映画芸術

脚本家荒井晴彦が編集発行人を務める季刊の映画雑誌。1月、4月、7月、10月に発行。2016年に創刊70周年を迎えました!書店、映画館、Amazon、Fujisanほかにて発売中。

脱映画批評『七夜待』<br>果物の皮を剥くように<br>村松真理(作家)

 この作品についてなにか語ろうとするなら、本当は睡眠をたっぷりとって、乾いた肌を潤し、骨や関節に凝り固まった力を抜いて、やさしい目でものを見られるようになってから――といきたいところだが、実際は深夜で都内の散らかったワンルームの隅、昼間のデスクワークで凝った肩と痛む目でパソコンに向かっている。それは常態である。試写会の時だって大差なかった。ところが眼前のスクリーンに広がる映像は目の曇りを取り去り、水分で潤し、その湿り気と濃い色彩と空気の匂いで頬や腕に触れる。人間の目はしばしば見えないものまで見るが、返す刀で当然見えるものを見えなくする。レンズを通した視界はひときわ輪郭がきわだち、色彩の濃淡や動きにつれて生じる影、声の余韻、顔にさす光と影の推移を、人間の目よりもクリアに雄弁に語っている、と思うことがある。  ひときわそれを体感させる映像だった。人間の目に連結し、しかし人間のそれでは決してない明るい機械の目のもつ力を、河瀬監督は呼吸のように知っているのかもしれない。 七夜メイン2小.jpg  タイトル「七夜待」の「待」には、文字通り待つこと、という意味がこめられているのだという。ストーリーを追う限り、大きなスーツケースをひきずり、ふらりと一人旅でタイの地に降り立つ三十歳の日本人女性、彩子が、具体的に何かを待っているという描写はない。「七夜」の区切りも明確に示されず、言われてみれば七つの夜であったか、と思うほどだ。  しかし日常を暮らす国から遠く離れ、言葉の通じない異地で旅する人はその異質さや新しさを無防備に受け止める感覚そのものになる。苦労してホテルを取る、タクシーに乗る、意思疎通ができずに怯え、怒る。そしてタイの市場の活気や緑の濃さ、光の強さに目を瞠る彩子はまず、もろい、同時にしなやかな、身体と感情だけでできた生きた器として現れる。それは未知なるものを、かすかに怯えながらも全力で親しく待ち受けている。彼女の目を通して、スクリーンの外で観る者もまた待つ器になる。  彼女を待ち受ける物語の主な舞台、森の中の民家に至るまでの冒頭、列車から降り立ち町や市場の雑踏を横切っていく彩子の肌の白さがひときわ際立つ。タンクトップ一枚から剥き出しの喉や胸元、肩から両腕は、ほとんど正視するのが面映いほどに、ひとつ風景のなかで日光を反射している。それを美しい、と言うことは当然できるだろう。しかし同時に、それはまったく浮き上がっている、とも言える。周囲の湿度や色調に溶け込まない、「ありえない」肌の色。東京の路上を歩いているほうが似合う、旅には華奢すぎる彼女のサンダルもまた「ありえない」。ホテルに向かうため乗り込んだのに、山道に分け入っていくタクシーと運転手の目つきに危険を感じ、飛び出して逃げる彼女をその靴はあっという間につまずかせ、転ばせる。  そうしたヒロインの「浮き上がり」(さらにいえば、彩子が宿を求めることになるタイの民家で出会う、長逗留のフランス人グレッグも、現地に溶け込んでいるというよりは、日本人の目にいかにもフランス男性らしいと映る造形で描かれている)は映画の終わりまで保存され続ける。が、彩子の肌色や息づかいは、確かに少し変化し、柔らかな影と湿り気を帯びてもくる。その「少し」をカメラは鏡のように鋭く、また万華鏡のように増幅させて映し出す。 七夜サブ2 - コピー.jpg  未知なる互いの、ひとつの動作に目を止め、注目し合うこと。意味を読もうとすること。それはコミュニケーション、ひいては対外表現の最も原初のかたちであるだろう。その原初的な緊張が俳優の心身どうしの間に生じるとき、それを撮るカメラとの間にもまた同様の関係が生じる。