映画芸術

脚本家荒井晴彦が編集発行人を務める季刊の映画雑誌。1月、4月、7月、10月に発行。2016年に創刊70周年を迎えました!書店、映画館、Amazon、Fujisanほかにて発売中。

映芸ダイアリーズ 2010日本映画ベストテン&ワーストテン <br>若木康輔、近藤典行、萩野亮、千浦僚

若木康輔(ライター)

ベスト

1 ノルウェイの森(トラン・アン・ユン)

2 ケンタとジュンとカヨちゃんの国(大森立嗣)

3 おとうと(山田洋次

4 時をかける少女谷口正晃

5 パートナーズ(下村 優)

6 名前のない女たち佐藤寿保

7 堀川中立売(柴田 剛)

8 ゴールデンスランバー中村義洋

9 桜田門外ノ変佐藤純彌

10 ばかもの(金子修介

ワースト

1 十三人の刺客三池崇史

2 SPACE BATTLESHIP ヤマト(山崎 貴)

3 告白(中島哲也

4 踊る大捜査線 THE MOVIE3 ヤツらを解放せよ!(本広克行

5 ソラニン(三木孝浩)

6 犀の角(井土紀州

7 完全なる飼育 メイド、for you(深作健太

8 キャタピラー若松孝二

9 ランニング・オン・エンプティ(佐向 大)

10 戦闘少女 血の鉄仮面伝説(井口 昇・西村喜廣・坂口 拓)

【20本について①:東宝帝国の憂鬱】

 例え成功の確率が少なくてもやるぞ! と突貫精神を断行する青年リーダーを賛美する映画を、現代の新作として見ることが恐ろしい。自分があの場にいたら、絶対に勝ちたければ勢いで無用なリスクを背負うのは避けましょう、なんてうっかり言って仲間外れだなあ、慌てて「さすが古代さん!」とか言って必死にゴマをするんだろうなあ、と『十三人の刺客』と『SPACE BATTLESHIP ヤマト』をそれぞれなかなか面白く見た後、大日本帝国の黄昏的憂鬱に深く陥った。

 東宝=1人勝ちのメジャーへの色眼鏡か? と自問自答してみたが、わからんちんを相手にしたら三十六計逃げるに如かず、のホラ話をスイスイ見せる諧謔のなかに反骨のひとつのありかたを示してくれた『ゴールデンスランバー』も東宝配給だった。

 その東宝のサラリーマン喜劇の伝統を受け継ぐシリーズだった『踊る大捜査線 THE MOVIE3 ヤツらを解放せよ!』は、おしまいの頃のクレージー・キャッツ映画のように暗い疲労感が漂い、僕はむしろ感傷的な気分で見た。映画にせよ番組にせよヒットして続編がさらに当たってしまったものは、内容と数字が大幅に落ちない限りは終わりたくても終わらせてもらえない、慣性の法則めいたものに縛られる。そうして実際に落ちたら、ぜひ続編を、と言っていた人たちほど手のひらを返す。『踊る』がその“因習”に抗って沈黙を続けてくれたら青島クン、カッコイイよな、と思っていたので残念。でも、長い間ごくろうさま。

【20本について②:『告白』】

 世間体に沿うという意味で〈ちゃんとしてる女の人〉が時たま見せる〈ちゃんとしてない人〉への苛烈な視線には、ドキッとするのでそのたび気付かない振りをしている。〈ちゃんとしてる女の人〉は〈ちゃんとしてる〉がゆえに、〈ちゃんとしてない人〉の〈ちゃんとしてない〉ところがムカつく、死ね、なんて本音を露骨にはほぼゼッタイに口にしない。しないぶん、溜まる。なので心理的手続きとして、「人に迷惑をかける」「命の重さを知ろうとしない」といった社会的に〈ちゃんとしてる〉根拠を映画や小説が用意さえしてくれれば、〈ちゃんとしてる女の人〉はおおっぴらに〈ちゃんとしてない〉連中がコテンパンにされる劇を愉しめる。かつて木下惠介成瀬巳喜男の女性映画が商業的にも成功したのは、そこらへんの建前を冷たいほどに巧く汲み取り隠し味のサービスとして盛り込んでいたからで、別に昔の観客がみんな通だったわけではない。専門家が世情・人情から切り離した作家論を構築する以前に木下、成瀬の映画は女々しいと鼻をつまんだ人達の皮膚感覚も、そんなに間違ってはいないのである。

 上記のことを、『踊る』とのバトンタッチのような劇的ヒットによって記録に残るだろう『告白』を見て考えた。これが現代のスクエアな女性の建前にアピールする映画か、とずいぶん感心し、かつそれを残念に思った。僕も「命の重さ」とはどういうものか本当は未だによく分からないままでいる。あの生徒たちと大差ない人間なので、どうぞ罰してください。

