもある。確かに、ブログやツイッターといった新たな口コミ手段によって注目が集まる作品も出ているようだ。だが、映像自体をネットで配信する場合は、ネット利用という日常性が映像体験の質を変えてしまいそうだ。そこに踏み込んだ議論が聞けなかったのは残念だった。  最近のミニシアターが、外国の小品に観客が入り難い現在、自ら観客を呼ぶ姿勢を持つ自主映画を歓迎しているという話も出た。他、日本ではカンヌ映画祭のブランド価値が特に高く評価されている為、多くがカンヌに出品し、審査終了まで他の映画祭が作品を上映できない事に苦言が呈された。九割がたの作品はカンヌに落選する。ベルリン映画祭に絞って出品する若松監督を例に、各映画祭の選定基準を見極めるよう提言が為された。  ただ、他ならぬこのトーク自体が、観客を呼んで行なう映画祭の一企画であるだけに、観客の視点に立ってコメントするゲストを加えるとか、観客からの積極的な提言を促すなどして、映画業界内の話にとどめない工夫はあってよかったかもしれない。 トークセッション2「助成監督トークバトル」   助成監督五人に対し、大森一樹監督、黒沢清監督からの批評が為された。大森監督からは特に、人間が記号的に描かれがちな事、記号と記号では図式しか描けないという指摘があった。その点は筆者も、幾つかの作品では特に気になっていたところだった。また大森監督は、今泉作品の撮影場所となった一軒家に着目。「あの年齢の夫婦が暮らす家としては大きく、夫の仕事は何なのか等の余計な事を観客に考えさせてしまう」と、監督一人の構想に偏りがちな自主映画の問題として俎上に載せた。尤も、空虚な空間を広く持つ一軒家が、あの作品の雰囲気作りに貢献していた面もあったようには思える。今泉監督本人は「幸せな家庭は庭つき一戸建てというイメージなので」と、違った理由を話してはいたが。  一方、黒沢監督からは、「家族なんて、よほど興味がなければ描く必要もない。家族同士だと、大抵こんなふうに葛藤するよね映画の中では、といった描き方が目立ったが、無視という関係があってもいい」と、黒沢監督らしい観点からの提言が為された。助成作品には、大江監督が指摘した「家族」の他に「死」というテーマも多く見られた。その点について筆者が質問したところ黒沢監督からは、「死の瞬間」を描いたのは加治屋作品のみで、殆どの作品では「死」は済んだ事として描かれていた、という指摘が為された。この点も、描写が記号的(つまり抽象的)だという先述の話と相通ずる面はあるだろう。  概ね、大森監督の発言の後、黒沢監督から全く異なった趣旨の発言が為されるというパターンが見られ、その度に客席から笑いが起こった。それはまた、発言内容が黒沢作品の映画的記憶を想起させ、観客をくすぐったからでもあるだろう。 授賞式.JPG 授賞式  今回「シネアスト大阪市長賞」を受賞した『適切な距離』は、大阪アジアン映画祭での上映が決定。助成作品中、最も野心的で、完成度も高かった大江作品の受賞は妥当だろう。だが筆者としては、今泉作品の素直さの持つ力も推したい。尾崎作品はデウス・エクス・マキナ的母性の導入で牙を抜かれたが、それでもなお、埋もれるには惜しいものがある。  一方、「観客賞」は、1点から4点を選ぶ投票用紙が各作品の上映時に配布されるので、観客数に左右される上、必ずしも全作品を比較した投票でもない。集客率も評価基準に含むのなら別だが、投票権をフリーパスと一緒に販売する等の方法も検討していいだろう。  最後に、映画祭全体を通して、個人的に最も感動的だった事を述べさせていただきたい。それは、俳優たちの姿だった。種々の制約と困難を乗り越え、辛うじて実現される「映画」に於いて、作品の構想や、制作の物理的条件が決して満足でなくとも、本来は無である虚構の世界を全身全霊で支え、自らの身体によって肯定する俳優たち。舞台挨拶で何人かの出演者を目にしたためでもあるが、その姿には、強く胸を打たれた。 <第7回CO2助成作品受賞作品> ■シネアスト大阪市長 (選考委員会が、最も優秀であると評価した作品に授与) ・大江 崇允監督作品「適切な距離」 ■シネアスト選考員特別賞 (選考委員会が、企画時点からの成長が最も顕著であると評価した作品に授与) ・今泉 かおり監督作品「聴こえてる、ふりをしただけ」 ■CO2俳優賞 (選考員会が、5作品の出演者のうちから、最も優れていると評価した俳優に授与) ・男優賞:内村 遥「適切な距離」 ・女優賞:野中 はな「聴こえてる、ふりをしただけ」 Panasonic技術賞 (選考員会が、5作品のうちから、技術面で最も総合評価の高いと評価した作品に授与) ・リム・カーワイ監督作品「新世界の夜明け」 ■観客賞 (作品ごとに投票用紙を観客に配布し、1~4点の得点制で最も合計点が高かった作品に授与) ・リム・カーワイ監督作品「新世界の夜明け」 ※シネアスト大阪市長賞の『適切な距離』は大阪アジアン映画祭のプログラム「アジアンミーティング大阪2011」の下記日程で上映 3月11日(金)20:00 シネ・ヌーヴォ 3月14日(月)19:30 プラネット・スタジオ・プラス・ワン