予測はできない。注視するほかはない。僅かな揺れも見逃さないように。  俳優には脚本は渡されず、毎朝渡される一枚のメモによって、「今日の撮影で何をするか」というその役の行動指示のみが与えられた、という。したがって個々の俳優はあらかじめ理解したプロットに従って演技=感情の流れの物語を組み立てておくことはできない。目標を念頭におき、あとは「器」になって身体と感情を研ぎ澄ませているしかない。日本、タイ、フランスと出身を異にする者どうしは言葉も当然通じない。  しかしにもかかわらず、理解し伝達しようとするとき、喉から出るのは声や言葉である。通じない日本語は、どこに着地するのであろうか? 発したうちの大方の意味がこぼれ落ちたとしても、彼らは意思や思いを通い合わせていく。それが実際にスクリーンの上で起こっていく。まなざしや身体と混ざり合ったとき(そもそも分離して考えることのできないものなのかもしれない)、通じないのに通じる、ということが相次いで起こる。剥き出しの電線同士がすれ違うと火花が散るように。この感覚は奇跡などではなく、言葉の通じない国に単身旅した経験のある人ならば「ある!」と大きく頷きたくなるはずだ。 七夜 サブ4小.jpg  彩子やグレッグを受け入れ、タイ古式マッサージを教える女性アマリとその幼い息子トイ。悪人と思ったのは彩子の勘違いであったタクシー運転手マーヴィン。トイは日本人の父親の顔を知らず、除隊したマーヴィンは白人男性を相手に暮らす娘との間に軋轢がある。そうした個々の物語は言葉の通じない者どうしには共有されないのだが、事情がわからないながらも彩子は彼らの中に溶け込んでいく。自分の自明さへのゆらぎは彼女をスポンジのように柔和にし、他者の温かみを敏感に浸して吸い込む。言葉の通じない相手に長く語りかけ、秘密を告白する、ということが起こる。  そうなればやがて剥き出しどうしになった感情に火がつきもする。息子を見失ったアマリのパニックは、字幕によって登場人物たちよりも事態を追えている観客の目には不自然に映るほどに、激しく連鎖して燃え上がる。他者は自分ではなく、他者がなぜ苦しんでいるのかもわからない。しかしその混乱と悲痛はそれぞれ個別の物語の深部に火をつける。呼応するようにスコールが叩きつけ、トイを探して森をさ迷う彩子は泥沼に足をとられる。  空を包むタイの森、また人々が托鉢僧に抱く素直な畏敬の念のように、映像としての物語は個々のドラマと痛みをやわらかく包み込んで流れていく。したがって筋だけを追っていると判然としない気分も残る。はしばしで繊細に、ときに激しく呈示されたそれぞれの葛藤や痛みの糸口を、監督はあえて結ばず、風に揺れる糸の動きや影をくっきり彫り込もうとする。  今まで国内に撮影の場をもとめてきた監督が初めて選んだ海外の地、水気に煙る濃い色彩や柔らかな影をもつタイの映像そのものが、スクリーンを大きく意味づけるのだろうと、上映の半ば過ぎまで思っていた。実際そのように見通すこともできるだろう。しかしやがて、本筋には特に大きな影響を及ぼさないタイ古式マッサージの場面の、彩子の深い息と心身のほぐれてゆく感覚、また随所に挿入されるひとつづきの夢のようなカットが、現実のはっきりした輪郭を持った映像と同等の水位、同じ密度までひたひたと満ちてくる。現実の外側の繊細な鮮やかさ、だけではない。果物の皮を剥くように、やがて個別性を凌いでしまう柔らかで近しい内側が、手を伸ばして見る者の肌に触れるだろう。そのときあなたが、どこにいても。 村松真理 プロフィール 1979年生まれ、神奈川県出身。作家。 2005年「雨にぬれても」で三田文学新人賞受賞。 最近作に「地下鉄の窓」(『群像』2008年4月号)など。 七夜待 監督:河瀬直美 脚本:狗飼恭子河瀬直美 撮影:キャロリーヌ・シャンプティエ 出演:長谷川京子/グレゴワール・コラン/村上淳 11月1日(土)より、シネマライズ新宿武蔵野館他にて全国公開