 しかし『告白』を見て、木下の『日本の悲劇』をリアルタイムで見た人が受けたインパクトを疑似体験できた気がしたのは有意義だった。松竹ヌーヴェル・ヴァーグ震源地となった映画と重ね合わせているほどだから、末梢神経を刺激されただけで傑作! と飛び上がった人たちより僕のほうがよほど『告白』を高く評価していると言えなくもない。皮肉なようだが、ワーストを挙げる意義のひとつはそこかなと思う。

【20本について③:共感と夢と原作】

 映画を評価する基準に共感めいた物差しを持ち込むと目が曇る、と戒める意識がふだんは人一倍強いので(自分の経験そっくりの場面が泣けたというやつ)、『ノルウェイの森』を見た時の胸苦しさは一体どうしたものかと思う。具体的に良かったところはいくつも書きだせるのだが、それにしてもなんであんなにメロメロになったのか見てから2ヶ月経った今はフシギで、夢でも見ていたような気分。しかし、夢でも見ていた気がするなんて言葉は、絶賛とほぼイコール。ベストでいいのだ。

 夢は夢でもほとんど悪夢だったのは『ソラニン』。昔から苦手で今も苦手な文化サークル系(夢の繭系とも内輪系とも)の女の子と男の子しか登場せず、しかも彼らの全てが美しく肯定されるという。だが、敵の欲望を知るという意味ではとても参考になった。

 『ノルウェイの森』に関しては、原作や原作者を意識するフィルターを全く置き忘れた状態で見たのが良かったみたいと思っているのだが、『犀の角』のように「スッタニパータ」の一節がアタマにドンと出てくると、岩波文庫版をけっこうじっくりと読んだことがあるもんだからどうしても意識してしまう。ゴータマ・ブッダのことば(正確にはブッダの発言である可能性が一番高い経典)を教条的に唱える集団、という描かれ方がどうにも解せなかった。ブッダは自身をあくまで修行者のひとりと捉え、教団主であることを否定しているからだ。2ヶ月近くグズグズ考えてようやく、開祖の説法も時を経れば曲解・権威化される宗教の課題のカリカチュアなのか、と解釈するに至った。しかし、あれでは宗教アレルギーの人の仏教への誤解を助長しやすい、という引っ掛かりは依然として残る。

 正確を期すために言っておくが、SF映画の宇宙空間でロケットが火を噴くのはけしからんレベルの良識派的イチャモンを、わざわざ僕は付けている。『犀の角』は大人の存在しないネバーランドの初恋譚として甘美に完結しているのであって社会とか宗教とか関係ないのです、と弁じられる回路は僕の中にもある。しかし、明治以来の日本が宗教教育を棚に上げ続けてきた不自然さ(吉田兼好鴨長明のようなエッセイストは教えても親鸞道元のような哲学者は無視してきた)が長じて、映画がモデルにした団体の生まれる土壌が作られたわけで。モデルにした以上は設計にもう一越えの配慮を、と映画ファンではなく一般人の立場からお願いしたい次第。もしも映画一揆関係者・支援者のなかにこいつの言わんとすることも分からんでもない、と思ってくれる人がいれば、本宮ひろ志の短編漫画「白い夏の日」を読んでみてほしいな。本当にやりたかっただろうことはこちらも察してはいるんですよ、というサインとして。

【20本について④:古いものと新しいもの】

 オールド・スクールのマナーに則って作られた正統派の商業映画と、面喰らうほど尖った、基準を刷新してかかるような映画。両者が軒を並べている状態が健全だと思っている。なので今年の自分のベストは、好きな街の商店街のようで嬉しい。

 『おとうと』は、シリーズを続けている間にあちこちムリがきた『男はつらいよ』シリーズの、その矛盾に決着をつけたもの。『京都太秦物語』と合わせて、実は僕の2010年は山田洋次の年だった。誤解している人が圧倒的に多いが、山田洋次の場合は古いのではなくて、新人だった『下町の太陽』の時点から常に一貫してしつこくズレ続けているのである。異形のひと、デモーニッシュなひとだと僕は昔から本気で思っている。

 一方でその古さ、あまりにもな一頃の東映っぽさにジンときたものの、どう良かったかうまく説明できない、説明できないのにベストに挙げるのはやはりどこか問題な『桜田門外ノ変』がある。あとで後悔する気が早くもすごくしているのだが、2010年の僕の刻印として外さないでおく。

