映画芸術

脚本家荒井晴彦が編集発行人を務める季刊の映画雑誌。1月、4月、7月、10月に発行。2016年に創刊70周年を迎えました!書店、映画館、Amazon、Fujisanほかにて発売中。

投稿映画評『ワカラナイ』 <br>まなざしの不在 <br>笠松勇介(学生)

 田舎の粗末なアパートで一人暮らしをしている少年。彼は入院中の母を抱えながらも、コンビニのアルバイトで生計を立てている。母親の闘病生活のためか、家計は圧迫され日々の食事もままならない。バイト先のレジをごまかし空腹を凌いでいる。同僚も頼りにはならない。ある日、レジのごまかしが店長に見つかり、バイト先をクビになる。生活の糧を失った少年は、他に頼るあてもなく入院中の母のもとを訪れるが、母は自分たちを捨てた夫への憎悪を口にするばかり。やがて母の死が訪れ、病院への支払いや葬儀代の工面という現実に追い込まれた少年は、自らの手で母を葬る。そして父に会いにいくために東京へいく――。  小林政広の新作『ワカラナイ』では以上のようなストーリーが展開されていくのだが、前作『愛の予感』にみられたものと同様、いやそれ以上に徹底してストイックかつミニマムな手法/演出に貫かれた本作には、ドラマ(物語)性は、極めて希薄である。科白は極端に省かれ、手持ちカメラによる長回しのシーンが大半を占め、説明(状況)描写は少ない。アップ、バスト、ミディアム、ロング等といった種類のショットを多様に使用することもなく、殆どがミディアムショット。そのストーリー/画面展開は正直単調、といってもいい。そんな中で観る者に大きな印象を残すのは、画面に映る少年の背中だ。背中、背中、背中……。カメラは執拗なまでに少年の後ろ姿を映し出していく。『ワカラナイ』は、ただひたすら主人公である少年の背中を追い続けた作品である、といっても過言ではない。そしてそこにあるのは、まなざしの不在だ。 Wakaranai_main_s.jpg  様々な媒体のインタビューで監督自身が「少年の目線で今の日本を描きたかった」と語っているように、ここで僕たちは否応なしに「まなざし」の問題に直面させられることになる。確かに、僕たちは、少年の、往きつく先(映画の結末)を、その一つ一つの行動を、見ている(ように思う)。だけど、前述した様に僕らのまなざしは否応なく、少年の背中に向け(させ)られている。つまり僕たちは、殆ど背中越からしか少年と対峙できない。少年の感情、思考は僕たち観客には、殆どわからない。事実、それが僕たちに言い様のないもどかしさを感じさせる。僕たちのまなざしは、ほんとうに少年に向けられていると言えるのだろうか……、と。  つまりここにあるのは、「まなざし」ではなく、むしろ「まなざしの不在」なのである。劇中、誰一人として少年に正当なまなざしを注ぐ者がいない(レジのごまかしは見つけられる)ように、小林は僕たちに現代日本の「まなざしの不在」を突き付ける。だから、少年が父を探しに東京に上京した際に、係員から補導され、尋問を受けるシーン(『愛の予感』冒頭のインタビューシーンを彷彿とさせる)で、少年が初めて本心を吐露する(この際、カメラは正面から少年を捉える)というシーンの演出は皮肉である。何故ならここで、法(母親の死体遺棄)を犯した少年に対する行政からの「まなざし」と、その立場に立たされた少年の社会に対する非難の「まなざし」が交差するのだから……。 wakaranai_sub02.jpg  と、ここまで書いてきたが、近年『バッシング』、『愛の予感』と立て続けに社会派的な題材をモチーフにしながらも、決して所謂社会派映画には留まらない魅力を持った秀作を連発していた小林監督にしては、『ワカラナイ』が些か物足りなかったことも明記しておきたい。  これも監督自身が様々な媒体で語っているように、そもそもはフランソワ・トリュフォーの『大人は判ってくれない』のような作品を撮りたいという想いで『ワカラナイ』を作ったという。しかし、というか、言うまでもなく両作品の世界観には大きな隔たりがある。『大人は判ってくれない』では主人公の(思春期で多感な)少年を取り巻く環境に様々なドラマがあり、作品はそれら大人の社会の論理に抗するように、主人公の目線に寄りそう形で描かれていた。