 驚くほど古典的SFのキモをきれいに押さえていた『時をかける少女』、あくまで近代映画協会の制作である点がポイントの『パートナーズ』、本サイトで書いている『名前のない女たち』はそれぞれ、オーソドックスとエッジの立った部分の混ざり具合が快かった。こういう、安心して見ていられるなかに新鮮な提示を受け取れるタイプの映画を、もっと積極的に探さないといけないかもしれない。『ばかもの』も基本的にはそうで、主人公が孤立するプロセスをしっかり見せるところにつくづくプロの演出の怖さ、凄みを感じたが、主人公が再起した後に周囲に見せる終盤の無頓着さは、ワーストに挙げたどの映画よりも不愉快だった。あれはどういうことだろう? それだけよく出来ているのだとベストに選んだものの、(でもあの1点で好きな映画じゃなくなった……)というモヤモヤは残る。

 逆に、一見崖っぷちを目隠しで走る無茶だけで成り立っているような『堀川中立売』。〈地球の平和を守る使命を帯びた者は有事以外ではクソの役にも立たない〉というありようは、連綿と作られる和製変身ヒーローもののアキレス腱にいきなりナイフを突き立てるもので、相当ワクワクした。このワクワクは、大友克洋の漫画を初めて読んだ時の気持ちに近い。『戦闘少女 血の鉄仮面伝説』だって相当な描写を敢行しているはずなのに、ベストに挙げたどの映画よりも去勢されている気がした。両作を隔てるものがなにかは、まだちょっと分からない。

【20本について⑤:ベストとワーストは紙一重

 以上、ベストの難点を書いたり、ワーストを評価したりした。ひねくれているようだが、僕にとってはベストとワーストは互いに影響しあう合わせ鏡のようなものだ。『キャタピラー』はラジオの大本営発表を農婦が楽しみに聞く、そんな抉るような場面を描いただけで(いかに全体がガタピシしていようと)十分ベストに挙げるにふさわしい。そうも考える自分の基準自体が、常にアイマイで頼りない。ほんとに空っぽではないかと疑った『ランニング・オン・エンプティ』の良さが後で分かるようになれば、喜んで不明を認めたい。『ケンタとジュンとカヨちゃんの国』と『完全なる飼育 メイド、for you』については本誌に書いている。

近藤典行(映画作家

ベスト

・さんかく(吉田恵輔

書道ガールズ!!‐わたしたちの甲子園‐(猪俣隆一)

スイートリトルライズ矢崎仁司

 少女の命ほど短いものはない。何よりもその事に自覚的なのは彼女達自身だ。男がいつまでも少年である事をごく稀に、軽蔑と支持のどちらかで許される事はあっても、女性が少女でいつづける事は万に一つもない。ほんの僅かな瞬間であるからこそこの上なく輝きを放ちうるのだし、俗な言い方をすればそのことが代えがたい商品価値を生んだりもする。奇しくも私がちょうど高校生だった頃、少女という存在の価値が急激に高騰し始めた時期だったと記憶している。社会学宮台真司氏云うところの「ブルセラ世代」だ。少女たちが自分の商品価値の高さを知ってしまった世代の始まりだ。しかし当時コギャルと呼ばれ持て囃された少女たちも当然一瞬にして少女足り得なくなったし、すぐにそれまで通りの女の人と同じ幸せを求めていくこととなった。今の少女たちも同じ道を辿るのだろうか。輝ける時間に十分自覚的に、それはそれで割り切って、その後は何の未練もなく落ち着く場所に落ち着いてしまうのだろうか。いや、時代と共に新しい少女の出現の可能性を捨てきれない私がいる。今の少女たちの目にこの現在の世界がどう映っているのか、私の興味はそこいらへんのところにある。

 続ける。今更言うのは後出しのようで憚れるのだが、ごく近しい人はご存知、実は5年も前からAKB48をネ申推ししている。というのも、その当時に50歳のおっさんと15歳の女の子の映画の企画を進めていて、そのキャスティングの情報集めに奔走していた時にAKBにぶち当たってしまったのである。んで、これもいくら書き綴っても真意はなかなか理解してもらえそうにないが、現在のアイドル戦国時代にあって(これを詳細に論じようと思えば最低でも原稿用紙20枚はかるく書ける、のでどなたか原稿の依頼をくれないだろうか)、その中でもAKBにこだわる理由は推しメンが誰だとかそういったことでは全くなくて(無論A、K、B、それぞれのチームの16人、計48人、全員顔を見ればフルネーム、ニックネーム、キャラクターとしての立ち位置、なんかはすらすら出てくるが。研究生だって半分くらいは顔と名前は一致している)、私の関心はアイドルが作り上げられていくシステムの方で(誠実で的確な映画批評家でもある宇多丸氏に言わせれば、つんくは音楽を信じる「表現」の人、秋元康は徹頭徹尾「システム」の人となる)、んで、そのガチガチに仕組まれたシステムに突如びゅーっと風が吹く瞬間(この表現は批評家廣瀬純氏によるもの)に直面したいのであって、だから歌がうまいとかダンスがうまいとかスタイルがいいとか、そんなものはアイドルにとって二の次の要素でしかなく(なにやら韓国のアイドルがそのような武器で大挙してやってきては評価と人気を得ているようですが、そんなもんで日本のアイドルに勝てるわけがありません)、裏のシステムが透けて見えるのも厭わず、楽屋裏舞台裏を晒し、少女達が暴風に耐えながら前に進む姿を提示するところにある。この日本のアイドルが美点として持つ「ほつれ」を映画にいかに導入するか。日本の「アイドル映画」はその奇跡の遭遇によって傑作を生み出してきたのだから。

 2010年入ってすぐ3年ぶりとなる拙作の撮影に突入したこともあり、その後のポストプロダクションなど合わせて、それが終わると試写、と一年それに掛かりきりだったので、去年は新作日本映画を50本ほどしか観ることが出来なかった。その拙作が男二人の話のムサい映画だったので、観客として映画を観ている間中、例年になく「女優」ばかり見つめていた。いや、「少女」に近い「女優」さえきれいに撮れていればそれだけで満足でさえあった。これは例年通り。

 表情が乏しいように見えるがそうではなく、脈々と受け継がれる、真顔で次々とドタバタを起こしうるコメディアンの才覚を生まれ持った桜庭ななみの素材の良さを作品に落とし込んだ、『書道ガールズ!!わたしたちの甲子園』には、キャスティングを含めた演出によって桜庭ななみを真のコメディエンヌに仕立て上げてくれたことを心から喝采したい。憎たらしいほどの小悪魔っぷりをまざまざと見せつけた『さんかく』の小野恵令奈、それとは真逆の魅力を湛える清純でしかない『RAILWAYS 49歳で電車の運転士になった男の物語』の本仮屋ユイカ。とてもいい。それでいえば、突然コックピット越しのキスでキムタクから映画を奪還するツンデレ黒木メイサのおかげで『SPACE BATTLESHIP ヤマト』だって全然許せたりもした。いつまでも少女性を留めているかにみえる『スイートリトルライズ』の池脇千鶴の肉感的なあどけなさにはクラクラきた。これを戦略的に駆使できるのも少女の少女たる所以だ。個人的な好きな女の子のタイプでいえば、前述した『書道ガールズ』、それに『武士道シックスティーン』と『ねこタクシー』の山下リオ、どちらかというと暗い表情をしたときに少女の儚さを全身から発散させるその地味な立ち振る舞いが、それぞれの映画のトーンを安定させる様に最も心魅かれた。

 2010年11月23日、勤労感謝の日、私は石丸電気のイベントスペースフロアにいた。関係者扱いとして入場させてもらったそのCD発売イベントで、初めて見るエビ中私立恵比寿中学)のパフォーマンスを多くのファンの方々と体験していたわけだ。初めて聴く、『えびぞりダイアモンド』という曲中、「わるいことをしたときはね ごめんて謝ろ そうすればケンカも争いも戦争だってなくなると思うんだ」、と台詞で二人の女の子の口から発せられた瞬間、そのあまりのピュアな響きになぜかジーンときて、うろたえてしまった。その日は、決してごめんとは云わない北朝鮮が韓国に砲撃した、まさにその日でもあったのだ。2011年、こうしてる今も世界の至るところで銃弾が飛び交っている。

萩野亮(映画批評)

ベスト

1 堀川中立売(柴田 剛)

2 ヒーローショー(井筒和幸

3 私の優しくない先輩(山本 寛)

4 アメリカ‐戦争する国の人びと(藤本幸久)

5 バチアタリ暴力人間(白石晃士

6 アウトレイジ(北野 武)

7 玄牝 ‐げんぴん‐(河瀨直美)

8 The Depth(濱口竜介

9 これで、いーのかしら。(井の頭) 怒る西行沖島 勲)

10 キャタピラー若松孝二

ワースト

1 告白(中島哲也

2 ケンタとジュンとカヨちゃんの国(大森立嗣)

3 ロストパラダイス・イン・トーキョー(白石和彌

 都合三度見るも依然として言葉による要約を受け付けない『堀川中立売』が仕掛けた真夜中の戦争に、加担したい。スラヴォイ・ジジェクが『いまだ妖怪は徘徊している!』を発表したのは1998年のことだが(邦訳=情況出版、2000年)、それから10年余を過ぎたいまもなお資本主義社会は「妖怪」を生み出し続けている。『堀川中立売』は現代の『共産党宣言』や! と叫ぶのはあるいは正しいことかも知れないけれど、重要なのは体制をぶっこわすことではなく、ゆるくつながることで体制に抵抗しながら、京都の路地を「半笑い」で駆け抜ける愉しさにある。なしくずしに加速する暴力を郊外に認めた『ヒーローショー』もまた、とにかくぶっこわれてしまった人間と人間が、やはりゆるくつながりあうことで都市を生き抜こうとするさまを描いていた。井筒映画のキャスティングのうまさがここでも際立っているが、完全に人間のこわれたことが判明する消費者金融のシーンにおけるジャルジャル福徳の「半笑い」はほとんど神がかっている。この二つの映画が、たとえば「テン年代」の開始を告げるものだと評者が信じてやまないのは、両者がきわめて鋭利に現代社会を眺めつつ、かつそれをマトモに請合うのではなく「半笑い」の表情をたぐいまれなしなやかさで貫き通し祝祭化する、そのサイケな愉しみかたゆえである。