それ故の言わば『大人は判ってくれない』だったが、対照的に『ワカラナイ』では端的に言って、前述したようにドラマ性自体が極めて希薄なことと、主人公の少年を突き放したような視点は、被写体に寄り添うというよりも安易な共感や理解を拒否するかのようだ。だから『大人は判ってくれない』に比べて、『ワカラナイ』では主人公の少年の葛藤や孤独といった感情の揺れは殆ど伝わってこない。それはよい。だが、そもそもなぜ主人公がこれほどまでに孤独で経済的に困窮しているのか、という重要な問題も『ワカラナイ』では全く描かれることがないことを、僕たちはどう受け止めればいいのだろうか? (例えば過去作の『バッシング』では主人公が「イラク日本人人質事件」の被害者であり、『愛の予感』の主人公は殺人事件の加害者の父と被害者の母であるという、その強烈かつ些かあざとくもある設定が作品に強い緊張感をもたらしていたが、『ワカラナイ』にはそのような要素も殆ど見当たらない)。繰り返す。『ワカラナイ』で描かれる世界は、主人公は貧困に喘ぎ、生と死の狭間でその日その日を生きることを余儀なくされている。苛酷な現実は常に少年を追い詰めているというわけだ。しかしそこにどうしても妙な違和感というか、白々しさを僕たちは感じてしまう。つまり「確かに世界はそうなっている」という名状し難い説得力がここにはないのだ……。 WAKARANAI_sub01.jpg  もっとも小林の本作での狙いは『大人は判ってくれない』という作品の持つ一種の叫びに対して、「わかる」「わかろうとする」という安易な立場を一旦放棄し、言わばゼロ地点(=ワカラナイ)の立場(大人?)から少年を見つめてみる、ということだったのかもしれない。しかし、残念ながら『ワカラナイ』は、作品構造としてあまりにもわからないことが多過ぎて(前提を欠き過ぎていて)、観客に対して作品に入っていく余地すら与えず、閉塞した印象をもたらしていることは否めない。何より前述したように、少年の貧困という作品の背景にある経済問題が浮いてしまっていて、設定としての機能を果たしていない。これではゼロ地点ではなく、むしろマイナス地点からの出発だし、『ワカラナイ』という作品の持つベクトルの方向性が不明瞭過ぎるように思える。  それを象徴するのが、捨てた息子(主人公の少年)を一度は拒絶した父親が、再び会いに来た主人公を抱きしめるという終盤のシーンである。この安易さはなんなのだろうと吃驚するし、ラストで主人公が坂道を登っていくという象徴的なシーンも陳腐過ぎるというか、文字通りわからない。父親は助けてくれないの? それとも少年がそれを拒んだのか? あるいは少年の「一人で生きる」という宣言だったのか? それを描くことを作者は『ワカラナイ』と、放棄してしまっていいのだろうか? と、疑問だけが残ってしまう(作者は放棄したつもりはないかもしれないが)。これではあくまでも出発地点であったはずの『ワカラナイ』が、結論としての『ワカラナイ』になってしまっているのではないか……?  「彼らはいまや、家郷から、そして都市から、二重にしめ出された人間として、境界人というよりはむしろ、二つの社会の裂け目に生きることを強いられる」(見田宗介「まなざしの地獄」)  家郷からも都市からも二重にしめ出された少年の行き先を、僕たちはいっこうに知らない(ワカラナイ)だろう……。 wakaranai_sub03.jpg 『ワカラナイ』 監督・脚本:小林政広   製作: 小林直子  ラインプロデューサー: 川瀬準也 撮影監督: 伊藤潔 照明: 藤井勇 録音: 福岡博美 編集: 金子尚樹 サウンドデザイン: 横山達夫 助監督: 下田達史 テーマ曲: いとうたかお 出演:小林優斗 柄本時生 田中隆三 渡辺真起子 江口千夏 宮田早苗  角替和枝 清田正浩 小澤征悦 小林政広 横山めぐみ ベンガル 他 配給:ティ・ジョイ  宣伝:アップリンク 2009年/日本/104分/ユーロスタンダード/35mm/DolbySR   (C)MONKEY TOWN PRODUCTIONS 11月14日(土)より ヒューマントラストシネマ渋谷 11月28日(土)より 新宿バルト9にてロードショー 公式サイト http://www.uplink.co.jp/wakaranai/