 ともに三人の男女が「ここではないどこか」を求めてさまよう『ケンタとジュンとカヨちゃんの国』と『ロストパラダイス・イン・トーキョー』もまた、ぶっこわれたその先へ行こうとしている(ワーストへ入れたが、むしろベストの番外編のように考えていただきたい)。前者は、孤児院や廃材置場など、すでに大森立嗣的といいうるアイコンを散りばめた一種のファンタジーであるわけだが、たとえばルンペンの小林薫の衣装や小屋がいかにも「きれいに汚した」感じだったことに、その限界を感じた。安藤サクラの「タイタニックして」は、2010年を代表する名台詞。

 演出・演技・撮影が、いっときも気の抜けない画面を作り出していた後者は、中盤まではほぼ完璧と思える作劇を見せていたが(三人が埠頭に現れる横移動に泣いた)、後半以降の展開はあまりに性急に思えた。関係性の描写に説得力があっただけに、空き地でのミュージカルシーンがピークになってしまったのがもったいない。内田慈を発見。

 これらの野心的なフィルムにも増して、監督自身がぶっこわれていくのは『バチアタリ暴力人間』だ。同じく2010年に公開された『シロメ』とあわせ見れば、白石晃士がいかに緻密な計算と大胆な戦略と豊潤なサービス精神を持ち合わせているかがよくわかる。前年の大傑作『オカルト』(2009)も含め、これらの作品で行なわれているのはフェイクドキュメンタリーを解体し超えていく試みだととりあえずはいえるが、たとえばそれは『第9地区』(ニール・プロムカンプ、2009)のように、フェイクをメロドラマに接続することで何となくごまかすことではなく、あくまでフェイクの構造を貫きながら、いかに別の次元へゆくかを実践している点でゆるぎない。複層的な仕掛けが演出と素(す)の境界を失効させてゆく『シロメ』はそのもっとも巧緻な例だといえるが、『バチアタリ暴力人間』の、ひたすらバチがアタるまでテンションを加速させてゆくことで同時にフェイク構造を内側から突き破ってゆく爽快さは比類がない。ちなみに、『making of LOVE』(古澤健)は、『第9地区』と『失楽園』(川島なお美のほう)を爆笑のうちに融合した稀有な試みとして記憶される。

 モノローグを中心的な話法とする『告白』と『私の優しくない先輩』は、日本の映像文化における実写とアニメーションとの人的、表現論的な交渉をもはや隠さないでいる。両作ともに、モノローグによる独白にリアリティの根拠を置こうとしているが、『告白』は、しかしスローモーションとオーバーラップによってそのリアリティを口当たりよく脱色し、手ごろな「商品」に仕立て上げている。個人が個人に向ける暴力のみならず、集団においてなしくずしに発生する暴力を的確にとらえている点は鋭いが、外の風景が一度も映らない教室の窓からは、彼らの「生活」がまるで捨象されている。そのことにおそらく作家自身が自覚的であることが、なおのこと問題であると思わざるを得ない。

 これに対し『私の優しくない先輩』は、冒頭からこの作品がフィクションでしかないことをライトノベル=アニメ的なキャラ設定・舞台設定によって如実に表明しながら、そのなかで難病の川島海荷のモノローグにきわめて繊細なリアリティをもたせている。アニメ的表現への自己言及を意識的に行ないながら、作り物めいた世界のなかでただひとり「体臭」を感じさせる人物としてはんにゃ金田を登場させる。本当なんていらない、と現実を拒否する川島に対し、「本当ってのは、お前の感じるすべてだ」と金田が告げるとき、あからさまに絵空事として描かれてきたこの物語が、スクリーン上の「本当」として観客の前に現れる。このフィルムは、ひとが「現実」に向き合うというそのことを、アニメ的世界と実写との交渉のまさにそのなかで、実に真摯に描いている。号泣。

 そのほかの劇映画では、『アウトレイジ』が圧巻。「コノヤロー」と「バカヤロー」の発明、三浦友和をあの役どころで起用するセンス。これからの新生北野映画に期待がもてる。時代考証がたしかにめちゃくちゃな『キャタピラー』は、しかし「これが戦争だ」というその一言のために映像を召喚してゆく、あえていってゴダールにも比すべき若松流の歴史認識の表明なのであり、そのインパクトは描写の正否では計れない。東京フィルメックスでのただ一度の上映機会しかなかった『The Depths』は、まだ公開が決まっていないようなのでここでふれたい。濱口竜介は『PASSION』(2008)から中篇『永遠に君を愛す』(2010)を経て、着実に演出を深化させている。同性の愛を、二者の悦ばしい視線の交換ではなく、たえず三者の政治をはらんだ視線の交錯において認めようとする一貫したまなざし。いまもっとも野心的に視線劇を実践している作家だと感じる。

 ドキュメンタリーからは3本。『アメリカ‐戦争する国の人びと』は、同年の『ONE SHOT ONE KILL‐兵士になるということ』と対の関係にあるフィルムだが、後者が海兵隊の新兵訓練のさなかに個人としての「顔」を失ってゆく若者のすがたを描いていたとすれば、前者は失われた兵士たちの「顔」を494分の上映時間を通じて再度発見してゆく。ロードムービーの軽やかさを残しながら、元兵士やその周囲の人びとの生をゆるぎない視線で写し取っている。両作ともに、エンドマークをむかえてなお冒頭に回帰するような円還構造をとっているが、それは作家の閉じられることのない現在進行形の危機意識を如実に表明している。

 『玄牝‐げんぴん‐』は、かつて「デビル河瀨」と呼ばれもした作家の挑発的な演出から一歩引くことで、実にバランスの取れたフィルムになっている。自然分娩に対する現代医学の見地からの不安を、妊婦自身に語らせるあたりなど秀逸。「観察映画」へと接近している。カリスマの出産哲学にわずか一ヶ月の取材でわたりあってしまう作家自身による終盤の語りは、だれにも真似することができない河瀨映画の真骨頂。

 一種の風景映画ともいえる『これでい~のかしら?(井の頭) 怒る西行』のトリップ体験もまた稀有な映画的経験だった。ありふれているはずの東京の川沿いの風景が、沖島勲の視線と言葉によってみるみるうちに変容し、無限の時間に接続する奇跡。冗談で撮られたとしか思えなかった前作『一万年、後....。』(2007)があながちそうではなかったことに思い至る。(文中敬称略)

千浦 僚(映画感想家)

ベスト

1 これで、いーのかしら。(井の頭) 怒る西行沖島 勲)

2 ヘヴンズ ストーリー瀬々敬久

3 ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う(石井 隆)

4 堀川中立売(柴田 剛)

5 犀の角・土竜の祭・泥の惑星(井土紀州 映画一揆

6 ヒーローショー(井筒和幸

7 ゼブラーマン ゼブラシティの逆襲三池崇史

8 昆虫探偵 ヨシダヨシミ(佐藤佐吉

9 恐怖(高橋 洋)

10 アウトレイジ(北野 武)

映画じゃないけどベスト映像と考えられるもの

・「情熱大陸」サバイバル登山家・服部文祥の回

尖閣諸島 中国漁船衝突 流出映像

ワースト

・SP 野望篇(波多野貴文 原案・脚本 金城一紀

 『SP 野望篇』をワーストにした理由のひとつは真木よう子がグラヴ・マガ(イスラエル軍の格闘術)をつかうらしい、というのに期待しすぎてがっかりしたためのような気がする。岡田准一は脚速いわ、堤真一はいつもの威圧感出すわ、香川照之は怪演・快演だわ、野間口徹というひとはまた妙な役をやるわ、山本圭が出てるのでどうしても『皇帝のいない八月』とかを、まんまと連想させられてしまうわ、なんか結構好きな映画のような気もするが、枠組みが商業的すぎて息苦しいし、妙に妙なのは妙なのでベスト映画ではないと考える。ESPのあるSPってそりゃあ良いSPだろうなあ、と思った。

 『アウトレイジ』では、すごく金や時間かけた、芸術的な美があるというようなことよりも観る者をつかむ、数学的に配置された人間関係や筋の構成に役者たちが血肉をぶつけて、いままさにある出来事が起こっているのだ、ということを見せる、そういうシンプルで面白い映画が実現されてしまっていた。北野武の力量や意図もすごいのだろうが、どうもそれを超えて「出来てしまった」映画に見える。これに最も似ているのは『仁義なき戦い 代理戦争』だが、もはや仁義はおろか条理もない戦いが『アウトレイジ』。ノースリーブを着た椎名桔平の二の腕に刺青、というのに唸った。あと三浦友和は全場面素晴らしい。

 『恐怖』について、まず観て感じた疑問があり、それは高橋洋氏に顔を会わせる機会があったので直接聞いてみた。「登場人物たちの運命を狂わす、生体実験の記録映像、あれは最初はフィルムと映写機でしたけど、後半また出てきたときにはプロジェクターで投影されてました。誰かがテレシネ(フィルムをビデオ素材にすること)したんですか?その業者さんもあの映像見ちゃうじゃないですか。あと素材は何になってんですか?」映写技師をしてたんでそういうことが気になる。高橋さんは友人知人学生なんかが氏にとってあまりに自明であるとかくだらないことを尋ねると、なーに言ってんすかアンタは!みたいな表情と語調になるが、このときはまさにそれで「フィルムで持ってると面倒だから片平なぎささん本人がテレシネしたんです! 8ミリ時代に僕らが仲間うちでやっても結構観られるものができたんだから、彼女がやればかなりのものが出来る。脳外科医、科学者なんだからテレシネとかすごくうまいはず。素材はミニDVのテープで、禁ダビング!かなんか書いてる、そういう設定です」と即答された。脳外科医はテレシネがうまい、って……。まあ何も反論はない。呪い、というようなものと映像は密接に関係ある。映画好き、映画狂いが映画を見続けることで意識や生活行動を変質させることは実はそれなのかもしれない。『リング2』の脳から呪いの映像を出力する人間なんてのは、映画の作り手のメタファー、あるいはどちらがどちらの比喩なのか。『恐怖』はそういうネタも扱いつつ、もっと根源的なオカルトや生死観も問題にしていた。勘違いかもしれないが、映画『恐怖』は死後が虚無であることが真の恐怖であり、そうでない可能性として現世の人間には恐怖を感じさせるような霊的な世界があるかもしれない、だがそれは実は何かの希望もしくは虚無よりはいい、ということを描いていたような。すべて脳内の作用かと思いきややはり実在するのかも、と。そういうところに思考を巡らし、この作品を実現したことで、高橋さんは『恐怖』の設定に大きくヒントを与えた実在の知人の死に、供養というような殊勝な発想ではないかもしれないが、報いたと思う。多くの人が観て面白いとは考えにくいが、本作は僕にとっては確固として存在し続ける。

 『ヨシダヨシミ』、よかった。動物や虫を擬人化できるとか、ある役者が演じている人物の同一性をどう認めるのかということ、根源的な映画の成り立たせかたでの遊びがあって、そうそうこーゆーことなんだよな、と楽しい気分になった。小山田サユリが超かわいかった。

 『ゼブラシティの逆襲』は近年全世界で、というかハリウッド発で流行している感があるヒーローキャラクターもの、それに負けてないものを日本オリジナルで、哀川翔という存在に由来してやっちゃってると思う。それなりの批評性も『ウォッチメン』『キック・アス』くらいには含んでいる。マンガでも神話でも映画でもヒーローを見たいと思う。自己同一化しないまでも、その存在を大事にしたい、見たい、その強さとか格好良さとかを。馬鹿馬鹿しい、子供じみた感性、男のガキの心ではあるのだけれど。一度落ちぶれる、エピゴーネンと対面する、女というものが得体の知れない敵として現れる(仲里依紗は実際哀川翔と並べてみると、かけ離れているがゆえに例えば竹内力並みの強敵的な感じになっていた)、そういう定石を押さえた寓話だった。

 そしてそういうヒーローがまったくの虚構、アイロニーでしかない世界を描くのが『ヒーローショー』である。バランスとか流れは変な気がするが、キャラクターによって映画がパワフルに牽引されていく。ああ、こんな奴いるいる、こういうこと言ういう、そしたらこうなっていく、それらが「あるある感」レベルで興味を惹くとか、うまいなあ、ということを狙うんじゃなくて一種の意見として出されてくるところに強さを感じる。上から目線じゃない現代日本論。ゴツさ、ヤバさを秘めた大事な映画。

 イベントなのか運動なのか未だに不明だけれど「映画一揆」はエポックだった。井土紀州はホームランとか何かの新記録を出すというよりも、サイクルヒットや高打率、というような映画の作り手になりつつあるようだ。変なたとえですが。『ピラニア』や監督が別の一般公開作の脚本提供は2011年の仕事になるのだろうが、その質、量、持続を見ると、弛まずシゴトをする必殺映画人、とでもいうような渋さを感じる。個人的な好みでは、『犀の角』の切迫感と若さの苦み、『土竜の祭』のあれよあれよの展開とコメディ味が好きで、タイトルに反して泥臭くない『泥の惑星』はそうでもなかったのだが、機会あって二度目観た時にセリフを字義どおり受け取ることで、原因不明の植物枯死で滅亡しつつある世界を、レンコン栽培で救うことになる青年とその良きパートナーとなる恋人のはじまりの物語、として観てこれも好きになった。

 『堀川中立売』は意外に作品世界内での論理は構築されていて、優れたSFのように感じた。スチームパンクSFというのがあるけどこれは陰陽道パンクSFか。あと、ジェイソン・ステイサム主演の『アドレナリン2』とかを連想した。柴田剛はやっと本人の面白さに一番近い映画をつくったし、まだもっと先にいける感じがある。

 『ヌードの夜~』昔、グラビアについているインタビューかエッセイ文かで佐藤寛子はあのからだのために毎日腹筋200回してる、というのを読んだことがある気がするんだけど、そう読んだことと実際そうなのかどうか、とりあえず本作によってそれは信じ、畏敬の念とともに食い入るように見続けました。大きくて強かったものが老いた、という風情の宍戸錠もおもしろかった。井上晴美が殴りかかったのをパッと受け止めたその手はほとんど彼女の拳をすっぽり包んでたり、佐藤寛子の脚をつかんで余裕で指がまわりきっていたりというところ、あの感じは宍戸錠以外には出来ないかもしれない。大竹しのぶもどうも『オカンの嫁入り』よりこっちのほうがより「らしい」気がしてしまったりして。血液愛液精液がゴボゴボと渦を巻くようなあたりに距離を置き、しかしどこかそれをうらやましげに、身を投じるかどうか悩むようにしてあり続ける東風万智子の女刑事も妙によかった。竹中直人が舞台あいさつなんかで寅さんに比してもいたが、まったくそのとおりで、殺人もファックもある寅さん、というのが石井隆の村木=名美サーガなのだろう。世に男と女がいるかぎり彼らは転生しつづける。また彼らに会いたい。

 『ヘヴンズ ストーリー』『怒る西行』については「映画芸術」本誌のほうで書かせてもらった。もちろんそれでは言い足りないけれど、どうやっても言い尽くせないとも思う。撮り方、語りかた、ありかた、見事に独特な二本。こういうものでしょ、というスタンダードから、長大さとコンパクトさ、メガ盛りエモーショナルと涼やかな批評精神、それぞれ違う方向で突き抜け、驚かせてくれた。本誌のベストテンを見ると、これらを評価したひとが充分いたことも嬉しかった。斜に構えておのれの趣味性を喧伝したいわけでもなく、狭い関係性から推すのでもなく、本当に良いと思い、まだ知られかたが不足しているこの傑作を観るきっかけになってほしいと思って記す。そういう機会と思えばベストテンも空疎な行事ではないはず。2010年、これらの映画が素晴らしかった。

 入れたかったけれどベストテンがテンであってベストトウェルブとかでないということのためだけに入れられなかったのは、ほとんどインディーズ映画芸という強力な芸能が発生しつつあるのではないかと思わせ、爆笑させ感動させる古澤健監督作『making of LOVE』。東京藝大映像学科生が監督した沢木耕太郎原作オムニバス映画『人の砂漠』の一編、切なく歌うようなものがあふれていた『棄てられた女たちのユートピア』長谷部大輔監督(脚本 服部隆志)。丹波篠山の塾講師がほとんどフィリップ・マーロウになってしまう、仲村トオルが意識的に弱さを演じることで松田優作コンプレックスを巧妙に回避した『行きずりの街』(しかし原作を好きすぎて見かたが辛くなってしまう…)。アメリカのOLさんの実体験からベストセラーになり映画になったという『10日間で男を上手にフル方法』のような個々のエピソードの強さといまさら結婚がハッピーエンドの恋愛ものをどうやるのか、こうやるのだ!というところでちょっと面白かったのは『ダーリンは外国人』宇恵和昭監督(脚本 大島里美)、これは映画らしさとかドラマとしての首尾結構つけることで小さくまとめてしまったような、実在の外国人夫婦のインタビューのインサートとかをもっと押して名づけ難いようなものにしてくれたら良かったのに、などと言っていると磯田勉氏はそんなにはすごくないよ、あんたの妄想ですよ、というのだが。『姉ちゃん、ホトホトさまの蠱をつかう』大工原正樹、『ピラニア』井土紀州、『歓待』深田晃司は2011年の映画と考える。

 商業的ドキュメンタリーというのかテレビ文化に存在を認識されたタレントのプロフィール紹介の定型フォーマットとなった「情熱大陸」、これに非常に興味深い活動をしている登山家服部文祥が取りあげられたのだが、従来の登山文化から逸脱というか離脱しつつある氏の哲学まんまに、見事に番組からはみ出ていた。ここで、映画の出番じゃないのか、このひとを見たい、と思った。それに、海上保安官が流出させたかの映像は、多くの人が、どういうことなんだ、と観たと思う。そういう、事件にイコールな映像、というのも映画が究極的に目指すもののひとつであるような気がする。